三 一目惚れですよ
ほのぼの。
ルイズを置き去りにした形でカフェの席を立ったエストレーン卿は、中央広場へいった。
「おはようございます、ルネーラ殿」
名を呼ばれて振り返ったルネーラは、そこにエストレーン卿の姿を見つけて眼を瞠った。
「まあ、おはようございます。偶然ですわね、朝の散策ですか?」
「ええ、まあ」
「あら? その手にお持ちになっているそれって“赤い薔薇結びの祭り”で使われる劇の台本でしょうか」
「ご存知なのですか」
「わたくしも今朝いただきました。エストレーン卿も参加なさるのですね」
「はい。私とルイズ殿下もご一緒です。シノン殿のせっかくのお誘いなので参加させていただくことになったのですが、いやはや、ちょっと早まったかと後悔しております。意外にセリフが多くて、当日まで覚えられるかまったく自信がありません」
「わたくしもです。演技などしたことありませんもの。途方にくれていたところです」
エストレーン卿はちょっと考えてから、
「では、二人でこっそりと特訓などしませんか? 大勢の前で恥をかくより、あなたの前で恥をかいて、上手になってから舞台の上にあがったほうがよさそうだ。ひとりで練習するよりも二人の方がずっといい。早朝に、裏庭で。いかがです?」
「わ、わたくしと、ですか」
「ご迷惑ですか」
「いえ、そんな」
「では決まりです。明日からさっそくはじめましょう。ところで、鳩の餌やりですか」
「はい」
「楽しそうですね」
「あの……もしお嫌でなければご一緒にいかがですか」
「ぜひ」
ルネーラは嬉しそうに笑って、手に持っていた餌箱をエストレーン卿に差し出した。
「わたくし鳥が好きですの。時間があるときはここで餌をあげることにしているのです」
エストレーン卿は、髪を結いあげ、地味で目立たないドレスに身を包むルネーラの姿を眺めて、眩しそうに眼を細めた。
「今日はいつもと感じが違いますね」
「……あの、あまり見ないでくださいまし。恥ずかしい」
「かわいらしいです。前にも申しあげたでしょう? こちらのあなたの方が好きだと」
ルネーラは二つ目の餌箱の蓋を開けながら、エストレーン卿を仰ぎ見た。
「以前にどこかでお会いしましたでしょうか」
「一度だけ。サンクルズの南広場で。やはりあなたは鳩に餌をあげていらした。楽しそうに声を上げて笑いながら。たまたま私は近くを通りかかって、あなたにみとれていると、声をかけられた。共に餌撒きをしたのですよ。楽しかった。そのときは他にも子供たちが一緒だったので、私のことなど憶えておられないのも無理はありません」
「サンクルズ――ええ、確かに。一年ほど前に訪ねました」
「それから、ほとんど毎日私は広場に足を運びました。どうしてももう一度、あなたにお会いしたくて。でも、会えなかった」
エストレーン卿はぱっと空に餌を放った。
たちまち鳩が群がってきて、啄みはじめる。
「だが思いもかけない場所であなたを見つけました。隣国の王家主催の夜会の席で、あなたはシノン王子と共にいらした。あのときは驚きました。まさか、王家の姫君とは。それもアリアン・ローのルネーラ姫と言えば、美しく聡明で、洗練された、恋多き女性と巷で有名ではありませんか。私と言えば、爵位こそあれ、仕事しか能のない野暮な男です。とてもお近づきになれるものではありません。仕方ないので、遠巻きに眺めておりました」
「お声をかけてくださればよろしかったのに」
微苦笑して、エストレーン卿はかぶりを振った。
餌を撒く。
「翌朝、庭園でまたあなたを見かけました。あなたは鳥にパンを千切ってあげていらした。その様子がなんとも可憐で……そのときはじめて、あなたを妻にしたいと思ったのです」
エストレーン卿の真摯なまなざしの前に、ルネーラは胸に手をあてたまま動けずにいた。
「……噂にもなっていますが、セラ殿とスライエン殿はどこへ行くにもあなたと一緒ですね。それに、セラ殿は毎日あなたに花を届け、スライエン殿は毎夜あなたに恋歌を届けているとか。それは本当ですか? いったい――お二人のうち、どちらが本命なのですか」
咄嗟には、ルネーラは答えられなかった。
その沈黙をエストレーン卿は別の意味に受け取った。
「……私にはこんなことを尋ねる資格がありませんが、ちょっと妬いてしまったのです。それに、今朝ここに居合わせたのは偶然ではないのです。あなたがいらっしゃるのではないかと思い、待っていたのです。少々強引に縁談話を進めたことはお詫びいたします。ですが、私は本気なのです。あなたは私が嫌いですか」
「いいえ。いいえ、嫌いなんて、そんな」
「では好きですか」
口では答えられず、ルネーラは真っ赤になってうつむいた。
「お顔が赤いですよ。ちょっと意地悪でしたね。すみません。でも……嬉しいです」
「もう――もう! わたくしをからかうなんて――知りません!」
「からかうなど、とんでもない。私は少しでもあなたに振り向いて欲しくて、必死なんです。それにしても――いい天気だ。どうです、一曲お相手願えませんか」
「え」
「踊りましょう」
「ここで? でも人目が。それにわたくしこんな恰好で、音楽もありませんし――」
エストレーン卿は帽子を脱いで、中に台本を差し込み、植木の上にひょいと置いた。
「人目など気にしません。どんな恰好でもあなたはあなたです。音楽は、彼らに頼みましょうか」
エストレーン卿はそこいらを駆け回る子供たちを呼び集め、合唱を依頼した。
たちまちあどけない混声合唱がはじまる。
「お手をどうぞ」
明るい微笑に逆らえず、ルネーラは差し出された手に手を重ねた。
あっという間にさらわれる。
二週間前の夜会の夜とは比べものにならないくらいのクイック・ステップだ。
「さあ、ついてきてください」
この日のエストレーン卿のリードは突風のようだった。
だが雑ではなく、巧みで華麗、常にルネーラが美しく見える角度が維持されていた。
ほどなく、広場の様子がいつもと違うことに気づいたひとびとが、集いはじめた。
人垣は膨れ上がり、周辺一帯をぎっしりと埋め、子供たちに次いで大人たちもコーラスに加わり、手拍子が起こり、バイオリン弾きが登場し、ついには音楽隊が結成された。
大観衆の口笛と悪意のない声援の中、二人が手に手を取ってお辞儀をすると、今度は観衆が二人のもとに押し寄せた。
そのまま手当たり次第手に手を取って、歌いながら踊りはじめる。
音楽隊ははりきって、たまに調子を外しながら、更に演奏を盛り上げた。
二人はこの日一日を歌と踊りと音楽と、ひとびとの絶え間ない笑顔の中で過ごした。
ルネーラとエストレーン卿は、麗しき紳士淑女の恋を演出しています。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。