サラマンダーとルチの酒 1
酒場の中は、筋肉質なむさ苦しい男どもの談笑で溢れかえっていた。
汗の臭いと酒の匂いとが混ざり合い、むせ返るような空気を醸し出している空間の中に、たった一人だけ赤茶色の髪を束ねた十七、八ぐらいの少女がいた。カウンター席に腰かけて、周囲の男どもも顔負けの勢いで、ぐびぐびと勢いよく喉を上下させている。簡素で動きやすそうな服装をしているのに、腰に回した短刀だけがいやに自己主張をし続けていた。緻密な紋章による装飾が、どこか魔道具のような印象を周囲に撒き散らしている。
持ち主であるエルザは、本日三杯目の酒を景気よく飲み干すや、ごとりと木彫のテーブルに空になった小樽を打ち付けた。
「いやー、やっぱりルチの葡萄酒は最高ね!」
「そうかい。それはよかった」
飲みっぷりに、真っ黒なベストを着込んだ初老のマスターは苦笑を浮かべる。おかわりを求めて突き出された小樽の中に、新しい葡萄酒を注いだ。
ここルチの町は、アバル王国が治める広大な国土のちょうど極東に位置する小さな鉱山町だ。総人口はおよそ一万人。男どもは毎日のように鉱脈を辿って山を掘り、裾野に広がる畑で女たちが季節に応じた作物を収穫する。子どもは家畜を任されており、羊を追って朝から西へ東へと歩き回るもんだから身体だけは丈夫になる。
どの住人も大らかで底抜けに明るい上に、みんながみんな上戸なのが特徴だった。遠く離れた土地で、牧歌的でどこまでも開放的だという風の便りを聞いたエルザは、わざわざ東へ東へと旅を続けて、二日前ようやくこの町に辿り着いたのだった。
「ああ、美味いわあ。本当、はるばるやってきた甲斐があった」
「お、なかなかいい飲みっぷりしてるじゃねえか」
「ふふん。だって美味しいんだもの」
頬を紅潮させながら、エルザは隣に座ったつるっぱげのおっさんに返事をした。
「本当、このお酒大好き」
とろんと潤んだ瞳で呟き、再び小樽を勢いよく煽った。
酒好きのエルザがルチにやってきたのにはもうひとつ理由がある。名酒と名高い葡萄酒をぜひとも産地で嗜みたいと思っていたのだ。国土の端っこに位置しているとは言え、ルチといえばその名をしらぬ人は王国には居ない。首都ゾッカとの物流が乏しいにも関わらず、「ルチの葡萄酒」の名だけは広く人々の間に知れ渡っていた。
「まったく年端もいかない嬢ちゃんだろうに。末恐ろしいよ」
マスターが呆れたように口にする。違えねえやと、隣のおっさんも景気よく笑った。
「これだけ美味そうに飲んでくれるんだ、造ってる身としてはこれ以上に嬉しいこたぁあねえよ」
「あれ。このお酒、おっさんが造ってるんだ?」
「おうよ。これでも酒蔵の首領なんだぜ」
「へえ。以外だなあ。もっと繊細な人が造ってるのかと思った」
「言ってくれるなよ。酒造りの傍ら鉱山で働いてるだ。ほら、この通り」
上腕二等筋を誇らしげ盛り上がらせて、にかっと笑った。
「どうしようもないけど、ムキムキになっちまうんだ」
「でもまあ、美味しい酒の造り方は知ってるよ」
マスターが穏やかに口にする。
「こんな外見で脳筋馬鹿みたいに見えるかもしれないけどね、やる仕事は一級品なんだ。嬢ちゃんも分かるだろう?」
言われてエルザは大きく頷く。おっさんが恥ずかしそうに頬を掻いた。
「俺らができることなんて限られてるんだけどな。所詮、葡萄の味を引き出してやることしかできねえんだし。だからよ、このルチの酒が美味い一番の理由は山がいいからなのさ。ここいらの山は岩石ばかりで雨なんかちっとも蓄えなえからな。山肌に並ぶ葡萄は、そりゃあ濃厚な味になるんだ。加えて近くには塩湖がある。ぎゅっと濃縮された味になってくれるんだよ」
「じゃあ、そのまま食べても美味しいかったりするんだ?」
「そう言うわけでもないんだな、これが。美味いって言っても、小さい粒しか実らない品種だ。ボリュームが足りなさ過ぎるんだよ。そのまま食べるよりも加工した方が満足できるんだ」
「なるほど」
言って、エルザは再び小樽を煽った。うん、やっぱり美味い。説明を受けたあと飲んだ酒は、また一段と美味しく格別の味わいを与えてきてくれた。このまま葡萄酒の中で溺れてしまってもいいかと思ってしまうくらいだった。夢見心地でエルザはカウンターに鋭い頭突きを繰り出した。
「おお、嬢ちゃん大丈夫かね。あんまり勢いよく飲むからだよ」
心配そうにマスターが声をかける。
「この歳で酔いつぶれるたあ、いい酒豪だぜ」
