蝶の遺跡 8
朝霧の立ち込める白みがかった空の下に、工具を扱う男たちの掛け声が響いている。
「ひどいもんだ」
放水した水の名残が滴となって輝いていた瓦礫に腰掛けて、モルサリが呟くように口にした。
イズミの報告によれば、焼失したダルファの文献は百数十に上るとのことだった。トレジャーの仲間たちが命を張って回収し、また学者たちが日夜を問わず勤しんでいた成果がたった一夜にして消え去ったかと思うと、間違いなく手痛い損失に他ならなかった。
小さく息を吐いて、空を見上げたモルサリは静かに目を閉じる。
けれども、あれだけの業火に燻されての損失だとするのならばまだましな方なのかもしれないと、瞼の裏に昨夜の光景を思い浮かべながら考えた。
働いていた学者の半数以上が傷を負ってしまった。襲撃の最中に負った者もいたが、大半は危険を顧みずに火炎の中に資料を求めたのが原因だった。
そして不幸にも、尊い四つもの命を犠牲にする羽目になった。
白くなるほどに握り締めた拳を額に当てながら、モルサリは苦悩に満ちた呻き声をあげる。見知った仲間たちだった。ギルドを何年も共に経営し、時には支えになってくれた旧友ばかりだった。
目を開いたモルサリが見つめる先には、瓦解し焼け爛れて黒ずんでしまった焼け跡の前に設けた小さな献花台があった。白い花が、溢れんばかりに供えられている。友のためにと、別れの挨拶もできなかったモルサリが唯一最後にしてやれることだった。
「ギルド――いえ、市長、臨時の建物の手配が整いました」
駆け寄ってきたイズミが、手際よく報告を済ませる。厳しかった表情を崩してありがとうと口したモルサリの表情は、気丈さと言うよりも深過ぎる傷の痛みに苦しんでいるかのように映ってしまった。
「さて、それじゃあ僕たちも移動しようか。いつまでもここにいるわけにもいかないしね」
「……あの、市長」
「ん? ないだい?」
「い、いえ。何でもありません」
「そうか。なら行こう。ここはトレジャーのみんなに任せていれば大丈夫だろうからね」
「……そう、ですね」
腰を上げて歩き始めたモルサリの背中を、イズミはすぐには追えなかった。抱いているだろう悲しみ、渦巻いているのだろう憎しみ、そして何よりも襲撃に対して何も対抗できなかった己を恥じているのがありありと伝わってきてしまったのだ。
できることならば、今すぐにでも支えになってあげたい。思うイズミではあったが、具体的に何をしたらいいのか、また何ができるのかに皆目見当が付かず、ただただ遠ざかる背中を見つめることしかできなかった。
谷底から生じる生暖かい風が吹き抜ける。前を向いて歩き続けるモルサリの隣を駆け抜けて、立ち尽くしたままのイズミの髪を撫で上げていった。
風は瓦礫の端で揺れた雫を人知れず地面に落下させた。
同刻、エルザはミールの二階に用意された自室に、鍵を掛けたまま閉じこもっていた。
あれからどうやって帰ってきたのかは分からない。気が付いたら、カーテンを閉じた薄暗い部屋の隅で、毛布を頭から被って小さく蹲ってしまっていた。
――あんたが持ってきた遺物だよ。
若い学者に投げつけられた言葉が、繰り返し繰り返し何度も脳裏で響いている。部屋にはいないはずの群集が一身に視線を集めてきていて、口々に罵倒を飛ばしてきているような錯覚に陥ってしまっていた。
――お前が要らないことをするからこんな目にあったんだ。
――あんたはいつも厄介ごとばかり起こすんだ。とんだ疫病神だよ。
――てめえのせいでこんな目にあっちまったんだ。まったく最低な野郎だぜ。
そうだ。全部あたしのせいなんだ。
――お前さえ要らないことをしてくれなければ。
――あんたがもっとおとなしくしてくれていたらよかったのに。
――てめえがもっと周りの声に敏感だったならな。
あたしさえこの街にいなければ――。
「おい! いつまで塞ぎこんでるつもりなんだ」
扉が激しく叩かれて、廊下からガトーの怒鳴り声が響いてきた。そのあまりの声量に、エルザの肩はびくりと飛び上がってしまう。緩慢な動作で、視線を扉へと移動した。
「やらなくちゃいけねえ仕事があるだろうが!」
そうだった。食堂で寝泊りする時は、野菜の下ごしらえをしなくてはならない約束だった。けれど、今のエルザには至極どうでもいい事柄になってしまっていた。虚ろな瞳が、再び床の一点を見つめ始める。
