玉蝉(ぎょくせん)
気鋭の昆虫学者が数々の難事件に挑む!
柏木祐介の事件簿、シリーズ第四話。
紫外線を見、超音波を聞き取り、かすかな匂いやフェロモンを嗅ぎつける……。
昆虫こそが最高の捜査パートナーだった!
【登場人物/レギュラー】
柏木祐介(三十四歳) 昆虫学者 東京大学応用昆虫研究室の准教授
前園弘(三十二歳) 警視庁の鑑識官
堂島健吾(四十五歳) 警視庁捜査一課の警部補
【登場人物】
綾部渡(三十六歳) 昆虫マニアの宝飾品コレクター
綾部玲香(三十四歳) 渡の妻
萩野浩二(四十歳) アンティークショップの店主
田村義則(四十五歳) 宝飾品コレクター
今野友蔵(六十歳) 銀座の貴金属店の店主
長谷川博人(三十歳) 宝飾デザイナー
剣持耕太郎(六十歳) 日本橋の老舗呉服店の店主 今野の友人
剣持幾代(五十八歳) 耕太郎の妻
宋文堅(四十歳) 中国人 宝飾品ブローカー
八月上旬の夕方、柏木祐介は八人の男女を前に、タマオシコガネの生態を紹介していた。人々が集っているのは銀座の貴金属店の五階にあるイベントホールで、宝飾品コレクター、綾部渡がこの店に特注したツタンカーメン王の胸飾りのレプリカが完成し、披露パーティが行われているところだった。綾部は昆虫マニアでもあり、胸飾りの主要なモチーフがスカラベ(ヒジリタマオシコガネ)であるため、柏木にパーティの場で講演を行って欲しいと依頼してきたのだった。
柏木は古代エジプト人が糞を転がすタマオシコガネを、太陽を運ぶ太陽神の化身と考えて神聖視したことや、ファーブルの名高い研究に基づいて、タマオシコガネが幼虫のために洋梨型の特別な糞球を作ること、その梨玉がいかに合理的な構造を持っているかといったことを語った。
「では、そろそろ最後のお話です。タマオシコガネが糞球を押してゆく方向を決めるのに、空から情報を得ていることは以前から知られていたんですが、最近スウェーデンの大学の研究者を中心としたチームが、画期的な研究結果を発表したんです。彼らはフンコロガシの脳にある方向を感知する神経細胞を詳しく調べたんですね。すると、日中に活動的な種が、昼間は太陽の、日没後は月の位置によって方向を知っているのに対して、夜間に活動的な種は、昼間はやはり太陽の位置を利用するんですが、夜になると、太陽光と月光が地球の大気で散乱して天空に広がっている、偏光パターンを利用するようになるということが判明したそうなんです。
偏光というのは振動方向に偏りのある光のことで、人間は振動方向がそろっていない自然光と偏光を見分けることができないんですが、昆虫は偏光を感知できる視細胞が複眼に含まれているおかげで、両者を見分けることが可能なんですね。ミツバチも太陽光の偏光パターンを利用して方向を把握していることが知られています。太陽や月そのものを目印にする方法は、雲などに邪魔されると使えないので、空全体に広がっている偏光パターンを利用する方が有利なわけです。
なお、月光の偏光パターンを利用していることが判明しているのは、今のところタマオシコガネくらいのものです。さらに、先程の研究者によると、月の出ない夜には、夜行性のタマオシコガネは天の川の光を利用しているのだそうです。
古代エジプト人に太陽の運搬者と見なされたタマオシコガネが、天空の様々な光を驚くほど巧妙な仕組みで活用しているというのは、実に興味深いことではないでしょうか……。私の話は以上とさせていただきます。ご清聴ありがとうございました」
柏木の話が終ると乾杯のためのシャンパンが用意され、老舗呉服店の店主、剣持耕太郎が乾杯の音頭を取った。
剣持は胸飾りの発注者である綾部を近来まれな趣味人と称え、その期待に手間暇惜しまぬ丹念な仕事で応えた店側の努力をねぎらうなど、長年商店会の会長を務めているだけあって、堂に入った話ぶりでそつなく挨拶をまとめた。
乾杯が済むと、この貴金属店の店主である今野友蔵が、部屋の中央付近に置かれた丸テーブルに歩み寄り、緋色の布の覆いを取り除けて、完成した二つの胸飾りを披露した。スカラベをモチーフとした胸飾りは、ツタンカーメン王の墓からかなりの数が発見されているが、今回レプリカが作られたのは特によく知られているものだった。
