蝶の遺跡 6
依頼をこなしギルドでの報告を終えてからというもの、食堂ミールにおいて、エルザは知り合いを呼んで連日のように酒盛りを開いていた。
「おーい顎ひげハゲ、酒が足らないんですけどー。もっと持ってきてちょうだいな」
上機嫌に口にした脳天を拳が貫いた。
「何すんのさ!」
「口が悪いからだ、ド阿呆」
顔を顰めながら痛みに手を振るわせたガトーは、運んできた作りたてのつまみを卓上に配置した。数多くの料理と酒瓶で埋め尽くされていたテーブルの椅子を引くと、疲れきった様子で腰をかける。
大きく嘆息すると、頬杖を突いてぷくりと頬を膨らませていたエルザに目を向けた。
「今夜はもうこれくらいで十分だろ。俺ぁ、もう休む」
「なに、もうへばっちゃったの? やる気が足りないねえ」
「……食わなくてもいいんだぞ」
「あ、いや、お疲れ様でした。全部美味しくいただきます。てへっ」
「当たり前だ、馬鹿野郎」
夜も更けた食堂ミールの店内には、依頼を達成したことで大金をせしめたエルザを中心に、リュトとガトー、ギルドのモルサリとイズミが順番にテーブルについていた。フロアの端ではシルバが体を丸めている。
空になっていたエルザのグラスに、隣のリュトが麦酒を注いでやった。
「あら、ありがと」
「あんまり呑みすぎないでね。もう三日目なんだから。お酒は美味しいし楽しいけどさ、摂りすぎはよくないんだよ」
「分かってるって。ほら、リュトも呑もう」
上機嫌に酒瓶を傾けてきたエルザの笑顔に、頭が痛くなって目を閉じた。
暗闇の中、リュトは注がれる麦酒の水音が異様に長いことに気が付く。見れば、どこから持ってきたのか、グラスならば優に三杯は数えそうなほどに酒が注がれた深皿が、目の前に鎮座していた。
「……あのー、エルザさん。これって……」
「さあて、いってみようやってみよう。溺れないようにね」
「いや、無理だよ。呑めないって。私、エルザみたいにお酒に強くな――」
「問答無用」
遮って、エルザは大杯をリュトの口許に注ぎ入れ始める。堪らず噎せてしまった姿を見て、腹から込み上げてきた大きな笑い声を上げた。
「ごほっ……。もう、無理だって、言ったのに。服まで濡れちゃったじゃない」
辛そうにリュトが口にする。瞬間的に過度のアルコールを摂取したせいで頬が火照ってしまっていた。据わり始めた両眼を鋭くさせて、笑いが収まらないエルザを睨みつける。
「なんてことすんのよ」
「ふふん。お酒はね、みんなでたっぷり呑んだ方が美味しいの。あたしだけじゃもったいないじゃない。だからさ、リュトにも呑んでもらおうと思って」
「嫌だって言ったじゃないの」
「あれ。そうだったっけ?」
惚けて、目を宙に泳がせたエルザのほっぺたを、両手で思いっきり抓り上げた。
「ひゃい。ひたいひたい。ひたいって、ひゅとー!」
「うるさい。調子に乗った罰」
口にしながら更に一層指先に力を込め始めたリュトの姿を、ガトーは心配そうに、モルサリは愉しそうに見つめていた。隣では、イズミがひとり静々とグラスを傾けている。酒に弱いイズミの頬は、誰よりも酒を呑んでいないにも関わらず、五人の中で一番赤く染まってしまっていた。
「エルザ君がいると楽しそうでなによりだねえ」
口にしてつまみを口に運んだモルサリに、ガトーが苦い声を上げる。
「あんな迷惑野郎、いっそ出て行ってもらった方が幾分もましだぜ」
「はは、確かに言えているかもしれない。彼女はいつも率直に行動するからねえ。先日も報酬が少ないって僕の部屋に怒鳴り込んできたぐらいだから」
「なんだ。いつものことじゃねえか」
