蝶の遺跡 12
リナがエルザに入室を促したのは寝食を行う自室だった。
シルクを思わせるかのような光沢を持つ帳が周りを覆う豪勢なベッドに、大きな窓から差し込む陽光が輝いて見える。小洒落たティーテーブルの上には、クリスタルのチェス盤なんぞが置かれている。良くも悪くも王族らしい、初めて見る者を圧倒させる内装が施された室内だった。
けれども、何よりもエルザを驚かしたのはそんな絢爛な装飾品ではなった。
「なにこれ」
「ごめんなさい。少し散らかってて。驚いたでしょう?」
「驚いたも何も……」
これではまるっきり片付けのできないだめ人間ではないか。咽喉下まで出掛かった言葉を飲み込むのが大変だった。
リナの室内において真っ先に目が向かう物。それは間違いなく、部屋のあちらこちらで腰の高さほどまで積み上げられた莫大な量の本であった。数学から生物学、鉱物の図鑑があるかと思えば、天体に関する参考書もあり、片や魔術研究の論文があるかと思えば、科学の最新研究報告書があり、神秘の力とされている魔法に関する考察集が横たわる上には、魔道技術と失われた超大国ダルファの関わりについて事細かに調べ上げたぶ厚い本が乗っかっていた。
「……すごく勉強熱心なんだね」
「まあ、それなりに。私にはあまり自由が許されていないんですよ。だから部屋の中くらいは、好きなようにしたいと思っているんです」
なるほど。王宮内での生活も、手放しで喜べるほど幸せではないということなのか。少しだけ驚きを伴って納得したエルザは、どんどんと一人で先へ進み、柔らかそうなベッドに腰掛けたリナの前まで移動すると、心持ち眼差しを厳しくしながら口を開いた。
「匿ってくれたことには感謝してるけど、どうしてあたしに手を貸してくれたの?」
「リナ」
「は?」
「私の名前です。アバル王国国王の娘。リナ=エルド」
「……知ってるけど」
よくよく式典などで顔は拝んでいた。それよりも先に訊ねたにも関わらず、一方的なペースで話を進められてエルザは少々不機嫌になっていた。目の前の少女、王国の姫君であるリナは、そんな苛立ちには関せずといった様子で、愉しそうに会話を続けていく。
「知ってるけど、じゃないですよ。次はあなたの番でしょ?」
「あたしの番?」
「鈍いですね。ほら、自己紹介ですよ。私はリナ。じゃあ、あなたは誰ですかって聞いているんです」
馬鹿にされたような気がしてむかっ腹が立った。
「エルザだよ」
「エルザ、エルザですね。よろしく。……ところで、もしかすると私、何か気に障るようなこと言ってしまったのでしょうか? 少し表情が硬いみたいだけれど」
口にしながらも目がぎらぎらと輝いているところを見るに、どうやら全て分かって進めているようだった。あまり好きにはなれないタイプだ。判断を下し、よくよく考えてみればモルサリに少し毒を加えた女バージョンといったところかもしれないと、付き合い方の指標を見出していた。
依然として愉しそうなリナが先に喋りだすのを手で制して、エルザはもう一度最初の疑問を口にする。
「ちょっと奇妙な状態だけど、あたしは一応追われているんだ。だからできるだけ早くことを済ませてしまいたいの。だから、もう一度訊くね。どうしてあたしに手を貸してくれたの?」
真剣な面持ちで見つめてくるエルザの様子を、リナはほんわりと穏やかな微笑を浮かべて見つめ返した。そしてさっきまで纏っていた自分勝手な雰囲気を奥に潜めさせると、膝の上で両手を絡めて打ち明けるように言葉を述べた。
「実はですね、私はあなたたちと同じものを追っているんです」
「同じもの?」
「そう。つまりは『蝶』にまつわる遺跡についてなんですけれどね。魔道局の研究員たちが日夜研究を進めているんだけれど、どうにもきな臭くて。今とっても頼りになる人に調べてもらっている最中なんです」
「ちょっと待って。あたし、『蝶』にまつわる遺跡なんて知らないよ? あたしがここに来たのは二つの遺物を取り戻すためなんだから。それに、局を調べるって。王国の研究機関なんでしょう? あなたの立場ならすぐに分かるはずじゃない」
「仰る通りです。確かに魔道局は王国の研究機関と位置づけられている。ですが、事実上、現在の魔道局は独立研究機関になっています。おいそれと国が関与できるものでもありません。もちろん、研究分野の会合では王国の意向も伝えますけどね。あと、確か四日前だったでしょうか? ガルナックのギルドが襲われて、それで遺物だけが盗まれた。風の便りには聞いています。大変だったでしょう」
「……まあそれなりにはね。いろいろあったよ。でもさ、だったら尚更あたしの求めるもとのあなたが求めるものは――」
「あなたたちガルナックが奪われた二つの遺物は、どうやら『蝶』にまつわる遺跡の魔道機能を起動させる重要なアイテムみたいなんです」