一つ目はスカラベがリビアングラスという、隕石の衝突で出来たとも言われている黄色味を帯びた天然のガラスで作られたもので、二つ目のほうは、藍青色の鉱石、ラピスラズリで作られたスカラベが、橙色のカーネリアンで表された太陽を掲げていた。
どちらのスカラベも鳥のような翼を持っているが、その翼は金で作られた枠に、細長く切られたトルコ石やラピスラズリ、円形または三角形に切られたカーネリアンがはめ込まれて、一枚一枚の羽根が表現されているのだった。金の色は本物の胸飾りと同じように黄色味が強く、純度の高さをうかがわせた。スカラベ本体のラピスラズリも、白色と金色の斑点の散り具合まで見事にオリジナルを再現していて、先程の剣持の賛辞が単なる社交辞令ではないことを裏付けていた。胸飾りの傍らで説明役を務めている宝飾デザイナーの長谷川博人は、上野の森美術館で開催されたツタンカーメン展に通い詰めて、数十枚に上るデッサンを描いたことを人々に語った。
会場には丸テーブルが六台あり、中央の二台を囲むように配置された四台には、古代中国の蜻蛉玉や、船原古墳出土の玉虫装飾馬具のレプリカといった、綾部自慢のコレクションが並べられていた。中央のもう一台のテーブルには、オルゴールのついたアンティークの宝石箱が蓋を閉めたまま置かれていて、パーティの趣向がまだ何か残されていることを匂わせていた。
呉服店主の剣持耕太郎が妻の幾代を伴って、講演の感想を伝えようと柏木のもとにやってきた。他の男性達が夏物のジャケット姿であるのに対して、仕事柄当然とはいえ、涼しげな紗の着物を妻とともに粋に着こなしている。
「柏木先生、お忙しい中、先程は興味深いお話を有難うございました。私などは虫なんて着物の柄くらいでしか馴染みがなくなっていたんですが、考えてみれば、日本人は昔から虫の鳴き声を愛でる文化を持っていたほどなんですから、自分ももっと関心を持つべきだと気づかされました」
「虫が天の川の光を見ているなんて、本当に素敵なお話でしたわ」と幾代夫人が夫に続いて言った。夫より若干年下で、五十代半ばといったところだろうか。夫のほうは貴金属店の店主の今野とほぼ同世代のように思われた。
「虫たちは人間とはかけ離れた姿や生き方をしているので、気味悪がられる方も多くて少々心配していたんですが、そう言っていただけてほっとしました。場違いな所にお邪魔した詮があったというものです」
「そんな、柏木先生が場違いだなんてとんでもない……」
柏木は幾代夫人の言葉に、場違いな者は他にいるという含みがあるように感じたが、それが誰を指しているのかまでは察しがつかなかった。
続いてやってきたのは胸飾りの発注者で、講演の依頼者でもある綾部渡と妻の玲香だった。二人とも銀製の蜘蛛のブローチをしている。麻のジャケットの襟元につけられた渡のブローチのほうがやや小ぶりだが、デザインはまったく同じだった。渡も玲香も三十代半ばだろう。渡からは若手事業家のバイタリティーといったものは感じられず、生まれつきの資産家として、趣味に没頭する半生を送ってきたであろうことが見てとれた。
「やはり、柏木先生にお願いして正解でした。昆虫好きは妻と僕くらいのものじゃないかと思うんですが、皆お話に聞き入っていましたからね」
「あんなに面白い内容を、とてもわかりやすく説明してくださるんですもの、誰だって夢中になりますわ」と玲香が付け加えた。
「ありがとうございます。そのブローチ、蜘蛛がモチーフなんですね。アンティークですか?」
柏木は黒いドレスの胸元で涼しげな輝きを放っているブローチに目をやりながら言った。
「ええ、ヨーロッパでは蜘蛛は繫栄や幸運をもたらすとされているので、モチーフにした指輪やブローチが意外に多くて、フリーマーケットでも良いものが見つかるんです。それにしても、昆虫が紫外線を見ていることは知っていましたが、偏光まで見分けられるという話は初めてうかがいました。人間と昆虫では、見えている世界がまったく違っているんですね」
