一 千人求婚、その後
幼馴染、リカール登場。
彼の嫉妬ぶりがかわいいです。
「それで結局、お相手はどこの誰だ?」
リカール・ガル・ストヴァジークは、帰国後まっさきにルーメン・ナム宮殿を訪れた。
鮮やかな緑の蓮の葉がいっぱいに浮かぶ湖に架かるグランド・ブリッジを渡り、白樺の木立が美しい石畳の小道を、二頭立ての馬車はしばらく走った。
離宮が見えてきた。
小塔を左右に備え、衛兵が守る堅固な門を通り、ボタニカル・ガーデンで馬車を降りる。
散策を目的とした道幅の広いガーデンは、いま桜が満開だった。
花吹雪の中、リカールは頭を巡らせた。
ガーデンの中でも一際にぎやかな一角に足を向ける。
それ以上探すまでもなく、求める相手はそこにいた。
凛としたフロック・コート姿(昼間の男性用正装)である。
まわりにいたとりまきに囁かれて、シノンがようやく振り向く。
「やあ、リカール」
その、どこか人を食ったような微笑み。
どうして世界一美しく見えるのか。
リカールは眼を細めた。
眩しい。正視できない。
心が音をたてて軋むのが感じられる。
時折、自分でも自分がわからなくなる……のめりこめばのめりこむほど、本気になればなるほど、近くにいたいと願えば願うほど、遠ざけられる。
距離をおかれてしまう。
それでも、近くにいたいと思う心は、どこから生まれるのだろう?
リカールは硬い表情のまま、ステッキを脇に下げ、シルクハットを脱いで一礼した。
「ただいま戻りました」
「おかえり、ウィンストーン卿。君が無事に戻ってくれて嬉しいよ」
シノンは、大きな大理石の塊を前に背面のない丸椅子に腰かけ、鑿と木槌を手にしたまま笑って言った。
周囲はひとだかりができていた。
王子の石彫作業の邪魔にならない距離をおいて、上質のサテンのシートが敷かれ、温かいお茶に冷たいワイン、クリームスコーン、チョコレートボンボン、桃とオレンジのコンポートに焼き菓子をたくさん詰めたバスケットがいくつもひろげられている。
そこに最新流行の鍔の小さな帽子を被り、陽よけの傘をさして、装いも優雅な十四、五人からなる貴族の令嬢がおしゃべりに花を咲かせている。
輪の外には夜の芝居やオペラ、舞踏会、夜会、競馬、賭博などに同行するパートナーを見つけるために集まった紳士諸君が群れ、更に背後には無数の従僕が折り目正しく控えている。
いつもの光景だった。
シノンのまわりには、ひとが絶えることはない。
「ハーケンフックはどうだった?」
「相変わらずだな。どうも、美意識に欠ける」
「芸術を文化に昇華するまでには時間がかかるものさ。それで? 商業権の期間延長は受け入れてもらえたのか」
「ああ、勿論だ」
「よくやった。乾杯しよう。まったく、君の働きにはいつも感心させられるな」
リカールは肩を竦めて、給仕係から差し出されたグラスを受け取り、注いでもらった。
「乾杯」
優雅なしぐさでグラスをちょっと持ち上げる。
「これでまた一歩、前進だな。ありがとう、リカール」
声には敬意と感謝が込められていて、向けられた瞳ははっとするほど美しいものだった。
国の未来を、民の未来を思うゆえの輝き――この輝きの前では自分の苦労などかすんでしまう。
また次も力を尽くそうと、力が漲ってくるのがわかる。
アリアン・ローは世界に誇る芸術大国である。
絵画・工芸・建築・彫刻・音楽・文学・演劇・舞踊・そして料理――これらの分野において、歴史に冠する第一人者と称される者が揃っていた。
栄光は次代に受け継がれ、伝統はそのままに、新しく進化を遂げ、更なる向上を目指し、技術は磨かれ、あらゆる感性は自由に延ばされ、結果、常に最高の品質のものが供給される。
流行はアリアン・ローから生まれ、アリアン・ローに帰る。
そのアリアン・ローにおいても比類なき洗練された都、コートダラーズ。
ここに、王宮がある。
リカールの仕事は主に外交だ。
王弟を父に持つ彼は、シノンより三つ年上で、近しい縁戚関係にある。