「ねえ、エルザ。こんな風に閉じこもるなんてらしくないよ。底抜けに明るいのがあんたの持ち味だったんじゃない。何があったのかは知らないけどさ、私たちに話してみてよ。相談ぐらい、いつだって乗るよ? シルバだって私の側で心配してるんだから。ね、だからお願いだよ。ここを開けて」
リュトの穏やかな声に続いて、シルバの切なそうな鼻声まで届いてきた。がりがりと、爪が扉を引っ掻いている音が響く。自己嫌悪の渦に呑み込まれたままのエルザは、ここでも迷惑をかけてしまっているんだと、悲観的に受け止めてしまっていた。
すぐ側に、優しさに満ち溢れた掌が差し出されていた。顔を上げれば、周囲には温かな気遣いが用意されていた。にも関わらず、毛布で身体を包んだままのエルザは、反応を表すわけでもなく、応えを指し示すわけでもなく、膝を抱えてじっと俯いたままだった。放っておいてほしくて、優しくしないでほしくて、ただただ己という存在を呪い続けることしかできなかった。
扉は断続的に叩かれるのと同時に、力なく引っ掻かれ続けていた。怒気を孕んだ呼び声と、淋しそうな呼び声とだけが、物珍しい刺激となって滞った静寂に降り注いできている。薄闇の中で孤独を望み続けていたエルザは、自嘲ばかりを続ける螺旋を下へ下へと降っていくだけだった。
考えてみれば、いつだって周囲に目を配らずに行き過ぎていると注意され続けてきていたのだ。店の繁盛を顧みずに自分勝手に水のおかわりを頼んだり、まだ手続きを踏んでいない依頼を勝手に引き受けたり、嫌がる人に酒を呑ませ過ぎて泣かせてしまったり。思うままに行動して、そのたびに何かしらの失敗や後悔を経験してきたはずだった。
なのに、また独善的な判断で失態を犯してしまった。向けられたのは、報復という名の帝国からの攻撃だった。まだ己の身に降りかかるものならばよかったのに。被害はたくさんの人が働くギルドに向かってしまった。
そのことが、エルザは悔しくて悔やまれて堪らなかった。蒔いた種が、仲間を傷つけたことが許せなかった。
つけが自身に回ってくるのならば、まだどうにでも我慢できたのだ。やりようによっては、反撃することも可能だった。けれど、結果は最悪の様相を見せてしまった。身内が攻撃されるなんて考えもしていなかったことだった。
「馬鹿野郎……」
呟きは、ドエルフと名乗った帝国の軍人に向けられたものか、はたまた考えのなかった己に向けられたものなのか、口にしたエルザ自身よく分からないものだった。
「いい加減にしろよ。早く出て来やがれ!」
「エルザ。開けてよ。話をしよう」
もう放っておいてくれたらいいのに。どうして執拗に関わりを持とうとするんだろう。同じ場所をぐるぐると回る思考を続けていたエルザには、二人の想いが分からなかった。
――お前のせいだ。
――あんたが悪い。
――全部てめえが引き起こしたことなんだ。
その通りだ。始めっから、あたしなんていなければよかったんだ。
思って膝に額を押し当てると、閉じた瞼の端から涙が溢れたような気がした。
「……クソが。もう勝手にしやがれってんだ」
悪態を吐いて、ずっと扉の前で声をかけ続けていたガトーは踵を返した。尚も部屋の前で眉を下げているリュトに背を向けると、大きな歩幅で階段に向かってしまう。
「俺はもう知らん。関わらん。お前も適当なところで戻ってこいよ。どうせ聞いていやしねえんだから」
口にして、一歩一歩肩を怒らせながら階段を下りていく背中を、リュトは複雑な思いで見つめていた。左右に揺れる両肩から滲み出るエルザの内情を思いやる気持ちは、それでも共有しあっていたのだ。
視線を再び閉じられた扉に戻すと、リュトは大きく嘆息を吐いてしまう。突然の振動に眠れない夜を過ごしていたのに加えて、帰ってきたエルザの表情には憔悴しやつれた無表情が浮かんでいたのだ。リュト自身、肉体的にも精神的にも、疲労は相当なものになってきていた。
扉に額を押し付けて目を閉じたリュトは、切なる願いを込めてエルザの名を呼ぶ。けれども、以前沈黙を保ったままの室内からは物音ひとつ返ってこなかった。足下では、シルバがずっと扉を引っかき続けている。その瞳に映る不安そうな色を見つめていると、どうしても再び込み上げてきた嘆息を押し留めることができなかった。
「エルザ君の様子はどう?」
「あんな引きこもりのことなんて知らねえよ」
「……その様子だと、相当堪えているみたいだね」
夜半にミールを訪れたモルサリは、厨房で返事をしたガトーの無愛想な物言いに思わず苦笑いを浮かべてしまっていた。
「ずっと部屋から出てこないんです。シルバも心配してて、何度も鳴いたんですけど。全然反応がなくて」