「本当にお詳しいですね。驚きました。昆虫と偏光の関係については、近年様々な興味深い研究が行われているんです。例えば、カマキリなどに寄生するハリガネムシは、成熟すると繁殖のために、寄生した昆虫の意志を操って水に飛び込ませることが以前から知られていたんですが、水の在り処をどうやって知るのかはよく分かっていませんでした。水面の反射に反応しているという説もありましたが、反射して光っているものは他にもありますからね。それについて最近、神戸大学の研究者を中心とする研究グループが、水面からの反射光に多く含まれている水平偏光にカマキリが誘引され、入水していることを突き止めたんです」
「寄生虫が寄生している相手を操るなんて、そんなことができるんですか?」
「ええ、最近では寄生虫が様々な化学物質によって宿主を操っていることが分かってきています。ハリガネムシの場合、宿主の脳を調べると、光への反応を異常にする作用があると考えられるタンパク質がいくつか見つかったんです。それらが本来は水を避けるはずの陸生の昆虫に、入水という異常行動を取らせるわけですね」
「怖いけれど、とても面白いですね……。ところで先生、そもそも水辺にいないはずのカマキリに、水中で繁殖するハリガネムシがどうやって寄生するんですか?」
「いい質問ですね。食物連鎖のおかげなんです。水中で孵化したハリガネムシの幼虫は、まずカゲロウなどの水生昆虫の幼虫に食べられます。そしてその体内で殻を作り、シストと呼ばれる休眠状態に入る。この状態だとマイナス三十度の低温にも耐えられるそうで、もちろん消化されてしまうこともありません。やがて寄生した水生昆虫が羽化してカマキリなどの陸生のより大型の昆虫に捕食され、その体内で休眠から覚めて成長するわけです」
「そしてタンパク質でカマキリを操って川に入らせる……。すごい仕組みですね」
「ええ。それで、この話だけだとハリガネムシはなんだか悪者みたいですが、先程の神戸大学の研究者が行なった別の研究によって、ハリガネムシが入水させたカマドウマ類が、渓流に棲む魚の餌としてかなりの比率を占めていることが明らかになったんです。ハリガネムシも生態系の成立に一役買っているんですね」
「あれは益虫でこれは害虫だとか、安易に決めつけてはいけないんですね。貴重なお話をありがとうございました」
玲香がそう答えた時、胸飾りの近くでデザイナーの長谷川と話し込んでいた渡が彼女を呼んだ。
「すみません、ちょっと失礼します。あの……」
玲香は一瞬ためらった後、声をひそめて付け加えた。
「あの人がつまらない謎解きを用意しているんですが、どうかお気を悪くなさらないでくださいね。先生なら簡単にお解きになれるはずですから……。ここの展示品が手がかりになります」
玲香は催促するような夫の目を気にしながらそこまで話すと、足早に柏木のもとを離れた。
「講演にそんな余興がついてくるとはね。事件の話はしないって約束だけじゃ足りなかったか……」
柏木が苦笑しながらそうつぶやいた時、南青山にあるアンティークショップの店主だという萩野浩二が話しかけてきた。
「それにしても、変わった女性ですね」
「まあ、女性としては珍しいものに関心がある、とは言えるかもしれませんね」
「あ、いや、個性的な女性、というべきでしたね」
柏木の冷淡な口調に気づくと、萩野はあわててそう言い直した。年齢は四十歳前後、ライトブルーのストライプのシアサッカージャケットのサイズが全く合っていないところを見ると、最近急激に太ったらしい。
「寄生虫や蜘蛛なんて、話題になっただけで並の女性なら身震いしそうなものなのに、目を輝かせて先生のお話を聞いているんですからね。もちろん、柏木先生のすばらしい話術があるからこそですが……。いや、決して玲香さんのことを悪く言うつもりはありません。私どものような商売を支えてくださっているのは、あのご夫妻のような、ユニーク極まりない方々なんですから……」
その時、これまで胸飾りをはじめとする展示品にほとんど関心を示さずにいた、田村義則という四十代半ばの男性が、少しいらだった様子で部屋の隅から綾部渡に声をかけた。
「綾部さん、そろそろいいんじゃないか? 皆、レプリカ見物はもう十分だと思っているよ」
