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ゆめ と うつつ のはざまにて

作者: pinokopapa

学生時代、今昔物語ばかり読んでいたのですが、雨月物語を意識してうつつの夢を描いてみました。

 峠の中腹あたりの珈琲館、これはいわば私の道楽だと思っていた。私自身、コーヒーとジャズが好きというだけで何か特別な料理やスイーツやソフトドリンクが作れるわけじゃない。それに中古物件を買ったのだから、立地条件がどうのと言えた義理でもなかった。また前オーナーのことなど、知りもしない。ただ何か曰くがあるとは聞いている。それにしても、場所が悪くて店主も悪いのだから、儲かったり繁盛するわけがなかった。そのうえ最近県境を高速道路が完全開通して、ますます峠越えの車も減った。

 今日は霧が山腹を這い登り、辺り一面を覆っている。車が上がってくると、ライトが光をまき散らすので、一度にそれと解る。危険な夜だ。春先の霧の夜はBGM代わりに掛けてるレコードのジャズしか聞こえない。私はグラスを磨き、テーブルを拭き、コーヒーメーカーの手入れをする。まあそんなことしかすることがないだけの話だ。

 私がここを選んだのは偶然としか言いようがなかった。それまで勤めていた会社が、リストラ目的で早期退職者を募り始めた。それが、私とその同期の者への狙い撃ちだと思えたので、私は少し悩んだだけで応じることにした。それだけだった。えっ、退職するのかと、一応上司は驚いて見せ、引き止めるポーズもしてみせた。君には残ってもらわないと困るんだよ、あのプロジェクトは君の指揮がなければできないんだからという。現場にいるものとしては、それが見え透いた歯の浮くようなお世辞だとすぐわかる。私はもうとうに置いて行かれた大時代の技術者に過ぎなかった。かつて私が完成させた技術も、今ではコンピューターに数字を打ち込めば出来てしまう。引き継ぎを済ませると私はあっさり辞めた。割増し退職金目当てですかと皮肉な目で聞いてくる底意地の悪い奴もいたが、聞き流した。ああそうだよとでも言ってやればよかったと思ったのだが、そこまで天邪鬼になって悪名を残すこともないだろうと思いとどまった。悪い癖よと、妻なら言っただろう。そんな声が耳元で聞こえた気がした。

 以前、私より先に辞めていった同僚が、何度か手土産をもって職場を尋ねてきた。見苦しいと思った。私にはすることがあった。いやすることを作り出した。それが珈琲館というわけではない。最初にしたことは、家を整理だった。妻と暮らし、子供も育てた。しかし、今は一人だ。家の中はもう長い間放りっぱなしになっていた。家中を片づけ、要らないものも要るものも捨てた。それでも残ったものは貸倉庫に預けた。娘のところに持っていけばよかったのかもしれないが、誰にも気付かれることなく、スーと居なくなりたくて、家の鍵と、暫くいなくなるとだけ書いて送り、あとは知らさなかった。それ故、車で走っていると携帯に娘からお叱りの電話がかかってきた。

 「おとうさんどこにいるの?」

 {車の中。}

 「お家のガレージ?」 

 「いや、走ってる。」

 「どこ?」

 「わからない。」

後、まだ何か言ってたが、危ないから電話できるようになったら連絡すると切った。しかしその日も次の日も、こちらからは連絡しなかった。

 後日また電話がかかってきた。電話もそうだが、ものの言い方も昔通りぶっきらぼうで唐突だった。

 「あれ、なに?家も何もからっぽじゃない。それとあの宝石類、娘御様へって、なに?あんなもの、いらない!」

 「あれはお母さんのだから、お前、もってなさい。」

 「お父さん、走ってるって、どこ走ってるの?」

 「どこかわからない。解ったら連絡する。」

実は本当にどこを走っているのか、見当がつかなかった。土地勘のない所というのは厄介だ。確かに何県のどこそこを走ってるというのは地図や標識を見ればわかる。だから、どこなんだと思う。山なのか平地なのか、街へ向かってるのか、山奥に向かっているのか、そもそも私はどこを目指しているのか、実感というものがなかった。そして、私はどこも目指していなかった。この、少し無理して手に入れたオールドファッションの中古車が走ってくれるままに、前を向いて走っているだけだ。

