勇者と愛剣、誇りと魂の欠片(前)
わたくしは、泥の中におりました。
土くれと血飛沫のあいだに、打ち捨てられ。
けれど、それは不思議と、嫌ではありませんでした。
そして――
「……ここに居たか」
姫様の声でした。
気高く、凛々しい乙女――そして剣を握る者の。
姫は、白布でわたくしについた泥を、そっと、そっと拭います。
そして、カシャリとわたくしを鞘に納め――
「よくやった。わが剣よ」
ポンポンと柄を叩きながら、労ってくれたのです。
据わりを確かめた姫様は、
そっと視線を勇者へと向けました。
眦を細め――静かに――
血にまみれ、膝をつきながら、
……折れた剣の破片を拾い集めている、その背を見つめます。
「剣を折るまで戦い、折れてなお剣を諦めず……か」
姫様の目にはもう、威圧も誇示もありませんでした。
ただ、静かに。折れた剣のすべてを、その手で拾い集める男。
命よりも、誇りを重んじるようなその姿が――
眩しく映っているのかもしれません。
「よほど……愛着があるのだろう」
はい姫様、そのようです。
「勇者と……愛剣……か」
姫は、静かに勇者を見つめておられました。
荒々しく、礼を欠いた振る舞いをする男――
騎士の理からすれば乱暴で、姫としての品位からすれば許容しがたいもの。
けれどそこには、剣を携え、正しさを己の腕で貫こうとする意志。
どうしても、否定しきれぬものが、そこにはあったのです。
「……このような者も、世にあるのですね」
それは剣を握る者としての言葉と、
姫としての言葉が同居していたかもしれません。
姫様の声には、すでに迷いはありませんでした。
そして、ふっと顔を上げ――勇者に近づき――
裾が砂に触れるのも気にせず、姫は静かに膝を折りました。
「勇者殿……」
小さく呼びかける声は、どこか柔らかく、そして、少しだけ熱を帯びていました。
それは命令でも、叱責でもなく――ただ、同じ場に立つ者としての申し出。
姫としてではなく、剣を持つ一人の戦士としての声でした。
姫様もまた、剣を持つ者として、そこにあられたのです。
「手伝いましょう」
「かたじけない」
勇者殿は、驚きもせず、ただ一言。
お二人は黙々と欠片を拾い集めたのです。
◇
鍛冶の里――
かつては町として、王国の武器庫として栄華を誇った、技術の坩堝。
往時の賑わいこそありませんが、炉はまだ息づき、
鉄と煤の匂いが、谷に静かに漂っております。
谷に沈む里――とある工房。
歴史を感じさせる木の看板には、こう刻まれています。
“ガラン・シュトレル・パリス工房”――王室御用達。
「ガラン殿、ガラン・シュトレル殿はおられるか!」
扉を荒々しく押し開け、声を上げたのは勇者さま。
後に続くのは、わたくしを佩いた姫様、
斧を抱えた戦士、十字を掲げた神父と、杖を握る魔女。
工房の奥で、ゆっくりと一つの影が立ち上がりました。
灰をまとった外套を羽織り、煤に焼かれた手をした男。
髪も髭も鉄のように硬く、静かなる火の気配を纏い、
その目に宿る光は、研がれた刃のような、鋼を見抜く者の眼差し。
“鋼を詠む者”――名匠ガラン。
幼少より刃を鍛え。
鍛えに鍛えて、幾多の戦士に託した男が、眼光鋭く――
ギロリと、勇者さまを見据えたのです。
勇者さまが、低く呟きました。
「此の剣……折れじとて、無理の理を用い、砕け候……」
声は、どこか――わずかに、震えていた気がします。
「……ほぉ?」
それだけで何かを察したガランは、ついて来いとばかりに顎をしゃくりました。
扉の奥――鍛冶場。
炉の熱はまだ生きており、金床には重厚な鎚が置かれていました。
無言で勇者の手元に目をやるガラン。
勇者さまは一歩前に出て、無言のまま、剣の欠片が入った包みを差し出しました。
欠片が、ゆっくりと作業台に広がります。
鋼を熟知した者の目が、砕けた断面を静かに見つめ。
巌にして繊細な指が、欠片をなぞり、歪みを確かめ。
鋼の奥を――まるで、魂を探すように――覗き込む。
「…………」
やがて――
彼は、こう言いました。
「……駄目だな」
情けも、嘆きもなく――ただ、職人としての事実。
そして――
「……こいつはもう、剣ではない。
鋼に宿っとった魂が、消えちまっとるんだ……」
とも。
武具に宿る魂の喪失……
ウェポン・ブレイク。
我ら武具にし起こりえるそれを――
数多の武具を手掛けた名匠は知っておられたのです。
「……左様か」
勇者も、ただ、静かに、それだけを、口に――
数多の武具を手にした武人は知っておられたのです。