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バタフライエフェクターズ

作者: 神木誠

第一章:サイカイ


内海遥香は、大学の掲示板の前で頭を悩ませていた。遥香の目の前には、所狭しと求人広告が貼られていた。最も効率が良いのはどのバイトなのか。

飲食店のバイトは論外だ。肉体的・精神的なストレスに、全くもって時給が見合っていない。かといって、塾講師や家庭教師の高時給に釣られてはいけない。授業準備の時間が発生する為、拘束時間だけみると、決して割のいい仕事とは言えないのだ。

遥香のお目当てはそうした“一般的”なバイトではなく、研究室のバイトだった。中でもデータ入力のバイトは、労力に比して時給が良く『コスパの良い仕事』として、遥香が長らく狙っている求人だ。ただ、そのコスパの良さは周知の事実で、理系学生がゼミの繋がりで代々仕事を受け継いでいるのが実情だ。文系で、しかもゼミにも入らずにいる遥香にそのお鉢が回ってくる可能性は皆無と言えた。

頭に指を当てて、掲示板の前に佇んでいた遥香だったが、何回も掲示板の上を目で往復して、漸くお目当ての求人がないな、と見切りを付けて回れ右をしたその時だった。回転の最中、何か異質なものが目の端に飛び込んできた、気がした。そのまま勢いを殺さずに一回転して、掲示板に向き直って近寄って確認してみると、それは和紙で出来た貼り紙だった。


『過去を変えたいと思っているそこのあなた!桶屋で人生をやり直しませんか

ご興味ある方は末尾の番号までお電話頂くか、事務所の住所までお越しください

電話番号:03―×××―××××

住所:東京都○○区△△△ ××××

ご相談料:1千万円~      』


和紙の貼り紙にはこう書かれていた。和紙の重厚感と内容のミスマッチもさることながら、『相談料一千万円』との記載には驚いた。今時こんなインチキくさい宣伝で、1千万円もの大金を支払うものなどいるのだろうか。まあでも、と遥香は思い直した。本当に過去を変えられるなら一千万円など安いものかもしれない。

今年の夏、遥香は母を亡くした。大雨が降った日、職場から帰る途中で母は交通事故に遭ったのだ。事故に遭った直後は息が未だあったというのが現場検証をした警察の説明だった。ただ、唯一母の命を助けることが出来たはずの加害者は、母のことを見捨てて逃亡した。結果として、母は大雨の中放置される事となり、数時間後に発見された時には既に息絶えていたとの事だった。

あの日から暫く遥香は後悔の念に苛まれていた。どうして駅に迎えに行かなかったのか、どうして母に連絡しなかったのか、どうしてもう少し早く母のことを助けられなかったのか。虫の息になりながらも、雨に打たれて最期を迎えた母の気持ちを考えると、その度に胸の奥を搔きむしりたい衝動に襲われた。

ただ、後悔ばかりしていても仕方がなかった。直ぐに母がいなくなった状況で生きていく現実に向き合わなければならなかったのだ。母の命を奪った犯人は未だ捕まらず、賠償金も請求出来ないままだ。そんな状況で、一家の大黒柱を失った遥香は、なけなしの生命保険とバイト代で学費と生活費を捻出するしかなく、日々のバイトと学業で頭の中が埋め尽くされた。やがて、遥香自身も母の死を悲しむ余裕もなくなった。

死を受け入れるということはこういうことなのかもしれない、と遥香はふと思った。人間の処理能力の限界は、こうした悲しみや絶望を忘れる為にあるのだとしたら、自分に処理能力の低さを授けた神様を褒めてやりたい気分だった。

それにしても、求人広告の中のこの場違いな貼り紙を大学事務局は把握しているのだろうか。過去の忘れたい記憶を勝手にこじ開けられた気がして、少し腹が立った遥香は、大学に通報するつもりで和紙の貼り紙を写真に撮って、その場を後にした。


一週間後、遥香は怪しげな貼り紙が指し示していた住所を訪れていた。表面的にはそんなことはあり得ないと思いながらも、もしかしたらという淡い希望を持つには十分なほど『過去を変えられる』という文章には甘美な響きがあった。その魅力に抗えるほど、遥香の意思は強くなく、迷いながらも『桶屋』の事務所に辿り着いてしまったのだった。

どうやら桶屋という会社は、目の前のビルの四階にオフィスを構えているらしかった。ビルと言っても、廃ビルと見間違う程に年季の入ったビルで、人の気配も何もしなかった。エレベーターも故障中らしく、ビルの外側に備え付けられた階段で四階に上がると、『桶屋』と印字された摺りガラスがはめ込まれたドアが遥香を出迎えた。中々決心が付かずに遥香は数秒間ドアの前でうろうろとしていた遥香だったが、やがて意を決してドアを押し開けた。それでも尚迷っていた遥香はドアが開かなければ、それまでで帰ろうと考えていたのだが、遥香の期待も虚しく、ドアは異様な音を立てて開いてしまった。

「失礼します…」蚊の泣くような遥香の声は、暗い室内へと吸い込まれて消えていった。

家主は不在なのだろうか。ドアの鍵も閉めずに不用心なことだと思いながら、遥香は部屋を見回した。暗がりに目が慣れてきた遥香の目に飛び込んできたのは、大量に積まれた新聞紙だった。それは数日やそこらの量ではなく、数年には及ぶであろうと思われる程の山の様な量だった。

何年前のものか気になって覗き込もうと遥香が近付いたその時「何か御用ですか?」と突然声を掛けられて、遥香は後ろに飛びのいた。

暗がりで良く見えなかったが、新聞紙の向こう側のデスクに誰かが座っていたようだ。人影が立ち上がったのが見えて、遥香は無意識に身を固くした。本来なら無断で忍び込んだ遥香の方がよっぽど不審者なのだが。ただ、その人影は遥香に近寄ることなく、近くの電気のスイッチを入れた。その瞬間、室内が明るくなり、謎の人物の顔もはっきりと分かった。

その影の正体は背の高い中年の男性だった。きりっと揃えられた眉毛と綺麗なアーモンド形の目が印象的だった。真ん中で無造作に分けられた前髪と無精ひげ、それから何故かついさっきまで泣いていたかの様に腫れ上がっている瞼のせいか草臥れた印象を受けたが、本来は顔が整った部類に入る男だろう。オーバーサイズのヨレヨレのパーカーは全く似合っておらず、折角のイケメンなのに勿体無いな、と遥香は場違いにも思っていた。

「何か御用ですか?」男は先程の言葉を繰り返した。

「あ…いや…その」遥香は壁に張りついたまま、言葉にならない言葉を繰り返した。

「もしかして依頼?」男が目的に感づいた様だ。

「あ…はい、はい、そうです」漸く遥香も平静を取り戻してやっと返答できた。

「それなら忍び込む様な真似しないでほしいな」男は髪を搔きむしりながら、独り言の様に呟いた。

「すいません…」

男は遥香の消え入りそうな謝罪には答えずに、顎をしゃくった。その先にはソファーがあった。ソファーに座れということだろう。最早借りてきた猫同然の遥香は指示に従って、大人しく座った。

「えーっと、改めてナカザキ トキヒサです」時久はソファーの肘掛けに腰かけてそう名乗った。

よく見ると遥香が腰掛けた目の前には、名刺の束が置かれていた。名刺には漢字で、『中崎時久』と書かれていた。

「それで、お宅は?」

「あ、えっと、内海遥香と申します。内海は、内外の『内』にSeaの『海』、遥香は…」

「大丈夫。未だ君にそこまで興味は持ってない」緊張の余り、早口で喋り出した遥香を時久は手で制した。「それよりも僕が興味あるのは、何故君がここに来たのか、だ。あるんだろう?過去に未練が」

遥香はハッとした。そうだった。この建物に来てから、気が動転して意識の外だったが、そういえばこの会社は、『過去を変える』と宣う怪しげな会社だった。果たしてすんなりとこちらの事情を全て明かしてもいいものなのか。

すると、そんな遥香の様子を見ていた時久は徐に立ち上がって話し始めた。

「1987年、エドワード・ローレンツ氏が『ブラジルの蝶の羽ばたきが、テキサスで竜巻を引き起こすか』と言った。その言葉は今では『バタフライエフェクト』若しくは『バタフライ効果』として、現代まで残っている。まあ要するに、少しの出来事が大きな出来事を引き起こすってことだな。『風が吹けば桶屋が儲かる』ってことわざ分かるか?」

遥香は頷いた。「確か、風が吹いた結果、色んなことが起こって最終的には桶屋が儲かったって意味だったかと…」

その答えを聞いて、時久は指をパチンと鳴らした。「その通り!なんだ、見た目と違って、ちゃんと最低限の教養はあるじゃないか」

目線を下げていた遥香だったが、この言葉に思わず、時久を睨んでしまった。『見た目と違って』とはどういうことだ。初対面なのに失礼ではないか、と遥香はムッとした。それでも、当の本人は全くお構いなしの様子で続ける。

「そのことわざから名前を取ったのが、この『桶屋』だ。つまり、過去のほんの僅かな出来事を変えて、それで以て現代の結末を大きく変えるのが『桶屋』の仕事であり、俺の仕事だ」

「はあ」あまりにも突飛な話で、遥香は思わず、気のない返事をしてしまった。

それが気に障ったのだろうか、時久は露骨に気分を害した顔をした。

「それで?今度は君の話を聞かせてくれ。何か変えたい過去があったんだろう?」

「いやいや、今の話を信じろと?無理ですよ。第一、どうやって過去の出来事を変えるのかっていう一番大事な部分の説明がなかったじゃないですか」

時久はチッと短い舌打ちをした。「それを説明するかどうかは俺が決める。どちらにしたって、今説明したところで、いきなり理解出来る様なものでもないんだ」

今までの説明でも十分理解できる様なものではなかったが、これ以上に突飛な話などあるのだろうか。とはいえ、遥香の事情も説明しなくてはならないというのも事実だ。全てを話していいのか、迷いも多少はあったが、思い切って遥香は母のことを洗い浚い説明した。

母が交通事故に遭ったこと、その加害者は未だ捕まっていないこと、その事に対して深い後悔の念を遥香が抱えている事、全てを遥香が説明し終わると、時久は腕を組んで虚空を見つめたまま、暫く言葉を発しなかった。

「なるほどな。母親を助けれなかった過去を変えたいと…それにしてもよく覚えているものだ。日記でも付けているのか?」

「は?日記なんか付けてませんよ。母が死んだんですよ。日記付けてなくても忘れることなんて有り得ませんよ」この男の人を馬鹿にした様な物言いに段々と遥香は腹が立ってきた。

「まあ、それもそうか…それで?今日はいくら持ってきたんだ?」遥香の怒気を感じたのだろうか、これ以上深入りする事はせずに時久は話を進めた。

「…一千万円です」

そう言って遥香が机の上に開いて置いた通帳を、時久が拾い上げた。

「これは凄いな。見たところ君は大学生だろ?どうやってこれだけの金額を工面したんだ?」

「母の生命保険と私のバイト代です」

この金額は今の遥香の全財産に等しかった。仮にこの怪しい男にこの全額を支払った場合、学費や生活費は捻出出来ない。それでも、遥香は母が戻ってくる可能性に賭けたかったのだ。

「さあ、ここまでやってるんですから文句はないでしょう?早く過去をどうやって戻るかを教えて下さい。でないと、依頼は絶対にしません」これは遥香の本心だった。当然だ。このお金を支払うということは、遥香の将来を全て時久に預けることと同義なのだ。

「まあ、そうだな。一介の女子大生が準備するには相当な覚悟がいる額だろうしな」時久は通帳を机に戻して、漸く言った。「ただ、今から俺が言うことは、普通の頭では絶対に理解できないことだ。それを覚悟して聞いて欲しい」


遥香の前には、時久が淹れたコーヒーがあった。そんな気遣いがこの男にも出来るのだな、と遥香は思わず感心してしまった。遥香が来てから三十分以上経ってから、淹れられたわけではあるのだが。

「一言で言うと、俺の能力は『俺の人生の過去のある一日に戻って、その日をもう一度やり直せる』だ」

「何で一日だけなんですか?」

『過去を変える』という時久の言葉から、アニメの様に自由に過去と未来を行き来出来る事を想像をしていたが、そうでもないのだろうか。

「俺にも分からん。だた、『この日に戻りたい』って念じながら眠りにつくと、次に目覚めた時には戻りたいと願った日になってて、そのまま寝ると今度は現在に戻ってる。俺に分かってるのはそれだけだ」

「ふーん、変なの」

「…それだけか?」時久が怪訝そうな顔で遥香を見た。「『すごい』とか、『噓だ』とか『何で』とか、もっとこう…なんかないのか」

「そんな反応をして欲しいんですか?じゃあ、例えば…何でそんな都合よくタイムリープ出来るんですか?」

「いや、それは分からないんだが…」

「ほら、答えないんでしょ?じゃあ、聞いてもしょうがないじゃないですか」

実際問題、タイムリープのメカニズム等の細かい事は遥香にとって、どうでも良くなってきていた。重要なのは、目の前の男に本当に過去を変える力があるのかないか、その一点だけだ。

「でも、その能力なら失敗するってことはないですよね。何か失敗したって、戻ってきてやり直せるんだから。いや、寧ろ、最初の何回かは下見に使えますよね?一度母が事故に遭った時間に戻ってもらって、過去のどこの部分を変えればいいか、じっくり対策を考えましょうよ」

すると、時久が大きなため息をついて、首を横に振った。

「それが出来れば、苦労はしない。大事なのはここからだ。第一に俺のタイムリープは、基本的に一回しか出来ないんだ」

「え、なんで?」

「いいか、バタフライ効果の例を思い出してみろ。ほんの少しのことが、未来に途轍もない大きな影響を与えてしまうんだ。仮に、君の母親を救うことに失敗したとしたって、その過程で俺は色んな行動を起こすんだ。その日俺が乗るはずじゃなかった電車に乗って、その日俺が食べるはずじゃなかったものを食べて、その日俺が見るはずじゃなかったものを見る。これら全てが未来に干渉することになるんだぞ。今日という日がそのまま存在していると思うか?」

あ、と遥香は声を出しそうになった。確かにそうだ。過去に一度戻ってしまったら、次に現代に戻る時には全く別の未来になってしまっているのだ。ただ…

「ということは、過去に一度戻った段階で、私がお金を払う世界線は無くなっているということ…?」

「その通りだ」時久は、指をパチンと鳴らした。

「じゃあ、何であんな試す様な真似したんですか?」

事実に気が付いてから、遥香は本当に腹が立ってきた。自分のあの思いは何だったのか、その姿をこの男はどんな気持ちで見たいたというのか。

「あれは一種の覚悟を測る為の儀式みたいなもんだな」

「ひどい!私だって覚悟持ってここまで来たのに」

「悪かったって。なんせそうでもしないと、変な輩が本当に多いんだ。まあ、あんな突飛な貼り紙を信じて来る奴はそんなもんなんだろうけどな」

この男は無意識に人を傷つけている自覚があるのだろうか。少し考えれば、遥香も『そんなもん』の一人であると気付きそうなものだが、そうした気遣いや思いやりといった感情は時久には無縁のものらしい。

「兎に角、そういうことだからタイムリープには一切の失敗は許されないんだ。だから、真剣に考えて教えて欲しい。一体君のお母さんはどこを変えることが出来れば、その事故を生き延びることが出来たのかを」そう言った時久の眼差しは、真剣な光が宿っていた。

「経緯と言われても…」

「交通事故があった正確な日時は分かるか?」

「今年の四月二十三日です」遥香にとって、忘れたくても忘れられない日だ。

遥香の答えを聞くと、徐に時久は立ち上がり、新聞紙の山に向かった。暫く新聞紙の山を指でなぞる様にして上下に行き来したかと思うと、やがて、新聞紙の山から一部だけ器用に引っ張りだしてきた。遥香の前に広げられたそれは、遥香の母が亡くなった日の翌日の新聞だった。

「なるほどな。思い出した。確か台風が来てた日だな」

「若しかして過去全部の新聞を保管してるんですか?」

「ああ、大体な。それでもここにあるのは、直近十年分の新聞だけだな。君の母親の件みたいに最近だと、記憶も新しいが、古いものだとどうしても人間の記憶は曖昧になる。だから、こうして重要な情報源として保管しているんだ」時久が事もなげに言い放った。

「それにしても、何か他に方法はあるんじゃないんですか?例えば電子化するとか」

「どうしても、電子化すると頭に入ってこないんだ。何だか一度見れる情報が少ない気がしてな。その点、紙だと、ほらこうやってお目当ての情報は直ぐ見つかる」

時久が、遥香に見せてくれたページは、新聞の地方版だった。その中に、“五十歳女性死亡、警察は轢き逃げ事件として調査”と書かれた記事を見つけた。

「この記事によると、君の母親は自転車に乗っているところで、事故に遭ったそうだな。なんたって、台風の日に態々自転車で、君の母親は外出してたんだ?」

時久の疑問は、至極当然のもので、事件発生直後にも警察に散々聞かれたことでもあった。

「母は出勤にはいつも自転車を使っていました。それは雨の日でも雪の日でも関係なくです。私たちの家は駅から離れていたので、どうしてもそうせざるを得なかったんです。バスを使う余裕もなかったですし、タクシーなんてもっての外でしたから」答えながら、遥香は顔が熱くなるのを感じた。台風の様な緊急時ですら、バスを使うことを躊躇するほど、生活が困窮していたことを告白している様なものだからだ。

そんな遥香の動揺をよそに、時久は新聞記事を見ながら、どこからともなく持ってきた紙に何事かを書きつけていた。やがてペンを止めると、時久は俯いたまま「分からないな」と呟いた。

「何が分からないんですか?」遥香は思わず聞いてしまった。母の死に何か不審な点等あっただろうか。

「端的に言うと、この事故の止め方が分からないんだ」

遥香は呆然としてしまった。この期に及んで『止め方が分からない』とはどういうことなのか。もしそうだとするならば、『桶屋』の存在価値などないではないか。

その雰囲気を感じたのだろうか。時久は慌てて付け足した。「交通事故というのはどのタイミングで止めるかがとても難しいものなんだ。被害者を止めるのが早過ぎても、その後に事故に遭いかねないし、反対に遅すぎても勿論ダメだ。結局は事故の根本の原因を変えないといけないのだが…」

「今回は何が原因かも分かっていないから、解決策も分からない、と」

遥香の言葉に、時久は言葉を発することなく頷いた。なるほど、確かに難問ではある。先ずは時久がポンコツではない事に遥香は安堵した。

ずっと事件のことを考えている遥香ですら、原因には皆目見当も付かないのである。今日会ったばかりの時久が分からなくても不思議はない。

「とはいえ、こんな所で悩んでいてもしょうがない。早速だが、行こうか」時久は突然立ち上がった。

「行くって、どこにですか?」

「決まってるだろう?君の母親が交通事故に遭った現場に、だ。それ以外どこがある」

そう言うと、時久は勢いよく残っているコーヒーを飲み干した。


交通事故の現場は、遥香の家から徒歩五分ほどの公園だった。そんな公園の生垣に隠れるようにして、母の遺体は見つかったのだった。

この公園は四方の内、住宅に接している面を除いた三方を道路に囲まれており、その内の一本の道路は急な下り坂になっている。この下り坂と他の道路の合流地点は、生垣が生えていて視界も悪く、スピードも出やすい構造になっている為、接触事故が多発しているポイントだった。