 大体、この車を買おうなんて、行き当たりばったりの思い付きもいいところだった。クラッシックカーと言っていい領域に入ってしまった、かつての憧れのスポーツカーは、それはそれなりに走ってくれた。古いけど壊れない。それがメイド・イン・ジャパンだ。そう自分にを納得させて、それをかつての自分の技術者としての矜持にもする。だが、そんな独りよがりも束の間だった。今はこの車のリズムと車体の揺れが体に馴染んで、違和感も薄れた。しかし山道の下りカーブは神経を使う。40年近く前の車だから、今の軽にさえ煽られる。さらに足回りは古典そのものなので、スローイン・ファーストアウトに徹しなければ、後輪がすぐにボトムアップして滑り出す。それでもFRらしく素直に滑ってくれればいいのだが、年代物の、しかも弱った足回りは少しの粘りも見せないで、いきなりズルっとくる。最初のうちはこれに手古摺った。ついこの前まで乗っていたファミリーカーの方がまだましだ。昔の車に乗るには職人技が要ると分かった。コーナー進入時は充分スピードを落とす。減速ブレーキを踏んでいる間は、ハンドルは直進のまま。車は、コーナーの始まりではアウトにセットし、必要ならギヤはダブルクラッチでエンジンの回転数をあわせて下げておく。コーナーに入ったら、コーナーの頂点の向こうに目標を置き、そこをかすめるようにハンドルを切って、そこまで騙しだまし、徐々にアクセルを開けていく。カーブの頂点をすぎると、一気にアクセルをあける。すると、車は自然と外に膨らんでゆく。アウト・イン・アウト、スローイン・ファーストアウトだ。車体は膨らむ側に大きく傾き、タイヤがグリップ一杯に路面を噛んでコーナーを駆け抜ける。肝心なことは、コーナリングの間、決してクラッチを切らないことだ。クラッチを切れば、車は運転しているものの意志を離れ、車にお任せになってしまってどうなるか解らない。この古典的な足回りの車は、車体性能に頼ってしまったら、ちょっとのオーバースピードでも横滑りし、ついにはスピンにおちいってしまう。それだから面白い。だが、そう思ったのも昔の憧れがあったからだと思う。気の迷いだったとも思う。最先端はもうここにはなかった。

 通勤途中にいつも目にしてたはずだが、それまで気付きもしなかった中古車センターで、この車を見た。つい気まぐれから声をかけると、直ぐ乗れる、ガソリン満タンでこの価格はお買い得ですよという。私が自分の未来を売り渡して手に入れた退職金のほんの数パーセントで買える。そう思うと、私は店員に言われるまま応諾の返事をし、すぐに車のカギを受け取った。運転席のシートも、そうへたっていない。走行距離も6万キロと、年式から考えれば嘘のようなキロ数だ。私のこれからは、この車を買ったことで方向付けられたような気がした。

  

 霧に包まれたしじまの中で、店の窓を車のライトが照らしていった。軽いエンジン音が止まり、ドアの開閉音が重く遠い響きで聞こえた。私はいつもと違って、客を待つ気になっていた。いつもそう客が来るわけじゃない。だから何時もは客を当てにしないでいる私が、この夜に限って入ってくる客を心待ちにしていた。店のドアの開く音がする。うす寒くて湿っぽい霧が流れ込み、カウベルが鳴った。下を向いてグラスを拭いていた私は振り向かぬまま、

  「いらっしゃい。」

と声にする。霧をまとって入ってきた客も、座るテーブルを探して軽い足音で数歩進み、窓際に座ったようだ。ヒールの音で女性客だとわかった。顔を上げて客を見た。赤いコートの、同色のルージュを引いた一人客だった。私は保温庫からおしぼりを出し、ミネラルウオーターのペットボトルとコップを盆にのせてテーブルに運んだ。

 「いらっしゃいませ。」

この決まり文句を、落ち着いた声で言えるようになるのに一年かかった。娘が一度だけ訪ねてきて、本当にここで住むのねと、そのしぐさを見て言った。そうだよ、ここで住むんだ、暮らしの事は心配いらない、珈琲館がはやらなくたって暮らしていける、お父さんはあれが鳴っていればそれでいいんだ、と答えた。店の奥にリサイクルショップで買い込んだ大型のスピーカーが、オレンジ色に光る真空管のアンプに駆動され、ジャズがながれていた。

 「ふーん、こんな渋いの聞くんだ。」

そんなことを言って、また来ると言い残し、もう来なくて久しい。

 内側が露でぬれた窓の向こうを、この人はじっと見ていた。

 「冷えますね。」

というと、

 「なにかあったかいもの、くださる?」

という。ちょっと迷ったが、私はカウンターに帰り、少し濃い目のコーヒーを淹れた。最後の数滴が落ち切る前にコーヒーの入ったネルを引き上げ、温めて置いたカップに注ぐ。それにスプーンを渡し、角砂糖を置いてブランディーを注ぐ。テーブルに運んで、ライターで火を点ける。青紫の火が揺らめいて角砂糖を包みこみ、ブランディーの香りがただよう。スプーンを外して濃いコーヒーの中に落とすと、かすかに音を立てて火が消え、コーヒーカップに闇が戻った。

 「少しおいてお飲みください。」

と言ってテーブルを離れた。ふうっと女の唇から息がもれるのを聞いた。カウンターに入り、片手鍋に湯を沸かして卵をゆでる。トーストを焼き、厚めにバターを塗ってスティックに切り分け、磁器のプレートにベーコンサラダと体裁よく盛りつける。ボイルした卵はエッグスタンドに乗せ、スプーンを添える。それとコーンポタージュを温めた。

