三 宮廷楽士と宮廷舞姫
スライエンのぼんやりぐあいとそれを放っておけない姉さん女房的なルカの微妙な関係。
離宮の憩いの場のひとつに、蓮池がある。
ほっそりとした糸杉に囲われた白い石畳みの庭園は、中央に蓮池、南側に簡素な佇まいの東屋があるのみ。
足を運ぶものはほとんど皆無で、ひっそりとしていた。
灰色の髪と瞳、ひょろりと背が高く、手足も長い。
フロック・コートの上着を脱いだ格好で、薄い肉付きの身体を折り曲げ、スライエン・トルートスは蓮池の淵で陰気に歌いながら池のコイとカモに餌を与えていた。
スライエンは、十三のときに故郷でシノンに出会い、その楽才を買われて宮廷に迎え入れられてから十年が経つ。
少しひとよりぼんやりした男で、そのうえ、他人との交流が苦手で人見知り。臆病で、引っ込み思案で、おまけに迷子癖がある。
「……楽しいなぁ。わあ」
間の抜けた悲鳴とともに、スライエンは池の中に転げ落ちた。
「……池の淵に座りこまれると、後ろから突き落としたくなるわよね」
と、冷めた声で呟いて有言実行したのはルカ・ブランウィスキーだった。
宮廷舞姫の称号を授かるルカは、つい先日、十七になった。
淡い金髪に淡い青の瞳。
すらっと背が高く、線は細く、年齢よりも艶っぽい。
地方の酒場でウェイトレス兼踊り手として働いていたところをシノンにスカウトされ、以降、宮廷での専属舞姫として王宮に在籍している。
スライエンは情けなさそうに顔をしかめて、手に握りしめていた餌袋を逆さに振り、空にしながら言った。
「……せめて突き落す前に予告してくれないかな。びっくりするじゃないか」
「つい勢いで押してしまったわ。ごめん、さっさと上がって来てよ。風邪をひくわ」
「風邪をひいたら、ルカに責任を取って結婚してもらうからいいよ」
「なんでそこで結婚しなきゃならないのよ。せいぜい看病くらいでしょ」
「ケチ」
「だいたいねぇ、天下のスライエン・トルートスがコイやカモを相手に切ない恋の歌を披露してどうするの。根暗にも限度ってものがあるでしょうが」
「僕は楽しいけど」
「……あんた、自分がいまどういう立場なのか、わかってないでしょう。それどころじゃないってこと知らないから、そんなに呑気にしていられるのよ」
「え、なにかあったのか」
「とにかく、上がりなさいよ。手を貸すわ」
ルカはスライエンを手招きし、持っていたハンカチで顔を拭った。
「あんた、ルネーラ様と噂になっているの、知っている?」
「……噂?」
スライエンはされるがまま、おとなしい。
「あんたとルネーラ様が恋仲だって噂が、王宮中で囁かれているわ」
「……えーと。いくらなんでも早すぎだと思う。それ、なにかの間違いじゃ……」
「ルネーラ様は男性の信望者がかなりたくさんいらっしゃる方だし、なにより王族だもの。これから身辺が騒がしくなると思うわ。気をつけなさいよ」
ルカはそっけなく、だが釘をさすだけさして、スライエンの手にハンカチを押し込みながら踵を返した。
つまみあげたドレスの裾から細く白い足首がわずかに覗き、また隠れる。
「わたしも噂をちょっと耳にしただけで詳しいことはわからないの。ただ、あんたはどうせ知らないだろうと思ったから、友達として一言だけ忠告に来たのよ。じゃあね」
「あ、ルカ」
「なによ」
「僕、君が好きだ。だから、たまにでもこうしてかまってもらえると嬉しいな」
「またそんな軽口を叩いて。やめてよ、ひとが聞いたら誤解するじゃないの」
きつく言い捨ててルカは踵を返して行ってしまった。
あいにく、スライエンは私室に不在だった。
「そんな……困ったわ。どこにいるか、わからない?」
「宮廷舞姫のルカ・ブランウィスキー様と親しいようですが、お呼びしますか?」
侍女の口調は丁寧だが、眼は好奇にみちていて、とてもではないが頼めない。
「いえ、いいわ。ありがとう。忙しいところを呼び止めてごめんなさい」
ルネーラは踵を返した。
自分で訪ねてみよう、と特別棟へ向かう。
毅然と述べたつもりでも、傍から見れば泡を食って逃げだしたように見えるだろう。
自分には度胸が足りない、とルネーラは悲しく思った。
せめてシノンの十分の一でも颯爽と振る舞えればいいのに――。
「……セラ様……」
どういうわけか、好きな相手の意中のひとというのはわかるもの。
イスクース国第五王位継承者セラ・ヴァレンティーノは、シノンに惹かれている。
