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この婚約を破棄されたら死にます

作者: 調彩雨

 

 

 

「婚約を破棄する」


 王太子の宣言に、辺りは瞬間静まり返り、それから一点に視線が集まった。


 宣言の当事者である王太子婚約者、氷結姫と名高いサルジーナ家の令嬢、テランへと。


 ぱちり、と、おもむろにいちど、凍り付く真冬の海に例えられる白花色の瞳をまぶたに隠し、すいと小首を傾げてから、テランは件の王太子へと問い掛けた。


「わたくしの、聞き間違いでしょうか」


 玉鋼を弾くように硬質で冷たく、良く通る声。


 美しい声は、今なら撤回を受け入れてやる、と言う慈悲の表明であったが、王太子は揺るがぬ目で婚約者を見返した。


「あなたとの婚約を、破棄すると言った。テラン・サルジーナ嬢」

「事情をお伺いしても?わたくしがなにか婚約者として相応しくない失態でも、犯しましたでしょうか?」

「いや。それはない。あなたは婚約者として完璧であった。なにひとつの瑕疵もない。すべては、私のわがままなのだ、テラン」


 王太子の言葉を受けて、その隣にいた少女の表情がわずかに歪んだのに、気付いたものはごく少数であっただろう。


 王太子妃の座は、憧れるものも狙うものも多い椅子。長年その椅子に座り続けて来たテランを、引き下ろそうと画策したものも、ありもしない悪評を王太子へ吹き込もうとしたものも多くいた。

 しかしテランはどんな策略にも嵌まらず、王太子はどんな嘘も見抜いた。


 誰ひとりとして、そう、今まさに恋人よろしく王太子の腕を取る少女すら、テランの椅子をわずかでさえも揺らせはしなかったのだ。

 ゆえに。


「私が彼女に恋をして、彼女を妻にと望んでしまった。それだけなのだ」

「殿下は次期国王、側妃も愛妾も、咎められはしませんよ」

「あなたにもかつて言った通り、私は側妃も愛妾も、持つつもりがない。私は不器用だから、国と民と正妃、そしていずれ生まれるだろう子らを愛せば、もうひとりの女性など愛する余裕はないだろうから」


 王太子はゆるく首を振り、だからと言葉を続けた。


「婚約破棄と共に私は王太子の位と王位継承権を辞し、臣籍に降る。なんの非もないあなたとの婚約を破棄することに対する、あなたと、そして国民への、私なりの誠意だ」


 たとえ非がなくとも、いちど婚約しそれを破棄されたとなれば大きな瑕となる。

 まして王族、それも王太子との婚約ともなれば、国勢にも関わる大事だ。


「そう、ですか。婚約破棄の決心は、揺るがないと」

「ああ。すまない」

「いいえ」


 テランは氷海の瞳を伏せ、溜め息を吐いた。雪原のような白銀の髪を飾る、細い銀の鎖が、しゃらりと冷めた音を立てる。


「そのような大事をひとことも相談して貰えない。その程度の信頼関係しか築けなかった。それでは、婚約者として失格と言われても仕方がありませんね」

「そんなことはない。テラン、あなたは完璧な婚約者だ。今も昔もそれは変わらない。あなたが婚約者で不安を覚えることも、不満を覚えることも、私はいちどもなかった。彼女と出会いさえしなければ、私は間違いなくあなたを妻とし、生涯愛し続けたことだろう」


