第1話 宦官皆殺し事件
漢の中平六年、己巳、西暦189年。
「洛陽の方角に火の手が上がっている、急げ」
并州牧の董卓は配下の兵を急がせている。
(出遅れたか)
こうなることは読めていた。漢朝では政権を牛耳る宦官と、外戚を担いでいる名士の勢力争いが何度も何度も繰り返されている。霊帝が建寧元年(西暦168年)に即位したときも宦官と外戚の竇武大将軍がそれぞれ近衛兵を率いて内戦に及んだ。
その時に宦官側について大将軍を討伐したのが、董卓の元上司の張奐である。急遽辺境の異民族との戦いから呼び戻されて訳も分からぬままに宦官の言いなりにならざるをえなかった張奐の嘆きを、董卓はよく覚えている。
当時の董卓はまだ三十代の若造で何もできなかったが、今は数千の部曲を率いる身だ。張奐将軍の恨みを晴らし、宦官を皆殺しにするのは今しかない。
董卓は兵を進ませた。
なお、若いころの董卓は粗暴なところがあり、張奐はそれを嫌って董卓の贈り物を突っ返すなどしている。ただ董卓は気にしていない。むしろ気前が良く部下に好かれ戦に強い張奐将軍を董卓は人生の見本としていた。同じように財産を兵にばらまき、并州涼州で武名を揚げてきた。戦場以外では粗暴さを隠し、名士には穏やかに接してきた。
その成果があり、董卓は外戚である何進大将軍の知遇を得ることができた。弟の董旻を何進に仕えさせ、細かく洛陽の情報を手に入れることで、宦官との最終決戦に兵を率いて参戦するところまできたのだ。
董卓がここまで来るにはかなり危ない橋を渡っている。
何進大将軍の密命があったとはいえ、部曲を抱えて洛陽近くの河東郡に堂々と駐留し、皇帝から二回も軍を解散するように勅命を受けてきたが無視している。
霊帝が疾に臥せっていなければとっくの昔に逆族として誅殺されているところだ。
だが、この戦いに間に合いさえすれば問題ない。何進大将軍を押し立てて宦官を皆殺しにし、張奐将軍の恨みを晴らして、政治を一新する。腐った宦官の縁者を政治から一層すれば、重税や非道もなくなり、故郷の隴西郡も異民族に怯えなくて済むだろう。
しかし、董卓が洛陽城の西まで来たときにはすでに何進大将軍は暗殺され、袁紹が宦官を皆殺しにした後であった。
しかも皇帝は北の北芒山に逃げたという。
(まずいぞこれは)
董卓はいそいで北芒山に向かった。先帝の命令を無視してまで兵を抱えていたのに、決戦に間に合わなかった。しかも密命を出していた何進大将軍は死んだ。このままではただの反乱軍だ。
もはや新帝陛下に直接まみえて、官軍として認めてもらうしかない。
董卓は北芒山にて、皇帝が公卿たちと合流しているのを見つけた。
急いで兵を走らせて駆けつける。董卓が励ますので兵は鬼気迫っており、武器を持った大勢が一気に迫ってくるのを見て、新帝は泣き出してしまった。
公卿たちの間から前太尉の崔烈が出てきて董卓を叱った。
「帝は兵を退けとの仰せだ」
しかし、董卓はここで引くわけにはいかない。
「あなたは重臣の身でこんなことにしてしまって恥ずかしくないのですか。国家の大事で昼夜を駆けてきた忠義の兵に退けなどとよく言えたものですな?」
と言って皇帝に拝謁した。
しかし、新帝の劉弁は泣きやんだものの震えて言葉も出ない。17歳(資治通鑑では14歳)の青年とは思えないありさまだ。
「ご安心くだされ! この董卓の兵はすべて陛下のために馳せ参じたものです、命に代えても陛下をお守り申し上げます!」
董卓は必死で取り繕ったものの、かなりの悪印象なのは間違いない。せめて何かしらお言葉がいただけないと落としどころが無い。
「うむ、董卓の忠義は陛下もよく理解されたと思う。下がってよいとおおせだ」
そこに声をかけたのは9歳の陳留王劉協である。
「ははっ! ありがたき幸せ!」
董卓はほっと胸を撫でおろした。皇帝からは言葉はなかったが、弟の陳留王が代弁してくれた。これで皇帝の危機に馳せ参じた忠義の軍隊として認めてもらえるだろう。
董卓は自分の兵で皇帝の車を囲ませ、陳留王と馬を並べて堂々と洛陽城に入城した。
「兄者!」
洛陽の城門で兵を率いて出迎えてくれたのは弟の董旻であった。なんでも大将軍の何進もその弟の車騎将軍何苗も死んだため、その兵を何とかかき集めたのだという。
董卓と董旻の兵が合流し、皇帝を禁中に戻すことができた。あとは公卿たちがうまくやるだろう。
しかし、何進も何苗も死んでしまっては、あとは何太后しか残っていないが、女の身では政治の判断はつかないだろう。それに新帝はあのありさまで命令ができそうにもない。
宦官は奇麗さっぱり皆殺しにされた。
今まで政治を取っていた宦官も外戚もほぼいなくなった。
さて、この状態でいったい誰が政権を取るのだろうか?
董卓は不思議に思い、董旻に情報収集を頼んだ。