おっさんが愉快そうに肩を震わせた。
テーブルに突っ伏して目を回してしまったエルザの耳には、マスターの声も、おっさんも笑い声も、酒場のいたるところで続いている様々な話し声も、ぼんやりと膜を張ったように聞こえてくる。
――おい、あそこの坑道、もう直ったってよ。
――そうか。これからはもっと採掘できるようになるな。
――聞いてくれよ。かみさんがさ、こりゃもうおっかねえのなんのって。
――はは。いいことじゃねえか。旦那が尻に敷かれる家庭は円満だよ。
――うちも似たようなもんさ。わははは。
――こっちも同じだ。一週間前に根こそぎ倒されちまった。
――これでもう何件目だ? 今年の酒はどうなっちまうんだよ。
――まったく、困ったもんが住み着いちまったもんだ。
真っ赤な顔をしてむくりと顔を上げたエルザは、背後を振り向いて再び酒を飲む。
「……なに。何か問題でもあんの?」
おっさんに訊ねた。
「ん? なんだあ急に」
「何か辛気臭い話が聞こえてきたから」
「ああ、じゃああれだな。最近、葡萄畑が荒らされてるやつだ」
「ほう」
「それも相手は相当な怪力ときてる。木を倒して実を食っていきやがるから、かなり深刻なんだ」
忌々しそうな口調だった。小樽をテーブルに置いて、エルザは本格的に話に耳を傾け始める。
「一体何が悪さをしてるわけ?」
「サラマンダーだよ」
背後からマスター口にした。
「サラマンダー? サラマンダーって、あの宗教まであるサラマンダー?」
「ああ。昔はここいらでも山の守り神とか言って信仰してたけどね。もう今じゃあすっかり。時代が変わって信仰が薄れてきたんだねえ。加えてこの葡萄騒ぎ。最近はどいつもこいつも害獣呼ばわりしている。嘆かわしいことだ」
淋しそうな口調だった。もしかしたらマスターはまだサラマンダー信仰を捨てていないのかもしれない。つらいだろうなと、エルザは酔っ払った脳みそで考えた。
「けど、あいつらは俺たちの葡萄を食い荒らしていやがる」
おっさんが怒りを押し殺して言った。
「王国の希少種保護法がなけりゃあ、とっくにぶちのめしてるよ」
「苦労してるんだねえ」
「苦労なんてもんじゃねえよ」
吐き捨てるように言って、おっさんは勢いよく酒を呑んだ。
「ジジイ、もういっぱい」
小樽を差し出すとため息が漏れた。もう例年の四分の三ほどしか葡萄酒が造れないほどに被害を被ってしまっていた。その上、収穫はまだ一月以上も先。これ以上被害が出たとしたら、町の暮らしにも影を落としかねない現実があった。葡萄酒は町の大きな収入源として期待されているのだ。どうにかしなければならなかった。
「ちくしょう。蜥蜴風情が幅を利かせやがって」
自然と悪態が口から出てしまう。気分が悪くなった。折角の酒なのに。力一杯飲んで、すぐにでも忘れたくなった。
が、飲もうとマスターに注がせたはずの葡萄酒は、いつの間にかエルザに掠め取られてしまっていた。
「おい、若えの。おめえ人の酒を――」
「困ってるんなら、あたしを頼ってみない?」
ガツンと小樽をテーブルに打ち付けてエルザが宣言する。何を言い出すんだと驚きを隠せないでいるおっさんに顔を近づけると、酒臭い息で交渉を始めた。
「ふふん。取りあえずは今日の分の宿と滞在中の食料、そして大樽一個分の葡萄酒を確保してくるのなら、何とかしてあげなくもないわよ」
顔を離して自信たっぷりに胸を張った。呆けた視線がじっと鼻高々な表情に注がれている。
「どう。悪くない話だと思うけど」
にやりと笑ったエルザを前にして、おっさんの顔は徐々に笑いにへと姿を変え始める。身なりから想像するに旅の者だろうからそれなりの実力は持っているのだろうが、こんな小娘には何もできないと思った。相手はサラマンダー。気性が穏やかだとは言っても、炎を吐く獣なのである。
「気持ちだけで十分だ。幾分か気持ちも晴れたよ。おめえみてえな若いもんに心配されるようじゃあ、酒蔵の首領は務まんねえなあ」
愉快そうに笑って言い残すと、マスターに金を払ってエルザの側から立ち去ってしまった。
不機嫌に頬を膨らませたのはエルザである。見くびられては困ると思っていた。同時に、あわよくばと考えていた宿と勘定役を逃してしまったことが悔しかった。
「嬢ちゃん。本当に私らは気持ちだけで十分だよ。嬢ちゃんの話を聞いて、私も頑張らないとって思えてきた。いつまでも信仰しているだけじゃあなにもできないからね。できることは少ないと思うけど、やれることからやってみることにするよ。町のことは町人で。ずっとそうやって遣り通してきたんだからね」
