蝶の遺跡 5
三
王国の首都ゾッカにある魔導局の長い廊下を、一人の若い研究員が足早に進んでいた。
顔のつくりは、ガルナックのロビーで突如として頭を下げた、あのいかにも怪しそうだった依頼主と同一のものである。彼は息を弾ませ、すれ違う同僚たちに怪訝な目を向けられようとも、一途に局長室の扉を目指していた。
ようやく、憧れの局長から直々に命じられた案件に関する報告を伝えることができるのである。日数にして十四日間。すぐにでも任務を果たしたいと逸っていた彼にとっては、これまでの人生の中で一番長い十四日間だった。
狂信的なまでに局長に憧れを抱いていた彼は、魔道局の一員である身分を隠してゾッカからガルナックへと移動してからというもの、狭い宿屋と時計台を模したギルドとを行き来するだけの悶々とした日々を続けていた。
与えられた任務を全うしなければならないという強迫観念、滞りなく依頼は成功しいるのか分からない大憂、魔導局の人間であることがばれて失敗してしまうことに脅え今すぐにでも逃げ出したくなる恐怖――。暗澹たる様々な思いを抱きながらも、局長に認められたい一心で、繰る日も繰る日も実りのいい結果が訪れることを渇望していた。
そんな中、ガルナックの宿屋で十回目の朝日を拝んだ日に、ようやく遺跡からトレジャーが帰ってきた。逸る気持ちを抑えながら後姿に声をかけ、その後ロビーでしばらく待っていた。緊張しながら受け取った詳報書には、思いもしなかった結果が書き記されていた。
なんと、『再生の卵』だけでなく、『大いなる糧食』までも回収してきたというのだ。別々の案件として依頼を出していただけに、一度にことが済んでしまうことは予想外だった。
周囲の人間からギルド長と呼ばれていた眼鏡の男が、なにやら共同研究や、遺物はこちらで保管すると言ったようなことを口にしていたが、そんなことはどうでもいいことになってしまった。局長に命じられた、ガルナックのトレジャーに『再生の卵』と『大いなる糧食』を回収させるという指令を全うできただけで、彼にはもう十分だったのだ。
預かっていた報酬をその場で全部赤茶色の髪の少女に手渡して、彼は詳報書を手にガルナックを後にする。
往きと同じく二日かけてでしか帰れない道程を煩わしく思いながらも、ゾッカへと舞い戻るや否や、馬車から駆け降りた足で廊下を突き進んでいるのだった。
「失礼します」
扉を叩く音をけたたましく響かせて、緊張した面持ちの彼は局長室へと入室する。
入り口を除いた部屋の四方全てを、天井にまで届く本棚によって囲まれた局長室は相変わらず薄暗く、吸い込む空気に負荷がかかっているかのようだった。
蝋燭の弾ける音だけが微かな雑音となって本棚に吸収されていく。肩まで伸びる長髪を持った人物が、部屋の奥に備え付けられた机に向かって椅子に腰掛けていた。
卓上に腕を組み、静かに瞑想をしていた男はゆっくりと顔を上げる。
猛禽類を思わせるような鋭い眼光に射竦められて、彼は恐怖とも歓喜とも分からない激情に打ち震えてしまった。
「なんだ?」
重低音が緊張に強張った耳から脳髄へと伝播する。
「は、はい。承っておりました『蝶』に関する遺跡についての報告をお持ちいたしました。二つの遺物は、無事確保いたさせました。ただ、やはりと言うか、遺物の受け取りは拒否されてしまいまして……」
ところどころ上ずりながらも、反復していたとおりに唇は動いてくれた。目前の男は無言のままに手を前へと差し出してくる。とりわけ慌てるような場面ではなかったものの、少しでも早く要望に応えたいと思った彼は、机に駆け寄って素早く詳報書を手渡した。
何一つ言葉を発することなく黙々と紙面に目を通していた男の口元が、不意に誰にも見られることなく歪みあがる。
詳報書を卓上に置いた男は、緊張したまま立ち尽くす彼に向かって声をかけた。
「ご苦労だった。下がれ」
言葉に深々と頭を下げてから踵を返した彼は、扉へと向かいながら、感激のあまり涙を浮かべていた。
――局長に労いの言葉をかけてもらった。認めてもらった。役に立てたんだ!
