蝶の遺跡 7
束の間、沈黙が食堂の中を包み込む。噎せ返るようなアルコール臭が充満した室内の中で、ただひとり、浅い眠りを続けるシルバだけが居心地が悪そうに鼻をひくつかせていた。
グラスをテーブルに置いて、サルモリがそっと口を開く。
「やっぱりここは居心地がいいね。なんだか懐かしい感じがするよ」
「懐かしいってなに? 王国にいた時のこと?」
酩酊した眼差しを向けながらエルザが口にする。隣のガトーの表情を覗き見てからサルモリは頷いてみせた。
「ああ、そうさ。僕とガトーと、あるひとりの女性と、仕事を終えては集まって互いに話し合ったもんさ。エルザ君も知ってると思うけど、ガトーは王国の警備団長、僕は運送の仕事をしていてね。幼馴染ってこともあって、身分は大きく離れちゃったけど変わらない付き合いを続けてたんだよ」
「それがどういうわけか。今は食堂の店長と、自治都市の市長兼ギルド長なんてところに収まってる」
「まあね。いろいろあったんだよ。いろいろとね」
言って口に酒を含んだサルモリの表情を、エルザはじっと見つめていた。柔らかな微笑の裏側に、暗い過去があるような気がして興味が湧いてしまった。
「でもさ、どうして自治都市なんて始めようと思ったのよ。あんたたち二人の素性は大体知ってるけどさ、そこらへんまったく聞いたことがないんだけど」
「口に出したくないことの一つや二つ、エルザ君にもあるだろう?」
「……まあ、ないわけではない」
「同じことだよ。君にあるんだから僕たちにもあって当然だろう」
「なーんかうまくはぐらかされているような気がする」
「気のせいだよ」
笑ってつまみを口に入れたモルサリの態度が気に食わなかった。視線を隣のガトーに移す。不機嫌なのはいつも通りだったが、様子にどこか違和感を覚えた。じっと口を噤んだまま微動だにしない姿に声をかける。
「どうしたの?」
「……なんでもねえよ」
「ガトーはね、王国が大嫌いなんだ。名前を聞くことすら嫌がるくらいだからね。自分が警備団長だったなんてことは消し去ってしまいたい過去なのさ」
「うるせえぞ、モルサリ。いい加減にしろ」
声に、両の掌を天井に向けてモルサリは首を竦めた。
「だけどさ、いつまでも引き摺るわけには――」
「んなこたぁ分かってるんだよ」
怒鳴るようにして遮った。
「分かってるんだ。もう十五年近く経ってんだからよ。でも、踏ん切りがつかねえんだ。どうリュトに説明したらいいかが分からねえんだ。だからよ、もうちょっとだけ時間をくれよ。ちゃんとカタつけるから」
「ガトー……」
消沈してグラスを傾けた旧友の横顔を、モルサリがじっと見つめていた。
「……分かったよ。もう僕からは何も言わない。ただ、ちゃんとけじめをつけるんだよ?」
「言われなくてもそのつもりだぁ。ったく、おめえはいつになってもお節介が抜けねえから嫌なんだ」
「生憎、性分でね」
「けっ。自覚があるなら何とかできるだろうが」
気の置けない和やかな会話に、ひとり取り残される形になってしまっていたエルザは首を傾げたままだった。
「話の内容がまったく見えてこないんだけど」
「エルザ君はまた僕に同じことを言わせるつもりなのかな?」
「はいはい。口には出したくない過去ってことね。分かりましたよ。詮索しません。……なら気になるような口振りにしなければいいのにさ」
「何か言ったか、クソ餓鬼」
「なんであんたが出てくんのさ。あと、あたしはそんな歳じゃありません」
「似たようなもんだろうが」
「何ですって」
「まあまあ落ち着きなさいな、二人とも。また怒られるよ」