「漸く着いたか」時久が息を切らせて声をかけてきた。かなり遠いからバスを使った方がいいという遥香の進言を無視して、『君の母親が実際に通った道を知りたい』とこの炎天下に駅から徒歩でこの公園まで来たのだった。

「ええ、この公園です。それより大丈夫ですか?物凄い汗かいてますけど」

「ああ、問題ない。それにしても、とんでもない暑さだな。もう日本の夏は外に居られる気温ではなくなってしまったな」

「確かにそうですね。私も朝晩はこの辺を歩いて駅まで行ってますが、もう昼だと外に出る気にはなりませんね」

「そうか、君も未だこの辺に住んでいるのか」あんな事があったのに、と言いたげな表情だった。

遥香自身も引越したい気持ちはやまやまだったが、生憎引越し費用を賄えるだけの余裕はなかった。幸いなことに、この公園は駅から遥香の自宅までの最短ルートから少し逸れたところに位置しており、用事がなければ訪れる必要のない場所だ。その為、遥香がこの場所を訪れるのは、母の交通事故以来だった。この場所に来ると、蓋をしていた現実に向き合わないといけない様な気がして、用が無ければ通らない様にしてきたのだった。

そのことを告げると、時久は僅かに片方の眉を上げた。「ということは、君の母親は態々遠回りをして、この公園を通ったということか」

「はい、警察の人もその点は気にしてました。『なぜ、台風の中、公園を態々通過点にしたのだろう』って。それでも、交通事故だったので加害者を捕まえることが先決だということで、その点はあまり深堀りすることなく、捜査が続けられ、結局何故母がこのルートを通ったのかは最後迄あまり大きな問題にはなりませんでした」

「そうか。まあ、その警察の判断も分からなくもないな」相変わらず感情が読めない目で、時久はそう言った。「目撃者は居たのか?この辺は住宅街だから、誰か居てもおかしくはないと思うが…」

「捜査上の秘密ということで、警察は教えてくれませんでしたが、多分目撃者はいなかったんだろうと思います。台風で誰も外に出歩いてなかったでしょうし、仮に家にいても雨音と風の音で何も聞こえなかったと思いますから」

遥香の答えをある程度予測していたのだろう。時久は頷くだけで何も言わなかった。その代わりに道路を挟んで向かいにある民家の塀を指さした。その塀はタイルに覆われていたが、何かがぶつかった様に一部分のタイルが剝がれていた。

「あれは?」

「分からないです。何かぶつかったんじゃないんですか?」

「あれが台風の時に出来たものか分かるか?」

「それも知らないです。あ、でも、母の死因には関係ないですよ。警察の方ははっきりと『車に衝突したことが死因』と仰っていたので」遥香は、時久の疑問を先読みして答えた。ただ、尚も時久は質問を続けた。

「君の母親の死亡推定時刻は分かっているのか?」

「いえ、雨に長時間晒されたせいもあって、正確な死亡時刻は分かってないです…十八時頃に職場を出たことは会社の人が確認しているので、十九時にはここにいたとは思うんですが…」

「なるほどな。ということは、事故が起きた時間帯はもう辺りは真っ暗だな。街灯も少ないし、台風の中だと視界は相当悪かっただろうな」

「ええ…」

「よし、大体分かった。そろそろ帰るか」時久は生垣の中を覗き込みながら言った。

「え、もう良いんですか?」

「ああ、状況も分かったし、現場も見れた。考える材料は揃った。あとは仮説組み上げていくだけだ。今日はもうここで解散しよう」

そう言い放った時久に、遥香は頷くことしかできなかった。


一ヶ月後、突然見慣れない番号からの着信を、遥香の携帯電話が告げた。

「もしもし…?」知らない番号からの着信に、恐る恐る出てみると、不機嫌そうな声が返ってきた。

「『桶屋』だ」

「え、中崎さん?何で私の番号知ってるんですか?電話番号教えましたっけ?」

「ああ、覚えてないのか?」

遥香は思わず、電話口で首を傾げた。果たして電話番号を教えたことを忘れるだろうか。ただ、現実に時久が電話をかけていることを考えると、時久が嘘を言っている様には思えない。

「覚えてないですけど…まあ、分かりました。ところでどうしたんですか?母の事故を止める方法が思いついたとか…?」微かな希望を抱きながら、遥香は遠慮がちに聞いた

「半分正解だな。重要な情報を得られて、君の母親の死に関する仮説を立てたというところだ。君にもその説明をしたいのだが、明日事務所に来れるか?」


翌日遥香は再び例のボロ事務所を訪れていた。今度こそはという思いで、遥香はドアを開けると、目一杯大きな声で「こんにちは」と叫んだ。すると、一拍置いて暗闇から時久がヌッと現れた。

「そんな大声を出さなくても聞こえてる。俺の耳を壊す気か」

「すいません、前回静かに入って失敗した気がしたので…それより大丈夫ですか?凄い目の隈ですけど」

時久の目の下には、まるでメイクに失敗した歌舞伎役者の様な深い隈が刻まれていた。

「放っておけ。それよりも君の方こそ大丈夫か?君の母親の死の真相に関わる事だぞ?」時久は前回見せなかった様な真剣な顔で言った。

よく考えてみれば時久の隈はそれだけ母の事を考えてくれた結果なのかもしれない。そう思うと、それほど迄に真剣に自分のことを考えてくれたのかと感謝の念が止まらなかった。

「勿論です。それを知るために貴方に依頼したんですから」

真っすぐに時久の目を見つめ返すと、時久の目が僅かに光った様に見えた。ただ、それも一瞬で、時久が瞬きをした刹那にいつもの感情のない目に戻っていた。そして、時久は軽く頷くと、そうかと小さく呟いて、前回同様にソファーに座る様に促した。

「先ずは前提の確認だ。前回俺が言った問題点を覚えてるか?」

「えっと、確か…」遥香はこめかみに人差し指をあてて考えるふりをしたが、実は全く覚えていなかった。

そんな遥香を様子を見て状況を察したのか、時久は溜息をついて「仮に単純な交通事故だった時にそれを止める手段が思いつかない、だ」と説明した。

「ああ、そうだったかも…」と遥香は言ってみたものの、全く覚えてはいなかった。

「覚えてないのか…まあいい。なら、現場を見に行った時の壁の傷を覚えているか?」

遥香は曖昧ながら頷いた。此方は朧気ながら覚えている。事件現場を訪れた時、確かにそんな会話をした気がする。

「あの傷のことが改めて気になったんで、一緒に現場に行ったのとは別の日に改めて現場に行って、あの家の家主に話を聞いてみた」

そこまでの行動力がある人物には見えなかったので、遥香は心底驚いた。ただ、時久は意に介する様子もなく続ける。

「残念ながら壁の傷のことは何も聞けなかった。やはり、あの日は雨風が強く、いつ何が飛んできて、傷を付けたのかは見当も付かないとのことだった。ただ、興味深い話を教えてくれた。君の母親は台風の日の何日も前から何度も現場を訪れていたそうだ。駅からの帰り道でも何でもないあの公園を」

「え?本当ですか?でも警察は一言もそんなこと言ってなかった気が…」

「早く事件が終息して欲しいと思って、警察には言わなかったそうだ。まあ、気持ちは分からんでもない。連日警察にうろうろされたら、近隣住民にとってもたまったものではないだろう。交通事故として一刻も早く処理して欲しいという気持ちも十分理解に値する」

「そうですけど…」事件で家族を失ったものとしては、納得がいかなかった。人の生き死に関係することなのだ。いくら他人でも証言くらいしてくれてもいいのではないか。

「君の気持も分かる」余程不満な気持ちが顔に表れていたのか、珍しく時久が気遣う発言をした。「ただ、今の話で重要なのは『君の母親が何度も公園に行っていた』という事実だ。つまり、君の母親は何らかの目的を持って、あの公園に行っていた可能性が高い。あの台風の日も、だ。そう考えた時に一つの仮説が浮かんだ。もし君の母親の方から車に追突しに行ったとしら、どうだろうか」

『キミノハハオヤカラクルマニツイトツシニイッタ』が漢字に変換され、脳に到達する迄の間、時久の言っている意味が分からず、暫くの間遥香は固まってしまった。漸く意味が理解できると、今度は胸の奥から失望が湧き上がってくるのを感じた。一カ月も掛けて出した結論がそれとは突飛にも程がある。

「どうって…本気でそれが真実だと思っているんですか?」

「ああ、逆にどこに矛盾が生じていると思う?」

いよいよもって遥香は目の前の男が信じられなくなってきた。思わず、深いため息をついてしまった。「じゃあ何で犯人、つまり母を轢いた人間は名乗り出ていないんですか?母の方に過失があるんだから、堂々と名乗り出てもいいでしょう?」

「いやそうとも限らないだろう。いいか?轢き逃げは、日本全国で五千件以上一年間に起きてるんだ。勿論死亡事故の割合はその中でも僅かだが、それは結果論に過ぎない。逃げた結果、偶々軽傷で済んだってだけだ。単純計算で一日に十件以上だ。それだけ無責任な奴がいるんだ。自分が悪くないと思ったって、逃げる奴は逃げるさ」熱くなってしまった自分に気付いたのだろう。軽く咳払いをして時久は続けた。

「それに、人を轢いたことに気付かないということもあり得たとは思う。あの日のニュースを調べると台風の影響で大破した車の写真が多く見つかったし、実際民家の塀があれ程抉れたくらいだ。仮に人を轢いてしまったとしても、大雨の中で視界不良の中、運転していたんだとしたら、車に何かぶつかったのだけなのかなと思うこともるんじゃないかと思う」

時久の説明は、確かに突飛な部分もあったが、全くもって有り得ない話かというとそうでもないのかもしれないと思えてきた。しかし…

「でも今はあくまでその可能性もあるってだけの話ですよね?若しかしたらその時期に偶々別の用事が母にあって、その為に公園に行ってただけで、その過程で交通事故に遭ってしまったってだけかも知れないですよね」

「その通りだ」時久は指を鳴らした。「正直なところ、交通事故か轢き逃げなのかは俺達にはあまり関係ない。何故なら、それは過去を変える為の原因には関係ないからだ。今ここで最も大事なのは、君の母親が自らの意思で車に飛び込んだのか堂か、だ。ということで話を元に戻そう。仮に君の母親から車に突っ込んだとして、その動機に心当たりはあるか?」

遥香は眩暈がしそうだった。母があの時期身投げをしようとするまでに追い詰められる理由。そんなこと考えたこともなかった。だが、考えを巡らせると一つだけ思い当たる事があった。いや正確には、それは遥香が目を背けてきただけで、ずっと遥香の頭の片隅には存在していたものだったのかもしれない。

「お金目的とかですかね…」時久は片方の眉を上げたが、何も言わずに目で続きを促した。

「その時期…つまり事故があった時期ですが、丁度私の大学の授業料の支払いの時期なんです。私が通ってる大学は私立なのでそれなりに授業料も高くて…私はバイトもするし、奨学金も借りるからって言ったんですが、母が授業料のことは心配するなって。でも今思えば、どこからお金を工面するかは言ってなかった気がします。もしそれが当たり屋みたいな事でお金を工面するってことだとすると…一応筋は通る気はします」遥香は喋りながら、吐き気を催してきた。もしこの話が本当だとすると、自らの進路が母を狂わせたばかりか、母の命を奪ってしまったことになるのだ。

「…なるほどな。まあ、有り得ない話ではないな。でも、気に病む必要はない。君には未だ母親を救うチャンスが残されているからな」

「優しいですね。意外です」

「気にするな。ただの本音だ」時久は笑いながら言った。先日会った時には見れなかった、暖かい笑顔だった。

「ただ、やはり問題はどうやって君の母親を思い止まらせるか、だ」

「私大学進学諦めます。母の命と引き換えなら安いものです」

「そう言えるのは、君が将来を知っているからだろう?突然、未来から来た見ず知らずの男に大学進学を諦める様に言われて、過去の自分が素直に従うと思うか?」

確かにそうだ。恐らく受験を諦めることはないだろう。受験を妨害されたとしても、自分の性格上受かるまで浪人を続けるだし、母もその背中を押してくれるだろう。

その時、時久が大きなため息をついた。「まあ、お金を渡すしかないかもな」

「え、お金を渡すって?」

「そのままの意味だ。今回の全ての元凶は、内海家の家計事情だ。それを解消するには、資金援助するしかないだろう」

「でも…その資金はどうやって?」

「俺の金を渡すしかないだろう。大丈夫だ。こう見えても貯金はそれなりにあるんだ」

「いやいやそういう問題じゃないですよ。私が払いますよ…今は無理ですけど、社会人になってから、必ず」

「どうやって?この前言った通り、俺が一度過去に戻ったら、君の記憶も全てなくなるんだ。その状態でどうやって支払うんだ?」

遥香は黙るしかなかった。「…でも、どうやって渡すんですか?突然来てお金を渡すと言われても、母も…そして、私もお金は受け取らないと思います」

「大丈夫だ。その点も確り考えてある。ただ、実行するに当たって色々と確認しておきたい。その為に君を今日呼んだんだ」

そう言って時久は、母がこのことを悩み始めた時期や、その時から事故に遭う迄で遥香が最も母の行動を覚えている日の事を確認した。時久に言われて、母の使っていた手帳も持ってきていたので、それと遥香の記憶を参照しながら、綿密に母の行動を書き出していった。

「さてと、ここまで詰めればもう大丈夫だろう」時久は大きく伸びをしながら言った。ふと、時計を見ると三時間は優に過ぎており、辺りは真っ暗になっていた。

「今日の夜に決行だ。明日以降君に会うこともないだろうし、明日の朝起きたら君も俺のことを忘れているだろう」

「あの…本当に何と御礼を言ったらいいか…」遥香の本心だった。初対面こそ最悪だったが、真剣に調査する姿勢、私財を投げ打ってでも母のことを助け様とする時久の姿に、深い感謝の念を頂いていた。

「止めてくれ。これは俺がやりたいからやるんだ。それに、今回の件を忘れてしまってもいつか出会うこともあるだろうしな」

「え…それはどういう…」

「兎に角、これまでの話は推論に過ぎないんだ。推論が全くの見当違いだってことも十分にあり得る。だからこそ、俺も“明日”に向けて悔いのない様に準備をしたい。君も今日は早く家に帰って、成功を祈っててくれ」

こうして、半ば強引に背中を押される形で、遥香は『桶屋』を後にした。もう戻って来れないと思うと、このボロ事務所にも名残惜しさを感じた。ただ、時久の言う通り、もう遥香に出来ることは何もない。明日の朝、きっと母がいる事を願って、今日は早めに床に就こう。


翌朝、トントンという規則的な音で遥香は目を覚ました。最初、遥香はその音の正体に気付けなかったが、やがて遥香はその音が、母が調理台に立つ音だと気付いた。母が戻ってきたのだと、期待に胸が膨らむ。

抑えきれない胸の高鳴りを感じながら、自室から居室に繋がる廊下の扉を開けると、そこには見慣れた筈の母の姿があった。

遥香は感情を抑えることが出来ず、「あら、今日は早いのね。一限目があるんだったかしら?」と言う母に抱きついて、大泣きしてしまった。

「あらあら、どうしたの?何かあった?」笑いながら母は遥香の背中を摩る。娘が突然泣きながら起きてきたのだから、本当ならもう少し心配しても良い様なものだが、母は大らかで細かいことは一切気にしない性格だ。だからこそ、遥香も母に無意識の内に甘えていたのかもしれない。今度の世界では、前の世界の様に母を追い詰めてはならない、と遥香は胸に決めていた。

うん?前の世界?泣いてしまった影響で、上手く働かない頭の片隅で、何か大事なものがポロリと抜け落ちている気がする。

「ううん、日頃の感謝を伝えたくて…今日の支度して来るね」母には申し訳ないが、どうしてもこのことは考えなくてはいけない気がしてしまい、早めに会話を切り上げに掛かってしまった。それにこれは本心だった。母が生き返ったら、ずっと母に伝えたかった思いなのだ。

「分かったわ。今は何も聞かない。けどね、これだけは覚えておいてね。お母さんは、絶対に遥香の味方だからね」そう言って、母は遥香を抱きしめる腕を解いた。

改めて母の顔を見ると、記憶にある母の優し気な顔がそこにはあった。遥香はまたしても泣きそうになったが、無理やり笑顔を作ってその場をやり過ごし、自室へと踵を返した。

自室の席に座って、何が抜け落ちてしまったのかを改めて考えてみると、記憶が波の様に蘇ってきた。

遥香の母が交通事故に遭ってしまい、中崎時久という男が営む『桶屋』に助けを乞うたこと。これらの記憶は、確かに存在していた事は思い出せるのだが、未だ何の記憶かは遥香には判然としなかった。

次に蘇ってきたのは、母が今年の三月に交通事故に遭ってしまったことだ。自転車で走行中に後ろから近づいてきた自動車に接触されてしまったのだ。幸いにも、一瞬の接触だったので、母にも怪我はなく、寧ろ接触してきた自動車に傷が残ってしまったくらいの損害で済んだ。

ただ、事故の相手は事故を起こしてしまったことに青ざめ、どうしても賠償金を受け取って欲しいと申し出た。初めの内は、軽傷を理由に受取りを断っていた母だったが、それが先方の罪悪感を軽減させることに繋がるなら、と最終的には根負けする形で賠償金を受け取った。実際問題として、四月末には遥香の大学の入学金支払い期限が迫っており、何かと入り用だったのだ。

事故の相手は、賠償金を支払うとまるで逃げるかの様に連絡を断った。伝えられた電話番号に掛けても繋がらず、教えられた住所を訪れても、もぬけの殻だった。

交通事故の加害者と被害者の関係である以上、あまりこちらからの連絡を先方は好ましく思わないというのは十分に理解出来たし、こちらからこれ以上深く身辺を探ろうとはしなかったのだったが、例えば、その事故の相手というのが、時久の差し金だったとしたらどうだろうか。徐々に忘れかけていた記憶の全貌が明らかになってくる中で、前の世界とこの世界の記憶の境界がはっきりとしてきた。

そうだ。確か前の世界で、時久は『策がある』と最後に言って、タイプリープしたのだ。だとしたら、交通事故が軽傷で済んだにも拘らず、事故の相手が賠償金の支払いに拘ったことや、賠償金の支払い後直ぐに雲隠れしたことも、全て説明がつく。しかし、だとしたら何故記憶が残っているのだろうか。

この疑問を解決するには方法は一つしかない。


遥香は、三度ボロ事務所を訪れていた。事務所迄の道順を確り覚えているか不安だったが、駅に降り立ってからは驚くほどすんなりと辿り着くことが出来た。どうやら記憶というのは、体にも刷り込まれているものらしい。