幼馴染で年も近いことから、すべての分野において時間を共有する子供時代を経ていた。
そのためか、互いにまったく遠慮のない間柄だった。
ほんの少し前までは。
「詳細は文書で提出する。とりあえず、報告は以上だ」
リカールは声の調子を切り替えた。
ここで、冒頭のセリフに続く。
「おまえ、結婚宣言を出したって?」
「へぇ、耳が早いね」
「否応なしに耳に入る」
リカールは険しい顔で吐き捨てるように続けた。
「国中がおまえの噂でもちきりだぞ! なんの条件もなく千人の求婚者を募集して、千人以上が集まり、千人までで打ち切って、九九九人を振ったって?」
「まあね。千人分千回千通りの求婚はさすがに壮絶だったな。最後にはくらくらしたよ」
「あほう。聞いている俺の方がくらくらする。なんだって急にそんなことを言い出した」
今日はもう作業にならないとみて、シノンは工具を置き、手袋を脱いだ。
「不意に独り身の寂しさがこたえたのさ。急に、どうしても、結婚したくなった。ところが僕には恋人も婚約者もいない。そこでやむなく、公募に踏み切ったというわけさ」
そんなでたらめな理由でこんな騒動を起こすわけがない。
とはいえ、のらりくらりとしたこの態度をみると、真相を話すつもりはないようだ。
「で、選んだわけか」
シノンは返答の代わりに含み笑いを浮かべた。
リカールは頬筋を引きつらせ、悔しげに拳を握った。
「どうして俺が留守の間に」
「君がいたら君も僕に求婚を?」
リカールの明灰色の眼が暗く陰る。
いつの間にか一切のおしゃべりが中断され、皆の注意がこちらへ向けられている。
興味津々たる視線の嵐の中で、シノンはふっと笑ってゆっくりとした所作で立ち上がった。
「それは困るなぁ。君がいて、もし君が僕に求婚したら僕は断れないもの。それじゃあつまらないじゃないか」
「つまるつまらないで結婚を決める奴がどこにいる!」
「ははははは」
肝心なことは一言も明かさず、シノンは面白そうに笑い飛ばした。
リカールはごまかされまいとして、シノンの華奢な手首を掴み、強引に迫った。
「……誰の求婚を受けた」
「なんだ、そんなに気になるのか」
「誰だ」
「秘密」
「言え」
リカールの双眸が凄みを帯びてぎらりと光る。
声音は恫喝にも似た低い響き。
シノンがこめかみを指で掻いて、思案げに唇を結んだところで、「失礼いたします」と声がかかった。
リカールが仏頂面で振り向くと、執事長補佐エド・タイラーが畏まって立っていた。
「シノン殿下に急ぎの書簡が届きましたので、お持ちいたしました」
「ああ、ご苦労だね」
これさいわい、とばかりにシノンはリカールの手を振りほどいて、差し出されたペーパーナイフで書簡の封を切った。
封蝋はティラーレ王家の紋章である。
読み終えてすぐ、シノンは急用ができた、と告げた。
「諸君、すまないが僕はこれで失礼するよ。せっかくの愉しい語らいの場を中座なんて野暮だけど、これも務めだから仕方ない。また今宵お会いしよう」
名残惜しむ声の中、片手を差し上げて悠然と半身を返したシノンを、リカールとエドが追従する。
「どうした。なにかあったのか」
「ちょっと難儀な来客だ。リカールも来い。エド、君はただちにセラ殿とケインウェイをつかまえてエントランスで待つように伝えてくれ。僕も着替え次第すぐにいく」
「かしこまりました」
「頼む」
硬い口調とは裏腹に、明灰色の二つの瞳は強い輝きをおびていく。
よくない前兆だ。
なにか、目論みを秘めた眼だ。
そしてそれはだいたいにおいて、まわりを渦中に巻き込むのだ。
「やれやれ」
と、リカールは重い溜め息をついた。
ろくでもないことが待っているに違いないのに、シノンと共にいられるならばそれもいい、とつい浮かれてしまう心がある。
「くそっ。惚れた弱みだな、俺も」
リカールはひとりごちた。
リカールは、もしかしたら、この物語で一番おいしい役どころかもしれません。笑。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。