調合士のいる街 5
「エルザさん遅いですね」
「無駄口はいいから。さっさと勉強しなさい」
「師匠が心配そうな顔してるから気になるんですよ」
夕方の調合店に、訪れる客はほとんどいない。キールに時間を見つけては必要な知識を貪欲に呑み込むようと厳しく言いつけていたアズミは、窓辺に立ち尽くしたまま随分と長い間外の様子を伺い続けていた。
「べつに心配なんかしてないわよ。帰りが遅いから気になるだけ」
「妙に意地っ張りですよねえ、師匠って。特にエルザさんのことになると酷くなる気がする」
「うっさいわね。どうでもいいでしょ」
「やっぱり、親友のことは気になりますか」
「……殴るわよ?」
振り返り、極上の笑みで口にすると、恐れをなしたキールはあくせくと広げたテキストに目を落とした。
握った拳から力を抜いて小さく嘆息する。濃紺に侵されつつある景色を眺める瞳には憂いの色が浮かんでいた。
「エルザさんって、奔放な人なんですよね」
再び背後から声をかけられた。
「キール。いい加減に勉強に集中したらどうなの」
「いや、そのですね、思うに、そんなに奔放な人なら、ちょっとぐらい夜が更けても帰ってこなかったりするんじゃないかなあなんて」
「分かってるわよ、そんなこと」
「あ、そうですか……」
しゅんとしたキールが癪に障り、睨みつけるようにして見つめる。
「あんたは気にしなくてもいいの。エルザのことなんだから、大丈夫よ」
「……でも、じゃあなんで師匠はそんなにも思いつめたような表情で帰りを待ってるんですか?」
態度が腑に落ちないキールが透き通った眼差しを寄こしてきた。堪らなくなって、アズミは再び視線を窓の外に向ける。
「あんたには関係ないことよ」
素っ気ない言葉だけを返した。
「そんなあ。分かんないですよ。気になります。勉強どころじゃあないです。教えてくださいよ。何があるん――」
止まらない口は暴力で止めるに限る。近づいて拳骨を見舞ってやった。思いっきりぶん殴ったせいで、拳がじんじんと痛み出す。
「……こんの石頭ぁ。ちゃんと集中しなさい」
「が、学問に暴力を持ち込むのはいけないと思います!」
うるさいのでもう一発殴ってやった。
「こちらと、こんなもんじゃない暴力に脅えながら毎日を過ごしてきた過去があるのよ。たかが一発や二発殴られてくらいでぎゃあぎゃあ騒がないでちょうだい」
「で、でも時代が――」
「まだ殴られたいの?」
ぶつくさと文句を垂れながら渋々ながらも勉強を再開したキールの後頭部を眺めながら、アズミは幼い頃のエルザの後頭部を思い出していた。今みたいな長い髪の毛じゃなく、項が見えるくらいに切り揃えていた頃のことだ。後ろから見たエルザはまるで男の子みたいで、幼かったアズミは男女と言っては泣かしては、ローザ婆さんに拳骨を食らっていた。
二人で最後の賢人と呼ばれる老婆の元で暮らしていた。質素だったけれど、それまでの日々と比べれば天と地ほども差のある、幸福な毎日だった。
「先に婆さんに拾ってもらったのが私で、先に婆さんの下から巣立っていったのがエルザ……」
再び窓の側に戻って呟いた。
今はそれぞれが別々の日々を過ごしている三人。アズミはローザに仕込まれた調合の知識を活用して店を構えていて、エルザは森で拾ってきた幻獣の子どもと一緒に旅をしている。たった一人、変わらずあの森で魔術の研究をしているのはローザだけだった。
因果なものだなと、アズミは感傷的に思った。まったく繋がりのなかった三人が共に面白おかしく日々を過ごして、今はまたバラバラになっている。元々目に見える関係など何もない赤の他人同士だったのだ。なのに、今でも確かに繋がっている。思うと、少し笑えてきてしまった。
結局、人は、人と人との繋がりと言うものは、今どこにいるとかじゃなく、誰と一緒に過ごしているとかでもなく、どれだけ密度の濃い時間を共有してきたかに寄るものなのだろう。ふとしたきっかけでエルザと再会してしまった。本当はもう逢えないと思っていた。なのに、なんに脈絡もなく、急にぽつんと平原の真ん中で出逢ってしまった。腐れ縁なのかもしれない。見えない糸が、確かに伸びているんだろうなとアズミは思った。
窓の外を眺めながら、アズミはエルザのことを考える。早く帰ってきて欲しいと願っていた。胸騒ぎが止まらないのだ。何かよくないことが起きつつあるという予感が、アズミを窓の側から離れられなくしていた。