声に、腰を上げていた二人は揃って突っ伏すリュトに視線を向けた。変わらない様子に、ほっと安堵の息を漏らす。
「しかし、リュト君は偉大だね。こうも喧嘩っ早い二人をいつも治めてるんだから」
苦笑を浮かべたモルサリが呆れたように口にした。
「当たり前じゃない」「当たり前だろうが」
揃った声が、なんとも可笑しかった。
夜も更け日付が変わった頃に、不意にモルサリが口を開いた。
「それにしても、エルザ君が受けた依頼は不思議だったね」
「不思議って?」
「いやあ、いくらなんでもあの報酬は異常だったでしょう。それに、依頼主も挙動不審だったし」
「ああ、あれね」
「そう。一体何をあんなに慌てていたんだろう」
「さあね。ものすごい急用だったんじゃないの」
「かもしれないけどねえ」
言ってからグラスを置いたテーブルには、もうほとんど皿が残っていなかった。厨房からは、ガトーが皿を洗う音が聞こえてきている。ちょっとだけ眠り、すっかり酒気を飛ばしてしまっていたリュトが、エルザの側に近づいてきた。
「ね、そこのお皿、この上に積み重ねて」
「ん、分かった――っていうか、そんなに持っててまだ持とうって言うの?」
両手両腕いっぱいを使って積み重ねられていた食器の数々に、思わず驚きの声を上げてしまった。
「これくらい軽いって。ほら、早く早く」
急かされるがままに、エルザは皿をそうっと積み重ねる。ありがと、と口にして颯爽と厨房へと向かっていった後姿を、感嘆の意を持って見つめていた。
「さすがだね」
「うん。あたしには到底無理だと思う」
「なにせ、がさつだからね」
笑ったモルサリを、思いっきり睨み返してやった。
お開きの様相を呈していた食堂では、相変わらずエルザとモルサリが酒を煽っていて、ガトーとリュトが片付けを、そしてシルバとイズミが夢の世界へと旅立っていた。
厨房から、食器に水がぶつかる音と短いやり取りが聞こえてくる。拗ねたようにテーブルに顎を載せたエルザが、ぶつくさと呟いた。
「あたしだって気をつけてるよ」
「はは、ならきっと生粋のがさつ者なんだよ。仕方ないと受け入れるしかないんじゃないかな。『卵の遺跡』の報告にしたって、レポートを読んで改めて笑わせてもらったよ。騙し討ちなんて酷いことをするじゃないか」
「あれは、だって、それしか方法が思いつかなくてさ……」
俄然と上体を起こして口にしたエルザだったが、モルサリのにやけた眼差しに見つめ返されるうちに、勢いが衰えてきてしまった。口を噤み俯いて、小さな嘆息をこぼしてしまう。
「こういうところが、がさつ者って言われる原因なのかなあ」
「分かってるじゃないか」
言葉に、しょげて視線を足下に這わしていたエルザは鋭くモルサリと睨みつけると、不満を滲ませて口を開いた。
「なんか酷い。ずがずがと傷口をえぐられているような気がするんだけど」
「済まないね。如何せん、酒が入ってるから。ガトーによく言われたよ。お前は酒を呑むと嫌な奴になるってね」
朗らかに微笑んでグラスを傾ける姿を、忌々しく思いながら見つめていた。
ことりと、テーブルにグラスを戻す。にこやかに微笑んだモルサリは不意に感心した様子を浮かべるとエルザに目を向けた。
「ま、だけどさ、今回は大手柄だったよ。騙し討ちの如何はともかくとして、二つの遺物をちゃんと回収できたんだからね」
「なーんか嫌な予感がしたんだもの。帝国が領土に入ってたことはもちろんだけど、王国の魔道局まで関わってるなんて言うんだもの。異様だよ」
「確かにね。前例のない事態だ」
口にすると、テーブルの上に手を組んだ。
