六 王子の思惑 執事の困惑
ルイズ姫とエストレーン卿の賓客二人を伴って、シノンが王宮へ帰還したのは、午後も遅い時刻だった。
出迎えた執事長カグセヴァに、歓迎式典兼舞踏会の招待客名簿の予定一覧を寄こすよう言いつけ、二人を託して、シノンは部屋にいった。
侍女の用意した手洗い水で手を洗い、拭い、うがいをして、新しく着替え、髪を梳いてもらう。
長椅子にくつろぎ、一息ついたところで、ノックがあった。
「誰だ」
「わたくし。ルネーラです」
「君か。入りなさい」
ルネーラは思い詰めた眼で、まっすぐにシノンのもとへやってきた。
「説明してくださる? なぜスライエン殿にわたくしの恋人役なんて頼みましたの?」
「スライエンは隠れ蓑だ。本命はセラ殿さ。さっきね、赤い薔薇結びの祭り終了まで君の恋人役になってくれるよう、頼んだ。快諾していただけてよかった」
一瞬で、ルネーラは凍りついた。
「……こ、こい、こいびと? セラ様が、わ、わたくしの?」
「言っただろう、力になると。お膳立てはした。あとは、君しだいだ」
「シノン」
「君が、セラ殿を好きなことくらい、見ていればわかる。君は縁談を破談にしたいのだろう? 秘密の恋人がいるとスキャンダルをでっちあげるにしても、スライエンではちょっと役不足だよ。もっと信憑性のある男が必要だ。たとえば、セラ殿のような」
ルネーラは嬉しさのあまり、涙目になってシノンに抱きついた。
「ありがとう……」
「礼は早いよ。君は、セラ殿に自分の気持ちを伝えなさい」
「えっ」
「それぐらいしないでどうする。彼はあと半年で国に帰る。滅多に会えなくなるんだぞ。いま告白しないで、いつ告白するんだ」
「で、でも、セラ様には好きな方がいらっしゃって」
「それがなんだ。そんなことで君は諦めるのか。せめて、好きになってもらえるよう、努力くらいはするべきだろう」
シノンは強い口調で更に続けた。
「それから、エストレーン卿とも誠心誠意つきあうべきだ。彼のひととなりを知った上で断るならば、彼も嫌とは言うまい。セラ殿と恋仲という設定にしてあるから、おかしな無理強いもしないだろう。縁談は祭りが終わってからだ、あと一ヶ月はある。頑張りたまえ」
「……わ、わかりましたわ。わ、わたくし頑張ります」
「よし、いい返事だ。ところで、君に頼みがある。祭りの劇にも参加してくれ」
「劇? あの――いつもお祭りの最後に舞台でひらかれる劇のこと?」
「ああ。今年は王宮主催でやろうと思うんだが、役者が足りなくてね。頼めるかな」
「それは――わたくしでよければ、喜んで。あの……上手にできなかったらごめんなさい」
「下手でもいいんだ。皆で楽しめればね。ふふ、どんな配役になるか、楽しみだよ」
こくりとうなずいたルネーラが、シノンをみつめて眉根を寄せる。
「シノンは、大丈夫なの……? なにか、悩みとか、ありませんの?」
「僕?」
シノンは笑みを深めた。
長い指を唇にあて、片目を軽くつむる。
「内緒」
もの言いたげなルネーラにそれ以上を許さず、早々に追い出して、シノンは深々とため息をついた。
瞼を閉じる。
手で顔を覆う。
少し疲れているな、とは思ったが、いまは休んでいる暇などない。
午後の執務がまだ手つかずで残っているのだ。
シノンが重い腰を上げかけたそのとき、またノックがあった。
「誰だ」
「カグセヴァ・ルースエネスです。招待客名簿の予定一覧をお持ちしました」
「入りたまえ」
「失礼します」
カグセヴァは片手に名簿、片手に磁器の小さなポットとカップ、ソーサーを載せたトレイを持って現れた。
椅子の前のテーブル上に一式を置き、両手で表紙つきの名簿を差し出す。
「いま眼を通すから、そこで待っていてくれないか」
「はい。ところで、お飲み物はいかがですか。温かいワインをお持ちしましたが」
「……なぜ君はいつも僕の欲しいものがわかるんだ」
「……さあ、なぜでしょう。お淹れいたしますね」
シノンは名簿を開きながら、カグセヴァの様子を窺った。
丁寧な手つきできれいな赤紫色の液体を白いカップに注ぎ、ソーサーにのせる。
「蜂蜜入りです。お好きでしょう?」
シノンはひらいたばかりの名簿を閉じて脇にやった。
黙ってホットワインを啜る。
静謐なひととき。
次第に疲れがほぐれていく。
カグセヴァはシノンの座る長椅子の斜め後ろに控えている。
「……赤い薔薇結びの祭りの劇を、今年は王宮主催で上演することに決めた」
「さようでございますか。ではそのように予定を調整します」
「他人事じゃないぞ。君も出るんだ」
「は? それは……慎んで辞退します」
「だめだ」
「そう申されても。私に演技など無理です。第一、忙しいんです。とても」
