蝶の遺跡 13
以前、モルサリと帝国ダルフォールの軍人ドエルフとが面会した応接室の中に、今回は更なる客人が招かれていた。
まず、入り口に正面を向いたソファーに柔和な笑みを浮かべたモルサリが腰をかけていて、前回と同様、対面には精悍な顔立ちのドエルフが座している。場にそぐわず漆黒の甲冑を黒光りさせている背後には相変わらず三人の兵士が起立していて、近寄り難い雰囲気を醸し出していた。
屹然たるダルフォール勢から見て左手には、傍らにシルバを引き連れたエルザが立っている。対して右手には瞑想するミュシナを従えたリナが、少しだけ緊張した面持ちでちょこんと居住まいを正していた。
それぞれに淹れたばかりのお茶を給仕しながらも、イズミは筆舌に尽くし難い奇妙な空気にいたたまれなくなっていた。それぞれの態度があからさま過ぎて、空気が化学反応を起こしているかのようだったのだ。それも、前例などない、何が生まれるかも分からない行き当たりばったりの実験。
事務や裏方の仕事なら得意ではあったが、表立って動き回ることが苦手なイズミだった。薄いお盆を胸の前で縦にして、気休め程度の防壁を作るぐらいが講じられる唯一の抵抗だった。
――この場から逃げ出したい……。
若干涙目になりながらも、純白のシルバが座っていてくれているだけで幾分か気分は軽くなりそうだった。
「まさか、こんなにも珍妙な面々が一同に会するなんてね。いやいや、なかなか分からないもんだ」
言って茶を啜ったモルサリがずれた眼鏡を直した。膝の上で手を組むと、一呼吸入れて口火を切った。
「さて、今回はこちらのリナ姫様からのご要望で私たちガルナックのギルドはもちろん、ダルフォールの軍人さん方にも来ていただいたわけだけれども、一体何を話してくれるのかな」
促されて、リナは小さく頷く。囲んだテーブルの上に、局長室で見つけた資料を広げた。
「これは、現在アバル王国の魔道局が進めている魔道研究の全貌が記されている資料です。王国の、いえ、魔道局の動向は、この資料を読んでもらえれば自ずと推測できるかと思います。……ただ、正直私にはまだ記されている内容を信じることができません。魔道局が記されていることを知りつつも尚研究していて、更には実用化にまで動いていることもそうですが、それ以上にかつてこんなことが行われていたことが考えられなくて……。おぞましく、凄惨極まりない実験が繰り返されていました。ただ、そのお陰で『蝶』の遺跡は、一応はその機能を得ることに成功したようです」
話を聞きながら、モルサリが資料を手にして目を通し始めた。エルザは腕を組んで壁にもたれかかり、聞き役徹することに決めている。ドエルフが最初の質問をリナに投げかけた。
「凄惨極まりない実験というのは、一体どのようなものだったんだ?」
「口にも出したくないのですが……」
言い淀み、一つ深呼吸をしてからリナは再び口を開いた。
「簡潔に言ってしまえば、生体実験が行われていたんです。犬、猫、鳥、ネズミ、何でも。もちろん、人も対象として用いられました。というよりも、この遺跡の目的には人での実験が欠かせなかったんです。だから『蝶』に関する遺跡の中で、いくつもの生命が、そして何人もの人たちが生きたまま溶かされたんです」
「……溶かされた?」
鸚鵡返しに口にしたドエルフに、リナは心痛な面持ちで頷いた。
「たぶん、この『アゲハ構想』って言うのが機能の主体なんだろうね。何でも、現存する生命体をはるかに超越した上位生命体になるための施設だとか。詳しく読んでないから、まだよくは分からないんだけど」
紙面から顔を上げて口にしたモルサリの言葉に、リナの表情は一層辛そうなものに変わってしまった。
「そうです。『アゲハ構想』における上位生命体への進化こそが、『蝶』の遺跡が目指した夢でした。人でありながら、その自我を残したまま、人を超えた新たな生命へと生まれ変わる。荒唐無稽な馬鹿馬鹿しい願望でした。――ところで皆さんは、蝶がどのように成長していくかをご存知でしょうか?」
