蝶の遺跡 10
四
蝋燭の炎が揺らめく局長室に、こそこそと動く影がひとつ。
アバル王国の姫君――リナに仕える唯一の侍女であるミュシナは、局長ザルクが不在になる合間を縫って、黙々と資料を物色し続けていた。
かれこれ二刻近く、代わり映えのない作業を継続している。リナからは魔道局から『蝶』の遺跡に関する資料を何でもいいから盗んで来いと命令を受けていたが、四面を覆う莫大な量の本が、ミュシナの気力を奪い続けていた。
引っ張り出して広げていた本から視線を上げて、大きく肩で息をする。
「見つからないですねえ……」
瞼の上から眼球を揉んで背伸びをした。ぱきぽきと音を立てて背骨が正しい位置へと戻っていく。首をぐるりと一回転させると、ミュシナは少しだけ放心して懐かしい局長室の内装に目を通した。
リナの完璧な侍女になるためだけに王宮に買われたミュシナは、かつては奴隷の身分だった。言葉も話せず文字も読めず、感情までも凍りついていたミュシナを辛抱強く教育し、今日に至るまでの人格形成に多大なる影響を与えてくれたのが先代の局長だった。
優しくて穏やかで、母親というものを知らなかったミュシナに、初めて人の温もりを教えてくれた人だった。この部屋の中で繰り返したやりとりを、ミュシナは今でも鮮明に思い出すことができる。
あの頃、人を知り世界を知り、感情を育みながら様々なことを学んだ局長室の中には、今はもう彼女の面影を見ることはない。胸いっぱいに吸い込むだけでほっこりとした気持ちになった空気は、いつの間にか冷ややかで鋭利なものに入れ替わってしまっていたし、何度も何度も読み返した本もどこかに破棄されてしまっている。
「二十年か……」
初めてあの笑顔に抱かれてから幾許もの時が流れたことを、ミュシナは改めて実感していた。できることならリナにも彼女を逢わせてあげたかったなと、少しだけ感傷的に思ってしまった。
――春風のように穏やかだった、聞くだけで心安らいだ声。抱き締められると鼻腔いっぱいに広がった甘いミルクのような香り。今の私は、リナ様にとってのあなたになれているでしょうか? ねえ、どう思いますか、シエラさん。
ぼうっと部屋の天井を見つめながら思ったミュシナの脳裏には、リナが生まれてから十五年間、絶えず側に寄り添い眺めてきた様々な表情が浮かんできていた。その微笑を、泣き顔を、怒った表情を、ひとつひとつ味わうようにして思い出していく。数多くの豊かな感情を向けられていたことに気がついて、それなりにやれているのかなとミュシナはそっと考えていた。
まるでこの世の全てが苦痛であるがために、泣き喚くことでしか身動きが取れないかのように見えた生まれたばかりのリナとの出会い。叫びにも似た泣き声にどうすることもできずに、ただただ立ち尽くすことしかできなかったあの日から、ミュシナとリナの日々は始まったのだ。不意に懐かしさが込み上げてきて、再び紙面に目を通し始めていたミュシナは思わず頬を緩めてしまった。
当時、ミュシナは若干十三歳。懐き親しんでいたシエラを、不慮の事故で失ったばかりだった。嘆き、悲しみばかりに暮れていた毎日だったのに、誕生するや聞こえてきたあの突き刺さるかのような泣き声が、ミュシナの生活の全てをがらりと変えてしまったのだ。
出産後ほどなくしてリナの母親が急逝してしまったのも、原因としてあったのだろう。乳母になるのはまだ早かったが、それ以外のことは全てミュシナがやるべき仕事になった。
授乳も必要なくなった頃、よちよちと床を這っていたリナが、傍らで穏やかな眼差しを受けていたミュシナに振り返り、にんまりと満面の笑みを浮かべたことがあった。何気ない、たった一つの笑顔だった。赤子なのだから、誰彼構わず笑みを浮かべることなんて日常茶飯事だった。
