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『ホームレスを装備しました』

空に浮かんだ文字は異様で、歪で、見たことも、聞いたことのない文言だった。だけど、それがどこか温かいように感じた。私の柔らかな皮膚の上を、感情が滑っていく。ほのかに熱を帯びた愛情が私の体の上を舐めていく。

冷え切った私の体の中の残火が再び燃え上がる。燃えるような想いだけが胸の中から溢れていく。絶望の泥の中にいた私はもういない。


今、炎だけが私の心の中にある。


第一章 ホームレス狩り


私には家族がない。私には寝る場所がない。私には帰るべき場所がない。私はホームレス。私の居場所はこの世界のどこにもない。


私のような人間がこの国にはたくさんいる。道を歩けば、両脇には家なき子が列をなして地べたに座っている。まるで地面に一部になってしまったかのようだ。ホームレスは存在しない人間。目の前にいるのに誰も気にしない。誰もが素通りして、私たちをいないものとして扱う。私たちは人間ではない、ホームレスだ。

この国がそんな風になってしまったのは新しい王様の圧政に原因がある。彼の圧政は熾烈を極めていた。弾圧と重税が折り重なり、私たち国民の体の上にのしかかる。国の上に巨大な何かが横たわって私たちを押しつぶそうとしているみたいだった。見えないプレッシャーは国民を痛めつけ、羽交い締めにし、搾取する。


今日も道端のホームレスがまた一つ、物言わぬ死体に変わった。私はそれを見てもうなんの感情も湧かない。心の中はまるで、花のない花瓶。覗き込んでもそこには何もない。ただ真っ暗な虚無だけがこちらを覗き返すだけ。感情の抜け落ちた私の体は、冷たい大理石のようだ。そんな温度の抜け落ちた大理石の肩を誰かが叩く。誰かが私のことを気にかけてくれたのはいつぶりだろうか? もう覚えていない。


最初は弱く。だけど次第に強く。徐々に大きくなってくる振動の方向に、私は体を傾けた。そこには見たこともない人がいた。

「おい! あんた何やっている?」

私にはこの人が何を言っているのかよくわからなかった。最後に固形物が喉を通ったのがいつだったかも覚えていない。私の脳みそは思考する力がほとんど残っていなかった。

私は、口を必死で動かそうとした。だけど乾いた唇に挟まれた口腔からは一切の音が出なかった。ただ空気の塊だけが肺から押し出されただけだった。


「何をしているんだ? あんた以外はもうみんな逃げたぞ?」

私は、視線を自分の周囲に滑らせた。右を見て、目の前の人の顔を見て、左を見て、最後に目の前の人物の顔に視線を刺した。辺りを舐めた私の視線は、ゆっくりと私の脳に逃げろと指令を流し込む。だけど、体は思うようには動かない。体が大理石のように硬いのだ。


「あんた死にたいのか? ホームレス狩りが始まったんだ! チッ! もういいっ! 勝手に死ね!」

そして、私に愛想を尽かした男性は、私を突き飛ばすと、どこかへ駆けて行った。

私はゆっくりと上体を起こそうとした。だけど、腕にも足にも力が入らない。鼻腔からは匂いを感じ取ることができない。目はぼやけて何も見えない。


私の体の中で動いているのは、不規則にリズムを刻む心臓と、弱々しく鳴く肺だけだった。

私はもう一度右手に力を込めた。だけど右手はうんともすんとも言わない。物言わずただ横たわっている。地面に吸い寄せられているみたいだ。


私はもう一度、諦めずに右手に力を込めた。だけど右手はなんの反応もしない。筋肉がほとんど息をしていない。ガリガリにやせ細った骨に、かろうじて筋繊維が絡み付いているだけのようだ。

私は最後にもう一度だけ、右手に力を込めた。すると、右手がほんの少しだけ動いた。わずかだが力がこもった。私はそれを見て、心の中の花瓶に少しだけ感情が戻ったような気がした。

きっとこの世界の女神様が私に力を与えてくれたんだ。最後まで諦めない私のことを見てくれたんだ。人間が私のことを見捨てても、女神様だけは私のことを見放さなかった。私のことを救ってくれる。きっと、諦めなければどんな世界にも救いはあるんだ。


どれだけ黒い暗闇に飲まれても、どれだけ重たい絶望がのしかかっても、諦めない勇気が闇をかき消してくれる。


そして、私の躯体は勢いよく動き始めた。だけどそれは私の意思とは関係なかった。大きく右方向から加えられた衝撃によって、吹き飛ばされたのだ。右の脇腹から鈍痛が体にヒビを入れる。栄養失調によって鈍る感覚がのろのろと私の脳に痛みを運ぶ。鈍痛はやがて大きくなり激痛になって脳の中で火花を撒き散らす。

私は痛みに顔をしかめながら、私の脇腹を蹴り飛ばした人物の方を見る。そこには一人の少年が立っていた。ぼやけるピントを精一杯の力を込めて彼の顔に合わせる。


彼は歳の頃は十代後半、私と同じくらいだろう。黒髪黒目で、背はあまり高くない。成長途中だろう。平凡な見た目とは裏腹に、彼の瞳は平凡とは程遠いほど禍々しかった。黒い虹彩の中には、一切の光がない。音も色も温度も全てが闇に飲み込まれてしまったようだ。目の中にあるのは絶望の黒い炎だけ。音を立てて燃え盛る怨嗟の炎は、瞳から溢れてしまいそうなほどだった。


その少年は、口を開いて、私に向かって言葉の礫を投げつける。

「お前、ホームレスか?」

彼の言葉に私は、何も答えられなかった。返事の代わりに、嘔吐をする真似をした。本当は真似ではないのだが、吐くものが胃の中にない。


「おい! お前ら! こい!」

少年は、怒号のようなものを空に放った。すると、彼の後ろから彼の部下であろう集団がやってきた。そいつらは私の傷んだ体を包囲した、そんなことをしなくても私は逃げられないのに。

少年は近づくと、私の耳元でつぶやいた。

「お前を殺す」


感情のこもらない殺意は、刃物のように私の鼓膜に突き刺さる。私はそれがたまらなく不快だった。

そして、私は、すべての生命エネルギーを口に集めて、声を発した。

「やってみろ」

「驚いたな。まだ動けるのか」

そして、私は、震える両足に全ての力を込めて立ち上がった。命を燃やし、魂を震わせる。鼓動が早くなる。皮膚の上を炎が走る。動機が荒ぶり、全身の細胞が久しぶりの仕事をする。肩で息をしながら、ぼやける視界を前に向ける。弱り切った視神経と脳の繋がりを必死で強める。そして、体を震わせながら、腹の底から叫んだ。

「どんな絶望にも、抗ってやる! 運命なんか私が変えてやる! 私は最後の一秒まで絶対に諦めない!」

そして、なんの抵抗もできずに私は切り刻まれた。


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