「田村さんもコレクターでしてね。最近ある品物を手に入れようと、綾部さんと競り合ったらしいんですよ。まあ、売り手の方は田村さんを当て馬にして値をつり上げただけで、最初から綾部さんに売るつもりだったようなんですが……。そんなわけで、ご覧の通り、田村さんは少々ご機嫌斜めなんです」と、萩野は柏木にささやいた。
「ああ、田村さんのお目当てはこちらのほうでしたね」
綾部はそう答えると、アンティークの宝石箱の置かれたテーブルに歩み寄った。
「さて、先程スカラベについて大変興味深いお話をしていただいた昆虫学者の柏木准教授ですが、類いまれな推理力で数々の難事件を解決してこられたことでも知られています。ここでぜひその推理力の一端をうかがわせていただきたいと思うのですが、先生、いかがでしょう?」
不安そうな玲香の表情に気づいた柏木は、先日、蛍観賞会のディナーの席で、澤村翠が同じように自分を見つめていたことを思い出してかすかに微笑んだ。すでにヒントはもらっているし、わざわざ座を白けさせる必要はない。
「わかりました。何をすればいいかおっしゃってください」
「ありがとうございます。実は、こちらのジュエルボックスの中に、私が最近入手した貴重なコレクションが入っています。それが何であるかをお答えください」
スカラベの胸飾り、蜻蛉玉、玉虫装飾馬具……。昆虫が関係していることは間違いないが、それだけでは箱の中身を決定することはできない。柏木は新たな観点を求めて、展示品の置かれたテーブルを巡り始めた。
蜻蛉玉は色ガラスのビーズに他の色ガラスを溶かし付けて文様を生み出したもので、古代エジプトで製造が始まり、交易によってエジプトやメソポタミアから古代中国にもたらされた。名前はこの玉がトンボの複眼を連想させることに由来し、英語圏では単にアイビーズと呼ばれている。展示されている蜻蛉玉は二千二百年以上前の戦国時代のもので、褐色の地に、空色と白の同心円状の文様や、小さな白い点の帯が描かれたりしていて、なかなか美しい。―と同時に、その複雑な文様には、魔除けなどの呪術的な意味があったようにも思われる。
玉虫装飾馬具はその名の通り、玉虫の羽による装飾が施された馬具で、福岡県の船原古墳から出土した杏葉という、馬の尾から鞍にかけ渡す紐につける飾り金具を忠実に再現したものだった。杏葉という名は、丸みを帯びた形が杏の葉に似ているところからで、幅は十センチ程、植物の葉の文様を透かし彫りにしたハート型の金銅板と土台の鉄板の間に、二十枚の玉虫の羽が敷き詰められている。
綾部はさらに、韓国の新羅時代の古墳から出土した玉虫装飾の鞍のレプリカも作らせる予定だということだった。
それにしても、玉虫の美しさはやはり格別だと、柏木は杏葉を見つめながら考えた。生まれて初めてヤマトタマムシを捕まえた日のことは、今でも鮮明に覚えている。小学五年生の夏休みに飯田市の親戚の家を訪れていた時、三つ年上の従兄から、近くの雑木林に玉虫がいることを教えられたのだった。全身を金属光沢に覆われた、緑と赤の帯のあるこの大型の昆虫が夏の日差しに輝く姿は、生き物というより精巧な宝石細工のようで、目眩のしそうな胸の高鳴りとともに、自分がこのように美しいものを手にして良いのだろうかという畏怖の念さえも抱かせた。
古代人も彼と同様にこの虫に魅せられ、神聖な仏像を納める厨子や、権力を象徴する馬具にその羽で装飾を施したのだった。様々な古墳から出土しているのだから、装飾馬具の中でも特に貴重なものだったのだろう。
「あ、そうか!」
柏木は小さく声をあげると、晴れやかな笑顔を浮かべた。
「綾部さん、多分わかったと思います。答えるのが僕であることを想定して、きちんと解ける謎を用意されていたんですね」と柏木は綾部渡に言った。
「もうお分かりになったんですか? さすがですね。いくら柏木先生でも、ヒントは必要だろうと思っていたんですが……」
「奥様から展示品が手がかりだというヒントをいただいていましたから。スカラベ、トンボ、玉虫、そして僕が昆虫学者ということで、その箱の中身も昆虫に関係していることはすぐに分かったんですが、第二の共通点がなかなか思い浮かびませんでした」
「しかし、もう気づかれたんですね?」
「ええ、第二の共通点は副葬品だということです」
「その通りです。それで、中身そのものもお分かりですか?」