 王太子はきっぱりと告げ、続けた。


「この国の若い娘のなかで、もっとも王太子妃に相応しいのは、揺るぎなくあなただ、だから、」


 続け、ようとした。


「殿下」


 しかしそれは、空気を凍らせる氷結姫の声に、阻まれた。


「わたくしがかつて、あなたさまに告げたこと、覚えておいででしょうか」


 だれひとり声を発することはおろか、身じろぎすら出来ない緊張のなか、響いた凍った声に王太子は目を見開き、血相を変えた。


「まさか、テラン、やめてくれ、私は、」



   ё  ё  ё  ё  ё  ё



 王太子が出会った頃から、テラン・サルジーナと言う少女は、完璧な婚約者だった。


 勉学、武術、芸術、礼儀作法から立ち居振舞い、些細な言動に至るまで、なにひとつ隙がなく、王妃ですら敵わないと感嘆するほどだった。


 それは、幼い少女がここまでのものを身に付けるのに、どれだけの辛酸を舐めたのかと、国王夫妻がテランを憐れみ心配したくらいの徹底振りで。


 王太子は母である王妃から、お前が彼女を守ってやりなさいと、言い含められていた。

 彼女はお前の妻となるためだけに生まれ、育てられた子だから。彼女とサルジーナ家の献身を裏切ることは、王家の信頼を落とすことだからと。


 王太子はそんな母の言葉に頷き、テランを守り、支え、望みがあるなら叶えようと、幼いながらに誓ったものだった。


 しかしそれも厳しい教育の結果であろう。

 テランが助けの必要な事態になることも、王太子へ助けを求めることも、望みを言うことも、露としてなかった。


 テランが王太子を頼り、願いごとをしたのは、あとにも先にもいちどきり。


「殿下、お願いがあるのです。このようなことを言えば、なにを意地汚いと思われてしまうかもしれませんが」


 常になく控えめにおずおずと、テランは王太子に言った。


「なあに?婚約者なんだ、お願いくらい遠慮せずに言って」


 ようやく誓いを果たせると、王太子は前のめりに頷いて。


「どうかこの婚約を、破棄しないで下さいませ」

「え……」


 告げられた言葉に、目をまたたいた。確かに王族の婚約は、政略的な意味で破棄されることもある。しかし今は戦争の気配もなく、国政も落ち着いている。

 なにより国王夫妻が、このテランと言う少女を、必ず王太子妃にと決めているのだ。


 よほどのことがない限り、最高権力者の決定は覆らない。


「誰かになにか言われたの?心配しなくても、僕は婚約を破棄したりしないよ」

「それなら、良いのですが」


 うつむいてしまったテランの手を取り、王太子は訊ねる。


「理由があるなら、教えて」

「殿下は我が家の成り立ちを、ご存じでしょうか」

「元は世界中を飛び回っていた行商で、建国の王に乞われて我が国に家を持ち、貴族となった今も、世界有数の商家である、と言うもの?」


 テランはこくりと頷き、歴代の王家のみなさまのお引き立てで、我が家は一流の商家にまで登り詰めましたと語った。


「我が家はここ、ネガラアサルの貴族でございます。ですがそれ以前に、商人なのです。商品を求める方に最高の品を用意し、売る。そのことに誇りを持っております。義兄にいさまも弟妹も跡継ぎとその補佐として、商売人のなんたるかを叩き込まれております。我が家では歩くより先に、四則計算と算盤の弾き方を覚えるのです」

「叔父上がテランの兄君に、数学で勝てたためしがないと、言っていた理由がわかった。テランも、そんな教育を?」

「いいえ」


 迷いなくきっぱりと、テランは問いに否定を返した。


「わたくしは、わたくしだけは、違うのです」

「違う?」

「わたくしは商人としてではなく、商品として育てられました。殿下、あなたの、妃として買われるために」

「それは」


 驚くと同時に、思い出す。

 サルジーナ家はあまりに優秀過ぎて、国として手放せない家であり、ゆえに数代にいちど、王家と婚姻を結ぶ。父の代も祖父の代も曾祖父の代も、王家とサルジーナ家の婚姻は結ばれなかった。だから国王である父は、サルジーナ家に娘が生まれたら王太子の妃にと、常々言っていたと。


 その言葉をサルジーナ家が、王家からの注文と判断したのならば。


 王族御用達の一流の商人として完璧な王太子妃を差し出そうとしても、不思議はないだろう。


 そのために造られたのが、目の前の、テラン・サルジーナと言う少女なのだ。


「我が家は一流の商家です。今ではサルジーナの誂えた品と言えば、最高級の一点物として、家宝にする家すらあるほどに名の通る商家。ですから、誰かのために用意した誂え品をほかの方に回すなど、決して致しません」


