第五十話 焔
帰宅する道中、焦げ臭い匂いがした。風に乗ってそれは運ばれてくる。
どこかの飲食店からだろうか。はたまた、その辺でバーベキューでもしているのだろうか。しかし、漠然とした虫の報せのようなものを感じていた。早く帰ろう。俺は家路を急いだ。
何故こんなにも焦燥に駆られるのか。いつも通りの街並み、いつも通りの青空。スタティックの日常。だというのに、脂汗が出てくる。その原因が自分でも分かっていなかった。動物の勘のようなものが働いているのかもしれないが、俺はこう見えても人間だ。
腕にぶら下げた買い物袋は殆ど空っぽなのだが、酷く重く感じる。このまま放り捨てて急げと、何かが警鐘を鳴らしていた。
気付いた時には走り出していた。通行人が奇異の目で見てくる。だが、走り、走り、自宅の目の前の通りに来た。そうして、俺は異常事態を察知した。
「……大事件や」
嫌な予感は的中する。目の前にはタチバナハウス。俺が帰ってくると、自宅が燃えていた。
9LDKと噂の大豪邸の外壁から、バチバチと物凄い音を立てて火柱が上がっている。
真っ赤に燃え上がる炎が、建物の影を揺らしていた。
「なんや、巨神兵が攻めてきたか!?」
買い物袋を掴んでいた手の力が抜ける。ドサリと落ちる袋。ただ、俺は眼前の光景を網膜に焼き付けていた。あまりの大スペクタクルな演出に膝が笑っている。
敷地の外には大勢の野次馬が集まっており、大変な騒ぎである。
思考停止していた俺は今日の出来事を思い出す。朝起きてオーバーイーツを頼んで、散策と買い物に行って、パン屋を出禁になって……それで帰ってきたら家が燃えている。
えぇーッ!? ちょっと待て! いや……何で!?
まさか、フェイチキの油に引火したのか!? いや、今日は休みの日だ。そんな筈は……それよりも皆は、ヴィータは家の中なのか!?
「どいて、どいてください!!」
血の気が引いていくのを感じつつ、地面を駆ける。野次馬を押し退け、門を乱雑に開け、家の中へと飛び込む。
こんな事なら、門番を解雇するんじゃなかった。和田君からこの家を譲り受けた時、大勢の守衛は解任していたのだ。
いや、今は悔いている場合じゃない……。竜人は何となく火に強そうだし、火災で死ぬ事はないだろう。だけど、ケガをしていたら大変だ。火災が起きた時の死因は一酸化炭素中毒である事も多い。
とにかく心配だ。ラフィリアは、サモは……今日は来ていないか!?
「誰か居るかーーッ!!」
燃え盛る炎の中、俺は大声で叫んだ。返事はない。誰も居ないのだろうか。だとすれば……もういい、こんな家はくれてやる。
最優先は命だ。無念で堪らないが、本当に大切なのはこの空間じゃあない。俺の大切なものは、違うんだ。ケモ耳美少女でも、自分の体でも、呪いの解呪方法でもない。俺は……。
俺が居間へと駆けつけると、誰かがソファに横たわっていた。ウェーブの掛かった白髪に頭部から生えた二本の角。ヴィータの姿がそこにはあった。彼女は椅子に座り、ぐったりしている。目を瞑り、口は開いている。
一酸化炭素中毒、死亡、火災保険、様々な言葉が俺の頭に去来する。俺は泣きそうになりながらも、華奢な少女の体を抱きかかえ、声を掛けた。
「ヴィータ! おい、ヴィータ!!」
ヴィータの肩を揺する。しかし起きない。俺は彼女の首筋に指を当て、脈を確認する。
……良かった、どうやら生きているようだ。だが、木造住宅がいつ崩壊してもおかしくない。テレビで見たことがある。急激な酸素の流入によって、爆発が起きる現象がある。バックドラフトだったか。事態は緊迫している。一刻も早く脱出しなければ。何があったのかは後だ。
『ぐがー、ぐがー』
そう、予断を許さない状況だ。まずは脱出が先決だ。
……何かが聞こえた。いびき? いや、そんな筈はない。
俺にはヴィータから寝息が聞こえた気がした。まさかな。いや、しかし……。
顔を見てみると、口元からは透明な涎が垂れている。
『ぐがっ……すぴー、すぴー……』
寝ている、だと……。この火災の中で?
しかも結構な安眠のようで、安らかな寝顔をしていた。
嘘だよな? 気絶しているんだよな? 一酸化炭素中毒か何かで失神した後、そのまま入眠したんだよな?
アカンで、こんなシリアスな状況下で寝たら。
「おい、起きろて! しっかりせぇ!!」
「ん、むあ、が…………あれ、タッチー? おはようですー……」
半ばヤケクソに頬を引っ叩いた所、ヴィータが目を覚ました。
いや、とにかく、ここを出よう……優先順位を履き違えてはならない!
「あったかくて寝ちゃったですー」
「はぁ!? アホか! 大事件やで!?」
思わず声を荒げると、ヴィータは辺りを見回して「おお~……」と感想を述べた。
いや、「おお~」やない。違うで。河川敷で川に向かって石を投げたら水面で三回跳ねた、みたいな。そんなリアクションで済ませたらマズイで。
あとな、友達とやる小規模の花火とちゃう。盛大に一棟炎上しとんねん。そんなリアクションちゃう……せやけど、出るのが先決や!
寝ぼけている様子のヴィータを抱きかかえたまま、俺は屋外へと出た。次の瞬間、バキバキ! という大きな音がして、轟音と地響きが起こった。どこかが崩れたようだった。
数時間が経過した。
火災から脱出した後、消防隊と思しき団員が即座に駆けつけて、消火活動に移った。迅速な対応に感謝したい。誰かが通報してくれたのだろう。
また、近くに居合わせた魚人族が水を吐き出し、遂には鎮火に成功した。こういう時、異世界ってのは凄い。
感心しつつ、俺とヴィータは暫く焼け焦げたマイホームを眺めていた。しかし、我に返った俺は踏鞴を踏むように転がり込んだ。家の中はどうなったのか、不安だった。
消防隊員に聞いた話によると、憶測ではあるが、火災の原因は家電。出火元はリビングらしい。
国王に貰った豪邸が、パン屋で浮かれている合間に、雰囲気バリバリの廃屋と化した。
劇的ビフォーアフターもびっくりの大改造。日本の巨匠たちも大喝采を送ってくれるに違いない。
「な、なんでやああああああああ!!」
頭が真っ白だった。俺にあったのは……憤怒という感情、唯一つ。それだけ。
しかし、それをどこにぶつければ良いのか、一片たりとも分からなかった。