「玉蝉だと思います」
「お見事! 正解です」
「あの、玉蝉というのはどんなものなんでしょう?」と剣持夫人が柏木に尋ねた。
「古代中国には、埋葬の際に宝玉を死者の口に含ませたり、手に握らせたりする風習がありました。そして、その口に含ませる石が蝉の形をしている場合、玉蝉と呼ばれたんです。蝉は羽化して幼虫とまったく異なった姿になることから、復活の象徴とされたんですね。玉蝉そのものは数多く出土していますが、綾部さんのコレクションは非常に地位の高い人物のもので、最上級の翡翠が使われているんでしょう」
「さすがは柏木先生、すべてお見通しだ……。では、早速ご覧いただきましょう」
綾部が箱の置かれたテーブルに近づこうとした時、突然激しい破裂音が階下で響き渡った。
「何だ?」
「パンクじゃないのか?」
困惑した人々がそのような言葉を交わしていた時、第二の破裂音が起こった。
「銃かもしれない。窓から離れて!」と萩野が叫び、女性達は慌てて夫のもとに走った。
人々はさらに破裂音が続くのかと、しばらく無言で耳をそばだてていた。だが、それ以上の物音はなく、異常な事態が生じたことを示すような人声もなかった。
やがて、萩野が意を決したように窓辺に近づいた。
「気をつけてくださいね」
不安そうに声をかける剣持夫人に笑顔で手を振って応えると、萩野は窓を開け放って慎重に路上の様子を窺った。窓が開けられた途端に、夏の日差しに晒され続けたアスファルトの熱気と夕暮れ時の喧噪とが、エアコンの効いた室内にどっと流れ込んできた。
「やっぱりパンクだったようですね。タイヤの交換中だ……。二本パンクしたようだったけれど、どうするのかな? スペアは一本しか積んでいないだろうし……」
「とにかく、物騒な事件の類いじゃなかったわけだ。綾部さん、ご開帳のやり直しをどうぞ」と、田村が綾部をうながした。
「分かりました。では改めて、こちらが二千年の時を経たと思われる玉蝉の逸品です」
綾部が誇らしげにそう言って宝石箱の蓋を開けると、オルゴールがヴィヴァルディの「春」のメロディを奏で、甘い香水の香りが辺りに漂ったが、綾部は言葉を続けることもなく呆然とその場に立ち尽くした。翡翠の玉蝉はどこに消えたのか、箱の中には何も入っていなかったのだ。
柏木からの通報を受けて、堂島警部補が鑑識官の前園と、二名の警官を伴って会場にやってきた。到着までに要した時間は三十分程で、前園は宝石箱とその周辺の指紋を採取すると、分析のために本庁に戻っていった。
事件の経緯の説明と関係者の紹介を終えたところで、柏木は堂島に改めて詫びを言った。
「すみません、堂島さんが盗難事件の担当ではないことは承知しているんですが……」
「担当部署なんて、柏木さんが気にされることじゃありませんよ。それに、私を呼び出されたのも、何か理由があってのことでしょう」
「ええ、状況を説明するだけなら、他の方でもよかったんですが、玉蝉を盗んだ犯人を捜すとなると、これまでと同じように、堂島さんや前園君と一緒の方がきっとやりやすいだろうと思ったものですから」
「現場にいらした柏木さんのお知恵を拝借できるのは心強い限りだ。それで、何か気になっておられることはありますか?」
「やはり、まず必要なのは共犯者に関する検証でしょうか」
「そうですね。例の破裂音が偶然のはずがない。スマートホンのメール機能か何かで、タイミングを計っていたんでしょう。そして、二度の破裂音で来場者の気がそれたすきに玉蝉を盗んだ」
「共犯者がいたということは、犯人が事前に、今日ここで玉蝉が披露されることを知っていたことになりますね」
「ええ。犯人たちが周到に計画を練っていたことは間違いありません。ちなみに、破裂音の直後に乗用車が一台、このビルの前に停車してタイヤの点検をしていたことが、近所の住民の証言で確認できています」
柏木はアンティークコレクターの田村に声をかけた。
「田村さん、先程のご様子では、スカラベの胸飾りや他の展示品にあまり関心をお持ちではありませんでしたね。それなのにわざわざこちらにいらしたのは、綾部さんと競り合ったという玉蝉をご覧になるためですよね?」
「ああ。だが、俺は玉蝉を盗んだりしていないからな」
