調合士のいる街 1
ルチの町を出発して五日。青々と晴れ渡った空の下で、赤茶色の髪を束ねたエルザと相棒の白狼シルバが古い石畳の街道を歩いていた。右も左も、見渡す限り腰の高さまではありそうな草原に囲まれている。繁殖力に凄まじいものがあるらしいその植物は、隙間なく敷き詰められているはずの石畳の繋ぎ目から、ちらほらと小さな若葉を覗かせてきていた。あと数十年もすれば、街道は緑に覆い尽くされてしまうのかもしれない。
数百年前から変わることなく、当たり前のように遥か遠方まで伸びている街道だった。実を言えば失われた超大国の遺産であったりする。一目見ただけで分かる緻密な設計と、数百年もの間唯の一つも補修を必要としなかった事実が、結集された技術の高さを指し示していた。
そよ風が草原に風紋を刻みながら通り過ぎていった。さわさわと擦れあう音が辺りいっぱいに爽やかに響き渡る。
心地よい音色の中に場違いな雑音が混じっていることに、シルバの方が早く気が付いた。ぴくりと大きな耳を立ち上げると、立ち止まって背後を振り返る。様子に、隣を歩いていたエルザも首を後ろに捻った。地平の彼方から、一台の馬車が近づいてきていた。
屈強な二頭の黒馬が、鼻息を荒くしながら街道を進んでくる。引いているのは、大人でも優に十人は乗れる屋根付の大きな荷車だった。一体どれだけ積荷が押し込められているんだろう。気になって見つめていたエルザは、次第に輪郭がはっきりとし始めた運転席に見覚えのある顔が座っていることに気が付いた。
「アズミじゃない」
叫んだのが聞こえたのか、それともとっくに気が付いていたのか、手綱を引くと、少し灰色がかった黒髪の御者が馬車の歩みを止めた。いななく馬たちを宥めながら街道に足を着ける。朗らかな笑顔を湛えて、アズミは駆け寄ってきたエルザたちに声をかけた。
「久しぶりね。こんなところで会うなんて奇遇にもほどがあるわ」
「本当。いつ以来かな。もう随分と会ってなかったような気がするよ」
「あんたが何も言わずにボロ屋敷を飛び出した以来よ。まったく。こちらと店を構えてるんだからさ、顔ぐらい見せなさいよね。誰かさんとは違って、自由に放浪できないんだから」
言って、嘆息したアズミは少しずれた眼鏡を元に戻した。面白くない反応に、エルザは胸の前で腕を組む。
「そんなこと言ったって、あたしだっていろいろと用事があるんだよ?」
「どれもこれも大したことじゃないじゃない。いつだって自分の思い通りに動ける。気ままなもんよ。昨日も今日も仕事の依頼であっちこっち奔走してる私に比べたら天と地ほどの差があるわ」
「……まあ、確かにそうかもしれないけどさ」
疲れと一緒に声に向けられた苛立ちに、思わず気圧されてしまった。気まずさを感じて、エルザは話題を変えようと口調を明るくする。
「ところでさ、店の方はどうなの。噂には聞いてたけどさ、順調にいってるの?」
「お蔭様で。リオーネの街には私のところしか調合店がないからね。常連さんも増えてきたし、これからはもっと軌道に乗るはずよ」
「へえ。頑張ってるんだ」
「まあね」
アズミが肩を竦めた。二つか三つしか年齢は違わないはずなのに、目の前に立つ短髪の女性は自分よりも何倍もしっかりしているように見える。さすがだなと、感心すると同時に少し妬ましくなってしまった。昔も今もアズミはエルザよりもずっとしっかり者で、気が付かされる度にちょっとだけ悔しくなるのだった。懐かしい感覚に、エルザの頬は思わず緩んでしまう。
「これからお帰りなんですか?」
「うん。人手が足りなくてさ。材料も自分で調達しているの」
「忙しそうだね」
「慣れたわよ。かれこれ二年は同じやり方でやってきてるんだから」
「誰か雇えばいいのに」
「そうなんだけどね。なかなかいい人がいなくて」
「単に選り好みしてるだけなんじゃないの」
「かもしれない」
言ってから、アズミは苦笑を浮かべた。
「変わらないわね。あんたも、私も。あの頃のまんまだ。随分と顔を見なかったから、ちょっとは変わったかと思ったのに」
「あたしも同じこと考えたよ。いろいろあったんだけどね。根っこのところは簡単には変えられないや」
「何。あんたもそれなりに経験していろんなことを学んだんだ?」
