調合士のいる街 3
どれだけ飲んでも、宵越しの酒は残さないのが上手な酒の飲み方だ。酒瓶が床に散在する作業部屋で、エルザはいつもどおりの清々しい目覚めを迎えていた。
丸まっていたシルバの懐からもぞもぞと動き出して伸びをする。立ち上がり、穏やかな陽射しが差し込む出窓を開くと、澱んでいた空気が一気に外へと逃げ出して行った。吹き込んでくる爽快な冷気が肌に心地いい。胸いっぱいに深呼吸をしてから、軽く体操をした。
口には出さないで数を数え、少しずつ身体の筋肉をほぐしていく。気配に気がついたのか、背後で深い眠りについていたシルバが大きな欠伸をした。
「おはよう。昨日はごめんね。酒臭かったでしょう?」
振り返って少し反省の色を見せたエルザを、シルバは瞬かせた眼で見つめる。立ち上がるとぶるぶると大きく体を震わせて、ゆったりと左右に尾っぽを振った。歩み寄り鼻筋を撫でながら、額にエルザはぎゅっと頭を押し付ける。目を細めたシルバも返事をするように顔を押し返してきた。
「アズミの様子を見に行こうか」
顔を離して、にんまりと微笑む。一緒に作業部屋を後にした。
一階では、すでにアズミとキールが忙しそうに仕事を始めていた。早くから熱心なことでと感心する一方で、出窓から見た太陽が随分と上空を紺碧に染め上げていたことを思い出す。昨夜はアズミの方が先に潰れてしまったとは言え、遅くまで寝過ごしてしまったことが少し恥ずかしくなった。
「おはよう」
できるだけ邪魔にならないように、階段を下りた店の端っこから声をかける。
「ああ、エルザ。おはよう」
「あ、おはようございま――わあ!」
振り返った拍子に、キールは持っていた木箱を手から滑り落としてしまった。小枝ほどの細い木材が乾いた音を立てながら辺り一面に四散する。
「ああ、もう。開店までもう時間がないっていうのにどうしていつもそうなの。仕事は増やさないで。ほら、さっさと拾う」
「うう。すみません」
言いながら二人でしゃがみ込み急いで木材を木箱に戻していく。キールに対する変わらないアズミの態度からは、昨夜の会話の内容など微塵も感じられなかった。エルザの脳裏に、口外しないでと言われたときのアズミの表情が浮んでくる。背後に秘められていたのは強い決意だったのかもしれない。二人、共に過ごしてきた時間は確かな関係を築いているようだった。
散らばった木材を集め終わって立ち上がったアズミは、キールに木箱を運ばせるよう指示を出すとエルザに向かってため息を吐いてみせた。
「毎朝あんな感じなの」
「大変だね」
「本当。でも、もう慣れちゃった」
言って、くしゃりと破顔した表情からは、優しさが滲み出ているようだった。そうそう、と口にしてアズミは更に言葉を続ける。
「昨日さ、私を寝室まで運んでくれたでしょ? なんかごめんね。いろいろ考えてたらいつの間にか眠っちゃっててさ。面倒かけちゃった。でも、お陰で今朝もすっきり起きられたよ。ありがとね」
「礼を言われるようなことでもないと思うけど」
気恥ずかしそうに頭を掻いたエルザを、にこやかに見返しながらアズミが口を開く。
「本当に感謝してる。ありがとう。だから、ついでに二階の作業部屋、片付けといて」
なるほど。そう言う魂胆か。目の前で満面の笑みを浮かべる眼鏡女が狡猾に見えたエルザだった。
ぶつくさと文句を言いながらも二階に戻って空き瓶を洗う。作業部屋を元の形に整えると、急に何もすることがなくなってしまった。一階に下りてみても、店の手はアズミとキールの二人で十分足りている。慣れないエルザが助っ人を名乗り出たところで、かえって邪魔をしてしまいそうだった。
「ちょっと街中歩いてくるよ」
しばらく店の隅で暇を持て余していたものの、植物図鑑を読んでいたアズミにそう声をかけた。本から顔を上げたアズミには、ひらひらと手を振られた。
「いってらっしゃい。迷わないようにね」
「え、エルザさんどこかに行っちゃうんですか? 折角いろいろとお話を聞かせてもらえるものと思っていたのに」
口にして、せっせと働き続けていたキールがしょげてしまった。アズミが呆れた表情を向ける。