 「夜も遅いので、こんなことしかできませんが。」

 とテーブルに運ぶと、

 「おいしい。」

と、コーヒーを一口飲んで、唇から息を転がすように言った。もう一口コーヒーを含み、白い喉が動いた。

 「ありがとう。・・・、ところで、これって?」

と白い指がペットボトルを持ち上げた。

 「このあたりは山で、水道が来ておりません。使っている山の湧き水はおいしいのですが、ひょっと悪いことがあったらいけませんので、お客様にはそれを差し上げております。」

 「ふーん。」

と、半ばまで空いたペットボトルを、女性客は透かしてみた。

 「お待ちください。」

そういって、エッグスタンドの卵の上部をスプーンでたたき、割れた卵の先をそのスプーンで掬って取り除く。下に半熟の黄身が見える。

 「トーストスティックに半熟の卵黄を絡ませてお召し上がりください。」

 「コーヒー、お代りを淹れましょう。」

 「いただけますの?」

 「どうぞ。」

空いたカップとソーサーを盆に取った。

 「素敵ね、あの炎。」

と、ブランディーで燃えた角砂糖の事をいった。それには答えず、

 「そちらもお召し上がりください。」

そういって引き下がり、カウンターに盆を置いた。頷いて女はスティックを手に取っている。私はアメリカンコーヒー用に焙煎した豆をミルに入れる。サイフォンのロートにフィルターを入れ、サーバーにお湯を張る。水を入れてコーヒーを淹れると、お湯が沸騰するまでの蒸気がコーヒー豆を無駄に湿気させ、ぼやけたコーヒーにしてしまうから、私は九十度ぐらいのお湯を最初から使う。サーバーの底の滴をふき取り、アルコールランプに火を点ける。自分で浅く炒った粗挽きの豆をたっぷり入れて、カップも大きめのものに変える。カウンターの上から照らす照明の下で、サーバーのお湯に気泡が沸きたち、湯がロートを駆け上ってゆく。木製のスプーンでゆっくりかきまぜ、2分ほど待つ。もう一度かき混ぜてランプを引く。すぐに褐色のコーヒーが下へ吸い込まれる。時を逃さず、ロートを外す。抽出されたコーヒーが全部引かれてしまうのを待つと、雑味が入ってしまうからだ。できたコーヒーを温めたカップにそそぐ。サイフォンで淹れたコーヒーは、香りは立つが手際よく淹れないと渋味と酸味のきつい、角の立ったコーヒーになってしまう。アメリカンコーヒーはちょっと雑に入れた方がおいしいとは思っているが、女性には不評だ。ふっと顔を上げると、私の手元を見ている目があった。

  「すてき、マスター (あなた)」

と感心したような声があがった。耳の底に残った声を振り払って、私は黙ってコーヒーを運んだ。トーストスティックに半熟の卵黄を絡ませながら、

 「こんな食べ方があったのね、おいしい。」

そういって、大きめのカップを両手で包むように持ち上げ、一口含んで、また

 「おいしい。」

といった。そしてカップを置くと、紙ナプキンを取り、唇をぬぐった。緋色のルージュも一緒に拭われ、それとともに仮面もぬぐい取られたように見えた。

 「夜も更けましたが、これからどちらへ。」

そう聞いても、この人は窓の外を見、

 「霧が・・・」

と、私にではなく、他の誰かにいった。

 「あの車、外車ですの?」

と窓の外を指さした。

 「マスター(あなた)の車。たしか、117クーペってエンブレムに書いてあったと思ったけど・・・。」

 「そうです、117クーペ。でも、外車じゃありません。あれはいすずという、今じゃバスやトラック専門になってしまった会社が40年ほど前に作った車です。」

 「そうなの、あんなにエレガントなのに。」

 「そうです、もう取り返しがつかないほど昔の車ですが、日本が作った一番優雅な車だと思っています。ほかにもトヨタ2000GTとか、ヨタ8なんて呼ばれた車もありましたが、今じゃもう作り方も、作ったことも忘れられた名車だと思っています。もとはジウジアーロというイタリアのカーデザイナーが手掛けたデザインだったんですが。」

と言いかけてこの人を見た。横顔が揺らめいた。

 「こんな憧れを持ってたの、マスター(あなた)。」

 「ええ、もう忘れてたことだったんですが、退職したその日に出会って、つい。気の迷いです。この店だって、ここでこんなことするようになろうとは思いもよらなかった。」

と、私は何時になく多弁になった。

 「あの車が私の所へ来ると、もう家や何もかもを整理して旅に出ました。娘には不良老人、娘不幸おやじと言われました。」

 「そう。」

と、頬に手を当て、私を見る。こんなしぐさだったと思う。

 「この店も偶々でした。たまたま夜更けの峠越えに疲れて、車を止めて寝込んでしまい、朝になって目が覚めてみたら、そこがこの店の駐車場だったんです。夜明け前の光の中に、この店の屋根が浮かんで見えて、ドアにこう、売物権と書いた張り紙のはりついているのが目に飛び込んできて、それで夜が明けきるのを待って、張り紙に書いてあった電話番号に電話しました。はあ?っというのが不動産屋の第一声でした。いいんですか?その物権、ご覧の通りですよ、まあ中を見たければ下りてきてください、鍵をお渡ししますから。そういわれて下に降りて、」