『桶屋』と書かれたドアの前に立ち、深呼吸を一つして、ドアをノックする。又しても特段の反応はなかったので、そのままドアを押して中に入った。

今回も「ごめんください」と大きな声を発しながら、部屋の中に入ったが、どうやら今回は時久は部屋にいない様だった。

前回や前々回と違って、平日の昼間に来てしまったのが原因かもしれないと思いながら、ふと時久の事を自分が何も知らなかったなと実感した。

何がきっかけでこの仕事を始めたのか、他に何か職業があるのか、誰か協力者入るのか、どこに住んでいるのか、家族や恋人はいるのか、全て人間関係を構築する時には必須の情報を全く遥香は知らなかった。

どうせ記憶が無くなるのだから、時久と踏み込んだ関係を築いても仕様がないと思い込んでいた自分を恥じた。

そんなことを考えながら、時久の帰りを待って数時間は経過しただろうか。辺りがすっかり暗くなったころ、ドアが軋みながら開く音が聞こえた。

そのまま立ってドアの内側で待機していると、警戒心を最大限迄上げた様子がドアを開けた。恐らく、電気がついている事務所を見て、誰かがいるのかもしれないと警戒したのだろう。

その姿を見て、遥香が何を発しようとする前に、時久が「許可もなく、初対面の相手の事務所に入るとは少し常識がないのではないですか」と言った。

遥香はおや、と思った。『初対面』という発言、それから敬語で話す時久の様子がまるで遥香の事を知らないかの様に見えたからだった。

「すいません。鍵が掛かっていなかったものでつい…」

これは時久が遥香を揶揄う為の芝居なのか、それとも本当に時久自身からも記憶が抹消されてしまったのか、遥香には判断が付かず、特段その事には触れずに答えた。

「他人の部屋に勝手に忍び込んでおいて、非常識にも程があるだろう…」時久は尚もまるで初対面かの様な振る舞いを続けた。

本当に時久も記憶を失くしてしまったのだろうか。いや、時久の事だから、未だ揶揄う為に、芝居を続けている事もあり得る。

しかし、このままでは埒が明かないので、一瞬の逡巡の末、遥香は鎌をかけてみる事にした。こんな無駄なやり取りをする為に、態々来た訳ではないのだ。

「本当にすいません。どうしても変えて欲しい過去が在りまして…母が交通事故で亡くなってしまったんです」

すると、分かりやすく時久は狼狽した。「は?いや、そんな筈はないだろう。その過去は俺が変えた筈…」ここで喋って、慌てて時久は口元を手で押さえた。

「やっぱり。全部知ってたんですね。何で隠してたんですか?」

「え?というか、君も記憶が残っているのか」時久は口元の手を外したが、それでも驚愕の表情は変わらなかった。

「ええ。だから、その理由を聞きに来たんです。でも、その様子だと知らなそうですね。それとも、未だ白々しい芝居をしてるんですか?」

「いやいや、本当に知らない。それに、白を切ってたのも、君が混乱しない様にするためだ。君の方には記憶が残らないと思ってたからな。そんな状態で変える前の過去の話をしても、君に頭のおかしい人間と思われるのがオチだろう?」

確かにその通りだった。どうやらわざとではないと分かったので、遥香は黙って頷いた。その様子を見て、時久は落ち着きを取り戻したのか、漸く普段の調子に戻って、考え込む仕草をした。

「それにしても、本当に記憶が残っているのか?あ、いや疑っている訳でもないんだが…俺は基本全部の過去を記憶しているが、依頼人の方に記憶が残っているケースは初めてで…君は日記とかは書かないタイプだろ?」

「ええ。あれ、そんな話しましたっけ?」

「ああ、一番最初にこの事務所に来た時にその話をした。直筆で書かれたものは何故か過去が変わっても残りやすいんだ。例えば…」徐に時久は立ち上がり、例の新聞の山から一部新聞紙を取り出して、遥香の前に広げた。それは四月二十四日の新聞、つまり前の世界線では母の交通事故の記事が載っていた新聞だ。

「新聞記事なんかは、直筆の記録媒体ではないから、ほら君の母親の記事はきれいさっぱり消えているだろう?」

「本当だ…」

「半面、日記とかの直筆で書かれた情報は、過去が変わっても記録が残りやすい。不思議なものだが、きっと思いが込められたものは時空が歪んでも残るものなんだなと勝手に解釈しているのだが…兎も角、そう言った事情があるから、依頼を受ける前にはさりげなく日記を付ける習慣があるか確認する様にしてるんだ。実際問題、依頼人にとっても、自分に心当たりがない過去が残っているのは大きな不利益となるからな」

遥香は以前の時久との会話を反芻してみた。確かに、日記の話題になった気がする。そうやってさり気なく聞き出していたのか。

「じゃあ、何で私の記憶が残っているかは時久さんにも分からないってことですか?」

「そういうことになる。そういう事だから、申し訳ないが、今回の事は忘れて暮らしてくれ。それが君の為だし、君の母親の為にもなる」苦々しく呟いて時久は、手をシッシと振った。

どうやら時久はこれ以上会話を続ける気がない様だ。確かに、何故記憶が残っているのかを時久が知らないなら、これ以上ここに用はない。そう思って、遥香もこのまま引き下がろうと思ったその時、良いアイデアアイデアが閃いた。

「時久さんは、この仕事を一人でやられているんですか?」

「うん?ああ、そうだ。一時的に誰かに手伝って貰うことはあっても、恒常的に誰かを雇う余裕なんてないからな」

「ふーん。で、時久さんも昼間は別の仕事やっているんですよね?」

「そうだ。この前説明した通り、『桶屋』の仕事は金が入る仕事ではないからな。昼間は普通に会社で働いて、土日とか平日の夜の時間を『桶屋』に充てている」

「つまり、平日の昼間は時久さんは働いていて、『桶屋』には誰も対応する人がいないってことですね?」

遥香は自分の頬が緩んでいるのを自覚した。傍から見ると、ニヤニヤした気色の悪い表情になっているだろう。

時久も遥香の意図を察したのだろうか「いやいや、人は足りている。雇わなくても手伝って貰えるし…」と慌てて付け足した。

「手伝って貰えるって言っても今日だって誰もいなかったじゃないですか。こうやってお客さん逃しているかもしれないですよね?だったら、しょうがないから私が働いてあげますよ」満面の笑顔で遥香は言った。

「いや本当に大丈夫だ。さっきも言ったみたいに人を雇う余裕はないんだ」

「大丈夫ですよ。働くといっても私への給料は要らないです。『母に支払ってもらった賠償金はいつか時久さんに返します』って言ったの覚えてますか。あれは私の本心です。あの時は『記憶が残らないから』って断られましたけど、こうやって記憶が残ったんですから、その分はここで働いて返します。私も申し訳ない気持ちになってしまうので」

悩む時久に遥香は畳み掛ける様に続けた。「私はここで働くことで、変な負い目を感じずに今後も生きていくことが出来る。時久さんに取っても、記憶が何で残るかを解明できるし、人手不足も解消出来て、こんなに可愛い女子大生を雇って商売繫盛間違いなし。良い事尽くめじゃないですか?」

「…他のバイトはどうするんだ?母親が戻ってきたと言っても、生活がギリギリなのは変わらないだろう?」特に遥香のボケには付き合わず、時久は聞いた。

「その点はご心配なく。それこそ時久さんのお陰で日々の暮らしをするには困らなくなった筈です。それに四六時中ずっと『桶屋』で働くつもりもないので、それ以外の時間で少しずつバイトすれば、十分に大学生活を満喫出来ます」

遥香の意思が固いことを悟ったのか、ふうと時久は一際大きなため息をついた。

「分かった。但し、条件が二つある。一つ目は、学業を優先すること。そもそも君の母親の交通事故は、君を大学に行かせるためだった筈だ。その期待を裏切るな。そして、二つ目は、君の雇用期間は君が大学に通う間だけだ。それ以上は君の人生に責任を持てない。だから、就活もサボらず行うこと。この二つを約束出来るか?」

遥香にとっては何の問題もなかった。遥香は力強く頷くと、「明日から宜しくお願い致します」と頭を深々と下げた。


8月10日(木) 曇り

昨日、遥香の母親を救う事に成功した。方法は、第三者を利用して、遥香の母親に近付き、賠償金という名目で遥香の学費を支払うというものだ。

ただ、悪いニュースとして、遥香にタイムリープ前の記憶が残っている事を確認した。遥香が『桶屋』で働きたい旨を申し出てきた為、学業の優先と期間限定での雇用である事を条件に、その申し出を許可した。

今回の世界線でも遥香の運命が変わっていないかの確認と、遥香の記憶保存状況の確認へ注意されたし。






第二章:カイメイ


遥香の『桶屋』での初日は何事もなく終わろうとしていた。依頼人は誰一人として訪れることはなく、終日事務所の掃除をして約半日が過ぎた。

それにしてもこの事務所は汚すぎる。新聞を数十年分溜め込んでいる為、たださえホコリっぽいのに加え、時久の食べ残しと思われる弁当や惣菜が散乱しており、非常に不衛生な状態だった。

一言時久に文句を言ってから帰らないと気が済まないと思いながら、掃除機をかけていると、ドアが開く音が聞こえた。時久だと思って無視していたが、やがてその気配は廊下の途中で止まったまま動かなくなった。気になって様子を見に行くと、小学生ほどの小さな男の子が直立不動で立っているのが見えた。学校帰りなのだろうか、背中にはランドセルを背負っていて、野球帽を目深に被っていた。

「どうしたの?お家分かんなくなっちゃったの?」

遥香が問いかけると、男の子は無言で携帯を取り出して、画面を指差した。

「この場所って、ここで合ってますか?」

画面に映し出されていたのは、『桶屋』のチラシだった。

「うん。確かにそうだけど…ここまでどうやって来たの?お母さんかお父さんは一緒かな?」遥香は聞かずにはいられなかった。夕方過ぎに小学生が繫華街を一人で歩いているとは思えなかったからだ。

ところが、男の子は首を横に振った。「お母さんもお父さんもいないよ。僕だけで来たんだ。このお店は過去を変えてくれるんでしょう?」


詳しく話を聞いてみると、男の子は通学路の途中に貼られたこのポスターを見て、『桶屋』の事を知ったらしい。読めない漢字も在った様だが、携帯の文字読み取り機能を使って、ここまで辿り着いたとの事。

遥香の小学校時代にも既に携帯はあったが、流石に小学生で携帯を持っている生徒は少数派だったし、ましてや、ここまで携帯を使いこなしている生徒は数少なかったので、時代の流れに驚いてしまった。

男の子は、由比和馬と名乗った。隣の神奈川県の小学校に通っているらしく、両親が共働きの為、帰りが遅く、普段は学童に預けられているのだと和馬は説明した。

「えっ、じゃあ今日和馬君が学童に行かなかったら、学童の人達心配してるんじゃないの?」

「大丈夫。今日は学校の宿題を図書館でして帰るって伝えてあるから。完璧なアリバイだよ」

和馬は漸く年相応のいたずらっ子の顔で笑った。それにしても、和馬のやっている事はとても小学校低学年が考えたとは思えない程周到で、少し恐ろしくなったが。

「そっか。和馬君は賢いんだね。でも、あんまり遅くなるとお家の人も心配しちゃうから、今日は早く帰って、今度お母さんとお父さんと一緒に来よう?」

すると、今度は泣き出しそうな顔になって、和馬は言った。「ううん、来れないんだ。もう一緒に住まなくなっちゃったの。だから、二人の仲直りをお手伝いして欲しくてここに来たんだ…」


「なんだ、その話は。当然断ったんだろうな」

渋る和馬を何とか家に帰してから、帰宅してきた時久に遥香は一連の出来事を報告していた。

「いえ…断れませんでした」

「何だと?何で断らなかったんだ。相手は小学生だぞ?小学生相手だったら、いくらでも言いくるめられただろう」

「私も最初はそうしようと思ったんです。『過去を変えてくれる人が宇宙に帰っちゃった』とか反対に『そのお兄さんが過去を変える力を失っちゃった』とか。でも、どうしてもその子が可哀そうで。私も両親が離婚しているので、感情移入してしまったのかもしれませんが…」

すると、時久は一瞬神妙な顔になった。それから一瞬逡巡した様な素振りを見せた後、嘆息をついて「まあ、断らなかったのなら、しょうがない。その代わり、この案件は君がやってみろ」と言った。

「え?私がですか?無理ですよ」

「勿論、最終的にタイムリープするのは俺になる。ただ、俺がタイムリープした先で、何をどう変えるべきかを君に任せるという意味だ。どうだ、それでも無理か?それなら、今回の依頼を受ける事は出来ないぞ?」

時久の言葉を受け、遥香は改めて時久の言った事を吟味してみた。突然の申し出で、先ほどは咄嗟に否定的な反応を示してしまったが、よく考えてみると悪い話ではないのかもしれない。時久の事をもっと深く知ることが出来る良い機会なのかもしれないし、和馬には悪いが、今回の依頼は人の生死に関わることではない分、幾分気が楽な依頼に思えてきた。

「分かりました。私がやってみます」

「宜しい。ただ、その依頼人の本気度の確認と、日記を付けていないか堂かの確認だけは忘れるなよ」

「はい、ボス!」遥香がおどけて、敬礼のポーズを取ると、時久はつまらそうに鼻で笑った。


翌日、遥香は和馬が通う小学校近くの図書館の前にいた。図書館は森の中を切り開いて、無理やり建てたかの様な地形になっており、小学生が二、三人駆け回っているだけで、他に人の気配は全くしなかった。

昨日時久に指示を受けてから、遥香は和馬の携帯に連絡した。すると、今日も学童に行く予定とのことだったので、一日前と同様の言い訳で学童を抜け出して来てもらうことにしたのだ。

小学生を唆して、学童を二日連続でサボらせることに、若干心が痛まないではなかったが、今日は言い訳通りに図書館に来ているだけましだ、と遥香は自分に言い聞かせて納得させた。

ベンチで遥香が暫く待っていると、遠くから昨日と同じ野球帽を被った小学生が近づいて来るのが、木々の隙間から見えた。体操着か何か入っているのだろうか。今日は、布製の袋を蹴りながら、ゆっくりと和馬が歩いて来た。

「ごめんね。今日も学童サボらせちゃって」遥香は、近づいてきた和馬に声を掛けた。

「大丈夫。学童に友達いないし」

「あ、そうなんだ。同じ学校の子達が少ないとか?」

「ううん。同じ学校の人ばっかだよ。でも、お母さんとお父さんが一緒に住んでない事がばれてから、仲間外れにされてるんだ」

何でもない事の様に和馬は言ったが、遥香は胸の奥がズキっと傷んだ。勿論、和馬への同情もあったが、自分自身の経験とも無意識に重ねてしまっていた。

遥香の両親は、遥香が物心つく前に離婚していた。なので、遥香自身は父親がいない寂しさを感じたことは一度もなかったが、小学生というのは他の人と違うことを徹底的に嫌う年頃だ。授業参観はまだしも、運動会にも父親が来ていないことから、家庭事情がばれてしまい、周囲の友達に囃し立てられた。囃し立てた本人からすれば大した事ではないのかもしれないが、言われた遥香にしてみれば、十年近くたった今も傷跡が残る程大きなショックを受けた出来事だった。和馬も同様の傷を抱えていくと思うと、何としてもやり遂げなければという思いが遥香の中で強くなった。

「そっか…じゃあ、絶対お母さんとお父さんを仲直りさせないとね。それで、電話でも言ったと思うんだけど、どうしてお母さんとお父さんが喧嘩したかって分かるかな?」

「ううん。分からない。昔から喧嘩ばかりしてはいたけど、それでも一緒に住んでだったんだ。それなのに、突然お母さんが出ていっちゃって…」

「そっか…お母さんが出ていく前に何か不思議なこととかなかった?どんな小さな事でもいいから、覚えていることない?例えば、日記とか書いてたら、そこに書いている内容とかでももの凄く参考になるんだけど…」

「分からないよ…本当に突然だったんだよ…」和馬は泣きそうになってしまった。家でも寂しい思いをし、学校でも仲間外れにされている。恐らく、和馬の気持ちも限界なのだろう。

とはいえ、もし和馬の話が本当だとしたら、かなり厄介だ。和馬の両親が離婚した理由には、明確な切欠があった訳ではなく、積もり積もったものが爆発して今回の件に至った様に遥香には思えた。

両親を出会わない様にするのが離婚を阻止するには一番良い方法に思えるが、そうすると和馬が生まれることはないし、何より『両親の離婚を止めて欲しい』という和馬の依頼に真正面から答えている事にはならない。

「和馬!」

和馬の父親の事を詳しく聞こうと思ったその時、背後から大きな声が聞こえた。反射的に振り返ると、男がこちらに近づいて来ているのが見えた。

誰なのだろうかと思い、和馬に視線を転じた瞬間、遥香は目を剝いた。和馬の怯え方が尋常ではなかったのだ。体も震え、息も絶え絶えになっていた。咄嗟に、この男に和馬を引き渡してはまずいと判断して、和馬と男の間に遥香は割って入る様な形で、身体を滑り込ませた。

「誰だ、あんたは?」その男は遥香に問うた。

「私、なんでも相談所の『ミライ相談所』の内海と申します」

遥香は用意してあった会社名を名乗った。この会社名は時久も良く使っている名前で、ホームページも『桶屋』が運営している。『桶屋』の説明が出来ない時などに使用するようにと教わっていた。

「ふーん、相談所ね…私は和馬の父です。何を和馬から相談受けていたのか知りませんが、和馬にちょっかいかけるのは止めて貰えませんか?今日も学童から電話があったんです。『和馬が学童をサボっている』とね。偶々リモートワークだったから、探しにこれたものの、出社していたら仕事どころではなかったです」

しまった、学童から父親に連絡が入っていたのか。しかし、これは考え方によっては良い機会だ。若しかしたら、父親からも何か聞き出せるかも知れない。

「勝手に連れ出して、大変申し訳ございません。折角なので、お父さまにもお話伺うこと可能でしょうか」

「申し訳ないが、そんな暇はない。こっちは仕事を抜け出して来てるんだ。おままごとに付き合っている暇はないんだ」

そう言うと、和馬の父親は無理やり和馬の手を引っ張った。和馬は、「痛いよ。嫌だよ。行きたくないよ」と必死に訴えていたが、父親は全く聞き耳を持たなかった。

「ちょ、ちょっと待ってください。事情は分からないですが、そんな乱暴しないで下さい。一回話を聞いてあげましょうよ」

「そんな事をあんたに言われる筋合いはない。あんた、児相でも何でもないだろう?何の権限があった偉そうなこと言ってるんだ?他人の家庭のことに口出さないでくれ」

遥香は何とか食い下がろうとしたが、取り付く島もなかった。和馬の父親が言う通り、遥香は赤の他人なのだ。

「学童を勝手に抜け出してごめんなさい。僕も戻るから、掴むのは止めて。お姉ちゃんもごめんなさい」遥香が何とか和馬を引き留める口実はないものかと思案する中、和馬は落ち着きを取り出した様で、和馬は冷静な口調で言った。