 顔を上げたテランの目は、凍り付いた真冬の海のように、波ひとつ立てず凍てついていた。


「もしこの婚約が破棄されれば、わたくしは不要になった誂え品として、廃棄されるでしょう」

「そんなこと、」

「サルジーナ家は、そう言う家です」


 自分のことだと言うのに、あまりにも他人ごとめいた口調だった。


「ご両親から、そのような教育を?」

「わたくしは、商品ですから」


 そのやり方は間違っていると、思えど口には出せなかった。自分のために誂えられた少女を否定してしまえば、きっと彼女は婚約者の地位を辞する。


 守れと言った、母の言葉が、今更ながら心を打った。


「僕は絶対に、婚約を破棄したりしないよ」

「ありがとうございます」


 テランは主に褒められた奴隷のように微笑んで答えてから、ですが、と続けた。


「わたくしは、もしこの婚約が破棄されたら死にます。どうかそれだけは、覚えていて下さいませ」



   ё  ё  ё  ё  ё  ё



 テランのこの言葉を、王太子は忘れたわけではなかった。

 忘れたことなどなかった。


 だからたとえどんな悪評を吹き込まれたとしても、テランを信じたのだ。


 自分のためだけに用意された完璧な婚約者が、悪評の立つようなことを、するはずがないと。


 事実テランは、国王夫妻の期待も、王太子の期待も、裏切ったことはなかった。

 常に、王太子婚約者として、完璧であり続けた。


 だからすべての罪があるのは、悪なのは、裏切者は、王太子なのだ。

 ゆえに、王太子の座を辞し、新たな王太子の婚約者に、テランをと。


 そう、告げるつもりだった。


 そうすれば、テランに非がないこと、完璧な商品であることは、示せると思っていた。


 そうすれば、テランは許されるはずだと、愚かにも。


 その、王太子の浅慮を、嘲笑うように。


「幕引きは己が手で。お客さまの手を煩わせは致しません」


 テランはあっさりと、氷結姫の名の由来でもある、絶対零度の真っ白な刃で、己が首を裁ち切った。


 切られたそばから凍り付く傷口は、一滴たりとも血を流すことはなく。

 ただ、両断されて、ころりと転げた頭と、ぐらりと崩折れた身体は。


 しかし地に落ちる前に抱き留められた。


「テラン。可哀想な、僕の義妹いもうと


 凍り付く前の冬の海、岩群青の瞳が、哀しげに伏せられる。


 王家に嫁ぐテランに代わってサルジーナ家を継ぐために、分家から養子に取られたテランの義兄。名を、モルディノ・サルジーナ。


 官僚にと言うあまたの声掛けを袖にして、世界を飛び回り商人として生きる彼が、この国の公式の場に姿を現すのは、いつ振りだろうか。


 モルディノの腕から、魔法のように、否、事実魔法で、テランの姿が消える。


「お目汚し、失礼致しました」


 モルディノは深く礼をしたまま、よく通る声を響かせる。


「二度と、このようなお目汚しは致しますまい」


 その言葉に血相を変えたのは、一部始終を上座で見届けていた国王だった。


「モルディノ、」


 呼び掛けに顔を上げ、モルディノは告げる。


「我が家では王家の方々を、満足させる品が用意出来ないようですから」


 断絶の言葉を。


 モルディノは次期サルジーナ家当主。その、モルディノの決定は、この先数十年のサルジーナ家の身の振り方を、決定付けるものになる。


 誰の制止も許さず、モルディノは、にこ、と商人の顔で微笑んだ。前へと伸ばされた手から、紋章印、ネガラアサルの貴族の証が、滑り落ちる。


「永らくのご愛顧、誠に有り難うございました。では、これにて」


 踵を返すことすらせず、モルディノはその場から去る。


 養子でありながら、次期当主確定と言われるそのゆえん。天才的な、空間転移技術。


「なんと言う、ことを……!」


 口許を隠す扇を、震えるほどに握り締めた王妃が言う。

 その目は燃える怒りを湛え、血を分けた息子を見据えていた。


「お前はテランの、なにを見ていたのです。そんな女狐に騙されて。お前がそこまで愚かとは、母は恥ずかしくて、仕方がありません」

「陛下、私は」

「言い訳など聞きたくはありません」


 ピシャリと、王妃は王太子を叱責する。


「サルジーナ家は一流の商人。あまたの国との繋がりを持ち、どの国からも欲しがられる名家。その、名家から、お前のせいで我が国は、見限られたのです。それが国益に、どれほどの影響をもたらすか、お前はわかっているのですか」

「それ、は」

「テランが、お前を、否、お前たちを見極めるために送られたものだと、なぜ気付かなかったのです」


 お前たち、と、王妃はその場にいるものたちを見渡す。


「あれは貴族である以前に、サルジーナの寵児。周りのものの身の振り方を観察して、この国が、サルジーナの次代が与すに値するかの判断をしていたのです。テランを守れと、母は確かにお前に言ったはずです。それが言葉通りの意味だとでも、お前は思っていたのですか」