とわれを忘れて話し続けた。

 教えられた住所だけを頼りに、私は山を下りた。この古い車にカーナビはない。町がある方向さえ解らないこの土地で、地図と道路標識を頼りに不動産屋を探した。といっても一軒二軒ポツリポツリと家があるだけの、町らしい家並みもない町だ。見上げると私が下りてきた山が随分高くそびえていた。あんなところから下りてきたのかと思うと、これからしようとしていることは相当無謀なことに思えた。

 それでもなんとか不動産屋はわかった。重いアルミの引き戸を開けると、薄茶のカーディガンを着た、髪に油っ気のない男が私を見た。

 「山の喫茶店の事で電話したー、」

と言い終わる前に、ああと答え、ひび割れた肘掛のソファーを手で示して、

 「おかけください。」

といった。

 「どちらにお住まいで?」

と訊く。住所不定だが本当のことを言えば怪しまれると思い、元の住所を告げた。

 「ほぉー、随分遠いところからお出でになったんですなあ。で、あの物権ですか。」

と世にも珍しいものを見るように、まじまじと私の顔を見た。

 「あの物件、もうご覧になってるんですから掛け値なしでお話ししますが、」

と話し出した。その後を続けて聞いて、私は逆にあっけにとられた。

 「お買い上げいただけるのなら、ビラに書いてあった値段なんて、どうでもいいんですわ。まあ、只というわけにはいきませんが。」

などと言い出す。なにかとんでもないいわくがあるのだろうと怪しんでいると、

 「家屋自体は十年前のもので、しかも前オーナーさんが注文建築で作りましたので、田舎にしてはしっかりした良いもんです。お聞き及びとは思いますが、まあ、あんなことがあったんじゃ、買い手は付きません。それでも前オーナーさんの関係の相続人が、何としても手放したいとおっしゃいますんで、ぜひお買い上げください。うちとしては、もうお荷物になんですわ。」

などと明け透けにいう。ちっともお聞き及びじゃなかったが、都会人として駆け引きに出た。

 「じゃあ、値段は考えくれると、」

 「はい、ご相談に乗ります。」

 「もし買うとなったら、・・・。」

 「ローン、ですか。それはちょっと・・・。」

と、渋る。私の顔をまじまじと見て、あんたのその年じゃ、という顔をした。こっちはそんなことを聞いたんじゃなかったが、もっと何か、売り急ぐ理由がありそうだ。ならもうひと押しできるかもしれないと計算した。

 「まっ、とにかく内を見せていただかないと。」

というと、不動産屋の店主は、机の引出しから鍵を選んで差し出してきた。

 「こっちが表で、こっちが裏の、それとこっちが二階の入り口、」

と事細かに説明してくれたが、鍵にタグが括り付けられていたので聞き流した。不動産屋は、

 「もうなんでもご自由に御覧になって下さい、ただし、居抜きですよ、居抜き。屋根が雨漏りしようが、リフォームやら修繕は出来ませんから。それと、内に残っているものは従物としてお渡しするということでの値段です。動くかどうかわかりませんが、エアコン、ガスレンジ、冷蔵庫などがあります。それも付いての値段ということです。ただし、こういうものが使い物にならない場合も、修理や処分費用はそちら持ちということでお願いするということです。」

と言い出した。それを聞いて、なんだ?家財道具一式が残っているってことか?ということは余計に何か因縁がありそうだと確信した。それにしても、売り手にばかり都合のいい話だ。まあそんなことはどうでもいい。曰く因縁があるというならおもしろいぐらいだ。そう思って、下の町で食料を買い込み、またうえへ上がっていった。帰り道はもうわかっていたので手間取らなかった。117クーペをゆっくりと走らせる。シャーシー性能に比べて勝ちすぎているDOHC、しかも燃料直噴式1600CCのエンジンは、直線で踏み込むとビビッドに反応し、腰を沈めて急坂を一気に駆け上る。途中からついてきた扁平タイヤにシャコチンの暴走族仕様の車が、煽っってやろうとピタッと張り付いて来るが、登り坂でバックミラーの写影が一気に小さくなる。小気味よいサウンドと車体の振動にまかせて、私は走った。