ハッとして、和馬の表情を見ると、和馬は悲しそうな顔で笑っていた。その顔はまるで全てを諦めて受け止めた顔に見えた。刹那、最後の防波堤に自分がなり切れなかったことを遥香は悟った。

そのまま、為す術なく呆然とする遥香の目の前で、和馬は父親と共に木々の中に消えていったのだった。


先の図書館での一件以来、遥香は暇を見つけては、学童や和馬の家を張り込んでみたが、相手に見つかることを恐れて近付くことが出来ず、全く手掛かりを見つけることが出来ていなかった。和馬に電話を掛けることも不可能ではなかったが、どこで父親が見ているか分からないと思うと、なかなか踏ん切りを付けられずにいた。

そんな手詰まりの状況ではあったものの、遥香は一つの疑念を消すことが出来なかった。それは、和馬が父親とも上手くいっていないのではないかというものだった。

前回会った時の和馬の怯え方は尋常ではなく、父親から虐待を受けているのではないかと思わせる程だった。恐らく和馬の両親の離婚を阻止することは不可能と諦めていたが、何とか和馬を救うことは出来ないかと思い、調査を遥香の独断で勝手に続けていたのだ。

とはいえ、現状決め手は見つかってなかった。諦めて時久に相談しようかと思っていたその時、和馬が大人の女性と会っているのを目撃したのだった。その日は土曜日で、『桶屋』は時久が番をしている為、遥香は終日和馬を張り込んでいた。すると、和馬は父親と共に駅前に向かうバスに乗り込んだのだ。慌てて遥香も二人を追い掛けると、やがて駅前の喫茶店に入っていく二人を見つけた。遥香が二人を尚も目で追い続けると、店員に声を掛けられた二人は、辺りを見回すと、三十代くらいの女性がいる席に着いた。

遥香はどうすべきか喫茶店から道路を一本隔てたコンビニの中で、独り迷った。ここで見つかってしまえば、和馬の父親からのしっ責は免れないだろう。最悪警察に通報されることもあり得るかもしれない。ただ、この機会を逃せば、もう何も手がかりを得られないかもしれないという不安もあった。張り込みを続けて早二週間が経つが、和馬が家、小学校と学童以外で初めて訪れた場所なのだ。

数分間の葛藤の末、遥香はコンビニを出て、喫茶店のドアをゆっくりと開けた。ここで悩んでいても仕方がない。和馬の父親に見つかっても、最悪の場合は『偶然だ』と言い張ろう。

喫茶店の店員さんに、『窓際の席で』と告げると、運よく遥香は和馬達の横の席に通された。和馬達の席との間には、人の胸くらいまでの高さがある背もたれが設けられており、お互いの姿が見えない格好だ。

「…それで、和馬は学校の勉強もちゃんとしているの?」女性が和馬に話しかけている声が聞こえた。

「うん。宿題とかテストとかはちゃんとやってるよ。でも、学校の勉強って簡単過ぎるから、あんまり授業聞いてない」

「あら、ダメじゃない。先生の言う事ちゃんと聞いてないと、今は良くてもいつか勉強ついていけなくなるわよ」

「分かっているよ。別にいいよ。勉強なんて出来たって何も良い事ないんだから」

「またそんなこと言って…学童は楽しい?」

「うん…普通」

「普通って…あなたも確り和馬の事見てるの?」

やっぱりと、遥香は思った。見た目や休日に態々会う時点でそうではないかと思っていたが、和馬の父親を『あなた』と呼んだことで確証を得た。この女性は和馬の母親だ。

「見てるよ。こっちだって色々大変なんだよ。学童だって通わせてるんだし、学校の成績だってそれなりだ。文句ないだろう?」

「それはそうだけど…」

どうやら、相当に夫婦仲は冷え込んでいるらしい。その後も重苦しい雰囲気の中、主に母親が喋る形で会話が進行した。


「じゃあ、俺らは帰るから」数十分の会話が続いた後、そう言って、和馬と父親が席を立ったので、慌てて遥香は顔を伏せた。

和馬達が横を通過したことを確認して、慎重に顔を上げた遥香は、そのまま立ち上がって、一人取り残された和馬の母親に視線を転じた。丁度立ち上がって振り返った遥香に、正対する位置に和馬の母親は座っていた。

彼女は和馬を見送る為、暫く席に座ったまま窓の外を見ていたが、やがて遥香の視線に気が付いたのか、遥香の方を見やると怪訝な表情をした。

「すみません…和馬君のお母様でしょうか?」遥香は、軽く会釈しながら、座っていた席から和馬の母親の席まで素早く体を移動させた。

「はい、そうですが…あなたは?」遥香が傍に寄ったことで、尚更警戒心を強めた顔で和馬の母親は言った。

「突然すいません。私、慶田大学の内海と申します。大学の方で母子家庭・父子家庭のお子さんを支援する取組みを行なっておりまして、その一環で和馬君と知り合いまして…」

「あ、そうだったのね。ごめんなさいね。母親なのに、私ったら全然和馬のこと知らなくて…。でも、それならどうして和馬が居る内にお声掛けなさらなかったの?」

「それが少々事情がありまして。和馬君がご両親のことで相談に来てくれてたんですが、お父様に様子が見つかってしまい、おしかりを受けたんです。『もう和馬に近付かないでくれ』と。ただ、どうしても和馬君のことが気になって、お父様には見つからない様に、和馬君の様子を見に来てたんです。ですので、今日は声を掛けられず…」

「そういう事…確かに、あの人は気難しいところもあるから…ごめんなさい。どうぞお掛けになって」

そう言って和馬の母親は先ほどまで二人が座っていた席を手で指した。どうやら話が出来る人物ではある様だ。少し安心して遥香は腰を下ろした。

「今日はどういったご用件で和馬君とお会いになられてたんですか?」席に着くなり、遥香は聞いた。

「今日は、面会日でしたの。面会日って分かるかしら?離婚後にも、子供に会うことが出来る日のことね。今日がその日で、私も楽しみにしてたんだけど、和馬はそうでもなかったみたいね」和馬の母親は、少し寂しそうに笑った。

確かに先ほどの三人の会話は、お世辞にも盛り上がっているとは言えなかった。

「…それでも私は和馬の事を愛しているし、今では離婚した事も少しだけだけど後悔してもいるわ。私さえもっと確りしていれば、今でもあの子と一緒に居られるかも知れなかったのに、って」

「立ち入った事で大変恐縮ですが、どうして離婚されたんですか?実は和馬君のご相談も両親を仲直りさせたいというものだったんです」

「あの子がそんな事を…やはり私たちの事が和馬を苦しめていたんですね。恥を晒す様ではあるんですが、私が耐えきれなかったことが離婚の原因です。当時の私は、育児と仕事の両立が出来ず、かと言って、夫に相談も出来ず、一人で全てを抱え込んでしまっていたんです。そんな状況では、休日である筈の土日でも心が全く休まらず、結果的に所謂育児ノイローゼになって…それである日、今から丁度半年くらい前ですね、とうとう耐え切れなくなって、私一人で家を飛び出してしまいました。ただ、今は夫が上手く育児と仕事を両立しているみたいですし、あの時に夫に相談していれば何かが変わったのかもしれないと、今では後悔しております」

「当時相談窓口に相談したりしなかったのですか?或いは、ご両親に相談とか?」

和馬の母親は、ジッと遥香の目を見つめて答えた。「今冷静に考えれば、そういう選択肢も確かにあったと思えますが、当時はそんなこと思えませんでした。あなたも将来もし子供を持つ様になったら、分かるかも知れないけれど、この社会が『母親』に対して求める事は非常に多いの。そして、その役目を果たせなくなった時の風当たりの強さもね。それを撥ね退けて、誰かに弱音を漏らす事は簡単ではなかったわ。少なくとも、私にとってはね。今となっては単なる言い訳でしかないのかもしれないけれど…」

「そうですよね…」

遥香が、和馬の母親の言い分を全て納得出来ている訳ではなかったが、一杯一杯の状態では、他人の差し伸べてくれている手に気付けないという経験は、遥香にも良く分かった。それは母親が亡くなっていた時期に、遥香自身が、身をもって経験したことでもあったからだ。

「ところで、和馬君のお父様から何か暴力とか暴言とかを浴びせられた事はありませんか?」

「どうしたんですか?急に。和馬がその様なことを申していたんですか?」和馬の母親は少し驚いた表情になった。

「いえ…ただ、こうした例ですと、お父様の育児のストレスから、虐待に走るケースもない訳ではございませんので。飽くまで念の為の確認です」

「なるほど…でも、そういう事なら和馬は心配ないと思います。夫は、ああ見えても正義感が強く、『斯くあるべき』という理想が強いタイプなの。虐待の様な卑怯な行為は彼が最も嫌がることだと思います。結婚期間中も暴力や暴言の類いを吐かれたことは一度もなかったわ」

そういう理想が高いタイプこそ、自分の理想に従わない相手に対しては、強気な行動に出るような気もするが、一先ずは和馬の母親の言い分で納得する事とした。『一緒に暮らしている時には虐待はなかった』という彼女の言い分が正しければ、仮に和馬の父親が和馬を虐待していても、タイムリープをして両親の離婚を阻止することさえ出来れば、虐待も防ぐ事が出来るということになる。

「ありがとうございます。それなら私の取り越し苦労でしたね。出過ぎた事を失礼致しました。最後に、何があれば、育児で大変だった時期に誰かに頼れたと思いますか?これは、今現在育児で苦しんでいる方へのアドバイスも含めてですが」流石にタイムリープで過去の何を変えるべきか手掛かりを探す為とは言えず、咄嗟に取って付けた様な言い訳を付け加えた。

「…難しいですが、誰か無理矢理にでも同じ経験をした人と会う経験が作れれば良かったのかもしれないわね。ママ友とか、経験者とか。そういった方々の経験談を聞けば、自分も普通なんだと思えたのかも。今となっては後の祭りですが」

そういって、和馬の母親は自嘲気味に笑った。


翌日、事務所のソファーに時久と向かい合う形で座っていた。遥香は先ず一連の調査結果を時久に説明した後、遥香は自分の考えたタイムリープの案を説明していた。

「こういった状況から、和馬君の母親の育児ノイローゼを解消すれば、両親の離婚も防げて、和馬君の虐待も防げると考えました。育児ノイローゼを解消する方法は、彼女自身も言っておりますが、相談の窓口がある事をお伝えすることだと思います。そこで…」ここまで言って、遥香は資料を取り出した。この資料には育児関連の相談窓口への連絡先がびっしりと載っている。「こうした資料を作成しました。勿論、これをこのまま過去に持っていってもらう訳にはいきませんが、こうした情報を持って、和馬君のお母さんの元を訪れて貰って、時久さんに説明して貰うんです」遥香が、練りに練った案だった。

遥香の説明を聞き終えると、時久は遥香の出した資料をつまみ上げた。「この資料は、君が作ったのか?」

「はい!公開情報を基に私が作成しました」

「で、これと似た様な資料をタイムリープした先で俺にも作れと?作った後、どうやって、母親に渡すことを想定している?」

「市役所の職員、若しくはこうした子育て支援をしているボランティア団体のスタッフとして、和馬君の家を訪問して下さい。仕事は土日休みって言ってましたので、土日のどちらかに行けば、和馬君のお母さんには会えると思います。また、離婚は半年前とも言っていたので、七から八ヶ月前に行けば丁度時期になると思います」

「家の住所は?」

「ここです。今の和馬君が住んでいる家が、元々家族三人で暮らしていた家だと思います。二人で住むには大き過ぎますし、お母さんのご説明でも『私が』家を飛び出したと、言っていました。このことからも、和馬君たちはずっと今の家から動いていないと考えても不自然ではないと思います」

「なるほどな…少なくとも確り準備はしてきた様だな」

「はい。これでもちゃんと考えて来ました!」褒められた気がして、遥香はついつい頬が緩んでしまった。

「そうだな…そうしたら、この決行は来月にしようか。一度、和馬の家の下見にも行きたいし、この情報の暗記もある程度しないといけないしな」遥香が持ってきた資料をひらひらさせながら、時久は言った。

いよいよだ。初めて、遥香は誰かの人生を好転させる事が出来る事に何とも言えない興奮を感じていた。


一か月後、わくわくしながら、遥香は和馬達の様子を確認しに行った。果たして、そこには家族三人で仲睦まじく歩く三人の姿があった。遥香は心底嬉しくなった。自分の手で過去から未来を変えられたのだと。

前方から遥香のいる方向に向かって、三人が歩いて来る姿を見て、慌てて姿を隠そうとしたが、過去を変えた以上、三人は遥香を認識しない筈だ。態々姿を隠す必要もないと思い直して、そのまま遥香も直進した。

このまま何事もなく、すれ違って二度とこの家族とは会わないだろうと思いながら、三人の横を通過した時だった。「あれ?この前のお姉ちゃんじゃない?」との声で、遥香は反射的に振り返ってしまった。

声の主は振り返る迄もなく、分かっていた。和馬はどういう訳か、遥香を指差していたのだ。

「え、何で…?」思わず声が漏れてしまったが、困惑する遥香をよそに、和馬の両親も「え、お前も知ってたのか?」「ええ、先月の面会日に、二人が帰った後に話したの」と夫婦で会話を続けている。

何が何だか分からず、「すいません、失礼します」と咄嗟に頭を下げて、辞去してしまったが、冷静に考えるとやはり納得がいかず、親子の姿が見えなくなった後、遥香はそのままの足で『桶屋』の事務所へ向かった。

「どういうことですか?」遥香は事務所のドアを乱雑に開けながら、大声で言った。移動している内に、三人の前で恥をかかされた様な気がして、遥香の怒りは増幅していた。

対して、時久はソファーの上でのんびりと足を組んで、コーヒーを飲んでいた。優雅な態度が一層遥香のいら立ちを募らせた。

「どうしたんだい、そんなに怒って。事務所の備品は大切に扱ってくれよ。それでなくても、この事務所は年季が相当入っているんだから」

「『どうした?』じゃないですよ。何で和馬君の家族全員記憶残っているんですか?タイムリープしたら、記憶もなくなるんじゃないんですか?これで私の件と続けて、二件連続ですよ?やっぱり私に噓ついてたんですか?」息も絶え絶えになりながら、遥香はまくし立てた。やはり、この男を信用したのは、間違いだったのか。

「ああ、その件か。簡単だよ。今回はタイムリープしてないからな」

時久は事もなげに言い放ったが、遥香には衝撃だった。タイムリープをしてない?ということは、時久は遥香の提案した案を無視したということか?いやそもそもどうしてタイムリープしていないのに、家族の仲が元に戻っているのか?疑問が次から次へと湧き出てきて、遥香は何も言えなかった。

そんな遥香を見て、「順を追って話すから、一度腰かけたらどうだ?特別に今回はコーヒーを入れてやろう」と時久は言った。

言われるがまま、ソファーに座り、時久が淹れたコーヒーを飲むと、漸く鈍っていた思考が戻ってきた。それでも疑問点が多過ぎる。やはり、今回の件を全て理解するには、時久の説明が必要だった。

そんな遥香の心情を見透かしてか、遥香の真正面に座った時久が徐に口を開いた。「さて、色々と分からないことがあるだろうが、順を追って説明していこうか。先ずは、俺のタイムリープの哲学からだ。それは、『タイムリープなしで解決出来ることは、タイムリープに頼らない』だ。前にも言ったかもしれないが、タイムリープは基本的には不可逆の行為だ。一度失敗すると、やり直しが効かない。そして、その影響も計り知れない。だから、タイムリープはあくまで最終手段だと捉えている。ここまで分かるな?」

遥香は頷いた。タイムリープの不可逆性の話は覚えていたし、それを踏まえた時久の方針にも納得できた。

「宜しい。その前提の下で、今回の件を整理してみよう。今回の件で解決しなくてはいけなかった課題は何だった?」

「和馬君の両親の離婚を阻止する事」

「そうだ。それが当初の目的だった。ただ、途中から、和馬の虐待を防ぐことという副次的な目的も加わっただろう?」

確かにそうだった。だが、結果的には離婚を防ぐことで、虐待も防げるという結論に至ったはず…

「確かに、離婚が原因で父親からの虐待を受けているのかもという仮説は納得感はあったが、それだけで決めていいのかという引っ掛かりもあった。だから、俺は先ず和馬の通う学童に行ってみたんだ。『子供の預け入れを検討しているから、見学したい』って言ったら、簡単に中を見せてくれたしな。そこに通う子供達の様子を見て、引っ掛かりが仮説に変わったよ。ここで虐待が行われているのかもなって」

遥香は驚いた。単なる仮説から、そこまで実際の行動に移す事が出来るとは。

「ただ、未だ仮説に過ぎないから、今度は和馬に直接話を聞いてみることにした。最初警戒されてたけど、君の名前を出したら一瞬で打ち解けたよ。よっぽど信頼されてたんだな。それで『学童で職員から何か痛い思いさせられてないか』と鎌をかけてみたんだよ。そしたら、あっさり認めたよ。ただ、それは『お父さんには言わないで欲しい』って事だった。訳を聞くと、あの学童に入れることを望んだのは母親の方だったらしい。その学童で問題があると分かると、両親の中が悪くなることを心配して、父親にも相談出来てなかったんだと」

遥香は、和馬の様子がおかしかった時の事を思い出していた。父親が和馬の事を連れ戻しに来た時の事だったが、それを遥香は父親への恐怖心だと早合点してしまった。だが、よく考えると、学童に連れ戻される事に対する恐怖心と解釈する事も確かに可能だった。

「だから、俺は『寧ろ、今の状況を正直に父親に伝えた方がいい』と助言したんだ。そうすれば、父親は忽ち一人で仕事と育児を両立する余裕もなくなるだろうと。そして、それで揺れている父親に『自分はお母さんともう一度暮らしたい』と付け加えろと指示した。そうすれば、父親も一緒に暮らす事を検討するんじゃないかと思ってな。実際のところ、この方法で上手く行くか堂かは、半々だと思っていたが…和馬達の様子はどうだった?」

「…今のところは、仲は良さそうでした」

「そうか。良かった」

安堵する時久とは対照的に、遥香の心の中は悔しい気持ちで一杯だった。全く同じ情報を持ってからのスタートだったのに、時久はよりリスクの少ない解決策に辿り着いて、タイムリープする事なく、解決に導いたのだ。一方で、遥香は不十分な答えで満足して、浮かれていた。数時間前の自分を殴ってしまいたい気分だった。

「君が落ち込む必要は何もない。俺が君に伝えずに勝手に動いたのは、この仮説が正しいか自身がなかったから。仮に上手く行かなかったら、君の案を採用するつもりだった。それに、今回これだけ上手く行ったのも、君が確り依頼者と関係を構築して、情報を集めて来てくれたからだ。だからこれはチームの勝利だ」

