蝶の遺跡 14
五
落ち込みの酷いリナの気分を少しでも紛らわそうと、エルザが主導となって連れてきたミールで、誰よりも驚きを表したのはミュシナだった。
「ど、どうしてシエラさんがここに」
「えっと、もしかして私のこと言ってます?」
皿を運んでいたリュトが、呆然と口を開いていたミュシナに聞き返した。間髪なく返された頷きに、思わず苦笑を浮かべてしまう。
「それだったらと言うか、人違いですよ。シエラさんは私の母なんです。似てるとはよく言われますけどね」
言葉にしみじみといった様子でミュシナが納得した一方で、エルザは厨房の奥で苦々しそうな皺を刻み込んでいたガトーの態度に気がついていた。
「今日は貸切にしましたからね。王国のお姫様がいらっしゃるって言うんで、私も父も張り切っているんですよ。もうちょっとでできますんで、楽しみに待っていてください」
言って、奥へと引っ込んだ背中を、ミュシナはじっと見つめ続けていた。
「ほらほら。いつまで突っ立ってんのさ。早く座る」
促されるがままに、ミュシナとリナはおとなしくテーブルに着く。上機嫌で三人分のグラスと酒瓶とを持ってきたエルザに気がついて、強いにおいが苦手なシルバはそそくさと部屋の隅で丸まってしまった。
コルクの栓が音を立てて開けられる。それぞれのグラスに半分以上葡萄酒を注いで、エルザは慈しむように赤紫の液体を眺め始めた。
「このお酒はね、あたしのコレクションの中でも秘蔵中の秘蔵酒なんだよね。王国の極東にさ、めちゃくちゃ美味しいお酒を造ってる鉱山町があるじゃない。あたし、ちょっとしたことでそこの酒屋と知り合いになってさ。その時にもらったの」
言い終わるや、芳醇な香りを楽しみ、真っ先に味を確かめてしまった。
「うん。やっぱり最高だわ。あんたたちも呑みなよ」
「エルザ、そう言うのって、普通は乾杯とかするんじゃないのかな」
皿を運んできたリュトが怪訝な顔をして口にした。
「ほら、二人ともどうすればいいか分からなくて困ってるじゃないの」
「どうすればいいかなんて簡単じゃない。愉しめればそれでいいんだよ」
言いながら、二杯目の酒を勢いよく煽った。どこまでも自由気ままな態度に、リュトは頭が痛くなってくる。
「ごめんなさい。こういう奴なんです。……もしかして、もう被害にあわれましたか?」
「被害とは言えないかもしれませんが、まあ似たようなことなら」
「ちょっと待った。被害にあったのはあたしの方だよ。もうちょっとで殺されるところだったんだから」
「殺される?」
「まあ、いろいろありまして」
恥ずかしそうに言ったミュシナの態度に、リュトはなぜか親近感を抱いてしまった。
「……もしかすると、エルザの方から仕掛けたんじゃないですか?」
「うーん。そう言うわけでもないのですが、それで間違いでもないって言うか……」
「複雑なんですね」
「ええ。お陰で勘違いをしちゃったんです」
「勘違い! 怖いねえ。勘違いで殺されそうになったんだもの。堪ったもんじゃないよ」
「生きてるんだからぐちぐち言わないの」
「なにさ、その横暴な言いようは」
憤然と立ち上がったエルザは、もうすでに四杯目を呑み干してしまっていた。頬が薄っすらと赤みを帯びてきている。
「もう。リュトは料理を運んでくるだけでいいんだよ。あんまり変なこと喋んないで」
「……それで、あんたも一緒に御呼ばれすると」
「当然。どうしてわざわざお気に入りのお酒を持ってきたと思っているんだよ」
「リナ姫様の気を紛らわすのが目的じゃなかったのかよ……」
「ぼそぼそ言っても聞こえてますよー」
グラスを目の前で揺らしながら口にすると、リュトは思いっきり舌を伸ばして、それから再び厨房へと下がっていった。様子を呆気に取られて見ていたミュシナが、穏やかに微笑んで話しかけてくる。
「仲がよろしいんですね」
「まあね。ちょっと口うるさいのが玉に瑕なんだけどさ」