 駐車場に車を止め、ゆっくり建物のドアの前に立ち、鍵を開けかけた時、さっきの車が私の車をゆっくり見ながら通って行った。助手席の窓が開き、

 「あれよ、あれ。かっこいいわね。」

と茶髪の女の声が聞こえた。その子が、ドアの前の私を見つけて、ガラスを急いで上げ、そのままゆっくり走り去っていった。

 六年開けてないドアも、思ったよりスムーズに開いた。カウベルが鳴る。昔の喫茶店は、よくこれをぶら下げていたと思い出した。内に入ると、埃臭いにおいと一緒にパンの匂いもした。暗い。もちろん電気はつかないが、そのスイッチの在り場所だって解らない。不動産屋は何故ついて来なかったのか。内は手付かずと言っていた。ならば、めぼしいものを持って行かれるとは思わなかったのか。窓から差した光に照らされ、カウンターが見える。さらに、色ガラスの飾り窓が目に付いた。これはいらない。さらに棚のグラスやコーヒーカップも煤けて見えた。これがいいものかどうか、私には解らない。うっすら積もったカウンターの埃を指でなぞった。白い埃の上に太い指の線がついた。窓を開ける。寒風が吹きこむ。埃が舞う。その埃を吸って咳き込んだ。顔の前をはらって目を凝らし、探索を続けた。暗さに慣れて店の中のテーブルも床も天井も、一応形はわかった。店の入り口近くのドアを開けると、トイレだった、カウンターの横を入って、階段を見つけた。階段の奥にはまたドアがあり、階段下は物置、もう一方は浴室だ。階段を上がって鍵を開け、内を見た。二部屋か三部屋ありそうだったが、一番手前のドアを開けた、そこはきちんとした部屋というのではなく、真ん中は背を伸ばして歩けるが、横は屋根で低くなって、そこに木製のベッドがあった。反対側は作り付けのデスクになっている。ああ、ここで寝られると、なぜか安心した。ここが私の寝床になる・・・、そう思うと他はどうでもよかった。妻に先立たれてから、私は終わったと思っていた。だから会社もすっぱり辞められたし、旅にも出られた。その旅も、居付くことをしたくなくて始めたことだ。それに疲れたのか。赤の他人の、それも曰くのありそうなベッドが私の眠れる場所になると思い、その先の事など思い浮かばない。それにしてもだと、一人つぶやく。掃除はしなくちゃ、それからまだすることがある。いや、ここを買って、私は喫茶店をやるのだろうか?まあいい。今日はここまでにして眠ろう。明日は明日の事だ。そう思った後、私は何も知らなかった。

 翌朝、携帯の鳴る音で起こされた。さすがにあの不動産屋も不安に駆られたのだろう、携帯に出ると堰を切ったようにまくしたてられ、怒鳴られた。仕方ないとは思ったが、すぐ行きますというので待つことにした。昨夜買っておいて食べるのを忘れてた食料をカウンターの上に広げ、早い朝食にした。外から差し込む朝の光の中で、一段と暗く見える店内を見回しながらサンドイッチを頬張った。ペットボトルの水と缶コーヒーで渇いた喉を潤す。あの眠さは何だったんだろうと思う。旅に疲れていたのはわかっていた。息をひそめ、店内を見回す。不動産屋の言う通りだ。店内の内装もそれなりに整っている。いっそこのままでいいと思った。

寒いと思っていると、風花が舞っていた。その中を古いベンツが登って来て、私の車の横に止まった。やってきた不動産屋は、電話の時とは打って変わって至極低姿勢だった。

 「何かご不明な点がございますでしょうか?」

言われれば不明なことだらけだ。居抜きとはいえ、今出て行ったような家の中だ。

 「なにか仔細があるんでしょ?」

と呼び水をすると、

 「こういうことは最初に言っておかないと、説明義務違反で、契約に瑕疵があるとされて契約解除になる昨今ですから、お話しておきます。」

と、立ち話ながら小声で話し出した。この店は十年前に中年の夫と年の離れた若い妻の夫婦が建てたものだった。妻より夫が意気込んで店を建てた。だからあちこちに注文を付け、さりげなさそうに見えてしっかりした造りになっていた。窓も屋根も丈夫さだけでなく、家全体の調和がとれていた。店は表立っては喫茶店だったが、奥にパン工房も作られており、そこで妻がパンとピザを焼いてショウケースに並べてテイクアウトも店内で食べてもよかった。夫の淹れる凝ったコーヒーと妻の焼くピザがこの店の売り物になった。

 「最初の年はよかったんですよ。ところが二年目ぐらいから下に高速道路が作られ始め、それと一緒に時代の波も押し寄せて、前の道路を車が通らなくなっちまった。三年もすると、もう負債地獄になっちゃって、それを苦にした嫁さんが男を作って駆け落ちしましてね。それで、駆け落ちした当日、それを知った旦那さんがすぐ車で追いかけたんですが、それがよくなかった。頭に血がのぼってたんでしょうなあ、下のヘアピンカーブで谷底へジャンプして、ほとんど即死だったそうです。」