「まあね。伊達に各地を旅してるわけじゃないもの」
「そっか……」
少しだけ遠い目をしてアズミが言った。それから、ずっとエルザの隣で静かに座っていたシルバに目を向けてにっこり微笑んだ。
「相棒は相変わらず無茶ばかりで、お前も大変なんだね」
「なに、その言い方」
ぷくっと頬を膨らませて眼光を鋭くさせたエルザの隣で、シルバは大きく息を吐いた。
「ほら、シルバもそうだって言ってる」
「ちょっとどういうこと、シルバ。あ。こら、逃げるな。待ちなさい」
駆け出し始めたシルバとエルザの姿を、アズミは微笑ましく見守っていた。
馬車の荷台から大通りを眺めていたエルザが、堪らず呆れたように口を開いた。
「やっぱりうるさいんだね、この街」
「まあね。でも物には困らないし活気もある。住めば都よ?」
「そうは言ってもなあ」
呟いて、運転席の後ろに開けられた覗き窓から視線を背後に移す。食料品から衣類、家具やアクセサリーに至るまで、ありとあらゆる出店が軒を連ねている大通りには、馬車が通り過ぎた側から人が溢れ出してきていた。見ているだけで疲れてくる。この喧騒が通りの端から端まで永遠と続いていると思うと、それだけでげんなりしてしまった。
「あたしには合いそうにないや」
「かもしれないわね」
答えて、アズミは苦笑を漏らした。
街道でアズミと偶然の再会を果たしたエルザは、市場が有名な商業都市リオーネにやってきていた。考えてみれば、アズミの店に一度も立ち寄ったことがなかったのである。積もる話もあることだし、久々にアズミと酒が飲みたいと思っていた。
物でごった返す荷台の中で、がたごととシルバと一緒に揺られていたエルザが呆れ果てたように口を開く。
「それにしてもさ、何なのこの荷物。木材に、こっちは土、かな。良く分かんない植物の束なんかもあるしさ、いくらなんでも節操なさ過ぎじゃない?」
「あんたが座ってる隣の瓶、中には蟲毒の死体がいっぱいよ」
「うそっ!」
声と共に、荷台から騒然とした音が聞こえてくる。
「ちょっと止めてよ。大事な商売道具なんだから」
「死体なんて聞いてない!」
「ああ、大丈夫。呪いのかかった虫の屍骸だから」
「余計にたちが悪いよ! 人をゲテモノばっかりの荷台に押し込めて。ひどい!」
「あら。歩きたくないから馬車に乗るって言い出したのはあんたじゃないの」
「こんな物があるなんて知ってたら乗らなかったよ!」
よくもまあここまで我侭なことがほざけるものだ。思ったアズミには、覗き窓越しに浴びせられる甲高いエルザの喚き声が鬱陶しかった。
「べつに降りたって構わないんだからね。人ごみにもまれて疲れるだけだと思うけど」
「……それはその、確かに嫌だけどさ」
「ならうるさくしないで。あんたの声、きんきんしてて耳障りなのよ」
「ひっどーい。何なのさ、その言い草」
「あと一回叫んだら降りてもらうから」
脅しに、エルザは渋々おとなしくすることにした。アズミは笑顔を絶やさない人だ。だから、初見の人に対しては概ね良好な印象を持たれる。けれども、一度気の置けない中になってしまったが最後、エルザの様に言いたい放題言われる羽目になってしまう。
行き場を失った不満はできるだけ小さく呟くことでしか解消できそうになかった。
「ほんっとに嫌な性格してるんだから」
「なあに? 聞こえないんだけど」
「なんでもないですよ」
この地獄耳女め。少々積荷が崩れてしまった荷台の中で、膝を抱えたエルザは小さく嘆息を漏らした。
ずらりと並んだ荷物に場所を取られ、窮屈そうに体を小さくしていたシルバが苦しそうな唸り声を上げた。
馬車は通りを右に折れて、少し細くなったわき道に入っていく。途端に、今までの喧騒が嘘みたいに静かになった。
商業都市リオーネの特徴的な一面だった。大通りは連日連夜、朝早くから夜遅くまでお祭り騒ぎのような音の洪水に見舞われ手いるにも関わらず、少し道を逸れれば羽を休めた小鳥の鳴き声が波紋のように広がる静寂に満たされているのである。商業と生活が完全に分断された街並み。市場が今のように爆発的に大きくなった時から変わらない、リオーネの日常だった。