「慰めてくれてるんですか?」

「安心しろ、俺は建前だけの慰め程無駄なものはこの世にないと思っている」

時久のいつもの調子の語り口に、幾分心が救われたが、それでも遥香の心の中には悔しさが残った。そうして、いつか絶対に自分の手で誰かを救ってやると心に決めたのだった。


和馬の件が解決してから数週間が経ったころ、事務所に一本の電話が入った。その日も遥香が一人で店番をしていたので、遥香が電話を取った。

「はい、もしもし?」遥香がそう言った瞬間に電話が切れた。

間違い電話かと思い、受話器を置いた瞬間に再度電話が鳴った。再度電話を取って、応答すると、今度は「この電話は、『桶屋』さんで間違いない?」と男の声が聞こえた。

「はい、間違いないですよ」

「えー、時久くん辞めちゃったの?若しかして、五代目?」と電話の主は聞いてきた。

「いえ、中崎さんは辞めてないです。私はこの店を手伝っている者です」

「あー、そういうことね。じゃあ、時久くんに、カルベから電話が在ったから折り返す様に伝えてくれる?多分それで分かる筈だから」

「分かりました。ええと、どちらのカルベ様でいらっしゃいますか?」

「だから、軽部で分かるって。そのまま伝えてくれればいいから。それじゃ宜しくね」そう言って、カルベは一方的に電話を切った。

随分と勝手な人物に思えたが、もし依頼に関係することであれば、時久に伝えない訳にはいかない。時久の帰宅を待って、時久にカルベからの連絡が在ったことを伝えると、時久は小さく舌打ちをした。

「古いお知り合いか何かですか?」思わず、遥香は聞いてしまった。

「厄介な客だ。昔からのな」

「え?昔からって、『桶屋』を知っている人がそんなにいるんですか?」

「ああ、権力が集まるところで世襲制を取っている業界には、昔からの客というのがいる。例えば、政治家とか一流企業の社長とかな」

「でも記憶は通常残らないんですよね?私は例外みたいですけど…」

「確かにその通りだ。ただ、直筆のメッセージは例外だとも言った筈だ。昔から権力の中心にいる連中はがめついんだ。どうやってそのからくりを見破ったのかは知らんが、親から子へと直筆のメッセージを通じて、『桶屋』の存在を伝承し続けているらしい」

「…でも、本気で隠そうと思えば出来ない訳ではないですよね?例えば、その直筆のメッセージが、子に渡る前に捨ててしまうとか」

時久は指を鳴らした。「その通りだ。前にも思ったが、意外と悪知恵も働くんだな」

悪口にも捉えられる内容だったが、最早遥香は気にしない事にしていた。一緒に働く様になって早一カ月以上が経った。遥香は時久の事をデリカシーがないだけで悪意はないのだろうと割り切る様にしていた。

「結局はそこまでやるかという問題だ。古くからの家系で、且つ今も権力を有しているとなれば、その最後のメッセージ、つまり遺書は厳重に管理されている。その管理を搔い潜って、遺書を廃棄するのは並大抵の事ではない。今のところ、それだけのリスクを侵す様な場面にはなっていないというのが一つ。もう一つは、仮に廃棄出来る状態になったとしても、親が想いを込めたメッセージを廃棄するのはあまり気持ちの良いものではないからな」

最後の時久の言葉は、遥香には意外だった。時久は『人の感情』というものに大凡無関心だと勝手に思い込んでいた。

「なるほど…それで、結局このカルベさんは何方なんですか?さっきの話からすると、どっかの社長さんとかですか?」

「ご名答。この人は芸能事務所の社長だ。ただ、殆どが下らない依頼なのが、さっき厄介だと言った所以だ。何代にも渡っての関係値だけに無下にすることも出来ないし、今回はちゃんとした依頼だと良いのだが…」


次の土曜日、軽部は例のボロ事務所に来ていた。勿論、目的は時久への仕事の依頼だったが、その打ち合わせに遥香も同席させてもらったのだ。軽部から受け取った名刺には、遥香でも知っている様な大手の芸能プロダクションの名前が印字されていた。

軽部は脂ぎった顔に真っ黒に日焼けした肌と、不自然に真っ白な歯という典型的な業界人の風貌をしていた。そして、その顔に媚びる様な笑みを貼り付けていた。時久の方はというと、対照的に仏頂面をしたまま、腕を組んでいた。

「だからさ、何とかならない?俺と時久くんの仲だろ?」軽部は先程から繰り返している言葉を再び言った。

「さっきから言っている様に、ダメなものはダメです。この力は、安易に使ってはダメなんです。どこの誰にどういう影響が出るか分からないんですから。その事を軽部さんも良くご存じでしょう?」時久も同じ言葉を繰り返した。

「そこを何とか。だってほら、このままだと、ウチのタレントが病んじゃうかもしれないじゃない?これは由々しき事態じゃない?」

誰が聞いても無理のある言い分だったが、当の本人はうんうんと自分の言葉に深く頷いていた。そして、横を向いて、「ほら、お前からもお願いしろ」と促した。

そう、軽部は一人では来ていなかったのだ。室内でも帽子を目深に被ったその人物は、軽部に促されるまま、蚊の鳴く様なか細い声で「宜しくお願いします」と言った。

その人物は、今まさにそのスキャンダルの渦中にいるタレントだった。アイドルグループに所属する彼女は、交際禁止の暗黙の了解を破って他の男性アイドルと交際し、その様子を雑誌に掲載されてしまったのだ。そこまでなら未だ良かったのだが、交際を非難する世間の声に対し、SNSで反論を展開。結果的に、これが更に火に油を注ぐ形となり、更に炎上したという顛末だった。

その奔放な行動からもっと堂々とした人物像を遥香は持っていたが、目の前にいる女性は遥香以上に繊細な様に見えた。やはりメディアを通して見るのと実際の人物像は違うということか、或いは騒動の後で“大人達”からコッテリ絞られただけなのかもしれないが。

「はあ、分かりましたよ。取り敢えず、何が出来るか考えてみましょう。ただ、少し本人と話してから詳しい事は決めたい。軽部さん、少し席を外してもらってもいいですか?」とうとう根負けしたのだろうか。時久は大きなため息と共に言った。

「え、本当ですか?ありがとう!勿論、勿論。幾らでも話してよ。それじゃ、俺は外出ていくから、話終わったら声掛けてね」

そう言い残すと、時久の気が変わらない内にと言わんばかりに、目にも止まらぬ速さで軽部は事務所の外に出た。

「それじゃ、私もこれで…」

遥香も離席しようとすると、時久は「いや、君は居てくれ」と言った。

意外だったが、自分が時久に必要とされている様な気がして、悪い気はしなかった。促させるまま遥香は腰を再び下ろした。

「さて、軽部さんに席を外してもらったのは、あなたの本心を聞きたかったからだ。あなたは本心ではどう思っているんだ?」

「どうって。こんなのどうでもいいって思ってるに決まってるじゃない」

遥香はギョッとした。今まで可憐な少女だった筈の目の前の女性が、突然豹変した様に感じたからだ。

「今日来たのだって、社長が煩く言ってくるからってだけ。本心じゃ、こんな茶番どうでもいいわよ。私は何も悪い事なんか一個もしてないんだから」

「…さっきまでとは全く様子が違うな」

「これが私の本性よ。さっきまでは社長が居たから猫被ってただけ。幻滅した?」女は薄ら笑いを浮かべた。

「いいや、こっちの方が話が早くて助かるよ。それで?君はどうしたいんだ?」言葉通り、動揺した様子も一切なく、時久は続けた。

「私はもう何でもいいわよ。これでも社長には恩を感じているし、恩を仇で返す様な事はしたくないけど、もう芸能界に疲れちゃったっていうのも本音。このまま、辞めちゃってもいいかも」

「そうか…じゃあ、初めから芸能界に入っていなくても後悔は無いな?」

「は?」

「君がタイムリープの事を信じられない気持ちは良く分かる。だから、今から俺が話す内容は『もし、本当にタイムリープが存在するとしたら』という前提で聞いて見てくれ。仮に、俺がタイムリープして、君のスキャンダルを揉み消したとしよう。それで、君はもう二度とスキャンダルを起こさないと誓えるか?」

女は少し目線を宙に泳がせた後、「多分、無理かな」と言った。

「今回の事が無かった事になったとしても、きっとまた同じ事を繰り返しちゃうと思う。社長には悪いけど…」

「そうだろう?そうすると、俺がいくら過去を変えたとしても、無駄骨になるだけで、社長が事務所に来る未来は決して変える事が出来ないって訳だ。だったら、根本原因を無くした方がいいと思わないか?」

「根本原因…」

「この場合、初めから君はタレントになんか成らないという事だ」

「ちょっと待って下さい」ここまで遥香は一切口を挟んでいなかったが、堪らず口を挟んでしまった。「それって社長を騙すって事になりませんか?きっと、社長はそんな事望まない筈です」

「それが何か?」時久は左の眉をピクリと動かした。働き始めてから分かったが、これは図星を突かれて、苛立っている時の時久の癖だった。

「何って…あなたも良いんですか?社長はあなたの恩人なんですよね?」こうなっている時の時久に何を言っても無駄だ。遥香は早々に時久を説得する事は諦めて、遥香は目の前の女性タレントに問いかけた。

「確かに社長を騙すのは後味悪いけど、その人の言う通りかもしれない。私は最初から芸能人には向いてなかったのかも」

遥香の嘆願も虚しく、女性タレントは時久の提案に乗り気な様に見えた。こうなると、遥香には為す術はなかった。

「さあ、分かったな。確かに、俺は依頼人に全て従うべきだと思っている。但し、『依頼人』とは、俺のタイムリープによって人生が変わってしまう人の事だ。今回の件で言えば、社長は依頼人ではない」

確かに今回の件の当事者は、スキャンダルに巻き込まれた二人で、社長が『桶屋』に持ち込んだ依頼こそがエゴだったのかもしれない。そう思うと、遥香もこれ以上の反論は出来なかった。

結局、その後時久は女性タレントからデビューに至った経緯を聞いた後、社長を呼び戻して、二人を帰した。社長が戻ってからずっと、余計な事は喋るなよ、という時久の目線が痛かったが、最早遥香に何かを言おうという意思は残っていなかった。


「さて、今日は一緒に帰るか」

社長とタレントの二人が帰った後、遥香が帰り支度をしていると、唐突に時久が言った。今日は一人でぼんやりと帰りたいところではあったが、一応上司に当たる時久の申し出を断る事も出来ず、訝しく思いながらも渋々了承した。

「さっきの俺の決断は不満か?」事務所から駅への道中、時久が話を切り出した。

「不満とは思ってないです。ただ…」

「ただ…?」

「いえ…軽部社長、時久さん、それからあのタレントさん、全員がもう少し納得出来る様な解決策もあるんじゃないかなって思ってただけです。彼女がスキャンダルを繰り返すか堂か何て分からないじゃないですか」

「確かにそうかもしれないな。ただ、そうではないのかもしれない。俺たちは確実な方法を取るしかないんだ。過去を変えるというのは、それだけ重い行為なんだ」

時久の言う事が最もだということは、遥香が誰よりもよく理解していた。それだけに反論しないでいたのだ。

そんな事を考えながら俯いて歩いていると、横から肩を誰かに抑えられた。それが一緒に歩いていた時久だったと気付いた刹那、軽トラックが物凄い速度で遥香達の目の前を通過した。気付くと遥香は駅への近道となる狭い路地を歩いていた。この路地は見通しが非常に悪く、普段から気を付けている場所だったが、今回は下を向いて歩いていた為、横から近づく軽トラに全く気付く事が出来なかった。時久がいなかったら恐らく遥香は、軽トラと衝突していただろう。そして、無事では済まなかったに違いない。

ショックで動けない遥香に、時久は「確り前見て歩け」と落ち着いた声で言った。


10月22日(日) 晴れ

今日は、軽部さんが事務所を訪れた。スキャンダル揉み消しを依頼されたが、事前の手筈通り、スキャンダルそのものではなく、スキャンダルの元凶になったタレントが芸能界に入らない様に過去を変える方向で、本人の了承を得た。(軽部さんにはお伝えしていない点、要注意)

それから、遥香が車に轢かれかけたところを、寸での所で阻止した。前回に引き続いて、遥香の運命を変えることは出来ていない様子。引き続きの注視を要する。


軽部の一件以来、依頼が来ない状況が続いていた。正確には細かい依頼は沢山あったが、それは居なくなったペット探しや学校の成績を上げて欲しいといったもので、遥香にしてみれば「こんなものにタイムリープの能力使うなよ」と小言を言いたくなる様なものばかりだった。それでも、時久は例の本気度を試す問いに応えられるものであれば、区別なく、依頼に応じていた。遥香が口を出す事は出来ないと分かっているが、そうまでして過去の改変に応じる理由は何だろうかと疑問に感じていた。

ところで、軽部の件はと言うと、無事に時久は解決に導いた様だった。決行の日は、遥香には一切知らされなかったが、ある日を境に例の女性タレントがいた痕跡はこの世界から綺麗に消え去っていた事で、遥香はタイムリープの実行を知った。

渋谷の町公告やテレビに加え、ネットに至る迄、件の女性タレントの存在は綺麗さっぱり消えていた。本当に人間の存在を消せてしまうのだ、とタイムリープの威力の大きさを改めて遥香は認識した。

それと同時に未だ自分に過去の記憶が残っている事も実感した。軽部の件は前回と比べて記憶の乱れも殆どなく、朝目が覚めた瞬間から全てを理解出来た。それだけ、自分がタイムリープに順応しているという事だろう。それが喜ばしい事なのか、嘆かわしい事なのかは判断は付かなかったが。

例によって、依頼が来ない時には、遥香は掃除に勤しんでいた。この事務所も遥香が働き始めた時には、不潔そのものだったが、漸く人が暮らしても問題ない水準まで持ってこれた。

唯一掃除出来ていないのは、時久の机の抽斗だけだったが、本人が鍵を掛けている為、これで事務所の中で実質的に遥香が掃除出来る場所は全て掃除し尽くした事となり、遥香は達成感に満ち溢れていた。

達成感に遥香が浸っていると、事務所の電話が鳴った。久しぶりの電話に多少もたつきながら、受話器を取ると、××法律事務所の弁護士だ、と電話の向こうの相手が名乗った。

「こちら『桶屋』さんのお電話でお間違いないでしょうか」

「はい、そうです。何か依頼でしょうか」

「左様でございます。ご依頼させて頂きたいのですが、少々込み入った事情のある依頼でして、直接お会いしてからのお話でも宜しいでしょうか」

「問題ございません。では、ご都合宜しい日時を頂いても宜しいでしょうか」

遥香は右手で、時久の予定表を見ながら答えた。最近では、時久の予定表を遥香が預かって、管理していた。

電話の相手が告げた日時と、時久のカレンダーを突合せ、翌々週の日曜日での打ち合わせを取り付けて、遥香は電話を切った。

久々の依頼で、遥香も高揚する気分だったが、『込み入った事情』とはどういう事なのだろうか。少しの引っ掛かりを覚えながらも、時久への報告を書き上げて、遥香はその日の帰路に就いた。


翌々週、約束通りにその弁護士は事務所を訪れた。綺麗に分けられた七三の髪に、恐らく高価であろうスーツを身に纏ったその姿は、凡そこのボロ事務所には似つかわしくなかった。

「先日はありがとうございました。早速ですが、込み入った事情と申しましたのは、私自身は依頼人ではないからです」挨拶もそこそこに、弁護士は席に着くなり、口火を切った。

「依頼人ではない?という事は、先生は代理で来られたという事でしょうか?」時久が応じた。

「ええ、私は代理人です。依頼人ご本人がお越しにならなかったのは、依頼人が今自由に動けないからです」

「それは…ご病気とかでしょうか?」

「いえ、依頼人は今強盗殺人の罪で刑務所に入っております。私はその人物の弁護を担当しております」

時久と遥香は絶句してしまった。弁護士が来るという事から、何等かのトラブルや犯罪に関わる依頼ではないかと想像はしていたが、まさか殺人者からの依頼だとは想像していなかった。これの事件には関わるべきではない、と遥香は時久に目でメッセージを送ったが、時久は遥香の事など気にせず、すっかり落ち着きを取り戻して次の質問に移っていた。

「それで、依頼の内容というは?」

すると、あまりに早い切り替えに弁護士も驚いた様子で「どういった罪だったかお聞きにならないのですか」と聞き返してきた。

「勿論、気にならないではないですが、今一番大事な点は依頼内容ですので。その他の細かい点は、追而お聞きします」

「なるほど…流石肝が座ってらっしゃいますね。私も段々と依頼人の話を信じる気持ちになってきました…いや、失礼。実は私も半信半疑な所がございまして、未だそんな事が可能なのか、計りかねているのです。依頼人は『過去に戻って自分の罪を無かった事にして欲しい』と言っております。そんな事可能なのでしょうか?」

恐縮する弁護士と違って、遥香は徐々に絶望的な気持ちになってきた。或いは、『冤罪を晴らして欲しい』と言った依頼内容であれば、未だ救いがあったのに、今の依頼内容では犯罪の揉み消しに加担する様なものではないか。

言い出した弁護士本人も未だ半信半疑の今なら、とぼけたふりで依頼を断る事も出来る筈だ。遥香は祈る様な気持ちで隣に座った時久を見た。そして、又してもその期待は次の時久の言葉に裏切られた。

「可能ではあるとは思うのですが、それを今ここで説明しても無駄でしょう。先ずはその依頼人に会わせて貰っても宜しいでしょうか。よく存じ上げませんが、弁護士の先生なら面会も出来るのでしょう?依頼人の話を聞いてから、この仕事を受けるか堂か判断させて下さい」

その言葉を聞いて、弁護士が頭を下げると同時に、遥香も同じく頭を下げてしまった。それは恐らく弁護士とは全く異なった心情からだった。


「どういう事ですか」弁護士が帰った後、遥香は堪えきれずに時久に詰め寄った。「なんで、依頼受けちゃったんですか?相手は殺人犯ですよ?」

「口を慎め。俺がここの主だ。依頼を受けるか堂かを決めるのは俺だ。それに未だ依頼を受けるなんて言ってないだろう。『話を聞く』と言っただけだ」今までになく、強い口調で時久が言った。

「それはそうですけど…何が気になってるんですか」

「罪を犯した償いは当然すべきだと俺も思う。ただ、単純に被害者がどういう人物かってだけだ。若しかしたら、犯罪を未然に防ぐ事が出来れば、被害者の人生を取り戻す事が出来るかもしれない。だから、俺は話を聞きに行くんだ」

「確かに…でも、それなら、態々話を聞きに行かなくても、依頼を受ければ良かったんだけどじゃないんですか?何で、態々話を聞きに行ってから決めるなんて、勿体つける様な真似…」

「犯罪の内容にも拠るからだ。もし突発的な殺人だった場合、被害者を救う事が出来るかもしれない。まあ、突発的であろうと、犯罪に変わりはないと思うが。ただ、もし依頼人が芯から腐っている人間である場合、今回の事件を未然に防げてたとしても、また別の被害者が生まれてしまう可能性が高い。そうなった場合、今回の依頼は断るしかないだろう。俺は命の選定人になるつもりもないし、その資格もないと思っているからな」