 「で、嫁さんは?」

 「これが、行方不明なんですわ。一緒に逃げた男も見つからないし、こんなとこですから、車で逃げないと、どこへも行けませんから。それが、こっち、」

と、不動産屋は山の方を指差した。

 「旦那さんが追いかけたのとは違う、反対方向の六地蔵峠の方に向かったという噂がありましてね。これが大変な道で、舗装こそしてありますが殆ど林道で、昼なお暗いという奴で、車なんか一年に一台、通るか通らないかという道なんですわ。地元の者なら猶更首を横に振るような道で、まさかそんなところは通らないだろうとは専らの噂ですがね。」

 「しかし、六年じゃ、失踪宣告も受けられないだろうし、居なくなったじゃ売れないでしょう?」

 「いや、抵当に入っておりましたから。だから私がいやいや引き受ける羽目になっちゃったんですよ。債権者は旦那さんの叔父とか言ってたかな、ところがこのおじさんが、ここの夫婦二人がなくなった後直ぐに亡くなって、息子さんが相続したんだけど、理由はわかりませんが、すぐに、何が何でも売ってくれと申しましてね。それで、中も碌に見ないで鍵をかけてしまいました。そこから悪い噂が立ちまして。」

そこまで聞いて、私は、

 「悪い噂は気にならない方ですから、気に入ったら買いますよ。ただし、ちょっと入念に見せてください。なんせ、居抜きですから。なにを処分しなければならないのか、家は壊れてないか、ライフラインは大丈夫か、」

と言いかけると、不動産屋はもう頭を下げてにこやかに、

 「いやあ、そういってくださるなら価格も売り主と相談しますので、よろしくお願いいたします。」

と、そそくさとかえってしまった。

 私はまた店に入り、内を見渡した。二階への階段の窓ガラスが割れていた。床や壁に雨洩りや水の伝った跡はなかった。水道も開けてみる。井戸だと言っていた。電気が止まっているのだから、ポンプが動くはずがない。ガスもボンベは撤去されていた。ソファーの上で何かが動く音がした。風に押されて、大きな蛇の抜け殻が風に揺れていたのだ。

 幸い、この建物を作った棟梁を不動産屋が紹介してくれたので、早速見てもらった。こちらは部屋の間取りからして分からないのだから助かった。

 「いい家でしょ。あたしもいろんな家を建てましたが、これはしっかりしてますよ。」

と、ここはこう、あそこはこうと親切に案内してくれた。それと、もし買うなら、屋根は見といたほうがいい、井戸はたぶん大丈夫だが、貯水タンクはしっかり洗浄すること、電気は地元の電力会社が漏電テストをしてから通電してくれるから安心していい、など助言してくれた。それから粗大ごみの処理業者と電気屋の電話番号を置いていった。もう買うものと思い込んでいるようだ。そして帰る間際に、ここはウオークインクローゼットで、と、ひょいと戸を開けると、長いものが横たわっていた。

 「ここで冬眠か?」

と棟梁は首を摘まみ、眼の高さまで持ち上げた。こいつがいるから、鼠がいないんですよ、どうします?と平気な顔で私に言う。怖気をふるって、捨ててくださいと言った。棟梁は、

 「普請をしてると、しょっちゅうですよ、こいつらの顔を見るのは。」

といいつつ、窓から遠くへ投げ捨てた。

 「まあ、もうすぐあったかくなるから、死にゃしないだろう。」

と独り言をいった。私は、おそるおそるクローゼットの中を見回した。あれもこの建物の従物かとため息が出た。他に、男物の上着類に女物の衣裳、靴やバッグが並んでいた。

 「ここの奥さん、色っぽかったからなあ。」

棟梁もそれを見ながら言った。

 こちらが言い出す前に不動産屋の方から値を下げてきた。私はそれを受けて買い取った。契約書にサインをしながら、あと改装費にいくらかかるんだろうと思っていた。それについてはあの棟梁が請け負ってくれた。彼の助言通り、井戸と貯水タンク、風呂、トイレの水回りの改装など、素人には無理なところはやってもらった。残った店内の補修やテーブル、椅子の修理など、自分でできる所はすべて自分でやった。手伝ってくれるものはなく、一人だけの作業だったが、そのほうがむしろ夢中になってやれた。私はここで珈琲館をやっていくのだろうか、なんでこんなことに夢中になっているのだろうかと思いはした。だが、会社勤めの時と違って、手の中で何かが出来上がっていく喜びがあった。その喜びの性で夢中になっているんだと自分に言い訳をしながら、夏から秋まで作業をした。

 だが、やはり以前に誰かが住んでいたという痕跡はそこかしこにあった。階段下の物置に業務用の掃除機があった。幸い、それは強力に吸引してくれた。それで一通り掃除をし、掃除機の蓋を開けると、なかに赤いルージュの形が残ったティッシュが吸い込まれていた。

