サラマンダーとルチの酒 3
ずるずると、一瞬でぼろ雑巾のようになったエルザの身体が岩盤をすべり落ちていく。途切れそうになる意識を手放さないようにするので精一杯だった。
背中から諸に岩壁にぶつかったせいで息ができなくなった。衝撃で骨が軋んでいる。筋肉が一本一本千切れていくような痛みが全身を襲っている。辛うじて顔を上げたエルザは、ぼやける視界の向こう側に、再び雄叫びを上げ始めたサラマンダーの姿を見た。
逃げなくちゃと思う。あの炎の渦を食らったら消し炭も残らない。まだ死にたくなかった。酒が飲めなくなるのはどうしても嫌だった。
でも、いくら強く思っても身体が言うことを聞いてくれない。どうしようもできない苛立ちが募るほど、エルザの焦りは増していった。
どうする。どうすれば、この状況を抜け出せる。懸命に考える。雄叫びは終わろうとしている。動け。動け動け! 心の中で叫んだ。逃げなきゃ、じゃなければ死んでしまう。
絶望に目を閉じた。
サラマンダーが前を向く。
白い影が、エルザの前に躍り出た。
轟と音がして炎の渦が吐き出される。四肢を踏ん張り、シルバが高らかに遠吠えをすると、四つの光が生まれ、結界が生じた。
いつまで経っても訪れない熱量を不思議に思って、エルザはそっと目を開く。目にしたのは、白濁した青色の障壁に阻まれる炎の渦だった。破壊的な熱さえも届いてこない。エルザは毛の先が鮮やかな青に染まったシルバに目を向けた。
「助かったあ」
心から安堵した声を出した。
向けられた炎の猛攻が収まる。二頭のサラマンダーは尻尾を猛々しく打ち鳴らしながら威嚇を続けていた。応じる形で、結界を閉じたシルバも唸り声を上げる。エルザが絶命の淵に立たされたためか、全身の毛が逆立っていた。
そんな中、ようやく立ち上がることに成功したエルザはひとり違うことを考えていた。節々にまだ痛みは残るものの、ぱんぱんと土汚れを叩いて前を向く。どうしてサラマンダーがここまで凶暴になっているのかがまだ分からなかった。あんな炎を吐くなんてことも知らなかった。
不思議に思いながらも、緊張を新たにする。退路は二頭の後ろだった。これ以上戦うつもりはなかったけれど、辿り着くまでにはまだひと悶着ありそうだ。どうする。考えて、すっと腰を低くする。
その時だった。エルザは聞きなれない甲高い鳴き声を耳にする。何だろうと、顔を上げた。
段になった岩場の上層から、小さなサラマンダーが顔を覗かせてきていた。その数ざっと十頭。目の前の二頭が一際大きくいなないた。
なるほど。エルザは全てを理解する。サラマンダーが葡萄を食べてしまう理由も、ここまで凶暴になっているのも、全てはあの十頭が答えだったのだ。
「シルバ」
声をかけて、エルザは素早く背中に跨る。原因が分かった以上、もう手を出すことはできないと思い始めていた。
抱きつくようにして姿勢を安定させたエルザの感触を得て、シルバは颯爽と二頭に向かって駆け出し始める。目標は背後の通路だった。
火球がひとつ。素早く斜めに進んで避けると、もう一頭が目の前から噛み付いて来ていた。飛び上がり、それをいなして先に進む。上下交互に繰り出される尻尾の追撃と、容赦ない火の玉を、シルバは紙一重でかわし続けていった。
通路に辿り着く。一本道を、後ろから猛然と追いかけてくる二頭を尻目に、するすると駆け抜けていく。
やがて淡緑色に照らし出されていた薄暗い洞窟の先に、鋭い陽の光が点となって現れ始める。出口はもうすぐだった。シルバは更に加速を続ける。背後でサラマンダーが雄叫びを上げた。
「やばい。シルバ、急いで!」
声に、純白の四肢は更に力強く地面を蹴る。洞窟から飛び出し、右にそれるのと同時に、炎の渦が洞窟から飛び出してきた。
立ち止まり、轟々と唸る火柱を眺めながら、エルザはシルバの背中から降りる。炎が消えた洞窟からは、追撃の手はやって来なかった。
「お疲れさま。いろいろ助けてもらったね。ありがと」
言って優しく体を叩くと、シルバは嬉しそうに目を細めてエルザに顔を押し付けてきた。