「あんたは仕事と勉強」
「そんなあ」
肩を落としたキールを気の毒に思いながらも、シルバを従えてエルザは街に繰り出した。
太陽が鋭い陽射し投げかけてきていた。店を一歩出て人影がまばらな噴水の広場に立ったエルザは、空を見上げると今日は暑くなるかもしれないなと思った。
建物に挟まれた薄暗い路地裏を大通りに向けて進む。遠ざかっていたはずの喧騒が再び牙を剥き始めた。
朝だろうがなんだろうが、どんな時だって活気に満ち溢れているのがリオーネの市場である。大通りを埋め尽くす人波を目にして、エルザは呆れにも似た驚きを抱いていた。
「朝っぱらからよくやるよ」
呟きは、仕入れたばかりの食材を商い始めた店舗の掛け声にかき消されてしまった。小さく嘆息してからエルザは路地裏から市場に歩を進める。代わる代わる行き交う人波に揉まれながらも、流れに合わせるようにして歩調を整えていった。雑踏の中、騒がしさに耳を伏せるシルバに対して若干の心苦しさを覚えながらも、立ち並ぶ店の様子を眺めていった。
鮮やかに陽射しを反射する果物を軒先に並べた青果店に、氷を敷き詰めたトレイの上に鮮魚を並べた魚屋さん。その場で焼き豚を切り出して即席のサンドウィッチを売り出す店もあれば、様々な果実を絞ったジュースを並べている店もあった。
「これ、二つください」
「まいど。お、獣を連れてるのか。ならほら。大盛りだ」
「わ、ありがとう」
「良いってことよ」
気前のいいお兄さんの屋台で遅めの朝食と飲み物を買って、ひとつをシルバに上げながらエルザは更に市場を歩いていく。食べ歩きは、この街の醍醐味のひとつだった。口の中に広がるジャンクフードの味を満喫しながら、アンティークな家具をぞんざいに積み上げたインテリアショップや、黒い暗幕に覆われたシルバーアクセサリー店、魔術などの様々な学問に関する書籍だけを取り扱う店や、破格の値段でありとあらゆるものを並べたリサイクルショップなどを興味深く眺めていった。
冷やかし半分でそれらの店を見て回り終える頃には、太陽が中天に浮び始めていた。近場に見つけた出店で簡単な昼食を済ませると、テーブルに着いたままこれからどうしようかを考えた。
「シルバはもう市場歩きたくないよね」
足下に伏せる相棒に訊ねる。当然だというように大きく息を吐かれてしまった。苦笑を浮かべて頭を撫でてやる。
「ごめんね。悪かった。ここまで人で溢れてるとは思ってなかったんだよ」
声をかけても、シルバの機嫌はよくならない。足を踏まれ、ベタベタと体を触られたのが余程腹に据えかねているみたいだった。顎を組んだ前足に乗せたまま微動だにしない様子を見て、困り顔のエルザはどうしたものかと思い悩む。顔を上げてぼんやりと見上げた街並みの向こう側に、どこかで見たことのある石造りの建物が聳え立っているのに気が付いた。
同時にエルザの頭にひとつの妙案が思い浮かぶ。再びシルバの見下ろすと、囁きかけるように話しかけた。
「シルバさんや、涼みたくはないかい?」
声に、ピクリと大きな耳が反応する。のっそりと持ち上がった顔は、訝しげにエルザの表情を見つめ返してきていた。
「図書館、行こうか。あそこならたぶん涼しいし」
言って、朗らかな笑ったエルザに向かって、シルバの尾っぽはゆっくりと左右に揺れた。
小高い丘の上に建つリオーネの図書館は、街唯一の石造りの建築物だ。その完成は古く、古王国ダルファの時代にまで遡ると言われている。施された緻密な装飾が、かつてここに栄華を誇った文明があったことを静かに物語っていた。
「あったあった。いつか見た資料と全然変わらないじゃない」
建物に入ったエルザは、階段を登ると窓辺の一席が空になっているのを確認した。風通しのいい過ごしやすそうな場所だった。
「じゃあ、シルバはここで待ってて。あたしは調べてくるから」
言うと、ひとり並ぶ本棚へと向かっていく。残されたシルバは、ようやく一息つけるといわんばかりに丸まって目を閉じた。