唐突な問い掛けに、ドエルフが真っ先に反応する。
「当たり前だろう。卵から孵って、蛆虫になって、蛹になって、最後に蝶になるんだ」
「仰るとおりです。蝶は、孵化から蛹化、そして羽化へと、三段階の変態を経て幼虫からから成虫へと進化するんですね。そこでまた質問になってしまうのですが、蛹の中身がどうなっているのか、ご存知でしょうか?」
ドエルフが悩み始めた。代わりに、再び紙面に目を通し始めていたモルサリが会話を繋いでいく。
「確か、どろどろに溶けているんじゃなかったかな。ナイフなんかで切ってしまうと、中身が流れ出て来るんだとか。振動で蛹が死んでしまうのも、体が溶解しているからだと聞いたことがある」
「……驚いたな。じゃあ、蝶は一度自ら形成している体を分解して、再度一から作り直しているってことなのか」
「ええ。だから、あれほどまでに劇的な成長を遂げることができるのだと思うのです。幼虫と成虫。形状の違いには著しいものがありますからね。蝶は、二度生まれるんです。さて、今までの会話の中に重要なキーワードが含まれていました。何かは……もう分かりますよね」
「蝶が一度溶けることと、その後劇的な変化を遂げること。そして『蝶』の遺跡が目指した上位生命体への進化と、行われていた溶かされる生体実験、か。……なるほどね」
呆れたようにドエルフが天井を仰いだ。
「狂ってるな」
「……私も、そう思ってしまいました」
口にして面を伏せたリナは、少なからずの衝撃を受けているようだった。王宮からエルザとシルバを連れて、こっそりと馬車でガルナックへの移動を始めた数日間。リナは何度となく資料を読み直し、その度に考えもしていなかった現実に打ちのめされ続けていたのだ。
ずっと、魔道は人のために研究されてきたものだと思い続けてきた。魔道研究の基本理念とは、存在する全ての人民の幸福を願うものだったのだ。リナは魔道の存在意義に対して、妄信的なまでの信頼を、かつて魔道技術を大成させたダルファの人々の心情に寄せてしまっていた。
けれど現実は違った。ダルファにおいて、魔道は人の命を脅かすようなものとして存在していた。知りたい、辿り着きたいと、果てることのなかった欲求が渇望するがままに、歪な研究を進めさせていた過去。抑止の利かなかったかつての人々の狂気を目の当たりにして、リナは魔道に対して抱いていた幻想を打ち砕かれてしまっていた。
「『蝶』の遺跡は、様々な生物を科学的な手法で分子レベルまで溶解、鋳型を人として再構築する機能を持っています。その際、精神は魔術的に分離されていて、再度構成された怪物に埋め込まれるように設計されていました」
「……怪物ねえ。言いえて妙だな」
「けれど、そこにきて問題が生じます。どういうわけか、生物同士の精神が混ざってしまう、もしくは散り散りになってそれぞれの怪物に埋め込まれてしまうようになってしまったわけです。そうなると、当然のことながら生まれた上位生命体と意思疎通などはかれるわけがありません。怪物には、いくつもの命の切れ端が宿っているだけで、中心となる自我が存在しなかったんですね。だから、生命としての精神は全くまとまりを帯びなかった。すると、生まれた怪物はどうなってしまうのか」
「暴走、か。それで、遺跡は稼動を止め、現在に至るまで忘れ去られていたと」
どうやら、一通り目を通し終えたらしいモルサリが疲れたような声を出した。リナはがっくりと肩を落として首肯する。
「恐ろしい遺跡だね。命を道具としか思っちゃいない。いや、限りなく利己的だったと言うべきなのかな。求める成果を結実するために払う犠牲には、てんで頓着しなかったんだから。でも、昔の人も誰かがその愚かさ気がついたんだよ。遺跡の機能を止めたんだからね。あまつさえ、再稼動を困難にするために、必要なアイテムを別々に保管した。二度と同じことを繰り返さないようにね。問題なのは――」