「扉を壊されてしまってね」
「もう何度目になるんだ?」
「さあ。まあ十回以上は壊されているような気がするよ」
「先日ので、かれこれ十九回目の被害です」
そっと口にしたイズミに、モルサリとガトーが視線を向ける。
「基本的な修繕費が六百二十ルーク。加えて丁番や折れてしまった木彫扉の手配など諸々の経費を合わせると、これまでに二万ルーク近くが消えています」
「だとさ」
「はっ。とんだ疫病神じゃねえか」
口にして、涙目になりながらリュトの攻撃を受け続けていたエルザに目を向けると、三人は揃ってため息をついた。
「明るくていい娘なんだけどねえ」
「けれど、周囲に迷惑をかけるような明るさは害悪でしかないと思います」
「その通りだな。太陽ばっか照り続けて夜がないんじゃあ、ぐっすり眠られねえのと同じことだ」
両隣から発せられた意見が思いのほか辛辣だったせいで、モルサリは苦笑を浮かべるしかなかった。手にしたグラスを傾ける。ゆっくりとテーブルにグラスを戻してから、肘を突いて手を組んだ。
「でもいいじゃないか。あれだけ無鉄砲な明るさを前にすると、抱いていた悩みも馬鹿馬鹿しくなってくる。そうだろう、ガトー。エルザ君をこの店に雇うって言い出したのはお前からだったじゃないか」
「…………」
カウンター席の一番端っこに立てかけられた写真立ての中で、リュトに似た一人の女性が柔らかな微笑を湛えている。柔和な曲線を描く双眸は、口を噤んでしまったガトーに向けられていて、今だけは少し物悲しげな色に染まっているように見えた。
そんな中、不意を付いてリュトの猛攻から逃れることに成功したエルザが、隣でちびちびと酒を呑んでいた新たな標的を見つけ出した。
「あ、イズミさんのグラス空じゃないの。だめだって、呑まなきゃ。ほら。ほらほら」
「えっ。ちょっと、待ってください。私、全然呑めなくて――」
「大丈夫。呑んでたらそのうち慣れる。さ、くいーっといっちゃおう」
嫌がるイズミの口を無理やり開けて、エルザが酒を流し込んだ。
「エルザ! イズミさんは本当にお酒に弱いの。無理させちゃだめでしょう」
「大丈夫だって。ほら、ちゃんと呑みきって――ありゃあ?」
憤然と近づいてきたリュトから視線を戻したエルザは、顔を真っ赤に染めたまま目を回していたイズミの様子に気が付いた。慌ててまだ酒が残っていたグラスを離す。おずおずと声をかけた。
「あのー、イズミさん? 大丈夫?」
「…………」
「おーい。聞こえてる? だいじょーぶですかー?」
返ってこない反応に、さっと身体を下げたエルザが、深刻そうな面持ちで口を開いた。
「へ、返事がない」
「馬鹿言ってんじゃないの。早く水汲んできて上げなさい」
頭を叩いて、リュトがエルザに指示を出す。
「なんであたしが?」
「当たり前でしょ。ほら、さっさと動く。じゃないと今度はコレだからね」
目の前に出された鉄拳に震え上がったエルザは、いそいそと厨房へと向かって行った。
運ばれてきた水を口に含むと、イズミはゆっくりと意識を取り戻し始める。心配そうに覗き込んできていたリュトと、その後ろでにやけているエルザに気が付いて、弱々しい笑顔を浮かべた。
「イズミさん大丈夫? ごめんね、エルザの馬鹿が無理させちゃって」
「……いいんです。私は大丈夫ですから。楽しいお酒が呑めました」
「ほら。言ってるじゃん」
「あんたは黙ってなさい。――本当に大丈夫ですか? 気分が悪いようでしたら二階にお布団用意しますけど」
「……大丈夫です。……本当に、大、丈夫、ですからぁ」
口にするや、唐突にイズミは泣き出してしまった。豹変振りに、残りの四人は目を見張ってしまう。
