婚約破棄
目の前には、十年間婚約者だった女。
そして、その腕が絡みついているのは、十二年間親友だった男。
イアンは反応もできずに二人を見つめていた。
今日、女が着ているのはイアンが一週間前に送った紺色のドレスではない。親友の瞳にそっくりの淡いピンクローズのドレスだ。
「聞こえませんでした?フリーデンバーグ伯爵令息様」
彼女がイアンをそう呼ぶ時、そこには微かな侮蔑が混じる。伯爵家という彼女の婚約者としては低い家柄と、更に実の息子ではないという侮りがにじみ出るのだ。
だが、もう慣れてしまったそれには反応せず、イアンはただ彼女を見つめた。
気の強さが美しさでもある彼女には、ふわふわとした淡い色よりもはっきりとした色のほうが似合う。色を淡くしたいなら、ドレスの型を考慮するべきだ。十代前半の少女のような夢を見るようなドレスは今までのイメージと違いすぎる。そのせいか、イアンには、どうにも目の前の彼女が婚約者には見えない。
「婚約は今をもって破棄させていただきますと申し上げましたの。わたくしはこの高潔なる騎士シェーン・グランツと一生を共にすると誓いましたので」
「アリシア」
「婚約者ではない方に名を呼ばれるのは迷惑ですわ」
ツンとそう言い放たれて、イアンはため息をついた。彼女が一言放つごとに、その言葉が人々の興味をひき、ざわめきが発生する。
ここは大きくないとはいえ王女が主催した夜会の会場であり、彼女はその主催者で、この国唯一の王女なのだから。
「失礼いたしました、王女殿下。発言をよろしいでしょうか」
婚約が破棄されればイアンはしがない伯爵家の次男に過ぎない。礼節をわきまえて問うと、その姿勢が気に入ったのか、王女は鷹揚に頷いた。
「許します。ただし一つだけよ。皆さんのダンスの時間を邪魔しているのだもの」
それは、婚約者をファーストダンスに誘おうとしたイアンを牽制するため早急に婚約破棄を口にした王女のせいではあるまいか、とイアンは思ったが、言ってもしょうがないことだ。
「私は何をしたのでしょう」
理由もなく婚約を破棄されては義父が国王を吊し上げに行く。確実に。
これは国王からねじ込まれた縁談であり、義父は今でも不満なのだ。解消自体には賛成でも、一方的な破棄と婚約者の乗り換えは、イアンと自分を蔑ろにする行為だと義父は感じるだろう。
イアンとしては一応事態を把握して、事前に義父をなだめる必要があるのだ。
「あら、わたくし最初から言っていたでしょう?結婚したいのは、騎士様であって、騎士とは名ばかりの剣も持たない方ではないの。その点、シェーン様は、剣を取れば無双の勇者。たくましく、美しい、理想の騎士様ですわ」
きらきらと目を輝かせて王女はシェーンを見上げる。
幼い頃からそうだったな、とイアンは遠い目で二人を見た。
王女は幼い時から騎士に憧れていた。
この国では騎士とは栄誉ある職であり、実力がないとつけない職である。そして、騎士を名乗るには相応の戦闘力を要求される。
しかし、それは何も剣である必要はないのだ。
弓、槍、暗器であろうとも、戦闘力と国への忠誠があれば立派な騎士として認められる。
それが魔法であっても。
イアンは、現在、この国で最高の技術を持つ魔法士の一人だ。そして、その魔力の大きさを見込まれて王女の婚約者とされた。確かに剣を振るうものに比べれば体格は華奢だが、『名ばかり』の騎士などではないのだ。
実際、魔法師団では役職を辞退していてもことあるごとに副団長の推薦を受ける。
だが、王女の中では騎士とは剣士であり、たくましく美しいものなのだ。
「すまないな、イアン。王女殿下の命であれば断れない」
シェーンが殊勝なことを口にする。だが、すぐに王女に「アリシアと呼んでくださいませ」と言われてニヤけるあたり満更でもないのだろう。元々、酒が入れば王女との婚約を羨ましがっていたのだから。
イアンは、これはもうだめだとそれだけは理解していた。
内々での婚約解消なら国王に説き伏せられて表に出る前に無かったことにされただろう。王女もそれをわかっているからこそ、わざわざ夜会を開いてまで、噂好きの貴族たちにネタを提供したのだ。それは賢い選択だ。
だが、王女は知らない。
なぜ、婚約者に選ばれたのが魔法士であったのかを。
イアンはかけていた眼鏡を外し、夜が明ける直前の空の色の髪をかきあげて笑った。
一度目は、国と王と義父を立てて了承した。
だが、それは踏みにじられた。
何も知らされていない王女に非が無いといえばそうなのかもしれない。それでも、イアンは明日には王女に捨てられた男としてこれ以上ないほどの醜聞に塗れるのだ。自分を踏みにじられて平然としていられるほど、イアンは聖人ではない。
(義父殿ならば泣き寝入りした方がどやされそうだし)
鮮やかに笑ったイアンに視線が集中した。
王女の婚約者として品行方正に努めてきたが、元々は色街の出である母から譲り受けた容姿と人目を引く仕草は貴族にはない妖しい美しさがある。
眼鏡と長めの前髪で隠していたそれを惜しげもなく披露すると、夜会に参加していた貴婦人がばたばたと倒れる音がした。
「承知いたしました。義父には私からそう申し伝えます」
そう言われて、今まで見たこともない美しさに思わず目を奪われていた王女が我に返る。
「あ、あなた本当にイアンなの?何故隠して、そんななら、わたくし」
「王女殿下!」
何やら口走ろうとした王女を、シェーンが遮る。
馬鹿ではない、とイアンは思う。それを口にさせてしまえば、王女との婚約は白紙になる。
剣士を尊ぶあまり脳筋が多い騎士たちだが、今日まで王女と通じていたことを隠していられた程度にはシェーンは考える頭を持っている。王女の誘いに乗ったのは、この婚約の真の意味を知らなかったことと、王女に想いを寄せていたからだ。
「王女殿下よりの婚約破棄、慎んでお受けいたします。では、失礼いたします」
騎士の礼をして踵を返す。
政略の婚約ではあったが、蔑ろにできる相手ではなかったし、誠意を持って接してきた。十歳の時から十年の付き合いだ。愛ではなくても情はあった。だが、この夜でそれはすべて消え失せた。この十年の努力と、親友とともに。
「さようなら、王女殿下」
静かな夜空にイアンの声が吸い込まれて消えた。