五 迷惑な書状
さくさくさく、と進んでおります。
王妃付き侍女は、基本的に王妃の声が届く範囲に常に控えることが、仕事である。
その栄えある役職に就く七人の侍女のひとり、ミアンサは、この日、王の執務室の続き間に、王の侍女も含めた他三名と共に控えていた。
用があって呼び出されるまで待機する、事前に用件を察して下準備をしておく、それが主な仕事だ。
扉の向こうからは、王と王妃の声がかすかに聞こえてくる。
執事長カグセヴァは、国王カーン四世に執務室に呼び出された。
国王の執務室は、必要小道具を収める整理棚と引き蓋のついた執務机、それに肘掛椅子が一脚あるだけの、簡素だが空間にゆとりのある落ち着いた部屋である
「君は知っているのかね」
カーン四世は後ろ手を組み、忙しない様子で室内を行ったり来たりしていた。
時折執務机を振り返るのは、そこに気がかりな内容の一通の書状があるためだ。
「恐れながら、なんのことでございましょう」
カグセヴァは部屋の隅にかしこまって立っていた。
明日のメニューの確認のため厨房で献立係と料理長と三人で話を進めていたところ、至急ということで呼び出された。
来てみると、王妃までいる。
よくない兆候だな、とカグセヴァは見た。
室内はまだ散らかっていないものの、王は半分躁鬱状態で、落ち着きがまったくない。
王妃はさきほどからため息の連続である。
カーン四世とベリー王妃は仲良く同時に口をきった。
「そなた、王子が求婚を受理した相手を知っているかね」
「あなた、王子の千人目の求婚者のことをなにか知っているかしら……?」
「私が?」
「そなた、ずっと王子の傍で立ち会っていたというではないか」
カグセヴァはあらかじめ用意していた答えを丁寧に述べた。
「恐れながら、王子に固く口止めされております」
「ううむ、いや、しかし――」
「しかしながら、それがなにか?」
「困ったことになったのだ」
王はきちんと整えられた髪に指を突っ込み、もみくちゃにした。
「私がなにかお役に立てますでしょうか」
「……他言無用だぞ」
「無論でございます」
「ではそれを読むがいい」
困惑と怯えと恐慌が混じった視線を机上に走らせて、王は落ちつかなげに窓辺に立った。
カグセヴァは書状を手に取った。
東の大国ティラーレ王家の紋章を認めて、ひらく。
書状は力強い筆跡の丁寧な挨拶ではじまり、驚くべき内容と衝撃的な目的を掲げた訪問の予定が記され、意外な署名で末尾を括られていた。
「……事態があまりよく飲み込めないのですが、つまりはこういうことでしょうか。この、ルイズ・ブリックリーグ・ティラーレ姫とシノン王子がその昔愛人関係の契約を取り交わし、王子の成人の儀が終えるのを待っていたものの、このたびの求婚騒動を聞きつけて、まだ正妃が決定されていないならば、ぜひ自分も名乗りを上げたいと、そして」
迷惑かとも存じますが、とりあえずお目にかかるために近日お伺い致します。
――ルイズ・ブリックリーグ・ティラーレより、愛しのシノン王子様へ――
カグセヴァは頭がおかしくなりそうだった。
いや、落ち着け、と自らをたしなめる。
胸の奥で執事十ヶ条を唱える。
――自制、理性、我慢、辛抱、平静、達観、決断、不屈、闘志、断行。
彼の眼が、鉄壁の執事魂を取り戻して冷徹に閃いた。
王家の執事とは、王家の一切合財の面倒をみるものである。
即ち、主のために一命を賭し、宮廷が円滑に運ぶよう指揮するのが務めである。
すべての采配はそのために振るわれ、そこに私情を交えてはならない。
私情を交えてはならない。
「お訊きしてもよろしいでしょうか。この愛人契約のこと、王子はご存知なのですか」
床に座り込みぼうっと放心する王に代わって、王妃が答えた。
「契約もなにも、ただの口約束です。それも、王子が四つで、相手の姫も六つか七つになるかならないかという、年端も行かぬ子供同士の片言で――まさか本気だなんて」
王子が四つの時分は、執事教育の真最中である。
王子の遊び相手として毎日決まった時間に決まった時間だけお相手したくらいで、その頃に取り交わした約束であれば、彼がなにも知らないのはやむを得ないことだった。
「それにしても、なぜ正式な婚約ではなく愛人なのですか」
「それが、あの子ったら結婚相手はもう決まっているって言って一旦断ったのはよかったのだけれど、姫君は姫君で、じゃあ愛人でいいですなんて言い出すものだから」
王妃は当時を思い出すように遠い眼をして、かぶりを振った。
「わたくしたちも困りましたけど、あちらも困って仕方なく――」
「仕方なく、では口約束で、となったわけですか」
カグセヴァは胸の内で、やれやれ、と嘆息した。
脳裏に、端正な姿、涼しい顔で、大勢のとりまきに囲われるシノンがふと浮かぶ。
彼の唇の端が、ほんのわずかに歪む。微苦笑は、すぐに消えた。
カグセヴァは丁重に王を引き起こし、懐から取り出した鼈甲の櫛で乱れた髪を梳き、埃を払い、跪いて衣服を整えた。
「しかし、王子は愛人としての義務など果たせませんでしょう。姫君には申し訳のないことながら、しかるべき折を見て正直にお話しされてみてはいかがですか」
「それが」
と、ベリー王妃は口調を濁した。
ちらりと、王を見る。
王はもぐもぐと唇を動かしたあと、渋々口をひらいた。
「相手の姫君というのが――」
扉を一枚隔てた向こうで、ミアンサはすべてを聞いていた。
執事長、カグセヴァです。
文句なく、いいところをかっさらっています。お気に召していただければよいのですが。
王と王妃です。
二人のゆるい掛け合いがとっても楽しかったです。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。