ごろごろと咽喉を鳴らすシルバを可愛く思いながらも、さて、どうやって報告したらいいものかとエルザは考えていた。捕獲も移動も、はっきり言って不可能だった。彼らはこの場所で子育てをしているのだ。無闇に手を出せば、今しがたのように手痛い歓迎を受けることは目に見えていた。
「どうしたもんかなあ」
まだ少し痛む背中に顔を顰めながら、真っ青な空を仰いだ。浮ぶ綿のような雲の下を、大きな鳥が気持ちよさそうに飛んでいた。
「おお。無事だったか」
鉱山の麓までやってきたエルザに、酒蔵のおっさんが声をかけた。隆々とした褐色の筋肉がてかてかと陽の光を反射している。どうだったと、期待を込めて口にされた言葉に、エルザは困ったように苦笑を浮かべた。
「そのね、たぶん手を出すのは無理だと思う」
「は?」
ぽかんとした表情のおっさんを前にして、エルザはますます気まずくなる。
「だからね、言った手前何とかしようとは思ったんだけど、サラマンダーをどうにかするのは不可能だって分かっちゃったのよ」
「どうしてだ」
「あいつら、あそこで子育てしてたの。子を守る親の愛情は壮絶なものがあったわ。危うく死にかけちゃった」
言って、エルザは見てきたことを説明し始めた。
現在サラマンダーはおおよそ十頭の子どもを育てていること。子どもがいる間は非常に凶暴になっていて、巣に入ってくる外敵は容赦なく殺そうとしていること。サラマンダーという獣は、子育て中は特定の場所に留まって、一定の範囲内で狩りを続けているということ。葡萄が狙われたのは、元々食料の少ない土地に生息するために手ごろな食べ物になったことが原因だろうということ。
「だから、あたし達にできることはほとんどないのよ。下手すれば殺されちゃうからね。子どもが成長するのを待つしかない」
「おいおい、そりゃねえよ。こっちは生活がかかってるんだぜ」
おっさんが嘆いた。
「そりゃあ確かにこんな岩山で子育てをするのが大変なのは分かる。でも、だからと言って葡萄を食われたんじゃ堪んねえよ」
「そこなのよね。あたしも葡萄が少なくなるのは困る。でも迂闊に手は出せない。帰ってくる途中、ずっと考えてたの。で、思いついたんだけどさ、おっさん達で葡萄に代わる食料を準備してあげればいいんじゃないかな」
「葡萄に代わる食料?」
「そう。知ってる? サラマンダーってね、雑食は雑食だけど、やっぱり果実よりは肉の方が好きなんだよ」
「なんだい。じゃあ、葡萄を守るために人様の食料を差し出せって言いたいのか?」
「だって仕方ないじゃない。それ以外に方法がないんだから」
「勘弁してくれよ……」
とうとう頭を抱えてしまった。少しイライラした様子でエルザが反論する。
「じゃあ特産品ができなくなって生活が困窮してもいいって言うの? それも困るんじゃない。大丈夫だって。そこまで思いつめなくても、子どもは結構育ってたからさ。荷車一台分の肉でも食べ終われば、あとは自力で狩りをするようになるって。そうなればもう被害は出ない。サラマンダーは同じところに住み着かないからね。あたしもちょっかい出したし、そのうちどっかに行っちゃうよ。だからさ、もうほら、いつまでもうじうじしないでよ」
顔を上げさせても、おっさんの表情は冴えなかった。それを見てエルザがにひひと笑う。
「それに、ここらでちょっとぐらい信仰を取り戻してもいいんじゃないの? 山の守り神なんじゃない。労ってあげなさいよ」
盛大なため息を吐かれた。がっくりと項垂れてから、おっさんは鉱山に目を向ける。
「……そうだなあ。言うとおりかもしれねえ」
「そうよ」
答えてエルザも鉱山を見た。山肌に立ち並ぶ葡萄の木々は、満点の太陽を浴びて緑の葉っぱを風に泳がせていた。
なだらかに揺れる緑を見ながら、エルザがポツリと言葉を漏らす。
「それに、もしあれなら司法官に取り次いでもらって、王国の保護局を動かすって言う手もあるしね」
「へ? なんだそりゃ?」
「あれ。知らなかった? 王国の希少種保護法には、絶滅種の交配や子育てを見つけた場合の条文なんかも記載されてる。だから、もし本当に食料の調達が苦しくなるようなことになれば、それに縋って局の人間にどうにかしてもらえばいいんだよ」
言い終わると、沈黙が二人の間に流れ込んできた。首を傾げて、話を思い出し、内容をよく噛み締めて、なるほどそんな手があったのかと合点がいったおっさんは、続けてエルザに対して疑念のこもった視線を向けた。