田村は機嫌の悪さを隠そうともせずに答えた。
「玉蝉を買わないかともちかけてきたのは?」
「宋文堅というブローカーだ。訛りもあったし、中国人だろう」
「お会いになったんですか?」
「電話のやり取りだけだ」
「以前からお知り合いで?」と堂島が尋ねた。
「いいや、十日ほど前、いきなり携帯に電話してきたんだ」
「綾部さんのほうはいかがですか?」
「ああ、僕もまったく同様です」
「ただ、お会いになってはいますよね」
「ええ、新宿駅前の喫茶店で待ち合わせて二度……」
「年齢は?」
「四十歳くらいですかね。名刺も貰いましたよ。事務所の住所は、確か中野区だったと思います」
その時、堂島のスマートホンに前園からメールが届いた。堂島は素早くメールを読み終えると、柏木に言った。
「宝石箱から検出された指紋は二種類。綾部さんと、萩野さんのものです」
「そうでしょうね。先程申し上げた通り、このジュエルボックスは先日私が納品したものですから、私の指紋も当然ついているはずです」と萩野が言った。
「納品した際、何を入れるつもりだとか、綾部さんからお聞きになったりしませんでしたか?」
「いいえ、何も」
「僕の記憶でも、そうした話はしなかったと思います」と綾部が付け加えた。
「分かりました。ありがとうございます。萩野さん、これを仕入れられたのはいつ頃ですか?」と、柏木はさらに萩野に尋ねた。
「ええと、三年程前だったかな。ロンドンの骨董市で見つけたんです」
「堂島さん、ちょっと触ってみてもいいですか? 前園君にもらった手袋をつけますから」
柏木は宝石箱に目をやりながら堂島に言った。
「指紋の検出は終わっているし、構いませんよ。で、何を調べるおつもりですか?」
「犯人が玉蝉を盗んだ時、誰もオルゴールの音を聞いていないんで、どのくらいの速さで開閉すればオルゴールが鳴らないか、確かめておきたいんです」
「なるほど」
柏木は両手に使い捨ての手袋をつけると、オルゴールのネジを巻き、速度を変えながら開閉を繰り返した。
「一秒くらいで閉めてしまえば、オルゴールは鳴り出しませんね。玉蝉を盗むには十分な時間だ。綾部さん、玉蝉はどんな風にしまってあったんですか?」
「赤いベルベットの布にくるんで入れておきました」
「香水の匂いがしますね。これは綾部さんが?」
「いいえ。買った当初からこの匂いがしていました」
「分かりました……。ところで田村さん」
柏木は田村のほうに向き直って尋ねた。
「田村さんも萩野さんからアンティークをお求めになっていますか?」
「俺が、この男からアンティークを? いいや」
田村は侮蔑の念を露わにして答えた。
「そうですか、どうも。さてと、そろそろ届きそうなものなんだけれど……」
柏木がそうつぶやきながらドアを開けて廊下の様子をうかがった時、バイク便の配達員がエレベーターから降りてきた。
「いいタイミングだ」
柏木は満足そうに微笑むと、配達員に手を振った。
「何が届いたんですか?」
堂島が荷物を受け取った柏木に声をかけた。
「警察犬の代わりです」
「警察犬?」
「ええ、これです」
柏木はボール紙製の大型封筒から透明なプラスチックの筒を二本取り出すと、堂島の眼前に差し出した。筒には通気性の良いスポンジの栓がされていて、中には体長一センチ程の小さなコガネムシが一匹ずつ入っていた。頭部や前胸部は緑色で前翅は褐色、全身に金属光沢があり、小さいがなかなか美しい。
「このコガネムシ君たちに、犯人を嗅ぎ当ててもらおうというわけです」
柏木は筒を軽く振って見せながらそう言うと、いく分困惑した表情の堂島に笑いかけた。
柏木は貴金属店の店主、今野に新たな丸テーブルとハサミ、そして数枚の紙を用意して欲しいと頼んだ。程なく準備が整うと、柏木は科学の公開実験の講師を務めているかのような口調で、これから行おうとしていることを人々に説明した。