「エルザ……」
呟きは、誰にも聞かれることなく、広がりつつある夜のしじまに溶けていった。
店を出る前に数日間の滞在費としてアズミにせびったお金を全部つぎ込んで、エルザは酒場に入り浸っていた。テーブル席に力なく伏せた姿を、足下のシルバが心配そうに見上げてきている。
「んふふ。なあに、シルバ。酒臭いのは苦手なはずでしょう。外で待ってていいんだよう」
舌足らずな口調で言ってから、エルザは再び酒を煽る。ひとりにも関わらず、呑み終えた瓶の本数はすでに二桁に達しようとしていた。
「ちくしょう……あの腐れ奴隷商が!」
叫び声に驚いて、酒場の人々は訝しげな視線をエルザに向けてくる。とんでもない小娘がいると誰かは隣客に話しかけ、面倒な奴がいるなと誰かは煩わしく思っていた。
たくさんの視線に晒されて居心地が悪くなるのはシルバである。ここまで荒れた呑み方をするエルザは見たことがなかった。綺麗にお座りをしたまま耳を垂らし、ずっとエルザの太ももに鼻を押し付けていた。
「何が必要悪だよ。何が社会が必要としているだよ。人の気も知らないで好き勝手言いやがって。ふざけんな」
罵り、また酒を煽る。浮かんでくる傷痕の男の飄々とした物言いが腹立たしかった。けれども、何よりも腹立たしかったのは、あのとき何も言い返せなかった自分自身のことだった。決して言い分に屈したわけではなかったが、突きつけられた外部の思惑という観点を前にしたとき、言い返すべき言葉は何も見つからなかった。
男は、奴隷たちも喜んでいるかもしれないだろうと馬鹿げたことを口にした。思い出すだけで、臓腑が業火のごとくたぎり始めてしまう言葉だった。何も知らないくせに。物として扱われ、個人としての人格も尊厳も失ったときの心を、土足で踏みにじられたような気分だった。
「……婆さん。あたし、何もできなかったよう。いつかきっとあたしみたいな苦汁を味わった人たちを助けたいって、ずっとずっと思ってたのに……」
エルザにもまた奴隷として、暗く汚い移動式の牢獄に閉じ込められて揺られていた過去があった。渇く咽喉。満たされない空腹感。見世物のように金持ちたちに見定められて、汚いねと、臭いねと、べつにいらないやと笑いながら口にされる屈辱。
次第に麻痺していく心が、全てを受け入れてしまうのが怖かった。最後まで、自分を売りに出した両親のことが恨めしくて、でも絶対に恨みきれなくて、何か原因があったんだと、自分に落ち度があったんだと、繰り返し繰り返し自問を続けていた。
救ってくれたのは、腰の曲がった老婆だった。今までに出逢ったことのある人の中でも群を抜いて小さな身体をしていたローザ婆さん。その背中は、今も、きっと将来にかけても一番大きなものだ。
あんな風になりたいと、あんな背中を見せて誰かを助けてあげたいと願っていたのに。
――少しは頭ぁ冷やして考えてみなよ。自分がいかに身勝手な正義を他人に押し付けているのかをさ。
あたしは自分勝手だったんだろうか。誰かを助けたいと、一部にしか目を向けられてなくて、周りの迷惑を考えていなかったのだろうか。
店員に酒の追加を注文する。やんわりと、もう止した方がいいのではないかと諭されたが無視した。
瓶に直接口をつけながらエルザは考える。確かに周りには迷惑なのかもしれない。うまく回っている社会の歯車を軋ませることなのかもしれない。でも、だからと言って聞こえてくる奴隷たちの悲鳴を聞き逃すことは本当に正しいのだろうか。仕方がないと諦めて、少ない人々に人間としての尊厳さえ無視するようなしわ寄せをして回る社会が正常だと言うのだろうか。
「それがもし許されるというのなら、そんな社会、あたしは要らない。柱の部分からぶち壊してやる」
犠牲にも限度がある。人を人と扱わない犠牲は、もはや犠牲などとは呼べない。最早単なる蛮行だ。暴虐であり、残虐非道な迫害だ。
そんなの、見過ごせという方が間違っている。
――独りよがりな慈善活動に身を呈すのもいいけどよ、もうちっと視野を広く持ったらどうなんだい。
その視野を持ったが故に、小さな悲鳴を聞き逃してしまうというのなら、そんな視野は持たなくてもいい。
――回っている歯車を壊すような善意は、大きな真実から目を背けた暴力だとは思わねえのか?
