第3話 洗脳呪詛エンジェルトランペット
アリアネル・アムレットは、ある貧乏な貴族の家に生まれた。
彼女の家はあまりに貧乏すぎて子供を育て切れず、末っ子であるアリアネルを、親戚の家に養子に出した。その親戚の家というのがアムレット家である。
アリアネルは体が丈夫で、14歳の誕生日にアムレット家の「騎士」になった。
騎士。領主と契約を結び、仕える戦士である。
幼い頃から領地である森を見回り、凶暴な野生動物を追い払ったり、森に侵入する「ならず者」と腕ずくで戦ったりした。
足が速く、腕っぷしが強く、喧嘩が強いアリアネルは「赤ずきん」と呼ばれ、周囲から愛された。
そんなアリアネルには姉がいる。ウルスラという、アムレット家の跡取りである。
生まれつき体が弱い姉だったが、とにかく頭が良かった。どんな難しい本でも1日で読破できた。いつも穏やかに笑い、アリアネルの話に耳を傾けてくれた。賢く、利発な姉を、アリアネルは心から尊敬していた。
二人の父と母は既に亡くなっている。その父が、「家督はウルスラに譲る」と遺言で残したのだ。
──ウルスラに任せておけば、きっと安心だ。周囲の者は皆そう思った。
だがそれに待ったをかけた人物がいた。
アリアネル達の叔母だ。
「お待ちよ。そんな小娘に、家督が務まるとお思いかい。ひとまず、この私が代理をやってやるよ」
叔母の名は、バージャという。
父親が亡くなったタイミングでふらりと現れた。ひたすらに遊び惚け、各地を転々としており、完全に「いない者」とされてきた人物だった。アリアネルも伝聞でしか知らなかった。
一言で言うなら「怪女」という言葉が相応しい女だった。
病人のように青白い肌。血を吸ったノミのような肥満体系。飛び出た眼球。常に笑みをたたえた口元。腐臭のような匂いを漂わせているが、それを多種類の香水でごまかしており、常に妖しい芳香に包まれている。
「私はね、各地を巡って魔術の勉強をしてきたのさ。それを活かしてこの家をもっと盛り立ててやろうと思ってね」
バージャの言葉を信じる者は誰もいなかった。ウルスラも同様だった。
「すみませんが、それには及びません。もう間に合っておりますので」
「フフ、フフフ。そうかい。私は近くの村の宿屋にいるからね。相談があったらいつでもおいで」
つれない態度を取られてもなお、バージャは怪しい笑顔を絶やさなかった。
だが、それから1週間、2週間と経つうちに、不思議とバージャを頼る者が増え始めた。
屋敷の使用人や、護衛。下働きの者が、バージャに教えを請いに行く。気づいた時には、バージャは屋敷の近くに現れるようになった。時には「客」として客間に居座るようにもなってきた。
「姉さん、何かおかしいですよ。気を付けた方がいいですよ」
「私も分かってる。ちゃんと調べるつもりよ」
「……気を付けて、姉さん」
「心配しないで。ウルスラお姉ちゃんに任せなさいよ」
そんな会話が交わされたこともあった。
ところが、事態は悪化を辿った。いつの間にか、バージャはウルスラの「相談役」として就任していたのだ。
アリアネルも気づかないうちに、ウルスラの様子もおかしくなっていたのだ。
とある日の朝食時、バージャは堂々と屋敷に入って来た。そしてウルスラからこんな紹介を受けたのだ。
「──今日から、バージャさんは私の相談役となりました。みんな、この人に失礼のないようにね」
アリアネルは目を疑った。なんでこんな奴が、と言いかけたが、周囲の雰囲気が明らかにおかしい。誰一人、この状況を疑う者がいなかったのだ。
食事を終えた後、アリアネルはウルスラに詰め寄った。
「姉さん! 何考えてるんですか、あんなのを相談役にするなんて!」
「あら、何を怒っているの?」
「おかしいですよ、姉さん。きっとバージャはこの家を乗っ取ろうとしてるんです」
「ダメよ、そんな失礼なことを言っては。バージャさんは頼りになる人じゃないの」
まっすぐな目で、ウルスラはそんなことを言うのだ。
そこへ、バージャが通りかかった。
「どうしたんだいウルスラ、トラブルかい」