「さて皆さん、犯人は二度繰り返された破裂音に我々が気を取られているすきに、まんまと玉蝉を盗み出したわけでした。ここで注目したいのは、犯人が布にくるまれた状態の玉蝉を盗んだことです。お気づきになられていると思いますが、この箱はかなり強く、香水の匂いがする。玉蝉の翡翠は多孔質ではないので匂いはさほどつきませんが、布のほうにはしっかり匂いがついたはずです。そして、それを隠し持っている、あるいは隠し持っていた犯人にも、その匂いが移った可能性は高いと考えられます。そうなると、通常は警察犬の出番ということになるわけですが、ご承知の通り、私は昆虫学者です。私の大学の研究室で飼育されている昆虫の中に、警察犬の役割を果たしてくれそうな昆虫がいるので、こちらに届けてくれるように依頼しました。それがこのマメコガネです」
柏木はコガネムシがよく見えるように、二本の筒を左右に動かした。
「この昆虫は香水に含まれる植物由来の香料の匂いに、非常に強く引きつけられることが知られているんです。先ほど個別に確認させていただいたところ、香水やオーデコロンをつけていらっしゃるのは女性二人だけでした。綾部さん以外の男性五人は、もし香水の匂いがするなら、それは玉蝉を盗んだせいだということになる」
柏木の思いがけない言葉に、五人は思わず顔を見合わせた。
「そんなにうまく行くもんですかね?」
剣持耕太郎が首を傾げながらそう言うと、今野がうなずいた。
「万一間違いがあったら事だ」
「まあ、やっていただこうじゃありませんか。柏木先生は専門家なんだから」と萩野が言った。
「ありがとうございます。警察犬のような訓練を受けているわけではないので、不安に思われるかもしれませんが、誘引物質に対する反応は本能に基づくもので、非常に正確ですから心配は要りません。人間が指示したものを捜すことは不可能ですが、我々が捜したいものと彼らが求めるものが一致している限りは、警察犬に引けを取らない働きをすることができるんです」
柏木は新たに置かれた丸テーブルを囲むように椅子を五脚並べると、紙を細長く切って数字を書き込み、五枚の籤を作った。
「籤引きで座る位置を決めるので、一枚ずつ引いてください」
綾部を除く男性五人は柏木の言葉に従って順に籤を引いた。
「では次に、お座りいただく席に番号をつけます。そうだな、ここは堂島警部補にご協力願いましょう」
柏木は再び紙を切って、一から五までの数字の書かれた番号札を作ると、傍らの堂島に手渡した。
「堂島さん、これをお好きなように五つの席に置いてください」
「番号順でなくて構わないんですね?」
「ええ、ランダムに配ってください。番号を見る必要もありません」
堂島が番号札を配り終えると、柏木は五人に声をかけた。
「では、ご自分が引いた紙に書かれた番号の席にお掛けください」
五人が席につくと、柏木はプラスチックの筒を一本手に取ってコガネムシを取り出した。
「すでに申し上げた通り、このコガネムシは香水の匂いに引きつけられます。どこに向かうか、確かめてみましょう」
皆が息を飲んで見守る中、テーブルの中央に置かれたコガネムシは、萩野の席に向かって一直線に進んでいった。虫を置く方向を変えてやり直しても、コンパスの針が北を指すように、虫はくるりと萩野のほうに向き直って進んでゆくのだった。
「馬鹿な!」
萩野はすっかり動転して叫んだ。
二匹目のコガネムシを使っても、結果は同じだった。
「結論が出ましたね。萩野さんに香水の匂いがついています」
「でたらめだ。嘘っぱちだ、こんなもの!」
「しかし、専門家による実験の結果ですから」
堂島は萩野を見つめながら、冷ややかに言った。
「冗談じゃない。インチキだ、こんなこと、絶対あり得ない」
萩野はさらにわめいた。
「手袋も布も、とっくに処分したし」と柏木が言った。
「ああ、そうだ。香水の匂いなんてするはずないんだ。それをこんな……」
不意に萩野の言葉が途切れ、室内は静寂に包まれた。
やがて、柏木が穏やかな笑みを浮かべながら沈黙を破った。
「ええ、実験の結果は撤回しても構いませんよ。玉蝉を盗んだことを、ご自身が認めましたからね」
「畜生、嵌めやがったな!」
「お静かに。共犯者が宋文堅だということも、あなたが手袋に入れた玉蝉を窓から投げ落として、あの男に拾わせたことも分かっている。騒いでも無駄だ」
図星を指されて、萩野は返す言葉もなく黙り込んだ。堂島は警官二人とともにすばやく萩野に歩み寄った。