遥香は、時久の思考の深さに驚いた。あの一瞬で、そこまで考えた上で行動していたのか。この話を聞いてから思い返して見ると、タイムリープに関する弁護士の質問をはぐらかしていたのにも納得がいく。弁護士と会話をしている時から、最終的に依頼を断るかもしれない事も視野に入れて、明言を敢えて避けていたのだろう。

ふと目線を感じて、顔を上げてみると、時久が勝ち誇った様な顔をしてこちらを見ていた。無性に腹が立ってしまって、反射的に顔を逸らしてしまった。

「何か追加で、ご意見やご質問は?」

時久の顔を見ていないが、さぞかし腹が立つ顔をしているだろう事が容易に想像がついたので、そのまま顔を見ないで、遥香はかぶりを振った。


翌日、早速時久と遥香は依頼人との面会に来ていた。二人が通されたのは、刑事ドラマでよく見る透明な仕切りで区切られたあの部屋だった。先日訪れた弁護士が、時久と遥香の二人の身分を上手く偽ってくれたらしい。その為、警察官の立会いなく、依頼人との面会を行う事が出来た。タイムリープの話をするには、これは好都合だった。

「初めまして。今回は依頼頂きましてありがとうございます。私が『桶屋』の中崎と申します。そして、こちらが助手の内海です」

時久に倣って、遥香も頭を下げた。

「いえいえ、こちらこそ態々お越し下さってありがとうございます。小田俊彦と申します。どうぞよろしくお願いいたします」依頼人も恭しく頭を下げた。

「早速ですが、事件の概要をお聞かせ頂けますか?こちらの弁護士の先生に大雑把には伺っているのですが、ご本人から事件の詳細も含めて伺いたく考えております」

「勿論です。少々長くなるのですが、ご容赦ください」

小田は事件の経緯を時に苦悶の表情を浮かべながら説明した。その顔は自らの行為への懺悔とも取れたが、見え透いた芝居の様にも思え、遥香には小田の本心が判断付かなかった。

小田の話によると、事件の発端は小田が会社の金に手を付けた事だった。当時大手旅行代理店の財務部に所属していた小田は、取引先への送金と偽って自分の口座へと会社の金を送っていた。実際の取引先への送金額との差分は粉飾していたのだが、ある時上司がその粉飾を見破ってしまったのだった。しかし、上司としても、自分の部下が不正を働いたとあっては自分の評価が下がってしまうのは間違いない。そこで、不正によって生じた損失を埋め合わせる事が出来れば、今回の不正は見逃すという条件をその上司は小田に突きつけてきたのだった。

何とかして損失分を返却しようと、消費者金融からかき集められるだけ集めた小田だったが、どうしても金額が足りなかった。そんな中で、支店への出張で訪れた町で資産家がいるとの話を聞きつけた。詳しく聞くとどうやら多額の現金をタンス預金で抱えている老夫婦がいるとの事らしい。しかも、毎年七月には結婚記念旅行と称して、旅行に出掛けて留守にしているという事迄判明した。

そこで、留守の日を狙って老夫婦の家に忍び込んだところ、何故かその年には老夫婦は旅行に行っていなかった様で、家の中で夫人と遭遇。パニックになった小田は、反射的に彼女をナイフで切り付け、そのまま逃走した…

「そんなに長く逃走を続けられる訳もなく、数日経った後に警察が自分のところに来ました。そうして今に至ります」喋り終えた小田は相変わらず苦悶の表情を浮かべていた。

「ありがとうございます。経緯はよく分かりました。それで、今回の私への依頼は何でしょうか」衝撃的な話を聞いたにも関わらず、表情を一切変えることなく、時久は聞いた。

「私の犯した罪を消して欲しいんです。あの件は本当に出来心だったんです。殺すつもりなんて本当になかったんです。あなた方は過去を変える事が出来るんですよね?であれば、どうか私の罪を消してください。どうかお願いします!」

「過去を変える事が出来るかは運次第ですが。ところで、小田さんは日記をつける習慣はございますか?」

今にも泣きそう気持ちで訴える小田に対して、時久は極めて冷静に質問を繰り出していく。

「日記ですか?付ける習慣はないですが…どうしてですか?」

「いえ、そういったものがあると当時の状況がより鮮明に分かって、過去を変える方法にも繋がるのです。ただ、なければないで問題ないです。何か別の方法を考えます」

「そういう事でしたか…申し訳ございません」

「いえいえ、お気になさらず。では、何か方法を考えますので、少し時間を頂いても宜しいでしょうか。もし何か思いつきましたら、こちらの先生を通じてやり取りさせて頂くということで」

「はい!どうかどうか宜しくお願い致します」小田が再び頭を深く下げるのを見届けて、時久と遥香は部屋を出た。

「どう思う?」部屋を出るなり、時久が遥香に意見を求めた。

「嘘を付いている様には見えませんでした。ただ、『自分の罪を消してほしい』等発言がちょっとずつ自己中心的なのが気になりました。でも、逆に言うとそれ以外は気にならなかったですし、突発的な犯行だった様にも感じましたので、今回は依頼を受けてもいいのでは?」

「なるほど…若干思考の過程は異なるが、今回の依頼を受けてもいいのではないかという点については同意見だ。それに大体の方法も目星はつけた」

「え、もう?だって、さっきは『方法を考える』って言ってたじゃないですか?」

「ああ、未だ完璧って訳ではないし、何より今回も依頼人と俺達の目的は異なっているからな」

「依頼人は自分の犯行を帳消しにしたい。で、私達は被害者を救いたいって事ですね」

すると、時久は指を鳴らした。「その通りだ。それでは、その目的から考えると今最も成功確率が高くて、平易な方法はなんだ?」

「うーん、犯行の日に過去に戻って、一日中見張りをしているとかですか?」

「惜しいな。ただ、それだと一日しか過去に戻れないタイムリープの特性上、その日は犯行を諦めたとしても、それ以外の日に犯行を行わない保証がない」

「そうですよね…でも、じゃあ方法って何なんですか」

「俺が今考えているのは、過去に戻って小田の横領を告発するって事だな。それなりに小田が勤めていた会社は大企業らしいし、内部監査部に告発文を送り付ければ何らかの調査が行われるだろう。それに加えて、週刊誌や警察にもリークしておけば、ほぼ間違いなく、小田の横領は露見するだろう」

「なるほど…」

遥香は、相変わらずの時久の頭の回転の速さに舌を巻いた。小田から恨みを買う可能性はなくもないが、小田には罪を確りと償わせることも出来る。

「ということでだ。来週にでも実行すると思う。それまでに一応念の為小田が起こした事件の追加情報がないかネットで探して見てくれ。それで、何かあったら報告をよろしく頼む。それじゃ、俺は行く所があるから」

遥香は、あまりにも簡単に事が運び過ぎている事に一抹の不安を覚えながらも、走り去っていく時久の背中をただ静かに見送った。


それから三週間は経っただろうか、小田からの依頼があった事すら忘れかけていた頃、一本の電話が『桶屋』に入った。それは、例の弁護士からだった。

「お世話になります。『桶屋』さんのお電話で間違いございませんでしょうか」

「はい。そうですが、どちら様でしょうか」

「私小田様の弁護を担当していた者です。折り入ってお話をさせて頂きたい事があるのですが、どこかでお時間を頂く事可能でしょうか」

「はい、お打ち合わせは可能です。失礼ですが、どちらの小田様でしょうか」

「え、小田様をご存じないですか?あの強盗殺人犯の小田様ですよ?」

『強盗殺人』という単語を聞いた瞬間に、遥香は一気に全てを思い出した。小田からの事件の依頼、時久がどういった手法で解決したのが、が一気に遥香の頭の中に流れ込んできた。それと同時に、何故過去が改変された筈の今の世界線でも弁護士が記憶を保持しているのか、という疑問が湧いてきた。とはいえ、その疑問に答えを出せる程の時間的猶予もなかった。

「はあ、すいません。全く覚えておらず…物覚えが悪くて大変申し訳ございません。そうしましたら、お打合せの日取りは翌週末でいかがでしょうか」

我ながら上手く誤魔化す事が出来たと思った。時久に対策を練る時間の猶予を確保する為に翌週までの時間を稼げた筈だ。

そのまま遥香は、弁護士との日程調整を終えると、時久の緊急連絡先にメールを入れた。普段は『桶屋』関連の出来事は、フリーアドレスに送付する様にしていたが、緊急連先として、時久が昼に勤める会社のメールアドレスも知らされていた。時久もそのメールの内容から緊急性を感じたのだろうか、その日の内に『桶屋』の事務所で急遽話し合う事となった。

「それで、向こうは何が狙いか言ってたか?」事務所に入ってくるなり、ジャケットも脱がずに時久は言った。それだけ危機感を感じているのだろう。

「何も言ってませんでした。すいません、こちらも知らないふりを続けたので、上手く探る事が出来ず…」

「いや、それはお手柄だ。相手も初めての経験でよく分かっていないだろう。そういった状況では、相手に情報を与えない事は大原則だ。良くやった」

珍しく真正面から時久に褒められて、遥香は気恥ずかしさと共に嬉しさを感じた。だが、状況を考えると喜んでばかりではいられない。

「相手の狙いが分からないままではあるが、推論は立てる事が出来る。相手の狙いは恐らく大きく二つのパターンだろう。①何が何だか分からず、自分だけに記憶が残っている今の状況に不安を感じて電話を掛けて来たパターン、それから②何らかの要求を突きつける腹積もりで電話してきたパターンだ」

時久はソファーにドサッと腰掛けて言った。スラックスに皺が出来るかもと遥香は思ったが、口にはしなかった。今はそんな事を言っている場合ではない。

「前者であれば、そんなに問題ではないですよね?ただ、電話の雰囲気からすると、後者の可能性が高い気がしますが…」

「そうだろうな。話を聞く限り、相手は非常に落ち着いていたし、こちらが記憶がないと分かっても事務所に来る姿勢を崩さなかったという事は十中八九何らかの要求があるのだろう。さて、そうすると何が狙いかという事になるが、このボロ事務所を見て、金を要求する事は先ずないだろう。とすると、残るはこの過去を変える能力だろうな」

遥香も同感だった。時久が自ら言ったのには驚いたが、この古い事務所を見て、金銭を要求する者はいないだろう。思慮が浅い者ならいざ知らず、弁護士にまで成った人間がそこまで考えていないとは思えない。

「相手は何を理由に脅して来ると思いますか?つまり、『要求に従え、さもなくば』に続く部分です」

「そこなんだよな。確かに、今の俺は依頼の時点より過去の時点を変えてしまっているから、依頼そのものを無かった事に出来ない。つまり、今から、過去の依頼そのものを消し去る事は出来ない。だけど、何を根拠に俺を従わせる事が出来ると思っているのか…『この事実を世間に公表する』と言われても、世間が信じるとは思えないし、何か暴力を使って従わせようとするなら、初めからそうすれば良かっただけの話だ。今更感が拭えない。実際にタイムリープの力を見てから、決断したかったという事か?」

後半は時久の独り言になっていたが、遥香は又しても時久に同感だった。何が相手の狙いなのかが全く読めない。だからこそ、不気味さを感じられずにはいられなかった。

「兎に角、相手の狙いが絞り込めただけでも良しとしよう。相手の交渉のカードは妄想に近い話でもある。これ以上、深掘り無用だ。何故向こうに記憶が残っているのかは、相手との打ち合わせの時に聞き出す事にしよう。しかし、何れにしても、また抜かってしまったな…」時久は悔しそうに唇を嚙み締めた。

遥香からすると、いつもより若干弱気な時久の姿が気になった。普段の時久であれば、特に窮地になればなるほど、まるで答えを知っているかの様に自信満々な時久だったが、今日に限っては、遥香を褒めたり、悔しがる言動を包み隠さなかったりと、時久の感情の揺れ動きが見て取れた。

何か想像も及ばない事が起きるのかもしれない、そんな不吉な予感が遥香の胸を埋め尽くしていた。


約束の日に件の弁護士は、一人で『桶屋』を訪れていた。てっきり、小田と一緒に来ると身構えていた遥香は少々拍子抜けした。

「本日はご足労頂き、ありがとうございます。早速ですが、今回の背景をお話し頂けますでしょうか。こちらの内海から、お話を聞いたのですが、我々にはどうにも心当たりがなく、先ずはどういった経緯で我々の事をご存じになられたかを伺っても宜しいでしょうか」

結局、『知らないふりをして、弁護士から事情を聞き出す』というのが、時久と遥香が出した結論だった。そもそも交渉のテーブルに着かない作戦という訳だ。

「なるほど、確かに最初小田様も記憶をなくしておられた様でした。タイプリープと仰るんでしたっけ?やはり、それなりに副作用があるみたいですね。ただ、小田様もこちらをお見せしましたら、徐々に記憶が戻ってきた様でした。お二人にもこれが有効かもしれません。いかがでしょうか」

そういって、弁護士が懐から取り出したのは、一枚の紙だった。机の上に置かれ、その内容が分かるにつれて、驚愕の表情が抑えられなくなってしまった。それは、小田からこの弁護士に宛てた詳細な直筆の手紙だった。その手紙には、時久や『桶屋』の事が詳細に書かれていた。

なるほど、これを見て弁護士は記憶を取り戻したという訳か。そして、記憶を取り戻した弁護士は、小田にもこの紙を見せたのだろう。

弁護士は、驚愕する遥香の表情を見て、満足気にゆっくりと何回か頷き、「思い出して頂けた様ですね」と言った。

「正直申しますと、私も記憶を取り戻すには少々時間が掛かりました。ただ、この手紙を見つけて、全てを思い出したのです。そこからが大変でした。小田さんは、あなたに過去を変えて貰ったお陰で強盗殺人の罪ではなく、横領の罪での服役に変わっておりました。その為、私の依頼人でも無くなっていた訳です。そんな人間に会うのは、本当に骨が折れましたよ。それでも、小田さんも記憶を取り戻してくれたみたいですから、苦労した価値は十分にありました」

「それで…今回のご来訪はどういった背景で?」時久は痺れを切らした様に、本題を切り出した。もうここまで来てしまったら、知らないふりを突き通すのは不可能と判断したのかもしれない。

「ああ、そうでした。そうそう。今回お邪魔したのは、時久さんの素晴らしい能力を私共に貸して頂けないというお願いに参ったのですよ」

やはり、と遥香は思った。ここまでは想定通り。問題は、協力を拒んだ場合にどんな切り札をこの弁護士が持っているかという点だ。

「勿論、ご依頼という事でしたら、いつでもお受け致しますよ。それ相応の対価を頂いた上で」時久は冷静に躱した。

「そんな突き放す様な言い方しないで下さいよ。我々の仲じゃないですか」見え透いた愛想笑いで誤魔化し乍ら、弁護士は言う。「ただ、今の一言でお気持ちは良く分かりました。我々にただで協力するつもりはないという事ですね。そういう事でしたら、我々も無理強いはしたくはありません。もしお気持ちが変わりましたら、ご連絡をいつでも下さい。我々はいつでもオープンですので」

そう言い残すと、弁護士は立ち上がって、あっけにとられる程にあっさりと帰って行った。てっきり、何か交渉するのかと思っていただけに、逆に不気味な程であった。時久も同様の思いだったのだろうか、弁護士も返った後も、二人で暫く茫然としていたが、やがて時久が口を開いた。

「今日のところは、此方の出方を見たかったという事だろう。まあ、気にしてもしょうがない。俺たちも帰るとするか」

時久の言う通り、その日は早めに帰宅をする事としたが、引き続き遥香の胸の仲は、不安で一杯であった。


翌週、遥香の嫌な予感は的中してしまった。事の発端は、あるSNSでの投稿だった。投稿主は、所謂暴露系インフルエンサーだった。通常、そうした投稿は“飛ばし”の投稿として、真に受けられる事は少ないが、運の悪い事にそのインフルエンサーは、確りと裏取りをした上で投稿するとして、信憑性が高いとネットで評判をの珍しいタイプのインフルエンサーだった。それでも、通常であればそこまで大きな話題となる事はなかった筈だ。しかし、今回は、その投稿に名のある週刊誌も飛びついた事で大きな話題となってしまったのだ。丁度、芸能界や政財界で目ぼしいニュースがなかった事もあったのだろうが、本当に運がなかった。

そして、そうした週刊誌の記者達が次々に、小田の元を訪れて取材を行った。取材の場で、小田は“別の世界線”での犯行の詳細や“被害者”宅の詳細な間取り等、犯人でなければ知り得なかった情報を得意気に語ったらしい。

その内容を、“被害者”に確認したところ、当然の事ではあるが、“被害者”は小田との関わりを否定。小田と“被害者”の接点が見つからなかった事も相まって、俄かに、小田の話の信憑性を増したのだ。

無論、いくら信憑性が増したと言っても、世間の大半にとってはどうでもいいニュースに変わりはないのだが、そうした突飛なニュースを信じる層はいつの時代でも存在する。しかも、現在の情報社会では情報を知る母集団そのものが大きい為、信じる層の割合は変わらなくても、その絶対数は一昔前とは比べ物にならない程多い。

今回も、そうしたニュースを信じた層は、タイムリープを使って殺人犯罪の揉み消しに加担したとして、『桶屋』への非難を猛烈な勢いで開始した。どうやって調べたのかは分からないが、SNSでの攻撃や無言電話、嫌がらせの数々が『桶屋』に浴びせられたのだった。

「うーん、どうしたものかな」

時久は足を組んで、机の上に乗せながら、週刊誌を見ていた。口調こそ落ち着いているものの、その足が小刻みに揺れている事を遥香は見逃さなかった。

「そんな悠長な事言っている場合ですか?これどう収集つけるつもりなんですか?」

遥香は机の上に置かれた大量の郵便物を指差した。危険物も入っている可能性がある為、開けずに保管しているが、既に相当な量となっていた。

「そんなもんは警察に任せればいい。放っておけばいずれ世間様も飽きるさ。そんな事よりも、お偉いさん達の事の方が厄介だ」

よっこいしょ、と言って、時久は漸くテーブルから足を下ろした。

「お偉いさんって、誰の事ですか?」

「この前の軽部のおっさんみたいな奴らの事だ。この前少し話したろ?この国を動かしている様な連中がゴロゴロこの『桶屋』の顧客にいるんだよ。そして、そういう奴らは、『桶屋』に消して貰った自分達の悪事が露見するのを恐れているんだ。そいつらが『何とかしろ』と煩くてしょうがない」

「何とかって…」

「小田みたいな犯罪者が証言するのと、そういう偉いさん達が言うのとでは、信憑性に天と地ほどの差がある。それに、そもそも権力者に逆らったら『桶屋』ごと俺も消されるかもしれないしな。俺は、この騒動を何とかするしかない。つまり、あいつらに協力するしかない訳だ。上手くやられたよ

『あいつら』とは、弁護士と小田の事だろう。

「感心している場合じゃないですよ…本当にどうするんですか?」

「それを考えているんだが、名案が思い浮かばないんだ。本来は、弁護士が一番最初に依頼しに来た時に戻って、知らないふりを突き通せば良かったんだが、その過去は俺がもう変えてしまったからな…弁護士が小田に手紙を見せに行く瞬間を阻止すればいいかもしれないが、弁護士が小田に手紙を持っていった日が分からないし、そもそも弁護士の手元に手紙があったら、一度阻止したところで、また別の機会に手紙を持っていかれたらあまり意味がない。さて、どうしたものか…」

