三 ダンスのお相手は?
ウィーンにいきたい。
ワルツをならいたい。
オーケストラの演奏がはじまった。
曲は“美しき春の歌声”より第二章、ゆるやかな旋律がフロアを満たす。
リカールが仰々しく一礼して尻込みするルイズの手を取り、半ば強引にフロア中央に導いてはじめのステップを踏む。
一周するまではふたりだけのダンスである。
その光景は、なんとも異様だった。
燕尾服姿の二人がいとも優雅に踊る。
どちらも紳士にしか見えないことが悲劇でありながら、喜劇的でもあり、それでいてどちらの身分も高いことから笑うに笑えず、居合わせた人々はひたすら居心地の悪さを味わっていた。
ただひとり平気だったのはシノンで、目的の人物を見つけると、歩み寄って声をかけた。
「ミアンサ殿、僕と踊っていただけますか」
ミアンサはきょとんとした。
耳を疑い、次に眼を丸くする。
「え。わ、わたくしですか」
「そうです。僕と踊っていただけませんか」
「それは――あの、もちろん喜んで」
「よかった。では、参りましょうか」
シノンは腕を差し出した。
「さ、お手をどうぞ?」
シノンがミアンサとふんわり踊りはじめたのを見て、ルネーラはがっかりした。
シノンの最初のダンスの相手が自分でないことに、なんとなく拗ねた気分になる。
そこへ、
「私と踊っていただけませんか」
ルネーラはきょろきょろした。
声をかけたセラは、ふっと苦笑した。
「あなたに申し込んでいるのですよ、ルネーラ殿」
「わたくし?」
ルネーラはびっくりしてあたふたした。
「なにを慌てていらっしゃるのです」
「鏡、鏡はどこかしら。わ、わたくし、あの、ちょっと失礼して――」
「大丈夫、おきれいですよ。さ、フロアに参りましょう。それとも、私では相手不足ですか?」
「いいえ! まさか!」
「よかった。ではお手をどうぞ、姫君」
ルネーラは夢見心地でセラの腕に手をかけた。
足元がふわふわする。
後ろで女性たちの羨望による悲鳴が上がったが、ルネーラの耳には届かなかった。
次々と、ダンス・フロアに紳士淑女のペアが降りていく。
その中にシノンやセラの姿を見つけて、ケインウェイははたと気がついた。
いつのまにか、壁の花である。
「うわ、まずい。まずいぞ、またシノンにどやされる」
焦って相手を探そうと辺りを見回したそのとき、だいぶ遅れて会場入りしてくる白いドレス姿の娘をみつけた。
咄嗟にケインウェイは娘を捉まえた。
「すまん、一曲でいいから俺と踊って――あれ? あんた、見た顔だな」
そこへ「うわー待って待って」と割り込んできた男がいた。
「ルカはだめです。ルカは僕と踊るんです。待ってたんです。わあ、きれいだなぁ、ルカ」
「そうか、舞姫か。千人求婚でシノンと噂になった……ま、先約があるなら仕方ねぇか。ん、確かにきれいだな。あんた緋色の衣装も色っぽかったけど、白も似合うよ」
「あ、ありがとうございます……」
「きれいだなあ。かわいいなあ。結婚してほしいなあ」
スライエンがうっとりして言った最後の一言に、ケインウェイはぎょっとした。
まわりでは、耳ざとく聞きつけた何人かが、スキャンダルの気配を嗅ぎつけて好奇心もあらわに立ち止まり、振り返る。
「あ、あんた、ちょっとなに言って……」
「……いまの求婚か? まさかな」
「ケインウェイ様までやめてください。噂になってしまうじゃないですか」
「白いドレスだから婚礼衣裳みたいだなあ。はー。結婚してほしいなあ。僕の奥さんになってくれないかなあ」
ケインウェイはちら、とルカを見た。
「……やっぱり求婚じゃないか?」
「ち、違います。本当に違います。スライエンはいつもこんなことばかり言っていますけど、わたしなんてせいぜい姉のようなもので――」
「いつも? あんた、いつもこんなこと言われているのか?」
「そうではなくて、スライエンの言うことを真に受けてもらっては困るということで――」
ひそひそと、囁く声が大きくなってきた。
ルカは非難の意を込めてスライエンを睨みつけ、ケインウェイの腕をとってダンス・フロアに引っ張っていった。
罪悪感で、ケインウェイはルカの手を取ることをためらった。
「俺と踊っていいの? あいつ、あんたのこと待っていたんじゃないの?」
「知りません……あ、あんなところであんなことを言うスライエンが悪いんです」
ケインウェイはくっと笑った。
ルカの手を引き、踊りの輪に入る。
「あんたかわいいな」
「は? え、え?」
「かわいい。あいつにはもったいないから、焦らしてやれよ。応援するからさ」
「応援? わたしは別にスライエンのことはなんとも思っていません。本当です。本当にただの友達か、それ未満か、その程度です」