「……どういうこと?」
エルザの表情が険しくなった。視線をまっすぐに受け止めつつ、リナは少しだけ悲しそうに眉を下げると、目を閉じて先日聞き出したとある情報をエルザに語り始めた。
「今、王国の魔道局を仕切っているのはザルクという男なんです。いろいろ良からぬ噂を立てられていまして。あまり人望はないみたいなんですよね。けれども切れ者で有能でもあるし、集団を統率するという能力で言えば抜きん出ているものがあるのも確かな人物なんです。……そんな彼に、心底傾倒している研究員がひとりいましてね。心酔とか崇拝といってもいいような憧れを抱いているもんだから、何かしら知っていることがあるんじゃないかと思って、いろいろと聞き出してみたんです。私にだけでいい、こっそり聞かせてくれたらザルク局長に近くに配属してあげるようお願いしてみるって餌をまいて」
「酷いことをするんだね」
「確かにそうですね。でも、そうでもしなければ聞き出せなかったんですよ。それほどまでに魔道局の情報統制は完璧だった。王国の進む道を決め兼ねない研究だったにも関わらず、です」
「ちょっと待って。王国の進む道を決め兼ねないって、どこまで話は大きくなるのさ」
語りを遮って口にしたエルザに、リナは心底済まなそうな表情を浮かべた。
「……今王国にある魔道局は、私が生まれると同じくして異質なものの変わり始めてしまったんです。それまでは人民の幸福を第一に考えて研究をしていたのですが、最近は専ら軍事関係ばかりになってしまった。だから今回の『蝶』に関する遺跡についても、そこに眠っているだろう魔道の力を軍事利用しようと考えているわけなのです。……確かに隣国の力が強くなっていることは事実としてありますし、研究のやりようによっては軍事的な使用方法も開発できるとは思います。けれど、私はそういった方向はおかしいと思う。かつての人々はそんな思いを抱いて技術を磨いていたわけではないのですから」
「当たり前だよ! 技術の利用は人を傷つけるために研究されているわけじゃない」
いきり立ったエルザに、リナは首肯してから返事をした。
「だから、私はこの研究を止めたい。争いはきっと話し合いで解決ができると信じているんです。だって、私たちは言葉を持っているんですもの。相手を説得しないで分かり合うことを放棄して、他に何に言葉を使えというのだと思いますか?」
そこまで言って、リナは少し目を伏せた。ぼそぼそと言いにくそうに言葉を漏らし始める。
「……ごめんなさい。本当は謝ることが第一のはずでしたよね。魔道局の暴走とは言え、王国の研究機関があなたたちガルナックを強襲してしまったんですもの。申し訳ないことをしてしまったと、取り返しのつかないことをしてしまったと思っています。本当にごめんなさい」
「……べつに、あんたが謝ることじゃないよ」
「怒らないのですか?」
恐る恐る顔を上げたリナに、エルザは困ったように微笑んだ。腿の横では白く染まった拳が小刻みに震えている。
「怒りたいけど、相手が違うもの。話の流れから大体は予想がついてたけどさ、魔道局の奴らの仕業だったんでしょう? ならあんたには関係ないじゃん。まあ、口の軽い狂信者のお陰ではっきりしたのはよかったけどさ。ありがとう」
「いえ……」
それ以上は何も言えず、リナは俯くことしかできなかった。エルザの眼差しを受け止めるだけの自信がなかったのだ。覚悟といってもいいのかもしれない。頭がよく回り、独自の考えを持って行動しているとは言え、リナはまだ十五歳の少女だった。積み重ねるべき年月が、圧倒的に足りていなかった。
「それにしてもさ、その『蝶』に関する遺跡の機能について、分かってることってないの? というか、奪った遺物はどこにあるのさ」
「ごめんなさい。全て局が管理していることだから、私にはよく分からないのです。先程も述べましたが、数日前から頼りがいのある人に頼んではあって、でもなかなか報告がないんです」
「うーん。そうなると、やっぱり自力で探さないとだめなのかな」
「手助けになれなくてごめんなさい」
言って申し訳なさそうな顔をしたリナの頭上に、エルザがどすんと拳骨を放った。
「ちょ、何するんですか!」
「なんて言うかな、あんたさ、さっきからごめんごめん謝り過ぎ。べつにあんたが悪いわけじゃないんでしょうが。だったら謝んないでよ。あたしだって困るんだから。それにね、後悔してるんなら次何やるかを考えなきゃだめだよ。失敗は新しい成功でしか補えないんだからさ」
それは落ち込んでいたエルザがモルサリに言われたことと似たような言葉だった。不思議と、口にするだけで元気になれるような、暖かな言葉だった。
「新しい成功、ですか」