遥香は、時久が何を言っているのか分からなくなってきた。一旦、頭の整理の為に、タイムリープ前と後の時系列を書き出してみる。


〈タイムリープ前の時系列〉

①小田が横領を犯す。

②それが上司に発覚、横領分の穴埋めを画策する。

③小田が出張中に、被害者宅に強盗する事を思い付く。

④強盗決行。想定外に被害者が在宅だった為、被害者を殺害。その後、小田は逮捕。

⑤弁護士が小田からの依頼を受け、『桶屋』を訪問する。

⑥時久と遥香が、小田と面会。そもそも横領の発覚を早める事で、②以降の時系列改変を目論む。

⑦小田が弁護士へ今回の顛末を書いた直筆の手紙を送付。

⑧時久がタイムリープ実行。


〈タイムリープ後の時系列〉

①小田が横領を犯す。

②時久のタイムリープにより、小田の横領が発覚。小田は逮捕。

③タイムリープ前の手紙により、タイムリープ前の弁護士の記憶が復活。

④弁護士が小田の元を訪れ、小田の記憶も復活。

⑤弁護士が『桶屋』を訪問。

⑥弁護士と小田が、『桶屋』とタイムリープの情報をリーク。

⑦インフルエンサーや週刊誌が騒ぎ立て、小田に取材。

⑧小田が知り得ない情報を知っている事でタイムリープ説に信憑性が増す。

⑨一部の人間や、『桶屋』の顧客が騒ぎ出す。


こうして時系列を整理して見ると、時久の言う事も良く理解出来た。つまり、〈タイムリープ前〉の⑤で、依頼を断っていれば良かったが、タイムリープ後の今となっては、そもそも〈タイムリープ前〉の⑤は存在しない過去となってしまい、今からどうこうする事が出来なくなってしまったという訳か。

確かに時久の言う通り、どうすればいいのか遥香にも見当はついていなかった。だが、書出した時系列を見て、何かが引っ掛かっている感覚が拭えなかった。何かもの凄く初歩的な所で躓いている感覚が…。

「知り合いにすればいいんじゃないですか」ポロッと何かが解けた感覚に気付いた時には、遥香はそう言っていた。と同時に、遥香の頭を何かが掠めた。それが何だったのか分からないが、それは何か懐かしい感覚だった。

「どういう事だ?」

気付くと時久は前のめりになって、遥香の返答を待っていた。遥香は、自分の頭を掠めた思考の正体を解読するのを止め、慌てて元の思考に戻った。

「いえ、ただの思い付きなんですが…今の状況って、小田と“元”被害者が知り合いじゃなかったから、こんな大騒ぎになっているんですよね?何で小田が知らない筈の情報を知っているんだって。だったら、横領で小田が逮捕される前に、小田と“元”被害者の接点を作ってやればいいんじゃないですか?」

遥香は先程書いた〈タイムリープ後〉の⑧を指差した後、その指を②に滑らし、トントンと軽く叩いた。

時久は、顎に手を置いたまま、一言も発しない。遥香の案を検討しているのだろうか。やがて、指をパチンと鳴らすと、一言「悪くないのかもしれない」と呟いた。

「正直なところ、小田の横領を止めるか、横領の告発を止めるかの二択しかないと思っていた。ただ、前者は本当に止まるかの確証はないし、横領の告発を止める事は別の殺人を誘発するかもしれない。だから、思い止まっていたんだが、今君が言った観点では考えた事はなかった。非常に面白い。この方向で考えてみよう」

遥香は初めて時久に認められた様な気がした。少なくとも、『桶屋』に勤め始めてから半年が経とうとしていたが、掃除以外で給料に見合う貢献が出来たと感じたのは、これが初めてだった。

「となった所で、今度はどう小田と被害者を結び付けるかが肝心な訳だが、何かアイデアはあるか?」

遥香は首を横に振るしかなかった。実際問題、その二人を結び付ける事は相当に難易度が高い事に変わりない。その事を改めて認識して、時久に認められて高揚していた気分も一気に萎んでしまった。

「そうか。まあ、今思い付いただけだもんな…例えば、小田という人物が被害者の事を嗅ぎまわっている、という噂を流して、被害者本人にも警告するというだけでも効果はあるかもしれない。そうすれば、今の時間軸で小田の事を取材に受けた時に、被害者も小田の事を思い出して、そこまで大事にはならないか…?いや、何れにしても、ここからは俺の方で考えよう。兎も角、助かった。礼を言う」

「え?いやいや、気にしないで下さい。私も『桶屋』の社員ですから。こちらこそ、これからもどうぞよろしくお願いします」遥香は頭を下げた。またも褒められて、頬が緩むのが止められなかった。自分の感情の事ながら、喜んだり落ち込んだりと忙しいものだ。


12月19日(火) 曇り

無事に強盗殺人犯である小田に端を発した一連の騒動に終止符を打つことが出来た。過去を変える方法を、遥香が良く思いついてくれた為だ。遥香は着々と『桶屋』の業務に慣れてきている様子。

他方で、感情の起伏が大きい性格もあり、今後成功体験を積むことによって、慢心を起因とする無茶な行動に出ない様に注視する必要がある。


それから、数日もしない内に、『桶屋』の報道はぱったりと消えた。恐らく、時久が上手くタイムリープを出来たのだろう。

弁護士や小田からの接触も、騒ぎが起こる前の弁護士の訪問が有ったきり、途絶えてしまっていた。

一先ずこれで一件落着と言っていいのだろう。これで無事に『桶屋』に平穏が戻って来る筈だ。そう思って、掃除機をかけていると、時久の机から何かが落ちた様な音がした。机を少し持ち上げて掃除した為、机の上のものが滑り落ちてしまったらしい。

その“落ちたもの”は、日記帳だった。普段、時久が事件の度に書き込んでいるのを遥香は良く見ていたが、恐らく新聞と共に、過去の出来事を確認する為に使っているのだろう程度にしか遥香は思っていなかった。特に、日記帳は手書きの為、タイムリープしても記載が変わる事がないから、記録媒体として重宝しているのだろう。

普段は鍵付きの抽斗に入っている筈だったが、しまい忘れたのだろうか。中身を覗くのは、プライバシーの侵害だと思い、日記帳を開かずに机の上に戻そうとしたその時、日記帳から一枚の絵がはみ出しているのが見えた。

その絵には、公園だろうか、青空と芝を背景として、満面の笑みを浮かべている時久と、その横で同じ様に幸せそうに笑う遥香の母の姿が描かれていた。



第三章:サイセン


ずっと自分が生まれてきた意味を考えてきた。きっと人間誰しもそうなのだろうとは思う。決して自分だけが特別なのだと強弁するつもりもない。ただ、人より少し特別な能力を持って生まれてきた事は、自分の人生にとって、マイナスに働いてきた事は間違いないと時久は思う。

最初にこの能力に気付いたのは、大学生の頃だった。当時付き合っていた彼女に、時久の浮気が原因で振られた。どうしようもなく自分がダメだった事実を受け入れられず、あの時こうしておけばと後悔を繰り返す日々。そんなある日、目が覚めるとタイムリープしていた。

勿論、目が覚めて暫くは、タイムリープしている事実に気が付かなかった。漸く違和感を感じ始めたのは、携帯画面に表示されている日付が昨晩就寝した時とは違っている事に気が付いた時だ。寝ぼけた頭を必死に働かせて考えてみると、その日付は時久が浮気をした日だった事に思い至った。

それでも未だ自分がタイムリープをしているとは少しも思わなかった。携帯が壊れて間違った日付を示しているんだと思っただけで、寧ろ態々時久が振られる原因となった日を示している携帯に腹を立てたくらいだ。

ただ、携帯を開いてSNSを見ていると明らかに古い話題しか語られていない事に気が付いた。しかも、それは丁度時久が浮気をしていた時期に話題になっていたものばかりだった。

ここに於いて、漸く自分がどうやら過去をやり直しているのではないか、と時久は思い始めたのだった。やがて、母親と会話したり、新聞を読んだり、ニュースを見たりして、漸く疑念は確信に変わった。自分は過去にタイムリープしたのだと。

そうなれば話は早い。その日予定していた浮気相手との予定をキャンセルし、無事彼女との破局を免れた。

このまま、過去をやり直していけると喜び勇んだ時久だったが、結局その日一日を終え、次の日に目が覚めると元の時系列に戻っていた。またも起きてから暫くは、あれは夢だったのかと落ち込んだのだったが、別れた筈の彼女からのメッセージを布団の中で読んで、その出来事が現実だった事をはっきりと認識した。

すぐさま時久は飛び起きて、階下のリビングに居た父に昨日から今日にかけての奇妙な体験を話した。冷静に考えれば、可笑しな事を自分が言っている事は理解出来たが、誰かに話さないではいられなかったのだった。

ところが父からの反応は、時久の考えていたものとは全く異なっていた。てっきり、信じてもらえないかとばかり思っていたのだが、「とうとうこの時が来たか」と父は呟いたのだ。

「『とうとう』ってどういう事だよ。この事知っていたのかよ」

「まあ、慌てるな。これから全部説明してやるから、先ずは出掛ける支度をしてこい」色をなして言う時久に向かって、そう一方的に父は言い放った。

訳が分からないまま、電車に揺られて時久が連れて来られた場所が、『桶屋』と名のついたボロ事務所であった。

鍵を開けてその中に入っていった父に続くと、あまりの埃の多さに時久は思わず咳込んでしまった。かなり不衛生な環境なのだが、父は慣れている様で、埃を気にする事もなく、事務所内に置かれたソファーに座った。漸く咳が落ち着いた時久もそれに続いて、丁度父の正面に来る様にソファーに腰掛けた。

思えば、父とこうして向き合うのは、久しぶりの様な気がした。一緒に住んではいるが、時久が思春期に入って以降、会話の頻度も減り、最近では顔を合わす事もなくなってしまった。久しぶりの父の姿は、時久の記憶にあるよりも大分小さくなっている様に思えた。

「さてと、先ずはどこから話そうか。ここには来た事が有ったか?」

父の問い掛けに、時久はゆっくりと首を横に振った。「そうか」と父は呟き、そこから父は徐に語り出した。

曰く、この能力は代々受け継がれてきている能力である事。そして、この能力を使って過去を改変する仕事を行っている事、父自身もこの仕事を三十年余り続けている事。そのどれもが時久にとっては、初耳で衝撃的な事実だった。

「この仕事の後を継ぐか堂かは、お前に任せる」父は最後にこう付け加えると、質問はあるかと言う様に、時久の顔を伺った。

「こんな大事な力を俺が持っているって、なんで教えてくれなかったんだよ?」

考えてみれば、この問い掛けは非常に幼稚な物だった。能力の発現前にこの話を聞いていたところで、時久はこの話を信じられなかっただろうし、あまつさえ父親の事を頭がおかしいとすら思っていたかもしれない。そう考えれば、父親がこれまで説明して来なかった背景は良くわかる筈だったが、当時の時久はそこまで思い至る事が出来ていなかった。

「すまなかった」父はそんな事情を一切言い訳にする事なく、ただ頭を下げるだけだった。思えば、この父の実直さを時久は一番尊敬していた。

その日から、時久は『桶屋』で助手として働き始めた。最初の頃は仕事に慣れるので精一杯だった。やがて、仕事に慣れて来たと思ったら、父が病気を患って、時久が『桶屋』を継いだ。それからも、時久は我武者羅に働き詰めた。元来の性分に合っていたという事もあったのだろう。特段苦痛に思う事もなく、寧ろ充実感を覚えていたくらいだ。気が付いたら、もう十数年が経ち、いつの間にか父とは死別し、時久自身も四十路を迎えていた。

そして、今時久の目の前には、父から初めて『桶屋』の仕事を聞かされた時の時久と全く同じ表情をした遥香が目の前に座っていた。遥香の前には、常に時久が付けていた日記と、家族全員が描かれた絵が広げられている。もう言い逃れをする事は出来ないだろう。隠すつもりはなかったが、遥香に伝えられていなかったのは事実だ。さて、どう説明したものか。


「そうか。見つけたか」時久はソファーに腰を下ろしながら、努めて落ち着いた声を出した。

「『そうか』じゃないですよ。母と知り合いだったんですか?」

「そうだな。俺はお前の母親と知り合いだった…それどころか、俺達は大学生の頃に出会い、そのまま結婚した仲だ。そして、その間に授かった子がお前だ、遥香。つまり、お前の母親、お前、そして俺は家族だったんだ」

遥香は驚いた表情をした。既に全てを知った上で問い詰めてきたのとばかり思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。

「そ、それは私が時久さんの娘だっていう事ですか…?」余程動揺しているのだろうか、遥香は大分と早口になっていた。

「ああ。そうだ。君は俺の娘だよ」

遥香の反応を見て、時久は今からでもこの事実を隠し通そうとも刹那考えたが、直ぐにその考えは無意味である事に気付き、止めた。この期に及んで、無理に取り繕った所で遥香は真実を突き止める迄、止まらないだろう。

そんな事を考えていると、嗚咽の様な声が聞こえてきた。目線を上げると、遥香が号泣と言っても良い程の勢いで、涙を流していたのだった。

「…なんで言ってくれなかったの。ずっと、ずっと探してたのに…」

「いや、隠すつもりなんて…」

まさか遥香が泣くなどとは思っていなかった時久は遥香にかける言葉を失い、ただただ狼狽えるしかなかった。

時久が何も出来ないまま、三十分は経っただろうか。やがて遥香が泣き止んだ。その頃を見計らって、時久は遥香の母親との関係性から改めて説明し始めた。

「君の母親と出会ったのは、大学生の頃だった。同じサークルに所属してはいたが、彼女はいつも明るくて輪の中心にいる様な女性だった。対して、俺は隅っこの方で、いるのかいないのかも分からない様な存在だった。ところがある時、同じ作家を好きな事が分かってから、急に仲が深まった。そして、気付けば彼女と付き合う事が出来てたんだ。本当に人生分からないもんだよな。君の母親が皆からも『なんで、あんな奴と付き合うのか』って言われているのを何度も聞いたよ」

実際は、この後に時久の浮気が発覚して、一度破局するのだが、この話を実の娘にするのは憚れたので省略した。少しの後ろめたさを感じないではなかったが、誰も知らない過去を敢えて伝える事もないだろう。

「やがて、俺達二人は結婚した。そうして生まれたのが遥香、君だ」

「…どうしてお母さんと別れたの?どうして私達を捨てたの?」涙声で遥香は言う。

時久は動揺が遥香に伝わらない様に、静かに呼吸を整えた。ここからの説明が一番肝心な所だ。

「いいか、心して聞いてくれ。俺が君たちと別れる事を選んだのは、君達の命を救う為だ」

ハッと遥香が息を吞むのが分かった。

「順を追って説明しよう。先ず一番最初に俺が経験していた世界線では、お前は交通事故に遭って二十歳の若さで亡くなってしまうんだ。それを変えようと思って、俺は過去を変えにタイムリープした。すると、今度は君の母親が亡くなる運命になったんだ。だから、今度は君の母親を救う為にタイムリープした。ところが、次はまた君が命の危機に瀕した。こうして、俺は君達二人を救う為に何度も何度もタイムリープを繰り返しては失敗しているんだ。その過程で、君の母親と離婚するという選択肢も取った。それが今に至っている経緯だ」

「ちょ、ちょっと待って」遥香は理解が追い付かないと言う様に、時久を手で制した。「私とお母さんはどちらか必ず死ぬ運命って事?どうしてそんな事になってるの?」

「俺にも分からない。分かっているのは、『二人の内、どちらかを助けると、どちらかが亡くなる』というこれ迄のタイムリープの結果だけだ」

実際のところは、一番初めのタイムリープで浮気がばれたのを阻止したのが原因ではないかというのが時久の仮説だった。つまり、そのタイムリープによって、本来生まれる筈ではなかった、遥香という存在が生まれてしまった。時空がその事実を修正しようとしているのではないか、という仮説だ。ただ、この件は敢えて遥香には伝える事もなく、胸に仕舞っておいた。それを今この場で遥香に伝えても何の解決にもならない。

「そっか…でも、それで色んな謎が解けたかも」ところが、意外にもあっさりと、遥香は現実を受け止めた様にいった。

先程時久が実の父親だと知った時には号泣していたのに、自分が死ぬと分かっても動揺しないとは、時久は遥香の感情のスイッチの所在が良く分からなくなった。

「例えば、何で私がタイムリープしても記憶が残っているのか、とか。あれも私が『桶屋』の家系だからでしょ?」

「ああ、その通りだよ。少し発現が早いなとも思ったが、俺も大学生の頃に能力に目覚めたからな」

「それから、この前事故から私の事を守ってくれたでしょ?あれも未来を知っていたから、私を守る為にやってくれたんでしょ?…それに一番最初の依頼の時も、私の携帯電話の番号何故か知ってたのも、別の世界線で知ってからって事でしょ?」次々と疑問点を解消していく娘を見て、母親譲りの頭の回転の速さに時久は心の中で感嘆した。どれも遥香が言う通りだった。

「それで、これからどうするの?」

「どうするもこうするも、これまで通りだよ。俺は可能な限り、君を守っていく。それに尽きるよ」時久はこう言い切った。事実時久にはこの方法しか考えられなかった。

すると、遥香は突然にっこりと笑った。そして、「私、暫くお休み貰ってもいい?」と言ったのだった。

「元々私が『桶屋』で働き始めたのは、時久さんに学費の肩代わりをしてもらってたからって事だったけど、実の親子だったって分かった今、そこまで気を遣う必要もないよね?だから、少しの間お休み頂戴?私やりたい事が出来たの」

「何言ってるんだ。さっきの話聞いてなかったのか?これまでのタイムリープ通りの順番だとすると、次は君が危ないんだぞ。そんな状況で、お前の事を自由にさせられる訳ないだろう」

「だからこそよ。残り少ないかもしれない自分の人生に悔いが残らない様にしたいの。お願い」

そう言って手を合わせる遥香の目の奥には、真剣な眼差しが宿っていた。正直、遥香の申し出は時久には承服し難いものだった。出来る事なら、止めたい所だが、遥香の母親そっくりの頑固さも、時久は良く知っていた。

「分かったよ。どうせ止めても聞かないだろ?ただ、絶対に危ない事には首を突っ込まないでくれよ。これだけは約束してくれ」時久がそう言うと、遥香は笑顔で頷いた。

我ながら娘には甘いんだなと時久も自嘲気味に笑った。それでもこの時にはまた陰から遥香の事を見守ればいいかと高を括っていた。時久が元気な遥香の姿を見るのは、これが最後になるとは思わずに。


