第1章
「あのさ、なにしてんの?」
仄暗い雨の夕べ、びしょ濡れになってうずくまる私に、彼が明るく声をかけた。それが、私たちの、眩い出逢いであり、私の全ての人生の始まりだった。
私の通っている大学には、小さな池があり、そのまわりに「紫陽花ロード」がある。紫陽花ロードと呼んでいるのは私だけなのだが、紫陽花が列になり植え込んであり、この季節は本当に見事だ。青紫から赤紫へグラデーションをつくる花々は、今年もきれいに咲いて、キラキラと水面を水彩画のように彩っている。私は、その紫陽花の池の周りを散歩して、短歌を書いてゆっくりと過ごしてみたかった。けれど、人の目を気にしてそれができなかった。誰1人、紫陽花たちが池に描く水彩画に目もくれないのだった。
女子トイレに貼り付けられた鏡の前に立ち、好きでもない明るい色に染めた髪をフレンチネイルの施された手でいじくり、これまた好きでもない高見えするお嬢様が着るようなプリーツの薄手のワンピースを着た女、それが私だった。おばあちゃんに泣きついて買ってもらったブランドのバッグを、洗面台から引き上げる。
「ミメイ、ナプキン持ってない?」私とどっこいどっこいの容姿の、量産型のハナエが滑稽な合掌のポーズをとって言った。ハナエはヒンドゥー教徒の挨拶をしているのでもなければ、今からご飯を食べるわけでもなく、私に拝んでいる。
「あるよ」
「ありがと!」
私はカバンの中からポーチを出し、ポーチごとハナエに手渡した。ハナエはありがと、とポーチから生身のナプキンを一枚取り出して、トイレの個室に入っていった。手持ち無沙汰な私は今度は別のポーチを取り出して自分の化粧を徹底的にいじくりまわしてから、ハナエが出てきたのでトイレを出た。
カフェテリアのトイレを出ると、ミキがスマホを触っている。ミキは私より髪の毛が明るく、オフショルダーのブラウスを着ている。
「データ、送ったよ」私は言う。
「ミメイやっぱすごいね!」ミキが嬉しそうに笑った。
毎週のレポートは、私が3人分書いていた。私と、ハナエと、ミキの分。内容が同じだといけないから、全部内容を変えて、私が書いていた。私は、勉強が好きなので、気にしていなかった。
「そんなことないよ。私は勉強しかとりえないから」私は控えめに言った。勉強しかとりえがないのは、本当だった。私は、実家も普通の家庭で、特待生として、学費免除でこの大学に通っている。しかし、こんなにもお金に困るとは思わなかった。みんながみんな、ブランドものばかりを身につけ、ここまで、恥ずかしくない服装をすることに労力を費やすとは思っていなかった。
2人はブランドもののお財布から、それぞれ一万円を出して私にくれる。よかった、これでまた新しい服が買える。私は、力無く笑った。私には目もくれず、
「ねー、今日楽しみだよねー」とハナエは鏡を取り出してまつ毛についたマスカラを指で落とした。
「ね!気合い入れてきた?」
とミキも鏡を出してリップを塗った。今日はハナエとミキは合コンらしい。2人とも彼氏を取っ替え引っ替えしており、別れたところなのだろう。私は合コンに呼んでもらえていなかった。行きたいかと言われると、すこし疑問だが。
「ミメイは彼氏できないね〜できたことあるの?」とミキは鏡を閉じて言った。彼女は、私が彼氏ができたことがないことをわかって同じ質問を何度もする。
「前言ったけど、できたことは、ないかな…」
「えーかわいそー!できると良いね!」とハナエ。
「ありがとう〜」私はそう言ったが、ほかにどんな返しがあるだろう。
完全にパシリだったのだが、レポートを書くのは楽しく、次のレポートも書かないといけないので、帰ることにした。大学は私の居場所ではないと思っていた。大学デビューして、全ての自分の闇を忘れ、過去に葬ってきた。しかし、その黒い卵は毎日私の中でうずいてヒビが入り、今にも割れて中身が顔を覗かせるのではないかと思っていた。
「お姉さん夜の仕事探してないっすか」と黒づくめの男性に声をかけられた。今となっては危険な行為だが、自分でも驚くくらい酷い目つきで、彼を睨んだ。
雨が急に勢いよく降り出し、傘を大学に置いてきてしまったことに気がついた。びしょ濡れになって、どこかの屋根のあるところをさがそうとして、急になんだか魔がさしてしまった。キャッチの男はスルーしてしまったが、もし、夜の仕事をすれば、私を受け入れてくれる人がいるだろうか?そうしたらパシリしなくてもお金が入るだろうか?風俗で働いて、好きでもない人に抱かれたら壊れることができる。壊れたら私は消えることができるだろうか…
そうして、私は怪しい店が立ち並ぶ路地に入って行った。しかし後から知ったのだが、夜の店の並ぶ路地は一筋向こう側で、そこは単なるなにもない路地だった。どんどん路地の奥へ入っていくと、浮浪者のお爺さんが、雨で透けたワンピースの胸を、舐めるように見ていた。ゴミが散乱し、何羽ものカラスの鳴き声がする。
小走りでお爺さんを避けてさらに奥に進んだ時、急に私の中の黒い卵が割れて、真っ黒の中身がどんどん溢れ出した。もう、生きるのが限界だった。涙がどんどんと止まらずに流れ、私はその場でうずくまってしまった。
どれくらい時が経っただろうか。ザーザーという雨の音がフッと消えて、影ができた。
「…あのさ、なにしてんの?」と男性の声が聞こえる。私は恐怖で、その場で固まってしまった。
「家どこ?」優しく言った男性に、私は頑なに返事をしない。彼は、私に自分の夏のジャケットをかけて、私の手にむりやり傘を持たせて、行ってしまった。ジャケットはいい香りとご飯屋さんの匂いが混じった変な香りがした。
行ってしまったと思ったのだが、私が傘を取り落としたのを見て戻ってきた。
「大丈夫かよ?何があった?」ここでやっと、私は見上げて彼の顔を見た。意識が朦朧としており、あまり覚えていないのだが、彼は涼しい目をして、さっぱりとした雰囲気の、スラリとした男性だ。ちゃんと見れていたかは定かではない。気がついたら何の返答もないずぶ濡れの猫のような私は、彼に肩を抱かれて、そのままとぼとぼと歩いていた。反応のない私を、仕方なく、家に連れていくことにしたらしい。
もう、なんでもいいや…と私は投げやりになっており、自分など男性に連れ込まれて壊れてしまえばいいと思った。
気がつくとお湯をいただいて、スエットまで貸していただいて、ミルク入りのコーヒーまでいただいていた。
「落ち着いた?」私は放心状態で、目がうつろなまま、相手を見ていた。よくみたら、私よりもひとまわりは上に見える。
「話せる?」
「はい」すると、その男性はふぅ、とため息をつき、
「女の子連れ込んで俺何してるんだろな!」と笑った。スマートな印象の人なのに、エクボができて、子犬みたいな笑顔だった。その笑顔になぜだか安心する。
「俺、サトル!えっと、きみ、は?私は正気を取り戻して、言った。
「すみません、私はミメイです。
えっと、乾燥機、お借りできますか?」これが、私たちの出逢いだった。