「萩野浩二さん、署まで同行願います。携帯電話はこちらの警官にお預けいただけると有難い。任意ですが、携帯を使わないようにずっと見張られているよりは気が楽だと思いますよ」
萩野は大人しく堂島の言葉に従い、警官二人に連行されて部屋を去った。
「柏木さん、萩野に目をつけられたのはいつからなんですか?」
「例の香水の匂いに気づいてからです。あの箱からはかすかに黴臭い匂いがする。香水はそれをごまかすためなんです。まともなアンティーク商ならそんなことはしないでしょう。きちんとした手入れをするはずだ」
「目先の利益のために欠陥品を売る人物だと」
「ええ。そして、宋文堅も恐らく悪徳ブローカーです。玉蝉の一級品となると、文化財クラスの古墳からの盗掘品でしょう」
「類は友を呼ぶってわけだ」
「さっき萩野は口を滑らせて、田村さんが玉蝉の値段をつり上げるための当て馬にされたと言っていたんですが、田村さんは萩野を嫌っていて、不首尾に終わった取り引きの話なんてするはずがない。ということは、玉蝉のことは宋から聞いたことになる。もしかすると逆に、玉蝉を誰に売りつければいいか、宋が萩野に相談を持ちかけたのかもしれませんね。いずれにしても、綾部さんが玉蝉を手に入れたと知って、納品した宝石箱に何を入れるつもりか察しがついたんでしょう」
「そして、宋と組んで玉蝉を盗む計画を練った……」
「ええ」
「そうそう、綾部さん」
堂島は綾部の方を振り返って声をかけた。
「宋の住所と、もし名刺に古物商の許可番号が記載されていたら、それもご連絡ください。古物商は許可制なので警察にリストがありますが、住所確認をしておきたいので。それから、柏木さんの言われるように玉蝉が盗掘品だとすると、中国政府から返還を求められる可能性が高い。お手元に戻ることはまずないでしょう。代金を取り戻せたら御の字くらいに思っていてください」
「やむを得ませんね。僕に人を見る目がなかったんだから……」
綾部はため息まじりに答えた。
「それにしても、あのコガネムシには驚かされましたよ。かすかな匂いしか残っていなかったはずなのに、ぴたりと嗅ぎ当てるなんて、警察犬も形なしだ」と堂島は柏木に言った。
「そのことなんですが、実を言うと、さっきの実験は萩野が言った通りインチキなんです」
「ええっ?」
思いがけない柏木の言葉に、人々は一斉に驚きの声を上げた。
「萩野が犯人であることは確信していましたが、肝心の証拠がなかった。時間がたてば玉蝉を取り戻すのは難しくなる。そこで、コガネムシを使って彼を罠にかけることにしたんです。手袋をしていたようだし、実際には、香水の匂いはついていなかったでしょう」
柏木はそう言いながら、ジャケットの内ポケットから五センチほどのスプレー付きの小瓶を取り出した。
「それは?」
「あのコガネムシ、マメコガネの性フェロモンです。彼らは未交尾の雄だから、誘引効果は絶大でした。席を決める籤は番号順に重ねておいたので、萩野が引いた番号は分かっていました。それで、このフェロモンをしみこませた紙に、彼の番号を書いて堂島さんに渡したんです」
「ああ、それで……」
そうつぶやきながら堂島が例のテーブルに目をやると、二匹目のマメコガネは萩野の三番の札の上にじっと留まったままだった。
「コガネムシ類は多くが害虫とされているので、駆除を目的に性フェロモンの合成や他の誘引物質の開発が盛んに行われているんです。何にせよ、僕がやったことは科学者の本分にもとる。皆さんご内密に願います」
「いや、柏木さん、先程の実験はインチキどころか、容疑者が真犯人かどうかを確認する、極めて有効な心理学的実験だったと言えるのかもしれません。犯人と他の人々とは、思考経路が根本的に違っている。皆は『宝石箱になんか触れていない』と考えるのに、犯人だけは、『宝石箱には触れたが、匂いはついていないはずだ』と考えるわけですね。だから、ああやって揺さぶりをかけられると、ついボロが出てしまう。まあ、あの質問は誘導尋問にあたるので、警察関係者が行なうのはご法度なんですが……」
堂島は柏木に眴せすると、愉快そうに付け加えた。
「柏木さんは民間の方だし、質問内容を警察側が示唆したわけでもない。したがって、捜査の在り方に何の問題もありません。ご協力感謝申し上げます」