「ははは、そりゃまた冷たいね。でも普通、男は軽々しく結婚なんて口にしない。あいつだってふざけているようで、ふざけてはいないかもよ?」
「ふ、ふざけていない? ふざけていないのなら、まさか、本気だとでも言うのですか?」
「さあ、そりゃあ本人に訊くしかねぇな」
「あり得ません」
そう答えながら、ルカはフロアの外にしょぼくれて立っている男に眼を向けた。
「あり得ない」
ルカは、繰り返し呟いた。
「一曲踊っていただけますか」
紳士らしく、折り目正しい礼儀作法でエストレーン卿が言った。
セラとのダンスの余韻に浸り、ぼうっとしていたルネーラは一瞬怯んだものの、シノンの言葉が脳裏を掠めた。
彼のひととなりを知るには、いい機会なのかもしれない。
「喜んで」
ざわっ、と会場が揺れた。
噂の二人がフロアに出てゆくと、ざわめきはより高まった。
「今宵のあなたも美しい」
「光栄ですわ」
「でも私は普段着姿のあなたの方が、あなたらしくて好きです」
ルネーラは訝しそうにエストレーン卿を見つめた。
「それはどういう――」
「さあ、参りましょう」
手を優しく引かれ、導かれるまま、すっ、とフロアに立つと同時に身体を持っていかれた。
音楽は四季のワルツに変わったところで、標準よりテンポの速いヴィニーズ・ワルツである。
この踊りはテンポの速さもさることながら、ステップの複雑さ、優雅さに定評があるものなので、踊る自信のないものはフロアから離れていった。
エストレーン卿のホールドは完璧だった。
距離感も、肩甲骨の下を軽く支えた手も、肩越しに前方を見る目の位置も。
そしてすぐにわかったことだが、バランスとリズムが卓越していた。
姿勢に文句のつけようもなく、フォワード、バックワード、シャッセの基本的なステップが軽々として小気味よく、無理がない。
そして、音楽よりわずかに早いリードがフロアにいるどのペアよりも疾走感があった。
今宵ルネーラは胸元に真珠の刺繍を施した、裾のたっぷりとしたクリーム色のローブ・デコルテ姿だった。
レースを内側にあしらったドレスの裾が勢いのまま翻る。
結いあげた髪に飾ったクリーム色のリボンがはためく。
音楽をなぞるように巧みなステップを自在に操り、ハーフ、フル、ナチュラル・ターン、リバース、シャッセ、またターン、他のペアが近いと思ったときにもチェック・バックで難なく交わし、そのままのスピードを維持し続ける。
「驚きました。とてもダンスがお上手ですのね」
「あなたもお上手だ。もう少し早くてもよろしいですか?」
「ええ!」
すっかり愉しくなってルネーラはエストレーン卿がリードするままついていった。
いつの間にか、フロアにひとはいなくなり、二人の様子に気がついたオーケストラも曲調のテンポ・アップを図り、ワルツとしてはかなり高度なものになった。
そして一度のミスもなく、素晴らしい最後を締めくくった。
賛辞と拍手喝采が会場中から贈られる。
二人はさすがに少し息を乱しながら、観衆に丁寧に膝を折ったお辞儀をしてフロアから降りた。
音楽は絶え間なく、今度はよりスロー・テンポのワルツがかかり、またすぐにフロアはひとでいっぱいになった。
二人は大勢に囲まれ、惜しみのない賛辞を浴びた。
「では、私はこれで。素晴らしいひとときでした。お相手ありがとうございました」
言って、エストレーン卿が背を返したので、ルネーラは思わず引き止めた。
「あの」
「はい?」
「あの……た、愉しかったです。今日は誘っていただいてありがとうございました……」
「またお誘いしてもよろしいですか?」
「ぜひ」
エストレーン卿が微笑する。
はじめて笑顔を見たような気がして、ルネーラも微笑んだ。
「汗が」
エストレーン卿は胸のハンカチーフを取って、ルネーラに差し出した。
「どうぞお使いください。では失礼いたします。よい夜を、ルネーラ殿」
去っていく後ろ姿になんとなく寂しいものを感じて、ルネーラは戸惑った。
縁談をしつこく迫る相手を、あんなに嫌だと思っていたことが、まるで嘘のようだ。
セラと踊ったときよりも増して、ふわふわとした高揚感がまだ身体に残っている。
ルネーラは手の中に残る仕立てのいいハンカチーフを使って額を拭った。
布地からは香木の爽やかな匂いがした。
小説は会話が命。
とはいえ、表現力もおろそかにしては、伝えたいことも伝わらない。
思考錯誤の末の、ダンス・シーンはいかがでしたでしょうか?
次話、舞踏会の夜に迫ります。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。