 カウンターの棚にはコーヒーカップが数脚、下にコーヒーを入れる道具、そして小引き出しには銀製のネクタイピンとカフスボタンが箱に布を引いておさめてあった。そしてその横にパイプとタンパー、ピン、スプーンがセットになったコンパニオン、封を切ってないパイプタバコが二箱がきちんと置いてあった。私は、それを私がどうにかしてはいけないもののように感じて、そのままそっとしておいた。誰に遠慮してるんだろう、それをどうこうしても、咎める人などいやしないと思った。

 冬の終わりは棟梁に外回りを見てもらい、私はアドバイスを受けながら内装の手直しをした。掃除機をかけまくり、二度三度燻煙殺虫剤を焚いた。屋内の扉という扉を全部開け、天井裏を覗く蓋もめくって、その下で燻煙剤を焚いた。そして気を咎めるものがあったが、家屋にあった洋服や小道具をリサイクルショップに持って行った。パンを焼く電気炉、恒温醗酵炉も持ち出した。ところが、リサイクルショップが一番欲しがったのは、大理石の作業台だった。ほかにアンティーク家具とそれやこれやを処分して、私はそのリサイクルショップからほぼ理想のオーディオセットを手に入れたうえに、少々気の咎める残金が手元に残った。私はそのパン工房の部屋を事務室兼休憩室にした。余ったお金でノートパソコンを買い、インターネット環境を整えた。

 そんな作業をしているとき、娘が突然訪ねてきた。

 「お父さん、なんか楽しそうね。」

いきなり私の背中に声がかけられた。驚いて振り返ると 

 「ジイジ、きたよ。」

と孫が飛びついて来た。驚きだった。彼らの事は忘れていた。私はもうそれほどここの一人暮らしに慣れ切っていた。

 「こんな山ん中、喫茶店なんかして流行ると思う?」

 「思わない。」

 「じゃ、なんでやるの?」

そう面と向かって言われても、私にもわからない。

 「ところで、今夜泊まれる?」

そう言い、孫と二人、無理やり泊まって翌日、また来るとだけ言い残して帰っていった。つぎはちゃあんとお風呂に入れるようにしておいてね、が娘の言い残した注文だった。

 秋が来ると、私の作業もどうに入り、手慣れた作業ができるようになってきた。作業台に木材を固定し、金尺を当てて墨付けをして電動鋸で木材を切る。壁紙も張る。床は床材を張り直すのは大変だと棟梁に言われたので、床用ワックスを何度もかけた。汗だくになりながら床を磨いた。だが、その地道な作業を繰り返すと、磨いた床が味のようなものをにじませた。                             

 そんな長い時間と慣れない作業の苦労も、目の前の女性客に話すなら、

 「一年がかりで改装しましてね。」

の一言で終わってしまう。

 「だからきれいなのね。元々マスターは、そんな仕事をしてたの?」

と聞かれた。そんな仕事?どんな仕事・・・。私はどんな仕事をしてきたのだろう、と考えこんでしまった。大学を出て就職をし、開発プロジェクトに組み込まれて何か大きな仕事の一部分をやり遂げはした。するとまた次の事が追いかけてくる。その繰り返しだった。しかしそれが一年経ってみると、私は四十年近くやってきたことを忘れかけていた。頭の中の映像としては思い出せるのだが、手と体が作り出したものの感触と重さを忘れているのだ。

 「いや、全然関係のないことをやってました。」

 「じゃあ・・・、何を?」

どう答えたらいいのか解らない。しばらく考えて、私が一番確かだと思った答がでてきた。

 「ついこの前までは中年男、その前は壮年男子、それから青年美男子、紅顔の美少年と坊や、そこらあたりにいる、ありきたりな普通の男をやってました。ときどき夫と父親もやってきましたが、今は珈琲館のマスター。」

 「まるで、カサブランカみたい。そんな遠い昔は忘れた、そんな遠い先の事はわからない。Time goes by・・・」

そういって、ふふっと笑った。なにか和やかな空気が流れ、微笑んで、私は何かを忘れ、何かを超えた。

 「ほんと、あの車、優雅ね。一度乗せてくださる?私、しらなかった、あなたがこんなことをしたがってたなんて。」

 「いや、そんなにやりたくて堪らなかったわけじゃない。たまたま見つけて、気まぐれが起こっただけで、今思うとどうしてこうしたのかわからない。特にあなたに死なれてからは、自分が生きてるかどうかさえ解らなくなった。」

 「あなたって、半分人生捨ててるようなところがあったから。」

 「そうか?」

 「そうよ、娘が生まれた時だって、どっかよそ事みたいな感じだったわ。」

反論がなかった。私は娘が生まれても父親としての実感がなかった。まして手の中に抱くと、落としそうだし壊れそうだし、どうすればいいのか解らずに戸惑うばかりだった。確かにそれも日が経つにつれ、父親らしくできるようにはなった。それを子供が父親にしてくれるということかとは理解したが、そのことさえ自信がなかった。妻はそれを見抜いてたんだ。