「いいえバージャさん、ちょっと妹と話してるだけよ」
ウルスラは、するりと自らの腕をバージャの腕に絡ませる。
それがとても見ていられなくて、自分の大切なものをぐしゃぐしゃに破壊された気がして、アリアネルは走ってその場を離れた。
(──きっとバージャは、みんなをおかしくするまじないを使ったんだ)
そう思ったアリアネルは、ある日、バージャが使う部屋にこっそりと忍び込んだ。
(無事なのは、私だけだ。私が真実を突き止めて、みんなを助けてあげないと)
早鐘のようにバクバクと鳴り続ける心臓をなだめすかしながら、アリアネルは部屋の調査を決行した。
部屋にも腐臭が満ちていた。それに耐えながら、引き出しやクローゼットを片っ端から開けていく。
すると、腐臭の源に行き当たった。部屋の隅にある大きなカバンだ。
カバンには、よくわからない呪文のような文字が書かれていた。アリアネルは意を決してカバンを開いた。
「うッ……」
おぞましい匂いが鼻をついた。
カバンの中には、ぎっしりと、よくわからない植物が詰め込まれていた。
茎や葉は黒く変色している。葉の一部はトゲのように鋭く尖っている。白い花に、赤い斑点が散らばっていた。目玉のようにも見える花弁が、腐臭の源だった。まるで悪夢を凝縮したような、忌まわしい印象を与えた。
「おやおや、ダメな子だねぇ。人の部屋に勝手に入るなんて!!」
背後からしゃがれた声が響いた。慌てて振り向くと、そこにはバージャが立っていた。
恐ろしかった。だがそれ以上に、アリアネルの心には決意が宿っていた。
「貴方がみんなをおかしくしたんですね!? 何をしたんですか?!」
「フフフ。イヤだねぇ。お前みたいに、呪詛が効きづらくて勇気がある奴は、始末に困るよ」
バージャは一歩、また一歩と近づいてくる。えも言われぬ迫力に、アリアネルはたじろいでしまう。
「お前も感づいているだろうけどね。フフ、そうとも。この家はもう私の支配下だよ。このバージャの呪詛の力でね」
「……やっぱり、呪詛! アトルムでは禁止されてるはずの!」
「禁止なんて王都が勝手に言ってるだけさ。私の知ったこっちゃないんだよ」
くっくっ、とバージャが怪しく笑った。
「耐性がない人間を操るなんてカンタンなんだよ。この私の、「洗脳呪詛エンジェルトランペット」にかかればね」
「……洗脳、呪詛……」
「残念ながら人によって効きが違うようでね。お前はかかりがわるかったねぇ、姉と違って」
「この……外道が!!」
アリアネルは剣を抜こうとしたが、バージャは懐からナイフを抜き、その腕を斬りつけて来た。
「遅いッ!! いくら騎士様だろうがなぁ、ビビってる女一人がこの私に敵うわけないだろうがァ!!」
──逃げなきゃ、とアリアネルの直感が叫んだ。
すぐに役場に逃げ込もう。あるいは王都だ。呪詛という禁止魔術を通報すれば、きっと動いてくれる。
アリアネルは震える脚で必死に走った。階段を駆け下りたあたりで、右腕にとてつもない激痛が走った。
「ぐ、ぐゥッ!!」
よろめくアリアネルを見下ろしながら、階段の上でバージャが言う。
「逃げおおせるだなんて思わないことだね。この私から逃げられやしないんだよ」
この時は必死のあまり気づかなかったが、アリアネルもまた、バージャから呪詛を撃ち込まれてしまったのだ。
屋敷のあちこちから足音が近寄ってくる。バージャの部下と化した護衛が、アリアネルを捕らえようとしているのだ。
「バージャ!! 必ず落とし前はつけてやる!! 必ず!! みんなを、姉さんを、絶対に元通りにしてみせる!!」
「……は! ははは! バカだねぇ!」
心から楽しそうに笑い、バージャは続けた。
「いいかい、アリアネル! お前の姉さんの身柄は私の思い通りってことを忘れるんじゃないよ!! 私の機嫌一つで、ウルスラを殺すことだってできる!! それがイヤなら、私の元に戻りな!! お前の態度次第で、姉さんは助けてやる!!」
バージャの声を背中で聞きながら、体を走る痛みを噛み殺し、アリアネルは必死に走った。
必ず、絶対に、みんなを助ける方法を見つけ出すと強く誓いながら。