 ぱき、と、王妃の手許で扇子が軋む。


「わたくしと陛下が、サルジーナの娘をお前の婚約者に据える為に、どれほどの苦労をしたか。お前は青い鳥の鳥籠を、みすみす開け放ったのです」

「王妃」


 そんな王妃の肩に、国王が手を置く。


「起きてしまったものは、どうしようもない。愚かさを見抜けず愚行を止められもしなかった、私たちの責任だ。無駄な叱責より先に、今後の策を練らねば。──国が、荒れる」

「テランの提案で、国の流通をサルジーナ家頼みにしていなかったことだけが、せめてもの救いですか。それでも、この国にとってサルジーナ家は、あまりに大きい」


 項垂れる母と、そんな母に寄り添う父に、王太子は返す言葉もなく、立ち尽くしていた。


 躊躇いなく己が首を裁ち切ったテランの姿が、己の愚かな判断の結果が、頭から離れなかった。



   ё  ё  ё  ё  ё  ё



 目覚めれば、見慣れた天蓋が目に入った。


 見慣れた、けれど、ここ最近は見ていなかった、実家の自分のベッドだ。


 テランは静かに、身を起こす。


 あのとき。


 自分の首を、斬ったとき。


 絶対零度の刃で切られた首は一滴の血も流すことなく。


 溶けぬまま転移させられたテランの首と身体は、転移と同時に繋ぎ直され、心臓数拍分の死はテランの命を奪うことなく、なかったことにされていた。


 生き殺し。


 新鮮な食材を質を落とさず提供するために、サルジーナ家が編み出した魔法のひとつである。


 だが、今、事実生きていようとも。


 テランが大勢の証人の前で"死んだ"ことは紛れもない史実として刻まれ、ここに生きるテランはなにものでもないものとして、この先を生きることになるのだろう。


 扉の開く音に、首を回す。


 両断したはずの首は痛みも違和感もなく、思うままに動いた。


 視線の先、身を起こすテランに気付いた義兄モルディノが、足早に歩み寄って来る。


「目覚めたか。痛みや不調はない?」


 義兄がテランに掛ける声は、いつだって優しい。


「少しもありません。声も、この通り」


 声が出るか少し不安を覚えながら発した声はしかし、痛みも掠れもなく大気を揺らした。


 モルディノが泣きそうに顔を歪めて、良かった、と呟く。


「怖かったろう。すまない。もう、お前を危険なところにはやらない。僕がずっと、お前を守る」

義兄にいさ、」


 テランの唇に、モルディノの指が触れる。


「テラン・サルジーナは死んだ。お前はもう、僕の義妹ではないよ」

「ぁ……それ、は」


 目を泳がせたテランの身体を、モルディノが抱き締める。


「お前を、ずっと、愛していた。お前がずっと、欲しかった。やっと、やっと言える」

「モルディノ、さま」

「お前の新しい、名前を考えないとね」


 テランから身を離したモルディノが、にこっと笑う。


「商品としての生は終わったんだ。お前はもう自由だ。好きに、生きると良い。僕と共に生きるも、僕から逃げるも、自由だ」


 身体を離すモルディノへ、テランの手が伸びる。


「わたくしも、いいえ」


 首を振ったテランが、否、テラン・サルジーナでなくなった少女が、くしゃりと歯を見せて笑う。王太子婚約者としては、許されない笑みだ。


「わたしもずっと、あなたが好きでした、今も、愛しています、モルディノさま。許されると言うなら、わたしは、あなたとずっと、一緒に」


 ぎゅっとモルディノが、少女を抱き締める。強く、強く。


「そんなことを言って良いの、僕の愛しい子。僕は強欲な商人。そんなことを言えば、二度と離してはあげないよ」

「構いません。あなたと共にいられるなら、この顔を焼き、目を潰しても構わない」

「そんなことをさせるつもりはないよ。ただ、そうだね。髪と瞳の色は変えようか。ベールで隠しても良い」


 少女のベッドに腰掛けて、モルディノは未来を語る。


 少女がテランであった頃には、口にすることなど許されなかった夢を。


「ネガラアサルとの交易は止めるから、本拠を移動しよう。どこが良い?お前の好きなところにしよう。海も山もどこだって、僕らを歓迎するよ」

「本当ですか?」

「ああ。本拠に拘ることもない。いつだってどこだって、僕が連れて行くよ」


 嬉しいと呟いて、少女がころころと笑う。それからそっと、モルディノへ身を寄せた。


「どこだって良いのです。あなたと一緒なら。そこがわたしの、いきたいところ」


 ずっとずっと、言いたくて、けれど、許されなかった願い。


 王太子妃として、育てられて来た。最上の生活と、最高の教育を与えられた。すべては、至上の商品として、王族に売られるために。


 テランは商品であり、商品には、自分の心も、願いも、夢も、必要なかった。

 心は周囲と民の気持ちを慮るためのもの。願うべきは国の平和。夢は国の繁栄。

 ずっとそう求められ、その要求に答えて来た。


 そんなテランを気に掛け、気遣ってくれたのが、義兄であるモルディノだった。


 決して本心を見せないテランの、ほんのわずかな機微を読み取り、自分勝手に義妹を溺愛し甘やかす振りをして、テランの望みに応えてくれた。圧し殺されたテランの心に、沿うてくれた。


 サルジーナ家のなかで義兄だけが、テランを商品としてではなく、ひとりの人間として見ていてくれたのだ。


 だからこそ、テランはより完璧であることを自分に課し、瑕疵なき王太子婚約者であることを心掛けた。それがさらにサルジーナ家の、ひいては次期当主たる義兄モルディノの繁栄に繋がるから。


 その努力は、実らなかったけれど。


「ほんとうに、許されるのですか。わたしは、商品としての役目を、全うできなかったのに」

「たとえ最上の品でも、売れないときは売れない。今回のことは、お前のせいじゃない。それに、お前はきちんと役目を果たした。僕はそう思っているし、誰に文句を言わせることもない」


