四 招かれざる客
フロック・コートはこの時代の標準服です。
「リカール! セラ殿! ケインウェイ! 出かけるぞ、ついてきたまえ」
「招集をかけておきながら最後に現れて、なにを偉そうに」
「なにか言ったか、リカール」
「いいや。――どこに行くって?」
エントランスに揃い踏みした彼らは、ぴしりとフロック・コート姿に着替えていた。
すぐ目の前には、既に足踏み台を設置して、いつでも出発できるよう待機している二頭立ての馬車が控えている。
「ケインウェイ、タイが曲がっている」
言って、シノンは彼の襟元に無造作に手を伸ばした。
「お待ちを」
と、シノンの手を横から遮って、まっすぐに直したのはセラだった。
ケインウェイは微妙に嫌そうに顔をしかめている。
セラ・ヴァレンティーノは、隣国イスクース国の王子である。
母は三人目の妻で、五男坊、王位継承権も五番目。
王位を継ぐ可能性はほとんどなく、代り映えのしない安穏な宮廷生活に退屈し、他国への留学を思い立った。
そこで選んだのが、アリアン・ローだった。
二年の滞在許可を得て、既に一年半が過ぎ、残すところ半年ばかり。
中肉中背、全体的に細身だがひ弱な感じはしない。
身のこなしは柔らかく、隙だらけのようでいて、隙がない。
帯剣こそしていないものの、武芸のたしなみはあるのだろう。
長めの濃い灰色の髪、藍色に近い青い眼。
どこか退廃的な雰囲気が、女性たちの間で人気だった。
シノンは居並ぶ三人を眺め、恰好がついたと頷くや、早速待たせていた四人乗りの馬車に乗り込み、さきほどのリカールの問いに答えた。
「ダウジ・パンプ・ルームへ。ひとを待たせていてね」
セラが軽くからかいつつも、深い青色の眼をすっと細める。
「おやおや、あなたと逢引とは妬けますね。どこのどなたです?」
リカールはシノンを先に馬車へ乗りこませながら、憮然と言った。
「どうせまともな奴じゃあるまい」
「理由は?」
と、椅子に腰かけつつ、面白そうにシノン。
「おまえが俺たち三人を揃えて連れ歩くときは、なにかよくない企みがあるに決まっている」
シノンは否定しなかった。
ダウジ・パンプ・ルームは当世社交場でも折り紙つきの贅沢なパンプ・ルームである。
ここには常に上流階級の紳士淑女が集い、政治議論を戦わせ、諸外国の情勢を討論し、当世の流行に話題を咲かせ、恋愛ゴシップに情熱のすべてを傾ける。
中でも一番の話題といえば、シノン王子である。
一行が到着したとき、既にひとびとは敢然たる面持ちで待ち構えていた。
「あっ、シノン王子様!」
歓声が弾けて、ざあっとひとが押し寄せ、一行はあっという間に取り囲まれた。
「殿下! 千人目の求婚者とご結婚なさるって本当ですか?」
「どうしてこんなに急に! お相手はどこのどなたでどんな求婚を――」
次から次へと、千人求婚について矢継ぎ早の質問が飛び交う。
ケインウェイを筆頭にリカールもセラもシノンの防波堤となるのは毎度のことなのだが、いかんせん、今日の様相は一段と凄絶だ。
三人とも一瞬にしてもみくちゃにされ、服はよれ、帽子が飛び、ステッキがどこかへいった。
この時期にここへ来たのは間違いだった、と三人の意見が珍しく一致したそのとき、ケインウェイの背の後ろからシノンが普通に挨拶の声を上げた。
「ごきげんよう、諸君」
どんな気勢も削ぐような、余裕綽々として堂にいった態度である。
シノンは眼に笑みをたたえたまま、群衆に向けちょっと首を伸ばして言った。
「すまないが、誰か僕の帽子を知らないかな。気まぐれに飛んで行ってしまったようで――ああ、そいつだ。ありがとう、君」
シノンはシルクハットを正しい位置に戻して、すたすたとフロアを過っていく。
群衆はそれにつられてぞろぞろと動いていく。
シノンは二階へ続く階段下へと辿り着き、壁際に一列に居並ぶウェイターに合図を送った。
マントとステッキとシルクハットを預ける。
それから皆を振り返った。
「千人目の方の求婚を受けたのは、本当です。残念ながら、本人の意向により氏素性を明かせませんが。結婚話が急だったのは僕がその気になったからで他意はありません。では――」
「もうひとつだけ! 王子様はなぜその方をお選びになったのですか」
襟を正し、シノンは悪戯っぽく微笑みながら答えた。
「心が奪われて、他を選べなかった。ただそれだけのことです」