「……互いに危険視している両国が同じ遺物を追っていることから、対象が兵器として扱えると考えたエルザ君の判断は賢明だったと思う。遺物がどんな力を有しているか分からないからね。僕たちで解析して、管理するのが一番だろう。ただ……」
「ただ?」
「分からないんだ。この三日間昼夜を問わず二つの遺物を調べてはいるんだけどね、どの学者がいうにもも、どんな機能があるのかよく分からないということだった。おそらくは、二つとも何らかのパーツなんだろうけれど、それ以上のことはなんとも」
言って、首を振った姿を見て、エルザは率直な意見を口にする。
「使えないなあ。あんたたちならちょっとは分かるかと思ったのに」
「そう言わないでくれよ。ダルファの遺物は、文献があって始めて相応の研究が進められるものなんだ。現物だけを差し出されて機能が分かることなんて稀なんだよ」
「けどさあ……」
「気持ちは分かる。でも、だからこそ研究をするんだ。まあ、キーワードがあるから、なんとか調べは付くかもしれないけどね」
「そうは言ったって、よく分かんない単語ばっかだったじゃんか」
「そこをどうにかするのがガルナックの力さ」
力強く放たれた言葉を、エルザは半眼で見返した。
「なんだい、その目は」
「べつに。期待しないで待ってるよ。――ところで、二つの遺物は今どこにあるの?」
「ギルドの二階。いろいろと試行錯誤をしている真っ最中さ。学者たちは入れ替わり立ち代りで終始考え続けているからね。あそこには昼も夜も存在しないんだよ」
「怖いところ」
ぞっと肩を抱いて、ふと窓の外に目を向けたときだった。
エルザは、夜空を走る何かの存在に気が付いた。
「なんだろう?」
立ち上がり、外に出てみようと一歩踏み出した瞬間に、激しい振動を伴って、夜空を裂かんばかりの爆音が辺りに響き渡った。
飛来した唐突な衝撃に、バランスを崩したエルザは床に手を突いてしまう。モルサリもテーブルの端をぎゅっと掴んでいた。
「なんだ。何があった」
厨房から、ガトーが怒鳴り声を上げる。拭いていた皿を滑らせてしまっていたリュトは、床に散らばる食器の破片を見て顔を青くさせていた。
眠たそうに寝ぼけ眼を開いたイズミとシルバの側を駆け抜けて、真っ先にエルザが表へ躍り出る。周囲の様子を確認する間にも、もう一度地面が大きく振動して轟音が静寂を貫いた。
立ち並ぶ建物から飛び出してくる人影を避けながら、通りを疾走していく。誰もが驚き、不測の事態に混乱しているようだった。エルザは、断続的に音が響いてくる方角へと一直線に駆けて行く。悪い予感がしていた。もしかして、この爆音の発生源となっている場所は――。
狭い通路をすり抜け、角を曲がって見上げた夜空に、轟々と炎を上げるギルドの姿目の当たりにした。
時を刻む時計板が、業火に嬲られるようにして舐められている。あまりの光景に思わず立ち止まってしまったエルザは、力一杯両手を握り締めると、残していた酒の余韻を自ら手放した。
じっと凝視し睨みつけていた夜空の一角に、飛行する何者かの姿を見つける。
「野郎……」
呟くと、再び力が込められた両足が爆ぜるように疾駆を再開した。
肩で息をしながらもようやく辿り着いたギルド前の広場は、深夜にも関わらず、揺らめく炎に照らされて煌々とした朱に染まっていた。
唐突に何者かの強襲を受けた建物の中からは、両手いっぱいに研究資料を抱えた学者たちが引っ切り無しに飛び出してきている。様子を集まった市民たちが騒然としたまま見守っていた。
取り囲むようにして広場を埋め尽くす群集の間を縫って、エルザは前へ前へと移動していく。先頭に出るのと同時に、ちょうどよく飛び出してきた若い学者を捕まえようと、肩に手をかけた。