「問題なのは、現在の王国――正確には魔道局の連中だな――奴らがこの過去を知りながらも再び遺跡を動かそうとしていることにある。違うか?」
得意気に口にしたドエルフの言葉に、モルサリは頷き返し、リナは身体をしゅんと小さくさせた。
「馬鹿だよな。何がしたくて遺跡を動かそうって言うんだ。自分たちで手懐けることもできない化け物を量産したところで、自国の被害になる可能性の方が大きいって言うのに」
呆れた口調で馬鹿にしたドエルフに、リナが小声で持論を切り返す。
「……おそらくザルクは遺跡の魔術印を新しく書き直す方法を思いついたのではないでしょうか。要は、精神がうまく鋳型に埋め込まれたらいいわけですから。彼は昔から魔術的センスが抜群だったと聞いています。自信があるのではないでしょうか」
「自惚れは身を滅ぶす。俺は自らの武勇に自身を持ってはいるが、過信はし過ぎないよう心がけているんだがな。慢心はいつか返ってくるものだから。あんたのところの局長さんは、そんな簡単なことを忘れてしまったのかもしれないな」
哀れむようなドエルフの眼差しが、リナには痛かった。
温くなっていたお茶を啜ったモルサリが、素朴な疑問を持ちかける。
「それで、遺跡の機能と、魔道局が行っていることは十分分かったんだけどさ、まだリナ姫様の考えが見えてこない。一体、あなたは何を望まれているのかな」
「私は……」
呟き、しばらく手の指を膝の上で弄っていたリナは、意を決してまっすぐにドエルフに向き直ると、勢いよく頭を下げた。
「お願い致します。どうか軍備を縮小していただけないでしょうか?」
突然のことに、ドエルフはもちろんのこと、モルサリまでも目を丸くしてしまった。王国の姫が、一介の軍人に頭を下げているのである。間違いなく、とんでもない事態が起こっていた。
「現在我が国は、ダルフォール帝国の動向を脅威に感じている。だからこそ、このような遺跡に手を伸ばしたのです。あなた方帝国から和平を望む態度を示していただければ、王国だって安心する。互いに気に病むようなことはないのです。だからどうか――」
言いながら顔を持ち上げたリナは、しかし芳しくない表情を浮かべたドエルフの態度に気がついて、思わず口を噤んでしまった。
「言いたいことは分かるんだがな」
頭を掻きながらドエルフが苦笑した。
「だが、それは理想論ってもんだよ。そもそも、帝国の意向は俺なんぞがどうこうできるものじゃあない」
「でも、それでも佐官であるあなたが直接進言してくれたのなら――」
「帝国は攻撃をしないと思うかい?」
笑いながら言ったドエルフのことを、モルサリは酷い奴だなと同情しながら思っていた。
「なあ、リナ姫さん。あんたは近年どうして帝国が軍備を増強しているのか分かっているのかい。……帝国の人間である俺がこんなことを言うのもあれだがな、あんたの考えは甘すぎるよ。私たちは白旗を揚げてるんですから攻撃はしないでね、なんてのは、侵略を考えている国に対しては通用しない。むしろ、恰好の餌食になっちまう。国を守りたくなければいいけどな」
「しかし、私たちには話し合いという手段があります」
「それで、本当に分かり合えるのかい。絶対に攻撃されませんと保障できるのか? 無理だろう。相手は、すでに武器を懐に持っているんだ。絶対なんてことは、それこそ絶対にあり得ない」
「……でも、互いに武器を捨てあうことが出来たのならば……」
「それも無理な話だよ。分かってるんだろう? 人は、本当に心から誰かを信じきることなんてできない。いや、できないことはないかもしれないが、恐ろしく難しいことだ。いわんや、互いに牽制しあってきた仲だったら余計に信頼なんて生まれるわけがないだろう。リナ姫様。あんたは賢い。俺に比べて半分くらいの年齢で、様々な知識を持っているようだ。でも、圧倒的に経験が足りない。書物から仕入れた知識や倫理はさ、現実ではひっくり返るなんてことしょっちゅうなんだから」