馬車は競り立つカラフルな漆喰の建物の間を、壁にぶつからないように慎重に通り過ぎていく。いくらアズミが慣れたとは言っても、陽があまり差し込まない通路を進む間は緊張を保ち続けなければならない。
「ごめんなさい。少し通らせてもらいますか?」
反対側からやってくる歩行者に何度も詫びながら、そろそろと通路を進んでいった。勝手が分かっている住人たちは、すれ違いざまにそっと微笑んでくれたり、お疲れと声をかけてくれたりした。
やがて、そんな通路を通り抜けると、少し開けた広場に到着する。中心に設置された噴水が素朴な飛沫をあげている広場だった。大通りの騒がしさを火山のような猛々しさと表すのならば、ここは差し詰め満開の花に彩られた原っぱのような和やかさに満ち溢れた空間だった。
馬車は、そんな広場に面した古めかしい木造建築の前で歩みを止める。アズミがリオーネの街に開いた調合店だった。
「さてと。エルザ、荷物運び手伝って」
「あいよ」
答えて、エルザとシルバは荷台から飛び降りる。両手を上げて、ぐうっと伸びをした。大きく息を吸い込むと、身体が本来の調子を取り戻したような気がした。
シルバも体を激しく震わせたり、前へ後ろへじっくりと伸びをしたりして、溜まった緊張を解きほぐしている。結構な長旅だったなと、太陽が随分と昇った青空を見上げてエルザは思った。
唐突に激しい音がして、店の扉が開け放たれる。
「師匠、おかえりな――へぶしっ」
言い切る前に見事にずっこけた。
エルザとシルバは何事かと声がした方に顔を向ける。店先の石畳に少年が顔面を打ち付けていた。
「誰?」
「んー、一応弟子、かな」
答えてから、アズミは男の子の側に歩み寄る。
「ほら、キール。いつまでも突っ伏してないで、さっさと荷物運び手伝って」
「は、はひ」
涙声でキールと呼ばれた男の子が顔を上げた。
おおよそ十三くらいの年齢だろうか。少し褐色がかった肌にはまだあどけなさが残っている。物怖じするような目の色に、どれほど歳を重ねたところで自分の好みにはなりえないなとエルザは思った。
じろじろと人相を確かめる視線に気がつきながらも、痛みに耐えてぐぬぬと立ち上がったキールは、ぱたぱたと服の汚れを払う。最中にようやくエルザの方に目を向けた。
しばらくきょとんとした表情でじっと見つめられる。その内に眼差しが隣のシルバに移動すると、急に表情が綻んだ。なんだこいつ。思ったエルザは少したじろいでしまう。
「あの、その、エルザさん、ですよね。白狼使いのエルザ」
ずいっと近づいてきて目を輝かせるキールに頷き返す。
「う、うん。そうだけど」
「わわっ。初めまして。お目にかかれて光栄です。いろいろとお話には聞いてて、その、師匠もすごい人だって言っていたから、いつの日かお会いしたいとずっと思ってたんですよ」
「は、はあ」
困った奴に出会ってしまったなと思った。
「あ、あの。もしよろしければ、その、握手とかしてくれませんか?」
「……べつに、いいですけど」
「ほ、本当ですか? ありがとうございます! ぼく、キールって言います。初めまして!」
「はいはいはいはい。そこまでしときなさい」
キールの後頭部に鋭い一撃が見舞われた。
「荷物運び手伝ってって頼んでたでしょ。喋ってないで、早くやんなさい」
「す、すみません」
全力でアズミに頭を下げてからキールは素早く荷台へと移動する。見送りながら、エルザはアズミにじと目で振り返った。
「人手に困ってるって言ってなかったっけ?」
「まだまだ使えないもの。簡単な仕事すらできやしない」
「大変な奴を弟子にしちゃったんじゃないの?」
「まあ、少しは後悔してるかも」
苦笑を浮かべながら口にした。
「でも、ね」
それ以上は続けずに、アズミはせっせと働きだしたキールの姿をぼんやりと見つめた。その眼差しの意味が分からなくて、エルザは小さく首を傾げた。
「どうかした?」
「ん。何でもない。そんなことよりも。エルザ、あんたも手伝いなさいよね。さっきから私ばっかり荷物運んで。馬車に乗せてやったんだから、見合うだけの仕事で返すのが筋ってもんでしょ」
息巻く迫力に押されるようにして、エルザも慌てて荷物を運び始めた。
「もう。ほんっとに」
嘆息しながらも、口元には穏やかな微笑が浮んでいた。