王国からガルナックへと向かう最中に、ミュシナが謝って和解した二人だった。向かい合っていた時は鬼神の如く闘気を放ち続けていたにも関わらず、こうも雰囲気が変わるものなのかと、エルザは舌を巻いていた。
――母が子を思う気持ちは何よりも強い、か。
グラスを傾けながら、エルザはそっとカウンターに立ててある写真縦に目を向ける。一人の女性――まだ赤子だった頃のリュトを抱きかかえたシエラが浮かべた、穏やかな笑顔に見つめ返されてしまった。その表情から読み取れる雰囲気は、慈愛そのものである。ギルドの応接室を後にする際に見せたミュシナの雰囲気と、根本的なところで瓜二つのものだった。
――確か、王妃はリナを産んで間もなくこの世を去ってしまったんだっけ。母親代わりとして、頑張ってきたのかもしれないなあ。
思ったエルザは、二人並んで座っていたミュシナとリナの姿を、温かい気持ちになりながら見つめていた。頬を緩めながら指を刺すと、優しい声色を意識しながら口を開く。
「ねえねえ。お姫様さ、さっきからがぶがぶとお酒呑んでるけど、大丈夫なの?」
「え。はっ。リナ様いけません。この前晩酌で出た少量の葡萄酒で潰れてしまったばかりじゃ――」
「うるさい! 放っておいてよ」
怒鳴って、リナはグラスに並々と注いだ酒を一気に煽ってしまった。嚥下を続ける咽喉筋。思いっきりテーブルにグラスを叩きつけると、早くもどろんと酩酊し始めてしまっていた眼を彷徨わせて唸り出してしまった。
「もう、分かんないのよ。何が正義で悪なのか。私はただ、みんなの幸せを望んでいるだけなのに。それだけじゃあ、誰にも届かない。何もできないし、守れない」
「リナ様……」
寄り添ったミュシナの手がそっと肩に触れたリナの姿を、エルザは運ばれてきていた料理を口にしながら眺めていた。なにやら不快感を覚えて、思わず口を挟んでしまう。
「そんなの、当たり前だよ。誰も自分が行っていることが正義か悪かなんて、本当のところは分かっちゃいない。それに、ことは利権が絡んできてるんだ。国は繁栄を維持するためにとか、威光を指し示すために、ごくごく自然に領土を求めている。やるか、やられるかなんだよ。もっと単純に、シビアに考えた方がいいよ」
「……でも、そんなの間違ってますよ。誰かの不幸を招きながらも、自分が幸福になろうだなんて考えことは、あるべき姿であるわけがない。エルザだってそう思うでしょ?」
虚ろながらも、強い意思を宿した眼差しを突き刺してきた。エルザは一度グラスを傾けてから、もう一度リナに向き直る。少しだけ苛立った口調になるのが押さえられなかった。
「あんたさ、ちょっと聖人君主然とし過ぎなんじゃないの? 確かに言う通りだとは思うよ。みんなの幸福を願うのは美しいし、正しい態度だとは思う。けど、綺麗事を共有しようだなんてのは馬鹿げた幻想だよ。世界にはいろんな考えを持った人たちがいるんだもの。意見はぶつかって、反発しあって、時にはお互いに引けなくなってしまうことだってある。それに、人の不幸を喜ぶ奴がいないとも言い切れないしね。美醜共に持ち合わせているのが人なんだ。受け入れられない、想像もできないような考えを持った奴はたくさんいるよ。でもね、だからこその、やるかやられるかの世界なんだとあたしは思う。行動しなきゃ何も変わらないよ。願っている最善の方法を取ってくれない相手に対してどう接するべきなのか、どう行動を起こすべきなのか。いまあんたが立ち止まっているのはその分岐路なんじゃないの? ねえ、あんたは何がしたいのさ。どうなって欲しいと願っているの?」
「私は――」
どうしたいのだろう、とリナは酒気に浮き立つ思考で改めて考えてみた。
遺物への幻滅が、ドエルフの言葉が、ずっと大切にし続けていた理念の周りを嘲笑しながら回り続けている。甘すぎると、放たれた言葉が棘となって突き刺さっていた。じくじくした痛みを覚えながらも、見つめていたグラスの水面から視線を上げる。