思うほどに感情は昂ぶり、滴となって頬を滑り降りていった。
恍惚とした表情を浮かべて、夢遊病者のように局長室を後にした彼の姿を遠巻きに眺めていた同期の仲間たちは様々な噂を立てていた。
――局長の人体実験を受けたんじゃないか。
――もしかして、開発した新薬を投与されてしまったのかもしれない。
――いやいや、催眠や洗脳の類を受けてしまった可能性も捨てきれないのではないか。
急速に広まった噂がまた新たな噂を呼び、魔導局の中に蔓延っていた一種の恐怖政治的支配は、より強固なものへと変化し始めていた。
元より、誰もが局長のことを恐れていたのである。
現職の局長が就任してからというもの、魔道局の研究内容は加速度的に危険度を増していて、かつて掲げていた平和利用を信条と謳った理念は、暴風に揉まれた小さな紙片のようにどこかへ消え去ってしまっていた。
再び本棚に囲まれた局長室でひとりになっていた男は、卓上に腕を組んで愉快そうに口角を吊り上げていた。
両肘が穿ついているのは、彼から受け取った詳報書と男意外その存在を知らない文献である。添えられた独自の見解文の冒頭には『アゲハ構想における機能の暴走と、その危険性について』との文言が記されていた。
「シエラさん、これでようやく私にも、ここに座る確かな理由が生まれそうですよ」
長かった屈辱の日々を思い、虚空に向かって呟くように口にする。
やっと、先代が成し遂げた偉業を超えることができるだけの地点に辿り着いたのだ。思うだけで、腹の底から嗤いが込み上げてきそうだった。掌で視界を覆うと、堪えきれずに男はくつくつと声を漏らし始めた。
ひとしきり肩を震わせた後に、冷徹なまでに乾いた眼が刻々と時を刻む魔術印の姿を捉えた。そろそろ国王へ定時報告をする時間が迫ってきている。
因果なものだと、ふと男は考えた。
かつて、王国で最初に科学と魔術との合成に関するダルファの記述を解読した女性は、技術が人の幸せのために使われることを望んで初代魔導局局長の座についていた。それが今や、隣国の脅威に晒された国王を唆して承った命令によって、戦力としての魔導研究を断行している自分が局長の座についている。
「学は戦に用いず、か」
表情をなくしたままぽつりと口にして、男は座っていた椅子から立ち上がった。背もたれにかけておいた白衣に袖を通すと、扉を開いて王が待つ玉座まで歩き始めた。
その姿を目にするだけで、廊下で雑談をしていた研究員たちが一斉に頭を下げる。ちょうど部屋から出てきた者も、急ぎの用事があるのであろう息を弾ませていた者も、立ち止まって恭しく頭を垂れるのだ。
向けられるいくつもの頭をつまらなさそうに一瞥して、男――魔道局の局長であるザルクは、己以外の全ての存在を見下すかのごとく凍りついた眼差しを、一層厳しくさせていた。
円柱が立ち並ぶ謁見室を縦断する、煌びやかな刺繍が施された絨毯に膝を突いて、ザルクは王が訪れるのをじっと待ち続けていた。
向かって右手から、かつんと高座を叩く跫音が飛び込んでくる。閉じていた瞼を見開き、面を上げたザルクは、衛兵を引き連れた壮齢の国王が側近と共に姿を現わす様子をじっと見つめ続けていた。
視線が自身に向けられる前に素早く俯くと、備え付けられた玉座に腰を据えた国王に命じられるがままに身体を動かしていく。
「面を上げよ。……さてザルク。魔導研究の方は順調に進んでいるのか」
「はい。先程、遂に必要とされていた二つの遺物が手に入ったとの報告が入りました。あとは歴史の闇に葬られた遺跡へと赴き、停止したままになっている機能を起動させるだけです」
「ふむ。ということは、そう遠くない時期に、相応の兵力を増やせるというわけなのだな」
訊ねた国王に向かって、ザルクは力強く頷き返した。
「帝国ダルフォールには対抗し得るのか」
「無論でございます。解読した文献が正しいとするならば、我々王国は、帝国はおろか、隣接するその他の国家すら支配下に入れることができると考えております」
「なるほど。頼もしい限りだ」
言葉に、ザルクは恭しく頭を下げる。表情を見られる心配がなくなったところで、自然と刻まれてしまう歪んだ笑みを口元に浮かべた。
「しかしながら、ガルナックのギルドに依頼したのでは、完全に我が王国が遺物を手に入れたとは言えぬではないか? 聞くところによると、あそこは依頼を引き受ける第一条件に、共同研究をすることを明記しているというではないか。これについてはどうするつもりなのだ」