中でも一番慌てたのがリュトだった。エルザに無理やり大量の酒を呑まされたせいで薄っすらとぼやけていた頭が一気に覚醒する。しゃがみ込むと、泣きじゃくるイズミを見上げて声をかけた。
「ど、どうしたんですか。私、何か要らないこと言っちゃいましたか?」
「あーあ、リュトが泣かした。イズミさん泣かせちゃったー」
「うっさいのよ、エルザ!」
「うぇええ……えっぐ……ぐすっ……」
止めどない涙に、両手を忙しなく動かすイズミにリュトは手を焼いた。二つほど年上の、普段から口数が少なくておとなしい女性が唐突に泣き出してしまったのだ。対応はおろか、かける言葉すら何一つ思い浮かばなかった。ただただ、背後で暢気に酒を呑みだしたエルザのことが憎たらしかった。
「ねえ、イズミさん。どうして泣くんです? 教えてくれないと、私にもどうすればいいのか分かりませんよ」
「……だって、リュトさんが、エルザさんのこと叱ってくれたし、私のことまで心配してくれて……」
紡がれる言葉に、リュトは目を丸くしていた。この人は一体何を言っているのだろう。分からなくて、思考が停止しそうだった。頭をぶんぶんと振って、懸命に理解に努めようとし続ける。困ったような苦笑を浮かべつつ、リュトは口を開いた。
「その、それはつまり感謝しているから泣いてるっていうことでいいんですかね?」
こっくりと、イズミは頷いてみせる。
「あ、ありがとうございます。私、本当に断れなくて、何でも勢いに呑まれちゃうところがあるって言うか、実際エルザさんとか苦手で……」
「なんだって?」
「あんたはちょっと黙ってて」
耳聡く口を挟んできたエルザに釘をさして、リュトはイズミの言葉に耳を傾ける。
「私、自己主張とか苦手なんです。だから、エルザさんみたいな人がいると自己嫌悪になったりしちゃって」
「分かりますよ。あいつは太陽みたいなもんだもの。いる分には問題ないんですけどね。直視すると目が焼かれちゃいますよ」
冗談に、ようやくイズミの口許に笑みが浮かんだ。
「ありがとうございます。リュトさんは、その、お優しい人ですよね。加えてお父様譲りの気丈さも持ち合わせていらっしゃる。私のような輩には憧れることしかできません」
「憧れるなんて、そんな大層なもんじゃないですよ。イズミさんにだって凄いとこありますよ。ね、モルサリさん」
「ん。ああ、もちろんだとも。僕はイズミ君の補佐なくしてここまでやってこられなかったからね。感謝しているよ」
向けられた眼差しに、イズミの両目に再び涙が溢れてきた。
様子を微笑ましく見守っていたリュトは、立ち上がりそっと身体を抱き締めると、すっと黒髪の伸びる小さな頭を撫でてあげた。
「……知らなかった。イズミさんは泣き上戸なのね」
「お前はもう少し気の利いたことが言えねえのか、馬鹿野郎が」
身を寄せてぼそぼそと口にしたエルザの頭を、ガトーが軽く叩いてやった。
やがて、泣き止むと同時に席を立ったイズミは、ふらふらとシルバの許へ歩み寄ると、柔らかな獣毛を堪能しながら夢の国へと旅立っていった。様子を、リュトは心配そうに眺め、元凶であるエルザは完璧に無視してしまっていた。イズミに言い放った厳禁礼のことなど、とっくに忘れ去ってしまっている。
「さて、本日十五本目の酒になります。景気よく開封いたしましょう」
「……ちょっとは罪悪感を抱いたらどうなの?」
「ん? ああ、イズミさんのこと。いやあ、失敗しちゃったね。あんなにお酒に弱いとは」
「だからそうだって言ったじゃない」