そして「約束がありますので、失礼」と、素早く身を翻し、二階の個室へと姿を消した。
そこには身なり正しい二人の紳士がシノンを待ちわびていた。
「紹介しよう。ルイズ・ブルックリーグ・ティラーレ姫とデューク・シャーマ・ライツェント。サンクルズのエストレーン卿と言った方がいいかな――殿だ」
ケインウェイとリカールとセラの眼が、点になる。
ルイズ姫は巨漢だった。
フロック・コート姿だが、窮屈そうで、どうひいきめに見ても、『姫』ではない。
背は執事長カグセヴァと同じぐらいの長身で、胸板は厚く、肩は隆々として、手足も長く、頑丈そうだ。
顔は精悍ながらもどこか慎ましく、くすんだ茶色の瞳は理知的で、肩まで届く長髪はきちんと櫛を入れ、根元で束ねてある。
「は? 姫? 誰が? え、あんたが? ばか言え。あんたのどこが姫――ぎゃっ」
極めて馬鹿正直にものを言ったケインウェイの足の甲を、シノンは思い切り踏みつけた。
悶絶するケインウェイを無視して、シノンは三人を紹介した。
「こちらはイスクース国第五王子セラ・ヴァレンティーノ殿。隣が外交大使のリカール・ガル・ストヴァジーク殿。そこでうずくまっているのが地方折衝公使のケインウェイ・クロワローア・グーゼルベルナー殿。どうぞ以後、お見知りおきください」
ひととおりの挨拶が済んだことで、着席する。
三人の給仕係により、紅茶とスコーン、ビスケット、ジャム、サンドイッチ、そして果物が盛られた籠が配られる。
茶器は名品中の名品、白と青のエンス製。
銀製品類も名品中の名品、ダンブロッド製。
茶葉は甘みと苦みのバランスが良いミーチェ産の高級茶。
テーブル上は完璧に整えられ、三人の給仕が立ち回り、深い色合いの茶を注いでゆく。
給仕係が下がった頃合いを見計らって、リカールはルイズに顔を向けた。
訝しさを隠すつもりのない眼が、同時に隣の澄まし顔のシノンにも向けられる。
「大変不躾で申し訳ありませんが、お二人はどういったご関係で……?」
ルイズは黙したまま、ティー・カップをつぶさに眺め、紅茶を一口啜った。
リカールも手元のカップを口に運ぶ。
セラとケインウェイもなんとなくこれにならった。
シノンだけが手をつけず、代わりに黙ってカップと菓子籠を宙に持ち上げた。
まさにそのとき、ルイズは言った。
「私はシノン王子の愛人なのですよ」
ケインウェイはぶほっとお茶を吹いて噎せ返った。
リカールとセラは揃ってカップの柄に指をかけたまま勢いよく席を立ち上がり、チョッキとズボンと純白の高級テーブル掛けと上着の袖に染みをつくった。
エストレーン卿は巻き添えをくった。
シノンは下がったばかりの給仕を呼びつけ、詫びを言い、後始末とおかわりと四人分の着替えを要求した。
四人が恨めしそうにルイズを睨みながら一時退席すると、ひとり自分の割り当てだけはしっかり確保したシノンは、大きな口でスコーンをぱくつきながら笑った。
「あなたもひとが悪い」
「いけないのはあなただ。実に十四年ぶりの再会だというのに、三人も男性のとりまきが一緒だなんて、私が嫉妬しないとでも思うのですか?」
「二人は従兄弟で、あとのひとりは客人で、それ以上でも以下でもない。あんな意地悪をしないでもよかったのに」
「そうなのですか? では、肝心のあなたの一番の『結婚相手』はどなたなのです」
「……さあ? この件では、僕は誰にもなにも口を割るつもりはない。知りたければ、あなたがご自分で調べるがいい」
ルイズの油断のならない眼つきがシノンを捉える。
「冷たいことだ。正直、私の国ではこの私にあなたのような口をきく者はおりませんよ」
「それは失礼。僕は誰に対してもこんな調子なもので、ご不快になられたのでしたらお詫びします。まあ徐々に慣れてください。それがお嫌でしたら、どうぞこのままお帰りを」
シノンはカップを眼の位置まで掲げ、乾杯するようなしぐさと同時に、にやりとした。
「まったく、あなたは本当につれない方だ」
「まったく、あなたは本当にしつこい方だ。いっそ、あんな昔の子供のたわごとなど忘れてくれた方が僕としてはありがたいのに」
「忘れませんよ。あなたを忘れたことなど、一度もない」
ルイズの瞳が陰りを帯びた。
すうっと、空気が物々しくなる。
「……私はあなたを奪いにきました。逃がしませんよ、シノン。私の大切な……」