「ご安心ください。すでに手筈は整えております。後は私に全てお任せください」
放たれる自信に満ち溢れた返事に、しかし国王は表情を曇らせた。沈痛な面持ちでしばらく黙すと、小さく呟いた。
「万事準備は整っているというわけか……。だが、本当にこれで正しいのだろうか? 勢力を拡大させる隣国の脅威から国民を守るためとは言え、魔導などという失われたかつての力を武力に用いるなど……」
「お言葉ですが国王。あなたがそんなことを口にしてはなりません。組織というものは、頂点に立つ者が全てなのです。船頭が迷っていては、船は行き先を決めることすらままならないのです。ご安心ください。心配には及びません。我々魔導局は、完全に文献を解読いたしております。違うことなど決してございません。この場で誓ってもいい。それに、これしか方法は残っていないと仰っていたじゃありませんか」
確固たる決心の許に口にされたザルクの言葉を受け、国王は唸りをあげる。
「……拡張する力に対抗するにはそれ以上の力を有さなければならない」
「その通りでございます」
「……民の幸福を守り通すためには、他国を蹂躙できるだけの圧力が必要なのだ」
「仰る通りです」
「…………」
しかし、それで問題は解決するのだろうか。未来に必ず芽吹くであろう、新たな火種を撒き散らしているだけなのではないか。決断は目先の脅威を取り払うための最善の一手なのだろうか――。
国王は、目を瞑ってしばしの沈黙を保っていた。やがて大きく嘆息すると、渋面を浮かべた額に拳を当てて、重たい唇を開口させた。
「……分かった。以降のことはザルク、全てお前に託そう。この国を頼む」
「御意に」
頭を下げたザルクの後頭部を、国王は複雑な思いで見つめていた。
置かれている王国の現状。急速に拡大する帝国の軍備。一国の主として、間近にある脅威から民を守るためには確かな力が必要だった。今から王国軍を強化するにしても、限度がある。即効性のある武力で、帝国を牽制する必要があった。
だからこそ選んだ魔道の力だった。現存する魔術の術印と、近年開発が著しい科学の技術を統合させた力。ザルクからの進言を受けたとは言え、自ら進んで選んだ決断だった。
――私は間違ってはいない。たとえそこに不幸が生まれるとしても、仕方がないことなのだ。国を守らなければならない。民の幸福を第一に考えなければならない。我らの子孫がどのような未来を歩むかが決まる、重大な分岐路なのだから。力には力で対抗する他ない。圧倒的な武力こそが、他国からの侵略を逃れる最たる手段なのだ。分かっている。そんなこと、重々承知している。だというのに――
思考する国王の眉間には、己を言い聞かせれば言い聞かせるほどに深々とした皺が刻まれていた。
――だというのに、どうしてかようなまでにも決心が揺らぐのであろうか。
右手の親指と人差し指で瞼を押さえて、国王は思い悩む。様子を哀れむかのように見つめていたザルクの耳に、慌てる女性の声が飛び込んできた。
「……さま。リナ様! なりません。今はお父上が謁見の最中なんですよ」
声は、背後にある謁見室の入り口で大きくなった。振り向いた途端に厳しい眼差しを向けてくる碧眼の少女の姿を見つけ、ザルクは忌々しさのあまり眼差しを据わらせてしまう。
「リナ様、落ち着いてください。今私たちが入っては――」
付きまとう侍女の腹部に体当たりをしてから、ゆるく波打つ金髪を怒らせて、リナは絨毯の上を玉座に向かって歩いていく。ザルクの隣で立ち止まると、烈火のごとく滾る感情をあらわにしながらまっすぐに睨み上げた。
無言のまま、しばし冷めた眼差しと怒りに燃える眼差しとが交錯する。
顔を背け再び壇上に向かって歩き出したリナは、国王の前に立つと懇願するかのように声を荒げた。
「お父様。考え直してください。魔導局の男が騙る戯言なんぞに惑わされてはなりません」
「リナ……」
「お父様だって知っているでしょう。魔導研究の基本理念は全ての人民を思うことから始まるのです。国を守るからといって、隣国の民に脅威を与えることなど許されるわけがございません」
「お言葉ですがリナ姫。貴殿は少しばかり現状を理解していないのではないのではありませんか?」
背後から嘲るような声がかかった。俄然と振り返って、リナは冷笑を浮かべるザルクに睨みを利かせる。臆することなく、白衣を纏った男は前へと歩き出した。