「そんなのいつもだろう。放っておくと王宮に引きこもってばかりいる君を、表に出すにはちょうどいい機会だ。僕と共に出てもらう。これは決定事項だ。それに、君だけじゃない。他にも何名かに声をかけているが、基本的に拒否権はない。全員に参加してもらう。祭りだぞ? 少しくらいはめを外した形でもいい、皆で楽しみたいじゃないか」
返事がない。
シノンがカグセヴァを振り仰ぐと、感情を欠いた無機質な眼が正面を見つめていた。
「……その、少し怖い顔が好きだな。君は怒るとそういう眼をするよね」
灰色の瞳孔が下を向く。
冷たく覗き込まれ、ぞくりとする。
「でもなにをそんなに怒っているんだ?」
泡立つ肌。
無言のまま放たれる威圧的な気配。
微動だにしない表情。
訊ねても、答えてはくれないものと思っていた。
だが、
「……おわかりにならないと、おっしゃるのですか……?」
部屋の温度が急激にぐっと下がった気配がした。
「いや……わからなくも、ない、が……」
「王家の執事長としてお訊きします。愛人だの、婚約だの、結婚の約束だの、それも相手がティラーレ大国の王女とは――本当なのですか」
シノンは長椅子の上で後退った。
するとカグセヴァの片眼が不愉快そうに歪み、突然、彼の身体が押し迫り、両腕の合間に挟まれる恰好となった。
「お答えください。本当なのですか……?」
「……一部は合っている……というか、いや、全体的にも間違っていないというか……」
「……どうやら私を混乱させたいようですね。確か、あなたさまはつい先日の求婚騒動で、千人目の求婚者の結婚の申し込みを承知なさったと思いましたが」
「それは間違いない」
「ですが、先方の話では、それよりだいぶ以前にお約束されたそうではないですか」
「それも間違っては、いない」
カグセヴァは辛辣で冷然とした微笑を浮かべた。
「……どうしましょうか。あなたさまを少し黙らせたくなってきました……」
カグセヴァの吐息が耳にかかる。
シノンはたじろいだ。
唇が近づいてくる。
胸の動悸が激しくなる。
触れ合う――その寸前、部屋の扉が壊されんばかりの勢いで叩かれた。
こんなノックをする人間は、ひとりしかいない。
「誰だ!」
「俺だ!」
「自分の名前も名乗れないものに用はない、帰れ!」
「ケインウェイだ! 声でわかるだろうが! 入れろよ、話があるんだよッ」
カグセヴァとシノンはどちらともなく見合った。
カグセヴァの眼にはまだ剣呑な光が点滅している。
ややあって、彼は身を起こした。
「……ご無礼いたしました」
そしてシノンの後ろに下がる。
いつもの定位置。
シノンはほっとしながらもがっかりして、怒りの矛先をケインウェイに向けることにした。
「入れ!」
「なにやってたんだよ――って、なんでこいつがいるの。二人きりでなにしてたんだ!」
「する前に、いいところでおまえが邪魔したんだ。この代償は高くつくぞ。覚えていろ」
不機嫌のまま、シノンは招待客名簿を手に取り、眼を通し始めた。
「話があるならさっさと話せ。時間の無駄だ」
ケインウェイは一瞬口をきくのをためらったが、執事長の口が固いことは知っていたので、存在を無視することにした。
「さっきの話、どういうことだ。ルネーラとセラがいつから恋人になったんだ」
「そんなこと、僕が知るものか。セラ殿に訊けばよかろう」
「もう訊いた。そしたら『シノン殿がそうおっしゃるならばそうなのだろう。詳しくはシノン殿にききたまえ』って言うからおまえのところに来たんだよ。説明しろ」
「……さすがにそつのない方だな。否定もせず、肯定もせず、時間をかける手間すら省く。少しは君も見習ったらどうだ」
「話をごまかすな! あと、他にも訊きたいことがある。あのルイズって奴が愛人って本当なのか。いつから。なんで。いったいどういう関係なの。そもそも奴はなんで男のくせに姫なんだ。エストレーン卿まで一緒って、なんなんだこの状況は。絶対おかしいだろ、ええ?」
「俺も聞きたいね」
リカールが、開かれたままの扉に寄りかかる恰好で立っていた。
「お揃いだな。どうも出遅れたようだ」
無造作に入室しかけたリカールを、シノンは鋭く制した。
「待て。リカール、君を部屋には入れないよ。話には加わってもいいが、そこにいたまえ」
「……なぜ?」
「睨んでもだめだ。僕の部屋に男は入れない」
「そこの二人は男じゃないとでも?」
「カグセヴァだけは別。ケインウェイは男じゃない、弟だ」
ケインウェイが「男扱いしろよ」となんだかんだと、抗議する。
シノンは相手にせず、リカールは険しい面持ちでなにをか言いかけて、やめた。
「ならば、ここでいい。とにかく全部説明しろ。簡潔に、わかりやすく、嘘偽りなくだ」
「お断りだ」
「……なんだって?」
「凄んでみせても無駄だ。僕は、お断りだ、と言ったんだ」
シノンは平然とした態度で、手元の名簿を捲った。