「私はそれでも、誰もが笑っていられるような、それこそアバル王国の民衆もダルフォール帝国の人民も笑顔で暮らしていられるような、そんな毎日を守りたいです」
答えにエルザはにやりと口許を歪めてみせた。
「分かってるんじゃん。なら簡単だよ。思うように、願っているようにさせたらいい。あんたには、まだできることはたくさんあるでしょう?」
挑戦的な問い掛けに、俄然リナの目に炎が灯り始めた。
「当たり前です。私は、私はアバル王国の現国王の一人娘なんです。まだ確かな発言力はないけれど、それでもできることはある。いいえ、たとえなくたって見つけてみせます。私は、私の望む世界を守りたい」
宣言に、エルザはにっと微笑んでみせた。釣られるようにして、リナの表情にも力強い笑みが浮かんだ。そして、ふっと緊張の糸が切れるようにしてテーブルに突っ伏してしまった。
「えっ。リ、リナ様大丈夫ですか?」
隣のミュシナが慌てて上体を抱き上げた。
「リュトー。お水持ってきてー」
「なに。またあんた酔い潰れさせちゃったの?」
「違うよ」
皿を運んでくるついでに水差しを持ってきたリュトに、エルザは頬を膨らませて憤ってみせた。
「どうだか。イズミさんのこともあるし、私も被害者だからね。――どうぞ。冷たい水です」
「ありがとうございます」
礼を言ってグラスに水を注いでもらったミュシナが、そっとリナに水を含ませてやった。
「少し横になさった方がよくないですか? 二階に部屋を用意しますよ?」
「何から何まで申し訳ありません。お言葉に甘えさせてもらいます。リナ様、近頃ずっと悩んでいたみたいで……。今日の出来事も相当堪えてしまったんです」
「まあ、分からなくもないけどね」
言ったエルザの視線の先で、リナを背負ったミュシナが先導するリュトの後について二階へと上がっていった。
「なんだ。折角作ったってのに、お姫様は食わず仕舞いかよ」
厨房から最後の料理を手にしたガトーが、不満そうに口にしながら出てきた。
「仕方ないよ。まだあの侍女はいけると思うしさ、あたしも食べる。無駄骨じゃあないよ」
「……納得いかねえなあ」
鼻から大きく息をついて椅子に腰掛けたガトーを、エルザは面白そうに眺めていた。
「まあまあ。いつかは大器になる器なんだもの。その人が食べに来たって言う事実だけでも箔がつくからいいじゃない。それよりもさ、あんたにはもっとそのハゲ頭で考えなくちゃいけないことが他にあるんじゃないの?」
「うるせえ、小娘。お前のために作ったんじゃねえんだ、食わせなくたっていいんだぞ」
脅しながらも、ガトーにはエルザが何を言いたいのかが分かっていた。確かにもうそろそろ話してやらなければならない。話さなくてはならなくなってきている。
「今頃、いろいろと聞きだしていたりしてね」
意地悪く笑ったエルザに言い返す言葉が何もなかった。ガトーは不機嫌に口を閉ざす。
「……そん時はそん時だ。なるように任せる」
「らしくないなあ。随分と消極的じゃない。リュトはあんたの口から聞かせてもらいたいと思うけどなあ」
そんなことは分かっている。だが、どうしても一歩が踏み出せないのだ。
ますます態度を硬化させてしまったガトーは、黙り込んだまま厨房へと引き返していった。
階段からは、もう随分と気を許しあった様子のリュトとミュシナが降りてくる足音が響いている。同じ人物を母としているためか、波長が合うのかもしれなかった。
「へえ。じゃあ、ミュシナさんはリナ様のお母さん代わりだったんですね」
「おこがましい話ではありますけどね。なんとか支えになりたかったんです」
やりとりを薄っすらと目を開けたシルバが眺めていた。つまらなそうに大きく息をつくと、ごそごそと体を動かして再び夢の中に落ちていった。