「確かに人民全ての幸福を考えるのは素晴らしいことです。崇高だと言ってもよいでしょう。私も、できることならそうありたいと思っています。ですがね、所詮そんなものは理念にしか過ぎない。逼迫した現状においては、なんら価値を持たない代物に成り下がってしまうのですよ。場合によっては阻害になることすらあり得る」
「けれど、だからと言って込められた本懐を放棄してはならないはずでしょう」
「仰る通りです。ですが、必ずしも相手が同じ理念を共有しているとは言えないのではありませんか?」
言葉に、高座の間近にまで歩み寄ってきていたザルクを、リナは怪訝な表情で見つめる。
「何が言いたいのです」
「……帝国ダルフォールもまた、私たちと同じくして遺跡を嗅ぎまわっているという話ではございませんか」
「何ですって?」
反応に、ザルクの表情に一層の嘲けりを含んだ笑みが浮かび上がった。
「ご存知ありませんでしたか。奴らもまた魔道による兵力増強を狙っているのですよ。敵が侵略せんがために魔道の研究を推し進める一方で、我々が人民の幸福のためなどと甘いことを掲げていたらどうなると思います? やがて訪れる戦火の時に、王国の民を守れるとお思いなのですか? 物事にはいくつもの面が存在するのですよ。リナ姫、王が決断した苦渋の選択をあなたも理解すべきです」
「言葉が過ぎるぞ、ザルク」
「これはこれは。失礼致しました」
苦々しく口にした国王の一言に、恐縮したように頭を下げた。
「申し訳ございませんでした。ついつい要らぬことまで口にしてしまうのが私の欠点でございます故、なにとぞご寛容いただけますれば幸いでございます」
向けられた微笑に、リナは瞬間的に臓腑が煮え滾るのを感じずにはいられなかった。
罵声に開きかけた口を遮るようにして、再び白衣が頭を垂れる。
「それでは、私はこれで。進めなければならない研究がございますので」
口にして立ち去ったザルクの背中を、苦虫でも噛み潰したかのような表情で眺めていた。
振り返り、目を閉じたまま渋面を作っていた国王に詰め寄る。
「お父様。もう一度よく考えてください。あの男は徒に戦渦を望んでいるだけではありませんか。現行している魔道の研究だって、何も攻撃に囚われることはないんです。防備を徹底することこそ、正しい知識の使い方ではありませんか。戦は避けなければならないのです」
「……一理あるが、こちらがどれほど手を尽くしたところで、相手方がそれ以上の力で攻めてきたらどうしようもないではないか。リナよ、お前の考えはもっともだ。戦いを起こさないことこそ、善き君主であり善き政治なのであろう。しかしながら、時流はすでに動き出してしまっている。帝国が国境付近の軍備を増強したとの知らせがもう入ってきているのだ。ここまで事態が進んでしまったからには、できるだけ自国の被害を留めなくてはならない。――たとえ相手国を蹂躙してしまおうとも」
見開かれた眼差しの鋭さに、リナは一瞬だけ怯んでしまった。ザルクが口にした、王という立場における決断の重さを痛感してしまう。
けれども、どうしても受け入れることはできなかった。先代の魔道局長の考えに強い感銘を受け、僅か十五歳でありながらダルファ文字を読解できるまでの頭脳と幅広い知識を身につけたリナだった。受け継がれた遺志が、国の暴走を止めなければならないと警告を発し続けていた。
そもそも、父上は王としての判断を放棄しようとしている。
「でも、それでもお父様――」
「くどいぞ!」
鋭い一喝に、思わず数歩たじろいでしまう。
「もう歩み始めてしまったのだ。今更修正など効かんのだよ」
「お父様……」
「リ、リナ様……お待ち、くださいませ……」
辛そうな声に振り返ると、絨毯を従者のミュシナがよろめきながら歩いてきていた。当たり所が悪かったのだろう。体当たりをした拍子に運悪く鳩尾に入ってしまったリナの拳が、強烈に効いていた。
「……これまでだな。行くぞ」
口にして、国王が玉座から立ち上がる。やってきた時と同じように、衛兵と側近を従えて高座の端から姿を消していった。
ひとり残される形となったリナは、力の限り両の手を握り締めて俯いていた。
「リ、リナ様。皆様お帰りになられましたことですし、私たちも帰りま――」
段の下から見上げたミュシナには、仕える主人の壮絶な憤りを前にして、口を噤む以外に方法がなかった。