相手がシノンでなければよかったのに、とルネーラはしくしくと嘆いた。
シノンが相手では、とても勝てない。
シノンは王子ではない。王女なのだ。
公には王子と公式発表されているが、王宮内部では周知の事実、暗黙の秘密、国家規模の嘘である。 真実を知る者は多くなく、が、国王と王妃の性質上、たぶんに秘密は漏れてゆく。
それでも、王家を守り、国を維持するために日夜奔走する者たちは、皆知っていても知らないふりをする。
理由は様々だろうが、その多くは、王子が王女だろうとあまり問題にならないのだろう。
実際、アリアン・ローでは男女どちらでも第一子が王位継承権を得る。
ましてやシノンは現国王カーン四世の唯一の嫡子、ただひとりの正統後継者なのだから。
「どうしてシノンは王子なの?」
一度、ルネーラは執事長カグセヴァに問い質したことがある。
あのときはきちんとした返答が返ってくるとは思わず、話してくれたことには驚いたものだ。
直系王家には、幾つもの厳重な守秘法規があり、遂行する責任がある。
その中のひとつに、“日食が起きた年に生まれた王家の子供は、性別を逆にして育てなければ早世する恐れがある。
二十の儀までは性別を天に偽ることとする“という王家特別法規があることを、このときはじめて知らされた。
なんて残酷な義務だろう、とはじめ、ルネーラは同情した。
だが、シノンはまったく苦にする様子もなく、屈託なく、日々を暮らしている。
だからこそ、普通であれば気が狂っているとしか思えないような暴挙に出ることもできたのだ。
千人求婚だなんて、あまりにもばかげている。
けれど、理由がないわけがない。
シノンは王女に戻るために、王女に戻る前に、しなければならないことがあるのだ。
それが、なんなのかわからない限り、力にもなれないのだけれど――。
でもいま問題なのは、自分の結婚だ。
好きでもない相手の妻になんて、なれない。
「なぜエストレーン卿はわたくしを選んだのかしら……?」
わからない、どうしてこんなことに。
セラ王子を好きだと気づくと同時に失恋して、自業自得だが、スライエンとのでたらめな噂が巷で囁かれ、好かれるには身に覚えのないエストレーン卿とは縁談が進められている。
八方塞りとは、このことではないのか。
「ひ、悲惨だわ……」
考え事に没頭するあまり、あやうく目当てのルカの私室を通り過ぎるところだった。
ノックする。
ややあって出てきたのは、王妃付き侍女のひとり、ミアンサだった。
「まあルネーラ様、どうなさいましたの?」
ミアンサ・ベル・リマーンは、二年前に十六で王宮に上がって以来、王妃のお気に入りの侍女だ。
蜂蜜色の甘い金髪に碧の瞳、才気闊達、小気味よいほど思ったことを口にする。
そして王宮では知らぬ者もいないほど、熱烈なシノンのファンだった。
とまどいするルネーラに、にこっと笑いかけてくる。
「とりあえず、おはいりになって。いまルカはお化粧の途中で手が離せないんですの」
と、ルネーラは強引に中へ引き込まれ、扉が閉まると同時に、すごい剣幕で迫られる。
「噂はもうお聞きになりました?」
ぎくりとする。
身を強張らせたルネーラにいかにも共感するといったふうにミアンサは頷いて、奥の鏡台へと促す。 そこで下着姿で肌の手入れをしているルカの後ろにまわり、馬の毛を使ったブラシで髪を梳きはじめる。
「ルネーラ様がおみえよ。やっぱり噂の真相が気になるみたい」
ルカが「こんな恰好のまますみません」、と断りつつ、肩で吐息する。
「違うんです。噂では『王子様の結婚のお相手は千人目の求婚者』ってことで、それが列の最後尾にいたわたしだと――」
「ええっ。噂ってシノンの方の――え、あの、あなたが“千人目の求婚者”なの?」
「列の最後尾だったのは本当です。でも千人目じゃないんです。わたしは九九九人目でした。人数を数えていた執事長がはっきりそう言いましたから、間違いないです」
「それでは肝心の千人目はいったいどなたなの?」
ルカは短くかぶりを振った。
「わかりません。いないわけではないと思うんです。これはわたしの勝手な推測ですけど、並びたいけど並べない人がいたのではないかと。例えば仕事中とか、国外視察中とか、裁判で身柄を拘束されているとか、病気とか、身体が不自由だとか」
ルネーラはブラシを動かす手を止めたミアンサと顔を見合わせ、複雑な顔で押し黙った。