けれど、このときだけは違うと思った。リナはミュシナをミュシナとして認識して、だからこそ微笑を向けてくれたのだ。根底にあるのが純粋な安心かそれとも生物的な打算なのか判別はしなかったが、腰を下ろしてリナの行く先を注視していたミュシナは、その瞬間にリナの母親になろうと決意した。
この子の母親には、私がならなくてはならない。想いは、ほとんど天啓のように沸き起こってきたのだ。
もちろん、身分の差は歴然と隔たり横たわってはいた。けれども、その時刻み付けた確かな想いは、今や頑な信念となってミュシナの存在意義を支えている。リナが笑うことがミュシナの喜びになったし、泣くことが悲しみだったのだ。毎日を健康で健やかに過ごしてくれることが、今までもこれからも一番の願いであり、これ以上ない幸福に違いなかった。
リナが願うことなら何でも叶えてあげたい。そう思っているから、今のミュシナは何が何でも『蝶』の遺跡に関する資料を見つけなければならなかった。
けれども、四面全ての本にざっと目を通し終え、尚かつ中央に鎮座する机の上に散在していた紙面も確認したミュシナは、絶望に打ちひしがれながら天井を仰いでしまっていた。この場にはいない、現魔道局局長であるザルクの嘲笑が脳内で反響しながら徐々に大きくなり始める。
「……リナ様。ミュシナは使えない従者でございます」
力なく口にすると、とてつもなく惨めな気分になってきた。リナの想いに応えられないこと、ザルクの陰謀に辿り着けないこと、その他、最近犯してしまった様々な失敗――たとえばリナに意見をして腹を殴られたり、朝食時に用意していた紅茶を零してしまったり、何もないはずなのに不意に転んでリナの後頭部を殴打してしまったり――が思い返されて、己の無力さが嫌というほど強調されるかのような錯覚に陥ってしまう。
少し視界が滲んできた。唇が震え出しているような気がする。このまま泣きでもすれば気分が晴れるのかもしれないと思った。
けれど、ミュシナはぎゅっと唇を噛み締めて踏ん張った。感傷的になって時間を浪費している場合ではないのだ。リナの話によれば、事態はザルクが全権を握ってしまった以上、一刻も早く計画の全容を把握しなければ取り返しのつかない状態になりかねないところまで進んできてしまっているのだから。
己を叱咤して思いっきり両の頬を叩いたミュシナは、もう一度卓上に散らばる紙面に目を通してみることにした。もしかしたら見落としていた文章があるのかもしれない。
魔道局に忍び込んで数日。数多くある保管庫を隈なく調べつくした末に辿り着いたのが、この局長室だった。ここでもなんら手がかりがないとすると、もうリナやミュシナには講じられる手段がなくなってしまう。
今更ながらに、完璧に管理された上に微塵も漏洩することがないばかりか、ザルクを除いたほとんどの人たちが全容を知らされていない計画に、国の行く末が委ねられている実情に、ミュシナは腹の底が冷たくなっていくような恐怖を感じずにはいられなかった。
――あの男は、一体何を隠しているのだろうか。
リナがミュシナにこの捜査を命令した時に口にしていた小さな懸念。聞いた当初はどこかで眉唾物だと考えていたのだが、今ではあながち見当違いではなかったのかもしれないと思い始めている。
そもそも、聡明なリナは異様に鼻が利くのだった。成長を見守ってきた歳月の中でどれほど誤魔化そうと嘘を口にしたかはもう思い出せないが、その度ににやりと微笑まれて看破されてしまっていたのだ。
そうだ。いつもリナにだけは隠し事ができなかった。だからミュシナはたくさんの弱みを握られてしまって、いつの間にか母親になることが不可能になり、体のいい手足に成り下がってしまったのだ。
電撃が走り抜けるかのように気がついて、直後にはずしんと肩に重荷が圧し掛かったような衝撃を覚えてしまった。
――やはり、私はシエラさんのようにはなれなかったようです……