叱られながらも、エルザは酒瓶をグラスに傾ける。一息に流し込むと、美味そうに息を吐いた。
「もう。反省してるの?」
「もちろん。してないわけがない」
自信満々で胸を張った様子に、リュトは両肩に重石が乗ったように感じた。ゆっくりと歩いて、自席に腰を据える。頬杖を付くと、楊枝が刺さったつまみを口の中へと放り込んだ。
あからさまな態度に、隣に座るエルザが身を乗り出してくる。
「なになに。もしかして、ちょっと不機嫌ですか?」
「ええ。誰かさんのせいでね」
つまみをもうひとつ口に含んだ。腹いせのように次から次へと食べていく娘の姿を、ガトーは気の毒そうに見つめ、苦笑を浮かべたモルサリも黙ったままグラスを傾け続けていた。
困ったのはエルザである。寄せていた身体を離すと、しばし呆然としてリュトの暴食を眺めていた。そのうち、葡萄酒の入った酒瓶を傾けてグラスに注ぐと、つまみのひとつとして用意してあった乾燥果物を数粒浸し始めた。くるくると無言のままかき混ぜた後に、不意にリュトの目の前にグラスを差し出す。
「……なに」
「楽しく呑もう? あたしも調子乗っちゃってたの反省するから」
「私に謝ってどうすんのよ」
言葉に、柄にもなくエルザはしょんぼりしてしまった。差し出した即席の芳香酒から手を離すと、いよいよ口数も減って背後に影が差し始めてしまう。
「……ああ、もう。面倒なんだから。分かったわよ。呑む。呑ませていただきます」
やけくそのように口にして、リュトは芳香酒に口をつけた。瞬間、咽喉を嚥下させるの止めると、グラスを口から離して隣に目を向けた。
「これ、美味しいわね」
好評な一言に、ぱっとエルザの表情が華やいだ。
「でしょでしょ。結構簡単に作れるんだよ。生の果物を使っても美味しいの」
一転して騒ぎ始めた二人を見ながら、ガトーは嘆息を出すことしかできなかった。
「さすがはエルザ君だ」
口にしたモルサリは愉快そうに肩を震わせている。
けれども、何事にしても限度を知らないのがエルザの欠点でもある。当たり前のように自身が口にした言葉を忘れてしまうと、調子に乗って二人一緒に芳香酒を流し込み始めてしまった。
順当にリュトが音をあげ出してしまう。
「……い、いい加減辛いんだけど。確かに呑みやすいし美味しいけど、もう呑めない」
右手を口許に添えて、青い顔をしたまま口にする。背中を擦りながら、エルザが発破を掛け始めた。
「なになに、リュトさん。つれないじゃないの。そんな淋しいこと言わないでさ、もっと呑もうよ。まだまだいけるって。ほら、頑張って」
「いや、もう無理」
言うやテーブルに突っ伏してしまった両肩を、思いっきり揺すり始めていた。
「ええー、待ってよう。そんなの、つまんないって。起きて」
「おいおい、その辺にしといてやってくれよ。明日も仕事があるんだからよ。みんながみんなお前みてえに阿呆みたいな胃袋を持ってるわけじゃねえんだ」
「じゃあハゲ、あんたが相手してくれるの?」
「するかボケ。やるならモルサリとしてろ。あと、ハゲハゲ連呼すんな」
「仕方ないじゃない。実際ハゲなんだし」
「んだと、この小娘が」
「……黙りなさい」
顔を上げて放たれたリュトの一言に、やおら喧嘩を始めようとしていたエルザとガトーの昂ぶりが萎えた。静々と腰を席に戻した二人を、モルサリが心底愉快そうに見つめている。
「何にやにやしてんのよ」
「いや。仲がいいなと思ってさ」
「どこが!」「何言いやがる!」
「ほら。反応までそっくりじゃないか」
くつくつと笑うモルサリが不愉快だったが、互いに顔を見合わせたエルザとガトーはそのままぷいとそっぽを向いてしまった。