「この通り、忙しい身でね。君たちにかまっていられるほど暇じゃない。訊きたいことがあると言ったな? だが、僕はただで口を割るつもりはない」
「どうしろと?」
「言うことをきいてもらう」
「なんだ」
シノンは最後の頁にサインして、名簿を閉じた。
「たいしたことじゃない。赤い薔薇結びの祭りの劇に、役者として参加してくれ」
「……それはおまえも出演するのか」
「もちろん、僕も出る」
「わかった。参加名簿に加えておけ」
「よし。男に二言はないな? ケインウェイ、君はどうする。参加か、不参加か」
「え、俺? うーん。俺に演技なんてできるかなあ」
「まあ無理だろうな。不参加ならば帰れ。君に聞かせる話はない」
「うわ、ひでぇ。参加するって、します、します。させてください」
おうように頷いて、シノンは背後のカグセヴァに便箋を取るよう目配せし、受け取るや否や、書きものをはじめた。
「では聞こうか。なにを訊きたいって?」
リカールが整然と言った。
「おまえとルイズ姫が交わした約定の正確な内容とはなんだ」
「僕が成人の儀を終えて、然るべき相手と結婚したのちに愛人として迎えるというものだ。ただし、成人の儀を過ぎても未婚である場合は正式な結婚相手として認めること。また本来の結婚相手と離別もしくは死別した場合においても次期配偶者として指名すること。だいたい、そんなところだ」
ケインウェイが声を荒げて言った。
「ちょい待て。今回の件といい、千人求婚といい、無茶苦茶だ。おまえなにを考えてるわけ?」
「幸せになるために」
シノンの答えは簡潔だった。
「ただそれだけさ」
シノンは認めたものをくるくる丸めて、カグセヴァに手渡した。
「それを母上付きの侍女のミアンサに届けてくれないか」
「承りました」
「さて、と。では話は終わったな。これで――」
「まだ話は終わっていない!」
リカールは扉を殴りつけた。
瞳からは青白い慟哭の炎が立ち上っている。
「なぜ、そんな約束をした」
「子供同士の他愛のない口約束のはずだったんだ。その口約束がいつのまにか文書化されていて、僕が同意を示した旨が記されているなんて、僕だって知らなかったくらいだ。実際、つい最近まですっかり忘れていたよ」
「だが相手は本気だった」
「だから、僕も困っている……なんて厄介なことになったんだと、これでも反省しているよ」
情けないけどね、とぼやいてシノンは誰からもそっぽを向いた。
「……私でなにかお助けできますか?」
その言葉に、シノンは気のない様子でカグセヴァを一瞥した。
「……君が? よしてくれ」
「……私では、頼りになりませんか」
「そうじゃない。僕は、君とはできる限り対等な立場でいたい。僕が王子で君が執事である以上、それはとても難しいものだけれど、だからこそ、僕を助けるのは君じゃなくていい」
シノンは憮然と唇を尖らせて、リカールを見つめた。
「僕を助けるのは、君の務めだと思うのだがね」
リカールは虚を突かれたように眼を瞠った。
「……俺が?」
「それが仕事だろ。僕の右腕なんだから。いままでだって散々僕の面倒をみてきただろう。だから、今回だけ例外で、嫌なんて言うなよ。僕は困っているんだぞ?」
シノンがふてくされ気味に睨むと、リカールは困惑した顔で額にかかる髪を掻きあげた。
「……俺に助けて欲しいのか?」
「それが君の役目だと言っているんだ。僕が助けを求めるのは君だけなんだから、君はそれに応えるべきだ」
「俺が必要か」
「必要だ。いまさらなにを言っているんだ」
リカールは扉に凭れかかっていた身体の重心を起こした。
暗く沈みきっていた顔が、みるみるうちに生気をおびてゆく。
しばらく食い入るようにシノンにまなざしを注いだあと、リカールはぽつりと呟いた。
「……それでもいい……」
「は? なんだって?」
シノンが問い質すと、やにわに、リカールは両眼に不屈の闘志を漲らせて口を切った。
「言えよ。いつものように、言え。俺に命じろ。絶対に、俺がおまえを助けてやる」
シノンは強く頷いた。
「あとを頼む、リカール」
「まかせろ。おまえのためになるならば、なにも惜しむものなどない」
そのままリカールは暇を告げた。
その足取りは確かで、自信と覚悟にみちていた。
シノンは安堵のひと息をついて、傍らのカグセヴァに視線をやった。
びくっとした。
姿勢正しく立つカグセヴァの横顔が、ひどく孤独で近寄りがたく、なにより、深く傷ついたものに見えたのだ。
いいところで、邪魔が入る。お約束ですね。
男の嫉妬、書くの大好き。読むの大好き。なぜか、女の嫉妬は可愛く感じられるので、甘さが残りますが、男の嫉妬は凄味があって、ぞくりとします。
徐々に、登場人物が絡まりはじめます。
思惑の交錯。
シノン、がんばれ。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。