「そ。ま、受け売りだけどね」
「……その言葉を手向けてくれた人って、きっと素敵な人なんですね」
「どうかな。あんたに似てると思うけど」
「私に、ですか?」
「うん」
「それは困りましたね」
言ってくすりと笑った表情を見て、初めてリナが持つ歳相応の生の表情に触れたような気がした。
「……そうやって笑ってればいいんだよ」
「何か言いましたか?」
「ん? いや。何にも」
「生意気でごめんなさいね」
にっこりと微笑むリナを見て、やっぱり可愛くないなと思ったエルザだった。
と、唐突に割れんばかりに部屋の扉が殴打され始めた。追手かもしれない。思い互いに顔を見合わせたエルザとリナは、どこかに隠れる場所がないか視線を彷徨わせ始めた。
「リナ様、ご無事ですか!」
言いながら扉を抉じ開けて入って来たのは、あろうことかミュシナであった。三者が三様に、それぞれの関係を自らの脳内で処理していく。
エルザは、リナは味方であると暫定的に考え始めていたものの、つい先ほど命を狙われたミュシナのことは敵だと判断し、すぐに逃げの体勢に入った。
ミュシナは、先ほどはいなかったリナが、あろうことか侵入者と一緒にいるのを見つけて、用意していた弓を引き絞り始めていた。
リナは、ようやくミュシナが帰ってきたとこに安堵しながらも、考えてみればエルザは侵入者だったことを思い出して、なんとか二人を和解させなければならないと思案し始めていた。
そのそれぞれの思考が同一時間に行われ終了し、リナがどう説明すればいいのか候補を絞っている間に、第一矢が唸りを上げて放たれる。飛び込むように床を回転しながら矢をかわしたエルザは最悪だと思っていた。
まさかこんな密室で対峙してしまうとは。
入り口に立つ弓を持ったミュシナと、部屋の中を走り回ることしかできないエルザとでは、圧倒的に形勢が傾いていた。せめてリナを盾に使うことができたらよかったのだが、咄嗟に反対側に飛び込んでしまったために、それすらも不可能になってしまっていた。
立ち上がり、体勢を整えて敵の位置を確認しようとする。しかし、それよりも先にミュシナが目前にまで踏み込んできていた。
驚くよりも早く足が払われて、エルザは後頭部から床に叩きつけられてしまう。見開いた視界の先で、限界まで引き絞られた弓の矢先がエルザの脳天に狙いを定めていた。
ゼロ距離での発射。絶対に躱すことはできない。
「リナ様を連れまわした所業、万死に値する!」
降り注がれたミュシナの怒声に、エルザは本気で覚悟した。
「止めなさい!」
声がして、ミュシナの身体がぐらりと横にぶれた。リナがミュシナの横から思いっきり突進してきたのだ。
衝撃に、勢いを押し留めていたミュシナの手から力が抜ける。矢が音速を超える加速をし始める。やばい、と考えたエルザは思わず目を閉じてしまった。
直後に、暗闇の中で石が砕かれる音を耳にした。エルザは全身から血の気が引いていくのが分かったような気がした。恐る恐る目を開いて確認してみれば、指二、三本ぐらいだけ顔から横に逸れて、矢は見事に床に突き刺さっていた。
「いきなり攻撃をするなんてどういうことなの、ミュシナ!」
「で、ですが、この者は王国に侵入した上にリナ様を連れ去っ――」
「この部屋には私が招いたの。エルザは私の客人よ。勝手な妄想で死人を出さないで!」
「……ごめんなさい」
傍らでは、リナに言われて正座をしたミュシナがお説教を受けている。一体どんな力関係なのか、思考回路が停止してしまっていたエルザには全く見当もつかなかった。
「ほら、エルザにも謝って」
「……申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げられても、未だに床に横になったままだったエルザには、何がなんだか分からないままだった。
「ところで、お願いしてたものは見つかったの?」
「あ、はい。こちらに」
答えて、正座したままのミュシナはリナに局長室で見つけた資料を手渡す。ざっと目を通した後で、リナはにやりと力強く微笑みを浮かべた。
「ありがとう、ミュシナ。これで全貌が分かりそう。早速ガルナックへの馬を用意するのよ」
「分かりました」
「……え。ちょっと待って。どうしてガルナックが出てくるのさ」
ようやく頭が回り始めたエルザが口を挟んだ。
「ダルファ関連の研究は、専門家と共同で行うのが筋というものではありませんか」
「あ、いや、確かにそうだけどさ」
「なら早く行きましょう。実のところザルクは、数日前から姿が見えないんです。どこにいるのか、何を企んでいるのか、私たちが突き止めなくては。さ、エルザも早く立って」
なるほど、このお姫様はとんでもない御仁なのかもしれない。今更ながらに思わされたエルザだった。