「……おめえ。最初から気づいてたろ」
「えっ。なんのことかなあ?」
どすの利いた声に、しかしエルザは飄々としたまま取り合わない。頭の後ろの手を組んでゆっくりと歩き出した小さな背中を、おっさんは力一杯叩いてやった。
「痛ったぁー! ちょっと、なにすんの――」
「ったく、この野郎が。馬鹿にしやがって!」
言って、がははと笑ったおっさんの声は、今までで一番大きくて清々しいものになっていた。痛んでいた背中を打たれて少なからずの殺意が湧いたエルザだったが、汗臭くて厳ついおっさんの腕が肩に回ると満更でもない表情になった。
「はは、めでてえ。こりゃあ今夜は宴会だな」
「当ったり前じゃないの。その為にわざわざ危ない目に合ってきたんだから」
「違えねえ!」
ガハハと笑う陽気な声は、ともすれば町全体に届いてしまいそうなくらいに大きな声だった。
寄り添いながら先を行く凸凹なふたつの背中を見送りながら、どうせ今夜も遅くまで外で待たねばならないシルバが人知れず大きな息を吐いた。
その後、もう一夜だけ酒場でたらふく酒を楽しんだエルザは、酒蔵のおっさんの家で夜を明かした早朝、シルバを従えてルチの町をあとにしようとしていた。
町人が起きるよりも早い時間帯。空はまだグラデーションを残していて、小鳥も目覚めていない時刻だった。
町の入り口でエルザはルチの町並みを振り返る。いい町だった。楽しかったし、何よりも酒が美味しかった。
「またいつか」
言って、エルザは前を向いた。シルバを促して、その場をあとにしようとする。
「おーい」
背後から声をかけられた。
何事かと、エルザは振り返る。酒蔵のおっさんが酒場のマスターを担いで走りよってきていた。
目の前に突然現れた人物達にエルザは目を丸める。マスターを地面に降ろしながら、おっさんが悪態をついた。
「まったくよ。誰にも何も言わずに出て行こうだなんて、自分勝手にもほどがあるぜ」
「ほれ。嬢ちゃんの大好物だよ」
言ってマスターは懐から一本に瓶を取り出した。
「十二年前の、最高の出来の酒だ。持っていきなさい」
「あ、ありがとう。でもなんで? こんな、受け取れないよ」
「こまけえことはいいんだよ」
おっさんが面倒くさそうに言った。
「ルチの町は鉱山と葡萄酒と人情が売りなんだ。曲りなりとも世話になった相手を手ぶらで返すわけにはいかねえんだよ」
「嬢ちゃんはわざわざサラマンダーの巣まで行ってきてくれた。もし町の誰かが様子を確認していたら死んじまっていたかもしれない。そんな悲しいことがなくなっただけでも十分施しをしてもらったんだよ」
マスターがエルザの手を包みながら言った。
まだ眠たそうなおっさんの表情、優しいマスターの眼差しを受けて、エルザはにっと笑顔になった。隣のシルバが大きな欠伸をする。おっさんががははと声を出して笑った。
「なんだい。やっぱり無理して早くに出ようとしてたんじゃねえか。この格好付けが」
「いや、そんなことはないつもりだったんだけど……」
恥ずかしそうに頭を掻くエルザに、マスターが話しかける。
「またいつでもお出でね。待ってるから」
「そん時は心行くまで酒を飲ましてやるよ」
言葉が温かかった。
エルザは旅を続けている。またルチに来るかどうかはまったく分からなかったけれど、絶対にいつか舞い戻ってこようと心に決めた。
「ありがとう」
手を振って、町を後にした。
遠ざかっていくエルザとシルバを見送りながらおっさんが呟いた。
「白狼使いのエルザ、ねえ」
「滅んだとされていた幻獣を携えている者がいるとは、いやはや驚いた」
「風の噂によれば、あいつ結構やらかしてるみたいなんだよな」
「ほお。ならいつでも近況は分かるんじゃないか」
「あいつが問題をひとつ起こすたびにな」
言っておっさんとマスターはくすりと笑った。
「達者で暮らせよ」
登り始めた太陽が、遠ざかるひとりと一頭の背中を照らしていた。
≪サラマンダーとルチの酒 了≫
今回で第一話完結です。王道のファンタジー物を書いてみようと思って始めた今作でした。もしよければ気が付いたこと、感想などお寄せください。それでは。