それだけ言うと、ドエルフはおもむろに腰を浮かした。
「それじゃあ俺はこの辺で。もう話すべきこともないだろうからな。一応、リナ姫様からのご進言は帝国には報告いたします」
「……このまま帝国へ向かうのかい?」
微笑みを浮かべながら訊ねたモルサリに、ドエルフは困ったような表情を浮かべて頷いた。
「ああ。とてもじゃないけれど、もうこの部屋にはいられないからな」
言って、悄然と俯くリナの背後から怒気のこもった眼差しを向けてくるミュシナに目を向けた。再びモルサリに向き直ると、肩を竦めて破顔をしてみせる。
「とにかく、ここに集まった俺たちの総意は『蝶』の遺跡の稼動を危険視しているってことでまとまってはいるんだ。それからはそれぞれの行動になるが、お互いに利益が合致することを願っているよ」
背後に立っていた三人の兵士に声をかけて、ドエルフは部屋を後にしようとする。その背中に向けて、エルザが口を開いた。
「場合によっては、あんたたちの考えを邪魔しにいくから」
扉の前で立ち止まったドエルフは、満面の笑みで振り返ると、「楽しみにしている」とだけ残して、部屋を出て行ってしまった。
「掴めない奴」
「君も人のことは言えないだろうに。違う意味でなかなか掴めないよ」
苦笑してエルザを諌めたモルサリに、間近でお座りをしていたシルバが同意するように小さく呻いた。
「……リナ様」
「ごめん、ミュシナ。ちょっとゆっくり考えていたいの」
ソファーに腰掛けた小さな後ろ姿が、見下ろすミュシナには一層小さく見えてしまった。モルサリがイズミに目配せをして、部屋へと向かわせるように合図を送る。頷いたイズミは、そろそろとリナへと近づくと、部屋を用意しているのでそちらで休まれてはどうかと持ちかけた。
ミュシナには何気ない配慮がありがたかった。座りずっと俯いたままのリナに声をかけると、肩を抱きながら立ち上がってイズミの後をついていく。扉の前までやってきたとき、背後からモルサリの声がかかった。
「リナ姫様。あなたは、何も間違っていたわけじゃあない。考え方は素晴らしいし、抱いている平穏への祈りも崇高なものだと思うよ。ただ、世の中にはそれひとつだけで完璧なものなどひとつもないように、たった一つの考え方で解決できるような問題もないんだよ。まあ、信念を突き通すというのも大切なんだけれどね」
そこまで聞いて、立ち止まっていたリナは再び歩き始めた。
扉が閉まる前に向けられたミュシナの複雑そうな表情が、エルザの脳裏に焼きついた。どこかで見たことのある雰囲気を漂わせていたような気がしたのだ。
「案外厳しいことを言うんだね」
「まあね。でも、本当のことだ」
肩を竦めたモルサリと向かい合うようにしてソファーに腰掛けたエルザが、胸の前で腕を組んだ。
「で、これからどうしようって言うのさ」
「エルザ君はどうしたい?」
「もちろん遺跡を起動させないようにしたい。聞いてた限りじゃあ、誰も喜ばなさそうなんだもの。場所も、もう分かってるんでしょ?」
「ああ。ちゃんと記されていたよ」
言って、モルサリは残された資料の中から一枚をエルザに向かって差し出した。
「……王国の西。ダルフォールとの国境付近じゃないの」
「そうだ。だから、きっとすぐに帝国は攻撃を仕掛けてくる。奴らは、まず間違いなくこれらの情報を手に入れているからね。この資料の複製すら必要としなかったんだから。破壊するか、もしくは自らの手中に収めるか。おそらくは手に入れたいと思っているんじゃないかな」
「なら、あたしの仕事はそれを阻止することだ」
「ご名答。やってくれるよね?」
挑戦的に身を乗り出してきたモルサリに、エルザは力強く微笑み返した。
「もちろん。シルバと一緒に、引っ掻き回してあげるよ」
声に、呼応するようにシルバが大きな体を震わせた。
エルザの眼には、もう後悔を引き摺っている色は浮かんでいなかった。