コツコツと、床を叩くブーツの音が辺りに響いていた。石造りのためか少し薄暗く空気が冷たい図書館の内部には、微かにカビのような臭いが漂っている。魔術で灯された『決して物を燃やさない炎』が、あちこちのランプシェードから光を生み出していた。
エルザは、等間隔で立ち並ぶ本棚の間を進んでいた。大きさはざっと身長の三倍以上。天辺の本を取り出すためには、長い梯子を上らなければならない巨大な本棚だった。与えてくる威圧感は並々ならぬものがある。厳かな雰囲気が、エルザの探究心を掻き立てた。
本棚に前にはは街の住人らしき人々や、研究者らしき人の姿、学生風の二人組みなど様々な人がいた。しゃがみ込んで下の段の本の背表紙を見ている人もいれば、梯子とずり動かしている人も、梯子の上っている人もいた。それらの人々が一体に何に疑問を持ち、何を調べようと思っているのかを、エルザは知ることができない。けれど、そんなことを調べるよりも前に、この図書館の噂について調べてみれば良いのにと思わずにはいられなかった。
建物の中に入る前のことである。小高い丘の上に建造されたリオーネの図書館に辿り着いたエルザは、この図書館の地下には秘密の空間が広がっているという噂のことを思い出していた。ともすると未踏の空間であると取沙汰されていたその場所には、まだ誰も知らないダルファの遺物が隠されているかもしれない。見つけ出して顔見知りの研究機関に情報を売り渡せば、報奨金が貰える可能性があった。
失われたかつての超大国ダルファ。その遺跡の調査と、残された遺物の発掘にはトレジャーと呼ばれる専門職の人間が派遣されていた。渓谷の自治機械都市『ガルナック』で組織されたその集団に、エルザもまたちゃっかりと属していたりする。
瓦解し、時には未知の動植物によって独自の生態系が育まれている可能性がある遺跡に潜り込むことは、常に危険と隣り合わせの仕事である。にも関わらず、毎年のように志願する者が絶えないレンジャーの仕事の魅力とは、何と言ってもハイリスクハイリターンな報酬制度にあった。
ハズレを引けば、危険な目に合ったとしても収入はゼロ。代わりに、当たりを引けば、飲み食いに困らない生活を幾日も享受することができたのだ。エルザにしてみれば、またとない職業である。幼少の頃村で習った気功術もまんざら無駄ではなかったなと、大嫌いな村にもひとつだけ恩義を感じたものだった。
加えて、エルザは個人的にダルファの謎に興味を惹かれていた。数百年も昔に栄華を誇った超大国の技術。その秘密を、ガルナックならば、アバル王国からも独立して好きなように研究できる。王国は科学の使用に対して厳しい制限を設けていたり、やたらと独善的な法整備をしたりと、昔から好きにはなれなかったのだ。
いくつかの本棚の間を通り過ぎながらも、エルザの視線は鋭く周囲をうかがい続ける。何かがあるはずだった。培ったトレジャーとしての嗅覚がそう告げていた。
「どうしてここまで何もないんだろう」
なのに、一通り見終わったあとでひとりごちた。集中した割りに手がかりがひとつも得られなかったのは少々堪えたが、逆に考えたら明らかに不自然なことだった。
リオーネの図書館は間違いなくダルファ時代に立てられた建造物なのだ。今でも使われているのだから、それなりの補修が施されている可能性はあったが、だとしても潔癖すぎた。遺跡としての風格がなさ過ぎたのである。
そういえば、とエルザはあることを思い出した。ダルファ王国から現アバル王国至るまでの数百年間の間に、徹底してダルファに関する文献や記述、遺跡などが破棄された時期があった。
もしかしたら、ここリオーネの図書館でも同じようなことが起きたのかもしれない。誰がどんな理由で強行に及んだのかは分からないが、遺物に繋がる何かもその時に破棄してしまったのかもしれない。
考えたら悔しくなってきて、エルザは親指の爪を噛んだ。昔の時代の人間のエゴのせいで、今の時代の人間が知りたいことを知れないことが腹立たしかった。
けれども、いくら腹を立てたところで何が解決するわけでもない。項垂れ、がっくりと肩を落としたエルザは、ひとまずシルバの元へと戻ることにした。