口にしたのは、料理が盛り付けられた皿を運んできたリュトだった。ありがとう、と声に出して早速食べ始めたモルサリを、トレイを胸に抱いたリュトが切羽詰った表情で見つめている。
「昨夜一体何があったんですか。あの振動、お客さんからはギルドが襲撃されたって聞きましたけど、それだけじゃエルザはあそこまで落ち込まないでしょう」
「シルバは?」
「……今も部屋の前でお座りしてます。朝からずっとですよ。ご飯をあげても一口も食べようとしないし。見てるこっちまで辛くなりそうです」
「ふたりの絆は強いからねえ。思うところがあるんだろう。――それにしても、シルバまでも部屋には入れていないのか。これは思った以上に重症かもしれないな」
言って、モルサリはグラスの水を飲み干した。動かしていた食事の手を休めると、手を組んで話し始める。
「リュト君がさっき言ったように、昨夜僕たちのギルドが強襲された。夜中だったから学者たちしかいなくてね。簡単に侵入を許してしまった挙句に、遺物を奪われてしまったんだ」
「もしかして、その遺物が……」
「うん。エルザ君が回収した二つの遺物だった。相手も律儀なもんでね、それ以外の文献や研究成果に関しては見向きもしないで二つの遺物だけを強奪していったんだ」
「てめえらギルドが警備を十分にしていなかったのが悪いんじゃねえか」
口を挟んだガトーに、モルサリは苦笑を浮かべながらも神妙に頷いた。
「その通りだ。だから、今回の件は僕の落ち度でもある。曲りなりとも様々な分野に応用が期待される技術を研究する機関だったんだから、もっと守りを厳重にしておくべきだったんだ。ただ、言い訳をさせてもらうとね、これまで一度たりともこんな攻撃は受けたことがなかったんだ。想定が可能だったとは言え、まさかここまで強硬な手段に出るとは思っていなかったんだよ」
「考えが甘かったな」
「まったくだよ。お陰で大切な仲間を四人も失ってしまった」
口にしたモルサリの表情は悲哀に満ちていた。
「でも、それなら尚のこと、エルザの落ち込みようはおかしいんじゃないですか? その、言い辛いんですけど、警備が手薄だったことが原因の一端に挙げられるんですから」
「……瓦礫の中にね、ダルフォール軍の腕章が見つかったんだ」
その一言で、ガトーもリュトも大まかな概要が理解できてしまった。エルザの苦悩を思ってか表情が曇ってしまった二人を尻目に、モルサリは淡々と言葉を続けていく。
「恐らく、エルザ君はこう考えたんだろう。自分が行った行為の腹いせとして報復を受けたんだってね。知ってると思うけど、彼女、遺跡でダルフォールの軍人から遺物を強奪していてさ。だから、人一倍今回の件に責任を感じているんだと思うんだよ」
「そんな……。確かにエルザは軍人さんから遺物を奪ったんだって自信満々で言っていましたけど、それは技術の転用を恐れていたからであって、何よりも周囲のことを考えての行動だったんじゃなかったんですか?」
「そうだよ。だからエルザ君の判断は正しかった。今は少し情勢が不安定だからね。過敏になるのは仕方のないことだったんだ。ただ、彼女は方法を悔いているんじゃないかと思うんだよ。何も、暴力に訴えることことはなかったんだってね。個人的には話し合って解決できるようなことでもなかったと思うんだけど、なかなか難しいんじゃないのかな」
「一丁前に責任は感じてるってことか」
「あれでも、ギルドでは相当の実力者だからね。いろいろなことが重なったとはいえ、思うところがあるんだよ」
「けっ。いつもみたいにさらっと流しちまえばいいのによ。柄にもなくうじうじしやがって。こっちまで気が滅入るってんだ」
愚痴をこぼしたガトーの姿を、モルサリは苦笑を浮かべて、リュトは淋しそうに見つめていた。
「しかしよう、あれだな。お前は一応市長でもあるんだが、昨日今日でこんな場所でゆっくりしてていいのかよ」
「ん? ああ、大丈夫だよ。市政の方は、今はイズミ君が切り盛りしてるから」
さらりと口にしたモルサリに、リュトの頬がそっと緩んでしまう。
「信頼なさってるんですね」
「僕よりもうまくやるぐらいだよ」
そう口にしたところで、ようやく三人の会話の中に小さな笑いが生まれた。
「――ただ、帝国とは少し話をしなければならないね。二日後、三日後……できるだけ早い時期に否が応にもガルナックに来てもらわないと」
笑顔で言ったモルサリだったが、その掌は有らん限りの力でグラスを握り締めていた。