 モルディノの手が、少女の頬を包む。


「許されないとしたら、僕だ。僕が本気でお前を売ろうとしていれば、こんなことにはならなかった。それに」

「それに?」


 少女の額へ唇を落として、モルディノは告げた。


「お前が商品として不出来だと言うなら、僕だって商人失格だ。誂え品を顧客の手に渡すのが惜しくて、顧客の手に渡らず戻って来たことを、心から喜んでいる」

「モルディノさま」

「許されるか、許されないかじゃない。僕が、それで良いと、決めた。だからお前は自由で、それでも、僕の隣を選んでくれると言うなら、これ以上の喜びはない」


 少女の震える唇が問い掛ける。


「サルジーナの娘でも、王太子婚約者でもなくなった、わたしで、良いのですか?」

「お前だけが、良いんだよ。ほかの誰でもない、お前だから、良いんだ。お前こそ、ほかに選べるものがないから、僕にすがっているのではないかい」

「そんなこと」


 少女はふるふると首を振って見せた。


「あなただけしか選べないのではなく、あなただけを選びたいのです。ずっと、そうだった。あなたと共にあるときだけ、わたしはわたしとして、呼吸が出来た。でも」


 少女の傷ひとつない手が、自分の顔を覆う。


「わたしはなにも出来ません。自分ひとりでは、着替えも湯浴みもままならない」

「けれど百の国の言葉を知り、文字を知り、文化を、気候を、産業を知っている。どれも商売に役立つ」


 そうだねと微笑むモルディノが、不正や誤魔化しをした部下は非常に厳しく罰することを、少女は知っていた。


 成功は褒めるし、失敗は共に挽回の方法を考えてくれる。けれど決して甘くはない。それがモルディノ・サルジーナと言う男であり、そして。


「お前は字が綺麗で文章が上手いから。まずは本拠移転の挨拶文を書いて貰おう。そのためにも、お前の新しい名前を考えないと」


 そんな厳格なモルディノが、義妹テランだけは溺愛し、甘やかしていることは、有名だった。


「そうですね、名と姓を、考えないと」

「いや」


 モルディノが首を振る。


「姓はいらないよ。挨拶文は、僕の妻として書いて貰うのだからね」


 ゆうに数拍、少女は時を止めた。


「つま?」

「そう。嫌?」

「嫌では、ありませんが、でも、わたしは、」

「ありがとう」


 嫌ではないと言われたことで嬉しそうに顔を綻ばせて、モルディノが礼を言う。


「お前はなにも心配しなくて大丈夫だ。誰にも否は、唱えさせないからね」

「あまり、無茶は、」

「僕はサルジーナだよ」


 モルディノは、なだめるように少女の髪をなでた。


「大抵の無茶は押し通せる。それに、貴族ではなくなったから婚姻は個人の自由だ。血の濃さとしても問題ない。むしろ、養子の僕と直系のお前なら、望ましいくらいだろう」

「ですが」

「大丈夫」


 少女とて、外交のための話術はひととおり教えられている。

 だと言うのに、歴戦の商人の前ではあまりに無力だった。


「最初は文句を言ったとしても、すぐに言えなくなるよ。お前が実績を出せばね」


 出来るだろうと問われれば、否とは言えなかった。


 モルディノは当たり前のように、ネガラアサルとの交易は止める、貴族ではなくなったと言った。けれどそれはいくらサルジーナと言えど無傷ではいられない大事であり、そして紛れもなく、少女が婚約破棄されたために起きたことである。