善意は暴力? 当たり前だ。正義だって暴力なんだ。既存の構造にしろ人の考え方にしろ、今あるものに影響を及ぼすことはすべからく暴力的な一面を持ち合わせている。それを悪と呼ぶのなら勝手に呼べばいい。行動は、いつも自分の良心に従ったたった一人の熱意から生まれるものなのだ。
がつん、と一際大きな音を立ててエルザは酒瓶をテーブルに打ち付けた。音に、一番近くにいたシルバがびくりと体を飛び上がらせる。急に立ち上がったエルザを、とうとうおかしくなってしまったかと恐る恐る見上げていた。
「絶対にぶん殴ってやる!」
宣言し、テーブルの上で拳を高く突き出したエルザは、とうとう店から放り出されてしまった。
「……ただいまあ」
「おかえ――ってクサっ!」
キールを帰し、ひとり店でエルザの帰りを待っていたアズミは、出会い頭一番に鼻を摘んだ。シルバに背負われていたエルザが力なく床に崩れ落ちる。
「ちょっと、あんたどんだけ飲んだのよ? 尋常じゃないわよこの量は」
「……分かんない……キモチワルイ……うぇええええ……」
「馬鹿馬鹿バカバカ。こんな場所で吐かないでちょうだい。ああ、ほらこっち。はやく!」
「うぇええ……し、死ぬ……」
背中を擦りながら急かして、アズミはエルザを近くの用水路まで連れて行く。噴水が近くにあったのが幸いだった。倒れ込むようにしてエルザは空っぽの胃から気持ち悪さだけを思う存分吐き出し続けた。
「ほら、お水。飲める? 飲めないなら、根性で飲みなさい」
「あ、ありが、うえっぷ……」
「もう。何があったのよ。こんなになるまで呑むなんてらしくないわよ?」
背中を擦りながら、アズミは優しく声をかける。目尻に涙を溜めながら顔を上げたエルザは、眉を下げたまま力なく微笑んだ。
「へへ。ちょっと嫌なことがあってさ。自棄酒ですよ」
「バカねえ。ひとりで呑む自棄酒ほど厄介なものはないのよ? 呼んでくれれば、私も駆けつけたのに」
「一人にね、なりたかったんだ」
返事をしてから、エルザは三度顔を水路に向けた。死にそうな土気色の顔で上体を持ち上げると、アズミが持ってきてくれていた水を勢いよく飲み干す。少しは気分がよくなってきたようだった。
「まだ、持ってこようか?」
「悪いね。お願いするよ」
店の中へと消えていったアズミの背中を、エルザはぼんやり眺めていた。
見上げれば、夜空には満天の星が輝いている。今夜は新月だった。道理でシルバに背負われて帰ってきた道が暗かったわけだ。理由が分かって少しすっきりした。
「はい。これ。調合薬も持ってきたから、一緒に飲みなさい」
渡された粉末を、水で勢いよく流し込む。
「……まっずいね」
「良薬は口に苦しってね。昔からよく言うでしょ」
「それが本当なら、きっと効き目絶大だね。気を失うほどまずかった」
「軽口が叩けるようになったみたいだから、もう安心ね。直によくなるわよ」
どんな判断基準だとエルザは思ったが口にはしなかった。
小さく声を出しながらアズミが隣に座る。シルバもゆっくりとエルザの隣に擦り寄ってきた。言葉は何もなく、ただ暗夜の静寂に耳を傾けて続けていた。
「……酒呑んでたらさ、急にローザ婆さんのところにいた時のことを思い出したよ」
「そう」
「うん」
短い会話が終わって、再び静けさが戻ってくる。しばらくの間、噴き出しは流れていく水の音だけが辺りを覆いつくしていた。
伸ばしていた足を抱えるように移動させて、アズミが口を開く。
「私もね、思い出したよ。あんたのことをさ、男女って言っていじめてたこと」
「ああ、あったねえそんなことも。そのあとで婆さんに拳骨で殴られて」
「そうそう。結局二人してわんわん泣いてね。仲直りの握手ってローザ婆さんに言われて、渋々握手していた」
「あたし、許してなかったんだけどな」
「私もどうして握手しないといけないのか分からなかったわよ」
見詰め合うと、くすくすと笑えてきてしまった。
「もう随分と昔のことのような気がする」
「昔のことに決まってるじゃない。私は店を持って、あんたは旅をしているのよ? なんだったけ、トレジャーとかやってるんでしょ?」
「うん。今日も図書館調べてきた」
「ちょっと、あんた遺跡を壊す破壊屋って有名なのよ?」
「破壊屋ねえ……道理で図書館での反応が芳しくなかったわけだ」
「……図書館は壊さないわよね?」
「ふふ。馬鹿言わないでよ。誰も好きで壊してるわけじゃないって」
「どうだか。昔っから無茶ばっかりしてたからねえ」
「お蔭様で成長しましたからね、少しは考えるようになりましたよ」
「なのに、あれだけ有名なんだ」
「それを言われるとなんとも……」
しどろもどろになったエルザを、アズミが微笑ましく見つめる。
「あーあ、やっぱり変わってないなあ。あんたも私も、結局あのボロ屋敷に拾われて、そのままここまできちゃったんだね」
「何を今更。分かりきってることじゃんか」
「そうだね」
眼鏡の奥で、アズミの瞳が罰の悪そうな色を灯した。エルザの隣で、シルバは安心したように丸まっている。ぼんやりと星空を見上げた後に、エルザは不意に口を開いた。
「でもさ、ここまできたからできることもあるはずなんだよね」
伸ばした掌が浮かび輝く星を捉えようと大きく開かれる。力強く握りこぶしを作ったその右手を、アズミはじっと見続けていた。
「あたしたちは、きっと昔と一緒で、全然変われてなくて、嫌な思いでも、楽しかったことも、たくさん仕舞い込んでて。だから前に進める。力を生み出すことができるのんだと思うんだ」
「……何急に語っちゃってんのよ」
「アズミ」
茶化されたにも関わらず、エルザは真剣な表情でアズミに向き直った。
「教えてほしいことがあるの。奴隷商のアジトはどこ?」