確かにどれも考えられることだ。
でも、とミアンサがまた手を動かしながら言う。
「どなたが千人目にしても、なんのお披露目もないのはなぜかしら」
「それはそうですね」
「ルネーラ様、ご存じありません?」
ミアンサとルカに注目されるも、ルネーラは首をすくめるしかない。
「わたくしもなにも聞かされていないの……シノンはなんでも秘密にするから」
ルネーラの言葉に、ミアンサがぱっと反応する。
ブラシを放り出し、パチンと両手を合わせて頬を赤らめ、碧の瞳をきらきらさせてうっとりと微笑む。
「そうそう、シノン様は秘密好きな御方よね。いつもとっても謎めいているの」
「確かに、色々なことをはぐらかすのはお上手ですね。秘密もいっぱいありそうだし」
「でもそれをある日突然明かされたりして」
「大騒ぎになるんですよね。悪戯もお好きみたい」
「そこがまたシノン様の魅力よ! もしかして今回もそうなのかしら」
「それはありうるお話ですね」
ミアンサとルカが二人で額を集めて盛り上がる。
ルネーラはここに来た目的を思い出して、「あのう」と、切り出した。
「あ、あの、わたくし、お訊ねしたいことがあってこちらに伺いましたの。もしご存じだったら、スライエン殿がどちらにいるか、教えていただけないかしら」
「スライエン?」
ルカは怪訝そうに眉根を寄せたが、柱時計を一瞥して言った。
「いまの時間でしたら、まだ蓮池にいるかと思います」
「蓮池。わかりました。行ってみます、ありがとう。舞台、頑張ってくださいね」
それ以上、余計な追及をされないうちにと、ルネーラは早々に退出した。
スライエンは蓮池の東屋の椅子の上で横になり、昼寝をしていた。
ルネーラはすぐそばまで行ってから、声をかけた。
「スライエン殿」
「ぐー」
「スライエン殿」
「うーん。むにゃむにゃにゃにゃにゃ」
スライエンがごろりと寝返りを打とうとして、椅子から転げ落ちた。
「……あの、大丈夫ですか」
「うー。いてててて。はい、大丈夫です。僕、慣れているんです、こういうの」
眼元をこすりつつ、顔を上げたスライエンとまともに見合う。
「ひー。すみません。僕、すごい美人はだめです。怖いです。逃げます。さ、さようなら」
「え? ええっ。お、お待ちになって。お話があるのです、スライエン殿! わたくしはシノンの従姉妹です。ルネーラと申します」
服の裾をしっかりと握る。
スライエンはあたふた、じたばたした。
「お願いがございます。わたくしの偽りの恋人に真剣になってもらいたいのです」
「えーと、無理です」
「無理は承知です。でも、どうか協力していただきたいのです」
「でも僕、今朝早くにシノン王子に呼び出されて、あなたの恋人になるようにお願いされているんです。まだなにもしてないのに噂になっているようだし、このままあなたのお願いまできいてしまったら、すごくややこしいし……」
「どういうことですの? なぜシノンが、そんな。あなたはなんてお答えしたのですか」
「はじめ断りましたー。でも王子が、僕のすることは二つだけだというので、嫌だったけど、王子の頼みは断れないし、ご褒美もくれるって言うし、引き受けました」
「二つのお願いとはなんですか」
「ひとつは、毎晩あなたの窓辺で恋の歌を歌うことです。もうひとつは、他の人にあなたとの噂の真偽を訊かれたら逃げること。この二つです。あの、もしかして、嫌ですか。あなたが嫌でしたら、僕も嫌ですし、やめたいです。やめていいですか」
ルネーラは首を振った。
シノンの意図はわからないが、でも……。
「やめないでください。これから“赤い薔薇結びの祭り”まで、約一ヶ月の間、わたくしの恋人として、いつでもどこでも一緒にいて欲しいのです」
「無理です、無理です、無理です、無理です、無理です、死んじゃいます」
「よろしくお願いいたします」
半強制的である。
スライエンは、がっくりした。
「はー。……わかりました。その代わり、僕のお願いもきいてほしいですー」
「なんでしょう」
「えーと。僕に、絶対に断られない求婚の仕方を教えてください」
宮廷楽師、スライエンです。
彼のとぼけっぷりが書いていて楽しい要因のひとつでした。
宮廷舞姫、ルカです。
彼女の素直になれないところがかわいいなあ、とツンツンさせていました。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。