思いがっくりと項垂れて張りを失った全身が、ずるりと腰掛けていた局長の椅子から滑り落ちそうになった。慌てて体勢を整えようと対策を講じたものの、もう後の祭り、ミュシナの身体は腰から床に落っこちて、反動で振りあがったつま先が机の裏側を強打してしまった。
同時に、かたんと、軽い物体が床にぶつかった音がミュシナの耳に飛び込んでくる。
尾?骨を強打したあまりの痛みに目尻に涙を浮かべながらも、足下に出現した古めかしい木箱に目を向ける。どうやら、机の裏に隠し棚として取り付けられていたようだが、不意に蹴り上げられたために部品が壊れてしまったようだった。
またやってしまったと後悔に責め立てられながらも、ミュシナは木箱に手を伸ばす。中からは、何度も何度も繰り返し手に取ったために変色し、端々が破れてしまった年代を感じさせる封筒が出てきた。中身は、どうやらぶ厚い書類の類らしい。
寸前まで感じていた失敗への後悔をどこかに手放して、激しく高鳴る心臓の音を聞きながらミュシナはそっと封を開く。
ごっそりと中身を取り出すと、並ぶ文字列に目を通し始めた。
「……見つけた」
呟くのと同時に、けたたましい警戒音が周囲に鳴り響く。びくりと全身を飛び上がらせて机の裏に頭を打ちつけながらも、ミュシナは音がどこからしているのか素早く確認し始めた。最悪、行っていた所業が広く王宮内に通達される恐れがある。
けれど、思いついた事態は杞憂でしかなかった。机の上に備え付けられた魔道研究による連絡装置の画面には、外部から王宮内に侵入した者を発見したとの一報が踊っていた。
――なんだ。てっきり、私が見つかってしまったものかと……
大きく息を吐いたのも束の間、薄氷にひびが走ったかのような嫌な予感が、一瞬にして全身を走り抜けた。
考えたくはないが、例えば相手が相当の手だれだとして、簡単には捕えることができなくて、追われた末に逃げ込んだ先にリナがいたとしたら……
ミュシナは封筒を抱えながらも、反射的に局長室を飛び出していた。変装のために身を包んでいた白衣をはためかせながらも、一直線に出口へと駆け出していく。すれ違う研究員たちが見慣れない顔の女が険しい表情で走り抜けていくのを不思議そうな表情で見つめていた。
要らぬ心配であって欲しかった。侵入者は無謀なこそ泥に過ぎず、駆けつけた衛兵たちによって素早く取り押さえられて欲しかった。けれども――
――王宮内部、東側の通路にて逃走中の侵入者を再度発見。
――捕らえようとした衛兵数名が負傷、及び突破を許してしまう。
――侵入者は尚も通路を北へと進行中である。
伝達される情報を、すれ違うおしゃべりな研究員たちが口々に話し合っていた。事態を楽しんでいるかのように目を煌かせ、時にはわくわくするなどと不謹慎なことを口走りながら。
事態がどんどん想定していた悪い方向へと進んでいく中、ミュシナは力の限り奥歯を噛み締めていた。侵入者が逃走を続ける先には、この時間帯毎日のようにリナが過ごしている王宮の書庫があったのだった。
――よりにもよって、私が側にいないときに現れるなんて。
ミュシナの存在意義は、リナによって定義されている。リナの安全を確保することこそ、どんなことを投げ打ってでもやらなければならない最優先事項であり、ミュシナが何よりも強く願っていることでもあった。
知的に朗らかに笑うリナの表情が曇るようなことは何が何でも避けなければならない。そんなことをする輩は、排除しなければならないのだ。
全てはリナ様の笑顔を守るために。
一刻も早く侵入者を捕らえなければならないと、ミュシナは切に考え始めていた。
「リナ様……!」
魔道局の門扉を走り抜けると同時に呟いた言葉には、焦燥が嫌というほどに含まれていた。眼前に迫った王宮を睨みつける双眸には激しい感情が浮び上がっている。