 生き残った以上、少女には、損失の責任を取る義務がある。


 義務を果たすために、次期当主の妻と言う地位は、間違いなく役立つ。なにものでもない少女には動かせない事柄も、次期当主の妻であれば動かすことが出来るのだから。


「出来ます」

「ん。いいこ。じゃあ、問題はなにもないね?」


 手のひらで転がされたと気付いても、出した言葉は戻らない。

 なにより、どんなに否定しようとしても、少女の望みがモルディノの隣に立つことである事実は、変えられないのだ。


 ならばもう、言い訳を重ねるより認めてしまった方が潔い。


 腹を括ってしまえば、少女は強かった。


「はい。わたしが必ず、サルジーナ家を今まで以上に、栄えさせて見せます」

「お前じゃないよ。ふたりで、だ」


 モルディノの答えは少女も望むもの。


「はい!」

「それじゃあ、まずは新しい名を決めようか。思い付きそうかな」

「……わがままを言っても?」

「内容によるけれど、なあに?」


 簡単に言質を取らせないモルディノは、筋金入りの商人だ。


「モルディノさまに、付けて欲しいです、わたしの、新しい名前」

「良いのかい」

「お願いします」

「それなら──」


 モルディノは、甘く優しく、妻となる者の名を告げた。



   ё  ё  ё  ё  ё  ё



 歴史に名を轟かせる、大商人がいる。

 名を、モルディノ・サルジーナ。


 これ以上ないと言われるほどの栄華を誇っていた大商家サルジーナ家を継ぎ、さらなる栄華に昇り詰めさせた男。輸送・保存・通信の技術を革新し、一代にして三百年は時代を推し進めた、稀代の天才。


 その天才は、ひどく愛妻家であったことでも知られている。


 どこに行くにも妻を同伴させ、しかしその妻には常にベールを被らせ、着替えも湯浴みもモルディノ自ら世話をして、誰にも顔を見せさせなかったと言う。

 モルディノの妻は顔こそ見せなかったが、夫の仕事を積極的に補佐しており、特に文書でのやり取りはほとんど彼女が行っていたと伝わる。彼女の書いた手紙は数多く現存しており、その筆致の美しさや言葉選びの巧みさから、今でも手書き文書の見本として重宝されている。


 モルディノ・サルジーナの功績に、妻の助力は必要不可欠だった。


 夫に愛され、夫を支える、理想の妻。


 そんな彼女にあやかって、その名を我が子に付ける親も、多くいると言う。

 

 

 

拙いお話をお読み頂きありがとうございました

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― 新着の感想 ―
[一言] 王太子、王族じゃなくて平民の価値観としては誠実なんだけどね。ある意味では彼も性根と地位が乖離してた被害者かなと。 でも王族としては根回しもせず行動に移してるあたり素質が無かったと言わざるをえ…
[気になる点]  とても面白かったのですが、王子が悪者扱いなのが物凄く引っかかりました。  物語の描写的に王子は甘ちゃんなところはあるものの人格者では。  ヒロインを無責任に責めないできちんと自分の非…
[良い点] 悲劇で幕を閉じるでもいいけど、こうしてハッピーエンドで終わってくれるとホッとします。 ラストに名前を伏せているのも、読後の余韻を楽しめてとても素敵です。
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