そう言って、寂しそうに笑ったマスターは酒代をまけてくれたけれど、エルザはどこか引っかかりを感じずにはいられなかった。ポケットからくしゃくしゃになったなけなしの金で勘定を済ませる。まけてもらったとは言え、これで一文無しになってしまった。
男臭い酒場から、月夜の外へと移動する。びりりと肌に突き刺さった外気の冷たさが、酔っていたエルザの頭を随分しゃっきとさせた。乾いた風が唸りを上げて石造りの町並を駆けていく。辺りを見渡して、軒先に丸まる相棒の姿を見つけ出した。
「待たせてごめん」
近寄って、酒臭い息で呼びかける。真っ白な毛むくじゃらの塊の中から、のっそりと狼にも似た顔が持ち上がった。眠っていたのか、大きく口を開けて欠伸をする。頭をがしがしと撫でながら微笑んで、エルザは月明かりに照らされる鉱山の葡萄並木に目を向けた。
一夜を明かす場所を、エルザは鉱山近くの作業小屋に決めた。宿に泊まれるようなお金は、もう持ち合わせてはいなかったのだ。少し飲みすぎたかなと過ぎたことを後悔しながら、丸まり眠りについた相棒の毛並みに埋もれて暖をとる。ここなら町から離れていたし、朝までぐっすり眠ることができそうだった。
「サラマンダー、か」
呟いて、以前大きな街の図書館で読んだ本の内容を思い出す。太古においては神の使いとして崇められ、またドラゴンにも似て口から炎を吐くために畏怖の念を集めていた獣が厄介者になっている現状が切なかった。
結局、人間のエゴによって彼らの命は左右されてしまうのだ。この町の近くで生き続けられているのも、希少種保護法なんていう独善と知的欲求柱にした法律があるからだった。王国の法律は、破れば禁固刑から死刑まで段階的に厳しくなる仕組みになっている。希少種保護法はその中でもかなりの重罪と位置づけられていて、酷い時には死刑になる可能性だってあったのだ。
そうじゃなかったら、今頃町人達はサラマンダーを討伐してしまっていただろう。サラマンダーは本当に穏やかで優しい性格をした獣なのだ。山が開かれ、生息地が狭まったために人里にまで現れるようになったのに、生きるも死ぬも、結局は全て他者の手の内にあるというのが少し気の毒に思えた。
嫌なことを思い出して、エルザは顔を顰める。命とまではいかなくても、他人に人生の取り舵を握られていたのは彼女も同じだったのだ。
過ぎたことだと、逃げてきたんだと、頭を振って記憶を外に追いやる。今はルチの葡萄酒について考えようと思った。
おっさんもマスターも表面上は大丈夫そうに口走っていたけれど、事態はそんなにうまくいかないことが明白だった。何せ、断固たる法律が立ち塞がっているのだ。現存している希少種の大半には魔術による生命感知機能が施されているから、もしもおっさんやマスター、町の人々がサラマンダーを殺してしまったら、その瞬間に情報は首都の王宮統制機関へと伝わってしまう。各地に駐屯している司法官がすぐさま駆けつけるのは避けようのないことだった。そうなれば、町の人々が捕らえられてしまう。
なにがどうあっても彼らには行動を起こさせるわけにはいかない。エルザはぐっと掌を握った。放浪している私が解決すれば、少なくともルチの人々には迷惑はかからないし、誰も捕まる危険性はないと思った。
関わりを持った。おっさんとはいい酒を飲むことができたし、マスターには代金をまけてもらった。快活で明るい町の人々には、とても親切にしてもらったのだ。困っている人に手を貸すのに理由なんて要らない。人々の生活を守るなんて大層な志を掲げるつもりはなかったけれど、できることはやってあげたかった。
それに、とエルザは脳裏にひとりの女の子の笑顔が浮べた。彼女もまたルチの酒が大好きだった。人目を忍んで朝まで飲み明かした日は数知れず、語り合った言葉の数々ははいい思い出になっている。もう一度連れ立って酔っ払うためには、なんとしてもサラマンダーをどうにかしなくてはならなかった。
第一、エルザはルチの酒が大好きなのだ。それこそ、毎日飲み続けていても苦にならないくらいに。いつの日か大樽一個分、そのまま丸呑みするのが夢だった。現状のままにしろ、町の人が捕まるにしろ、生産量が少なくなってしまうのは我慢ならないことだった。
酒はこの手で守るのである。
決意して力強い笑みを浮かべた。目を閉じる。明日のために、力一杯寝ることにした。