「ねえ、何が――」
「邪魔するな。中にまだ資料が残ってるんだ!」
怒声と共に突き飛ばされると、そのまま広場に腰を打ち付けてしまった。呆然と、走り去っていく学者の後姿を眺める。様子を心配した老婆が声をかけて立ち上がらせてくれた。
瞬間的に真っ白になってしまった思考に、再び色彩が戻ってくる。握り締める両手に呼応するかのように、力一杯奥歯を噛み締めた。険しく表情を歪めながら燃え盛るギルドへと近づいていく。行き交う学者の中に先ほどの若者を見つけるや、肩を掴んで無理やり振り向かせた。
「何があったの」
「ああ? またあんたかよ。忙しいって言っただろ。後にしてくれ」
「いいから答えろ! 何があったの」
剣幕に、思わず学者は怯んでしまった。睨み上げてくる眼光が、噛み付かんばかりの獰猛さを宿していたのだ。胸中で、ギルド内の資料を運び出さなければならない焦燥と、煩わしくも説明を要求してくるエルザへの憤りとが螺旋を描いて昇って行く。力の限り後頭部を掻き毟ると、苛立ちをあわらに靴先で地面を叩きながら、学者は口を開き始めた。
「俺にも分かんねえんだよ。いきなり砲撃を受けたと思ったらこの有り様だったんだ。目を開けたときにはもう辺り一面火の海だった」
「砲撃なんてどこからできたって言うのさ。そんなの、空でも飛んでない限り不可能じゃ――」
「だから俺にも分からねえんだって! ……少しだけ見えた姿から想像するに、おそらく一人用の飛行装置を用いていたんだろうと思うが、そこまで研究が進んでいるとこがあるなんて聞いたことがねえんだ」
「じゃあ、襲撃してきた奴らは誰だったかなんてのは……」
「まったく分からん。何せ、始めから目的の物は決まってたみたいだからな。大勢でなだれ込んできたと思ったら、取るもんだけ取ってさっさと消えちまったよ。滅茶苦茶しやがって。貴重な資料をなんだと思っていやがんだ」
言うと、若い学者は思いっきり地面を蹴りつけた。怒りに満ち溢れた視線は、炎に嬲られ続けるギルドに注がれている。揺らめく光源に照らされる横顔に向かって、エルザが口を開いた。
「何が奪われたの?」
質問に、憤然たる怨恨を宿した双眸が鋭く睨み返してきた。
「……あんたが持ってきた遺物だよ。『再生の卵』と『大いなる糧食』。他のものには目もくれず、二つだけを奪っていったんだ」
吐き捨てるように言い残して、学者は再びギルドへ向かって駆け出していった。危険は承知で、それでも収集した資料や積み重ねた研究成果を運び出そうとしていたのだ。
業火の中へと飛び込んでいく背中を見つめながら、エルザは自身の耳を疑っていた。
――あんたが持ってきた遺物だよ。
脳裏に、遺跡で蹴り倒したドエルフの冷たい眼差しが浮かんできてしまった。
「いや、そんなまさか。いくらなんでもそんな短絡的な……」
「おい、帝国軍の腕章が見つかったぞ!」
広場に響いた声に、びくりと肩は震え、視線はわけもなく地面を睨み始めてしまった。両腕を抱いて、じっとつま先を見つめる。集まった人々の視線が全て注がれているかのような錯覚を覚えていた。
「あたしは……あたしは遺物の安全な管理を考えてただけなのに……」
膝を突き力なく顔を向けた視線の先で、ギルドは業火に炙られながら徐々に瓦解し始めていた。狼狽した喚き声と、憤怒がこもった喧号が辺りに谺している。煤に汚れ、火傷を負った学者たちが、駆けつけた医師たちに手当てをされ始めていた。
――惨状はあたしが招いてしまった。
すっと冷たくなる臓腑の内で、エルザはひしひしと感じ取っていた。