折悪しく、装いも新たに戻ってきた四人がこの場面に遭遇した。
「……なにをしている」
険悪な沈黙。
ルイズとリカールが気迫を散らして睨み合う。
ケインウェイとセラもいつでも応戦の構えをみせていて、一触即発の危険な状態だった。
そこへ、シノンの叱咤が飛ぶ。
「やめなさい、くだらない。僕はエストレーン卿と話があるんだ。邪魔をするならば出て行ってもらおう」
「くだらない、だと?」
リカールの迸る怒気を、シノンはきつい口調で一蹴した。
「席に着け。それがいやなら先に帰れ」
リカールは苦渋を噛みしめながら、荒々しく椅子を引いた。
ケインウェイが口に苺のケーキを放り込みつつ、ぶつくさこぼす。
「そもそも、なんでこの面子で登場なわけ?」
「『それはそうと、なぜお二人揃っていらっしゃったのですか』だろう」
「こいつら、おまえになんの用なの」
「……君を連れてきたのは間違いだったな。まともに挨拶もできず、礼節にも欠くような奴はいらん。帰ってもいい。いや、帰れ。本当言うと、リカールとセラ殿だけでよかったのだ」
「俺はのけものか!」
「そう言うと思ったから連れてきたんだ。君も王族には間違いないからな。だが」
仲裁に入ったのは、エストレーン卿そのひとだった。
「まあまあ、せっかくご紹介に預かったのです。仲たがいなどせず、ご一緒いたしましょう」
柔和な微笑、落ち着いた物腰。
薄茶の髪と眼は優しげで、しぐさには気品がある。
名門ライツェント家の次期当主でありながら、いまだ独身。
浮いた噂がまるでないのは仁徳だろう。
エストレーン卿は会釈のあと、口をひらいた。
「このたびのことは、私がルイズ殿下にお供を願い出たのです。本来であれば、先にカーン四世国王陛下にご挨拶を申し上げねばならず、非礼のほど、弁解のしようもございません」
「君が悪いのではない。私が悪いのだ。なにぶん一刻も早くシノン王子にお目にかかりたく、返礼を待たずに来てしまったのだから。おそらくは、いま頃カーン四世国王陛下の手元にも私が訪問を希望する旨の書状が届いているはず」
「ともかく、先に僕のもとに知らせがあってよかった」
シノンはリカールに同意を促す視線を向けた。
「考えてもみろ。突然正式訪問されて、皆の前で愛人だのなんだの、あることないこと喋られても困る。いまここにこうして集い、君を呼んだわけが、わかるだろ?」
「……護衛と目付け、そして仲裁人。そんなところか」
「ご名答。さすがだな、理解が早くて助かるよ」
リカールは悪態をぐっと堪え、溜め息をついた。
「とりあえず、ルイズ姫についてはわかった。ではエストレーン卿、先にあなただけでも王宮にご挨拶にあがるべきではなかったのですか」
「おっしゃるとおりでございます。私もそのつもりでしたが、王子殿に止められまして」
「シノンが? どうして」
「いきなり王宮で三つ巴の鉢合わせでは、具合が悪かろうと思って」
「なんのことだ」
シノンは全員のカップがテーブル上にあることを確認してから言った。
「ルネーラの噂だよ。どうもお耳に入ってしまったらしい。ご存知なのでしょう?」
エストレーン卿はちょっと悲しげに眼を伏せて、「はい」と呟いた。
「なんでも……スライエン・トルートスとおっしゃる、高名な宮廷楽士殿と恋仲とか」
ケインウェイの口の端から、頬張りそこねたスコーンの切れ端がぼろっとこぼれおちる。
シノンはケインウェイの行儀の悪さをとがめるようにひと睨みしつつ、言った。
「ああ、スライエンか。でも彼は、彼女の本命ではないですよ」
エストレーン卿の顔に緊張が走る。
わずかな沈黙のあと、問い質した。
「あの……本命とおっしゃいましたが、噂の楽士殿とは別に、どなたか恋人がいらっしゃる、ということですか」
シノンは小さく頷き、まなざしを一点に据える。
それから、やや言いにくそうに言った。
「そちらの、セラ・ヴァレンティーノ殿です」
異国の王子、セラです。
彼の秘めた熱が牽引力となっていました。
自称愛人、ルイズです。
彼女(?)が実は一番王族らしいふるまいでした。
求婚者、エストレーン卿。
彼がもっとも誠実な人柄でしたね。
この小話はお気に入りのひとつです。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。