三カ月後、すっかり冬が開けて、吹き荒れる風の暖かさで季節の変わり目を感じられてきた頃、遥香の母親が『桶屋』を訪れた。

「久しぶりね。元気だった?」遥香の母親は、ソファーに腰かけて言った。肩には薄手のカーディガンを羽織っていた。

「ああ、元気だったよ。そっちは大変だったな」時久も向かい合う形で、ソファーに座った。

この一週間前に遥香の葬儀が行なわれていた。遥香は夜の帰宅時に酔っ払い同士の喧嘩に巻き込まれ、駅の階段を踏み外して命を落としたのだった。

その知らせを受け取った時久は、一晩中慟哭した。ただ、それから一週間以上が経過し、何とか立ち直り、遥香が死を迎える過去を変えようと決意を新たにした時、遥香の母親から会いたいと連絡が入ったのだ。

「しかし、ここも全く変わってないわね。『なんでも相談所』だっけ?今もお客さんは来てるの?」

「まあ、ぼちぼちってところだな。あまり繫盛しても嬉しくない稼業でもあるから、それくらいが丁度いいんだ」

彼女は以前この『桶屋』を訪れていた事があった。彼女と時久が夫婦の関係にあった頃の話だ。それでも、全てを説明する事はしていなかった為、彼女は『桶屋』の事を便利屋さんに近い存在だと認識している。

「確かに、それもそうね。人が困っている時に繁盛する商売っていうのも複雑なものね」

「それで今日はどうしたんだ?突然連絡してきて」

実の娘の葬儀を終えたばかりで、漸く気持ちの整理がついたばかりというのは、遥香の母親も時久と同じだろう。いや、一緒に暮らしていた期間の長い彼女の方が悲しみは深いに違いない。それでも敢えて事務所を訪れたのにはそれなりの理由がある筈だ。少なくとも近況報告の為だけに来た訳ではない事だけは確かだ。

「そうそう、本題を忘れてたわ。先日の遥香の葬儀が終わってから、あの子の荷物を整理していたら、こんな物が見つかったのよ」

そう言って遥香の母親が出したものは封筒だった。その表面には『時久さんへ』と書いてあったのが時久には見えた。

「あの子ったら、まるで自分の死期を予見してたかの様に、こうやって沢山の人に宛てた遺書みたいなものを沢山書いていたのよ。それでどういう訳かあなた宛ての手紙も入っていたというわけ。あなた達いつの間に知り合ってたの?」

そういえば、この世界線では、時久と遥香が何故知り合ったのか説明が付かない事に今更ながら時久は気付いた。

「ああ、偶々遥香の方から連絡があったんだよ。どうやって調べたのかは分からないが、俺が父親だという事を自力で突き止めたらしい」

あまり良い言い訳でもなかった様に思えたが、遥香の母親は特段気にする様子はなかった。

「そう…あの子も父親がいない事で色々と抱えていた苦労があったのかもしれないわね」遥香の母親はそう呟いた。

「…まあ、そんな訳で遥香に託された最後の手紙だから、大切に読んで頂戴ね。それじゃ、私は確かに渡したから」

そう言い残すと遥香の母親は、先程の封筒を机の上に置いて、そのまま事務所を出て行った。

彼女は昔から湿っぽい雰囲気が苦手な人だった。それでも、娘の死から立ち直るのにやはり一週間やそこらの時間では到底足りなかったのだろう。席から立ち上がった彼女の目には涙が浮かんでいた。


遥香の母親が去った『桶屋』の事務所に、一人残されていた時久は、遥香からの手紙を前にどうすべきかを思案していた。

勿論、実の娘である遥香からの最後の手紙なのだから、読まない訳にはいかないのだが、何が書いているのか恐ろしい気持ちもあった。

それでも、意を決して封筒の封を切って中身を確認すると、便箋が何枚も入っているのが分かった。時久はその束を手に取って、綺麗に折り畳まれている便箋を内側から開いた。中には、初めて見る娘の手書きの文字が並んでいた。


『お久しぶりです。時久さん、お元気ですか。いえ、実の父親の事を”時久さん“と呼ぶのも変な話ですね。この手紙の中では、”お父さん“と呼ばして頂く事をお許し下さい。

お父さんから真実を聞かされたあの日、私はひどく動揺してしまいました。何故なら、今まで自分を捨てたと思い込んでいた父親が目の前に居るのだと突然告げられたからです。

私は自分が愛されていなかったのだ、と思い込んで育ってきました。それでもお母さんがいてくれたから良かったと思っていましたが、やはり父親からの愛にも飢えていたんだと思います。お父さんが父親だったと分かり、その能力も受け継ぐ事が出来たのだと分かった瞬間、嬉しさを抑える事が出来ませんでした。それがあの時の涙に繋がったのだと思います。困らせてしまってごめんなさい。

そして、同時に自分の運命も受け入れざるを得ない事にも気が付きました。この手紙をお父さんが読んでいるという事は、私はもうこの世にはいないという事でしょう。ただ、その事をどうか悲しまないで下さい。

私が死んでしまったという事は、私の代わりにお母さんが助かったという事です。お母さんとお父さんにもう会えなくなる事は、すごく寂しいけれど、そのおかげでお母さんが助かったなら本望です。願わくば、お母さんとお父さんだけでも仲良く一緒に暮らしてくれたら、これ以上の事はないです。

さて、私がこの手紙でどうしても伝えたい事は、この感謝の言葉だけではありません。私は真実を知った日から『桶屋』のお休みを頂いて、『桶屋』を通して知り合った人々へのインタビューを行いました。それは、自分が少なからず関わった事で、その人達の人生がどう変わったのかを最期に知りたいと思ったからです。もしかしたら、ただの自己満足にしか過ぎないのかもしれませんが、それでも自分の生きた証を残して置きたいと思っているのです。

そして、私がわざわざ手書きでこの手紙を書いているのも半分は同じ理由です。私の生きた証をお父さんがどんなにタイムリープしたとしても、消えない様にしたかったからです。ただ、もう半分の理由は、インタビューを続けていく中で、今回聞き取った内容は、私の為だけではなく、お父さんの為にも残して置きたいと思ったからです。その理由は、この手紙を最後まで読んでいただければ、きっと伝わるのではないかと期待しています。

とにかく、そう言った思いで書いておりますので、少々長くなるかもしれませんが、最後までお付き合い頂けると嬉しいです。』


ここで、一枚目の手紙は終わっていた。最初は恐る恐る目で字を追っていた時久だったが、やがて、その手紙を夢中で読み進めていた。

まさか、遥香が過去の依頼者達に態々会いに行っているとは思わなかった。相手が遥香の事を覚えているか分からない中で、会いに行くのは相当ハードルが高いのに、良くやったものだ。

二枚目以降は、どうやら各関係者とのインタビューの内容が入っているようだ。


『最初に私が会いに行ったのは、坂野さんでした。坂野さんの事、覚えていますか?私達が過去を変えた強盗殺人事件の被害者だった方です。

彼らは、毎年結婚旅行に行ってましたが、旦那が要介護者になってから、毎年の旅行には行かなくなったという話でした。

その旅行は、毎年百万円以上の費用を掛けて、世界一周をする、とても豪華なものだったそうです。ところが、今年からは旅行に行けなくなってしまった為、その費用を孤児院等で暮らす身寄りのない子供達への寄付に回しているとの事でした。

「これからは無理のない範囲で、次世代の糧となれる様な活動をしていく」と坂野さんの奥さんの方は嬉しそうに語っておられましたよ。

坂野さんご夫妻は、お父さんが過去を変えなければ、強盗殺人が原因で亡くなっておりました。そうなっていれば、当然寄付も出来なかったでしょう。そして、その寄付によって助けられていた命も結果的に救われる事もなかった筈です。そう考えると、私達は坂野さんを救っただけではなく、坂野さんの寄付によって、これからも生きていくが出来る様になった子供の人生も救ったと言えるのではないでしょうか。

それから、私は大村さんにも会いに行きました。この方は、強盗殺人犯だった小田さんの弁護士だった方です。

大村さんが事務所を訪れ、私達に協力する様に迫ってきた時、私はなんて心が醜い人間だったのかと思いました。ただ、話を聞くと、大村さんのその時の行動は、私利私欲を満たすだけの行動ではなかった様です。

大村さんは国選弁護を優先的に引き受ける弁護士でした。基本的に国選弁護人の報酬は国から支払われるので、報酬が安い事から受けたがる人はいないのですが、大村さんは『一人でも多く、正しく罪を償う事が出来れば』という思いで国選弁護を積極的に受けているそうです。

ただ、その活動の中で、弁護士としての自分の無力感を感じる事が多かった、と話していました。自分が無実だと分かっているのに、それを立証出来ないもどかしさや被害者への罪悪感に苛まれる毎日。そんなギリギリの状況で、お父さんと出会ってしまい、何としてでもこの力を手に入れたいとの思いに取りつかれて、脅す様な真似をしてしまったそうです。

その時の事は本人もひどく後悔していました。

「私が弁護を担当している人達の中には、無実の罪で投獄されてしまった人達も沢山います。そうした人達の助けになる事が出来れば、と必死だったのです。中崎さんにも謝意をお伝え下さい」というのが大村さんの言葉です。

『桶屋』に来た時の大村さんの態度は、敵意以外何も感じなかったので、どこまで本当の事を話しているのか分かりませんが、まあ、そういう見方も確かに出来るかもしれませんね』


そこで、二枚目の便箋は終わっていた。この小田の事件を思いだそうと、日記を探してみる。遥香に見つかった日記は、未来の自分がタイムリープして来た時に書いている、自分に対しての申し送り事項の様なものだ。これを見れば、どんな事件だったのか分かる様にしている。

小田の事件の頁を開くと、忽ち記憶が甦ってきた。そういえば、この事件はただの強盗殺人では終わらなかったのだった。小田と結託した弁護士に、タイムリープの事を世間に公表されてしまい、危機的状況だったのを上手く遥香の機転で切り抜けられたのだった。我が娘の成長を感じられて、得も言われぬ感情だったのを良く覚えている。

と同時に、弁護士が本心でどう思っていたのかは判断出来ないなとも思った。遥香の言う通り、『桶屋』に来た時の弁護士は誰の目から見ても好戦的な態度だった。

何れにしても、ほんの数か月しか経っていないのに、遥香が生きていた事を思い出し、懐かしい気持ちになれた。


『続いて、私が会いに行ったのは、芸能事務所の社長の軽部さんです。お父さんが軽部さんの依頼を無視してタイムリープしてしまったことを、軽部さんは覚えていらっしゃいました。どうやら、小まめに日記を書く習慣があるそうです。今後、軽部さんからの依頼を受ける時には、気を付けてくださいね。

そんな訳で、軽部さんが私の事を覚えていてくれたので、すんなりとお会いする事が出来たのですが、意外にも軽部さんは、お父さんが依頼に従わなかった事を怒ってはいませんでした。

実は、軽部さん自身もスキャンダルを起こしてしまった女性タレントの方が、本来芸能界に入るべき方ではなかったと気にしていたそうです。ただ、事務所の経営を預かる身としても、軽々に人気タレントを辞めさせる訳にもいかなかったし、何より自分が芸能界に引き入れてしまった事を責任に感じ、何とかして売れさせてあげるしか恩返しの方法がないのだとずっと思い悩んでいたみたいです。

そんな事を考えている時に、彼女がスキャンダルを起こしてしまい、何とかしてスキャンダルそのものを揉み消してしまうしかないと思い込んでいたが、結果的にはお父さんが独断で過去を変えてくれて本当に良かったと仰ってました。

また、この件でスキャンダルの渦中にいた、鈴森さんにも会いに行ってきました。

もちろん、彼女は『桶屋』のからくりには全く気付いていませんでしたので、手書きのメモは全く残していませんでした。なので、お会いするのにも非常にハードルは高かったのですが、お父さんの娘だと言ったら、喜んで会ってくれました。

鈴森さんのお父さんは若くして交通事故に遭ってしまい、植物状態になってしまっていたんですね。鈴森さんのお母さんも働き出してはいたものの、お母さんのパートだけで鈴森さんの弟も含めた家族三人の生計に加えて、鈴森さんのお父さんの治療費を捻出する事は難しい状況だった。

そんな状況で、たまたまスカウトされて、芸能界の世界に入ったというのが前の世界線での出来事だったのでしょう。それで、お父さんがタイムリープした時には、色々な支援制度やご自身の人脈を活かして、お父さんは鈴森さんに別の就職先を世話して上げたりしたんですね。

鈴森さんも、お父さんがしてくれた事に心の底から感謝していましたよ。鈴森さんはタイムリープしたお父さんと出会った後、お父さんが紹介してくれた先の一つに就職して、その職場で出会われた方とご結婚されたそうです。そして、もうお子さんもお一人生まれていらっしゃいまして、もうすぐ二人目も生まれてくる予定との事でした。

また一つ、お父さん(そして、少しだけ私)の行いが、未来に繋がる変化を生み出す事が出来た事を本当に誇らしく思えました』


このスキャンダルの件は、日記を見る迄もなく、時久ははっきりと覚えていた。常連である軽部からの依頼であった事もあるが、『桶屋』の事務所に来た時の鈴森の目が印象的だったからだ。

この世の中を恨んでいるかの様な濁った目が、整った顔の中で、浮き上がって見えていた。だからこそ、軽部の依頼に従わずに、鈴森を芸能界という呪縛から解放する事を選んだのだ。

この便箋には、写真が貼り付けてあった。そこには、スキャンダルを起こした鈴森と、優しそうな男性、それから三歳くらいだろうか、小さな男の子が写っていた。そして、鈴森のお腹は大きく膨らんでいて、柔らかく微笑んでいた。

この写真の鈴森には、以前の様な重苦しい雰囲気は感じられなかった。あの時の判断が間違っていなくて本当に良かった。時久は一人で安堵のため息を漏らした。


『それから、和馬君にも会ってきました。私が一番初めに担当させて貰った案件の小学生の男の子です。

結果的に彼の件で、タイムリープを使う事はなく、彼の記憶はそのままだったので、特段難しい事はなく、話を聞くことが出来ました。

和馬君の話を聞いても、たまに喧嘩をする事はあっても、両親の仲は引き続き良好だそうです。本当に良かったです。

そういえば、お父さんは和馬君のご両親にも会われていたんですね。そして、「もうすぐ息子さんが、夫婦でよりを戻す最後のチャンスをくれる筈だから、少しでも心残りがあるなら、よりを戻す様に決断してほしい」って後押しもしたと伺いました。今回、私も改めてご両親に会いましたが、お二人ともあの時のお父さんの後押しが本当に大きかったと仰っていました。

それから、和馬君の学童にも行ってみました。今回は、お父さんと同じ手を使って、「子供を学童に通わせるか検討したい」と噓を言って見学もさせてもらいました。意外と私くらいの年でも、母親に見えるんですね。驚きました。

その学童は和馬君の勇気ある告発があってから、確りと市の調査が入って、当時虐待に関わっていた職員は一掃されました。私が突然訪問しても、その学童の所長が過去の虐待の経緯と、それがどう改善されたかを一つ一つ丁寧に説明してくれたのが非常に印象的でした。

学童の子供達の様子も見学させて頂きましたが、子供達は皆生き生きと遊んでいて、本当に良い施設になったんだなと実感出来ました。お父さんがタイムリープを使わずに過去を変えると決めた時、もしかしたら、和馬君だけではなくて、この学童に預けられている子供達全員を助けるつもりでもあったのかなって少し深読みしてしまいます。(もしかしたら、本当にただの深読みなのかも知れないけど)

何れにしても、和馬君の一件は私を成長させてくれました。「本当に相手を考えた結果の結論なのか」「タイムリープありきでの解決策を考えてしまっていないか」と今後の人生で間違いなく、役立つ様な教訓を教えてくれました。その意味でも、お父さんには感謝したいです』


和馬の一件も、珍しくタイムリープを使わなかった事件だったので、良く覚えている。遥香は良い様に解釈してくれているが、それはただの買い被りだ。若しかしたら、遥香が時久と同じ能力に目覚めたのかもしれないと思った時久は、能力の使い方を何とか伝え様と必死だっただけだ。結果的にいい方向に転がったから良かったものの、最初からタイムリープを使っても良かった、と時久は内心では反省していた。

この他にも、子供の受験勉強をやり直させたいと嘆願しに来た母親や、裏切られた部下に復讐したいというベンチャー元社長、喧嘩した彼女とやり直したい男、病気で他界してしまった父親に最後のメッセージを伝えてほしいと言う女子高生等々、今まで様々な形で『桶屋』を通じて、遥香が関わってきた人達との対話の様子が、その便箋には事細かに綴られていた。

そして、いよいよ最後の一枚になった。気付くと事務所の窓から見える空は、真っ暗になっていた。


『ここまで長々と読んでくれてありがとう。もしかしたら、最後まで読んでくれないなんて事あるのかなと思ってたから嬉しい。

私がここまで長々と書いてきたのは、お父さんが過去を変えてきた結果、幸せになっている人たちがこんなにもいるって事を知ってもらいたかったから。

もしかしたら、お父さんは『お母さんを助けた事で、遥香が死んでしまった』『遥香には悪い事をしてしまった』って後悔しているのかもしれないけど、そんな事はないよって伝えたかったから。

今まで書いて来た人達は、お父さんのタイムリープによって救われた人達だけど、私だってその一人だからね。

もちろん、最初に自分が死ぬかもしれないと思った時は、悲しかったし、寂しかったけど、お母さんがいなくなって、一人ぼっちだった私を孤独から救ってくれたのは、間違いなくお父さんだったことを忘れないで。

お父さんは自分の事を責めて、もう一回過去を変えて、私の事を助けてくれようとするのかもしれないけれど、そんな事しなくて大丈夫だからね。私はお父さんの娘で本当に良かったし、この人生に何の悔いもないから。これからは、お母さんと私を救うんじゃなくて、自分の人生を目一杯生きてください。大好きだよ、ありがとう。

最愛の娘 遥香より』


いつの間にか、時久の目からは涙が溢れていた。まさか遥香がここまで自分の事を考えていたとは思いもしなかった。自分の娘の事ながら、時久は心から遥香の事を誇らしく思った。

それから、遥香が生きていた時の事を思い出して号泣し、一頻り落ち着いてもう一度手紙を読み直し、そしてまた堪え切れなくなって涙を流すという事を時久は一晩中繰り返した。

やがて、涙を流す事はなくなっても、気持ちの整理は到底つきそうになかった。時久の頭の中を占領しているのは、どうやったら遥香を救う事が出来るのか、その一点だけだった。

遥香が亡くなる瞬間に戻ろうとも頭を過ったが、それでは一生遥香を守り続けるしか方法が無くなる。根本的な解決には遥香が母親を救う前に戻るしかない。

そうして、遥香が『母を助けてほしい』と事務所に依頼に来た日に戻る事を時久は決めたのだった。

果たして、それが解決になるのかは分からない。何より、遥香も『過去を変えること』を望んではいないだろう。それでも、時久は二人を救い出す未来を諦めたくはなかった。


事務所のドアが開いた音がした。続いて、「失礼します…」というか細い声が聞こえた。時久は泣き腫らした自分の目をもう一度擦って、涙がもう流れていない事を確かめた。さて、もう一度やり直して、何とか未来を変えなくてはならない。俺の出来る事は小さな事だ。そんな事は分かっている。それでも俺は挑戦するしかない。俺はバタフライエフェクターなのだから。

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