 「じゃ、ここも気まぐれ?」

 「そう、行き当たりばったりの気まぐれ。でも、あちこち手直しすると、すこしは思い入れもできたかなと思う。」

 「そうはいっても、あの家はさっさと処分したじゃない?」

 「あの家は、一人いるのがつらかったから。」

何を話してるんだろう、今誰と話しているんだろうと思う。今私は霧の中だ。妻とはいつもたわいのないことをしゃべっていた。犬の散歩に行くと、春は桜が咲きそうとか、初秋に曼珠沙華が咲いたとか。妻も娘がこういった、学校へ行くとこうだったと、今は思い出せもしないことを話し続けてきた。いま、私はあの時と同じように、壁を指差して、ここを直すのは大変だったと当然のように話している。

 「ここの壁紙が少し色褪せていたから、剥がしにかかったんだけど、しっかり張り付いていたから下地まではがしてしまって、その後始末に往生したんだ。棟梁もコツを最初に教えてくれたらよかったんだけど、いや、簡単だよ、ちょっと湿しておいてカッターの先を入れて、あとはひっぱがしゃいいんだというもんだから。」

 「そうね、素人ってそんなもんよね。」

と昔のままに相槌ちを打つ。

 「ところで、あなた、あれも始めたの?」

と指差すほうを見ると、家から持ってきた唯一のものであるクラリネットがあった。

 「学生時代やりたいとは思ってたけど、思うだけで終わりにしてたから、独りのさびしさから始めた。まだまだだけどね。」

 「何か聞かせて。」

そういわれて、私はクラリネットのリードを湿らせ、マウスピースにセットした。へたでも間違えても平気だった。最初に少し息を吹き込む。キーも全部ふさぎ、音を出しながら音階を吹いてみる。この柔らかい音色が好きだ。思いつくまま吹いてみた。吹き終わると、妻が拍手してくれた、

 「ふしぎ、ほんと、不思議、私、あなたのこと、なんにも知らなかったみたい。こんなことするなんて思いもしなかった。あんなに長く一緒に暮らしてたのに。」

 「そのうえ、珈琲館のマスターになるなんてっていうんだろ」?

 「そうよ。でも泣かずに暮らしていてくれて、私は安心。」

 「そんなことじゃないが。」

と振り返ると、妻が消え、違う女が震えていた。

不意に、

     

私、怖い


と声をころして言った。女性客は肩を抱いて身を震わせた。私の意識は止まり、クラリネットを置いて、カウンターの小引出しを誰かが勝手にあけた。スタンドの光が女の顔を逆光にした。そちらを見ないようにしながら、カウンターの小引き出しを開け、パイプタバコを取り出す。封を切って、ジャーも取り出し、タバコをほぐしてそれに入れる。蓋に一回分のタバコを残し、もう一度よくほぐして、パイプとパイプレストをカウンターに置き、パイプの先のボールに指で柔らかく詰めていく。コンパニオンからタンパーを出して、ボール一杯になったタバコをそのタンパーで8分目まで程よく固く詰め直し、平らにする。軸の長いマッチに火を点け、硝化薬が燃えきってしまうのを待ってタバコに火を移す。タバコの上面全体に火が移ると、徐々に火が回るようにマウスピースを吸う。すると口全体にタバコの芳香が広がる。

   

私はタバコを吸わない こんな手順も知らない   


声にならない。思いにもならない。何かがそう思念する私の意識を追いやり、押し込め、大きく膨らむ。誰かがゆっくりとタバコの香りを楽しむ。私はその馨しさを共有しながら意思を失った。

 これを私はヨーロッパで覚えた。そのヨーロッパへ私はステンドグラスの職人になりたくて、イロハのイの字も知らないまま無謀にも飛んでいった。つてなどない。ヨーロッパのどこへ行けばいいのかさえ知らなかった。しかし、芸術の都と言えばフランスと勝手に見当をつけ、パリに行った。だが当てが外れた。ステンドグラスはヨーロッパでもマイナーな工芸に成り果てていた。ただ闇雲に放浪した果てに、私はスペインの農村で、村の小さな教会のステンドグラスを直している職人親子に出会った。マリアと主イエス、大聖人のステンドグラスを彼らは二人だけで教会の窓に取り付けていた。スペイン語が充分でない私は、ずうっと彼らの作業を眺めた。翌日も、そして次の日も。 その翌々日、教会の修復を指揮している日本人画家に出会った。私は運が良かったと言える。彼が私に代わってそのステンドグラス職人に私の弟子入りを申し入れてくれた。その途端、親方が、そうだったのか、それじゃこの梯子を押さえていてくれと言った。

 それから五年、私は日本に帰らず、その親方のもとで、彼の息子とともにステンドグラス制作の修業をした。だが、彼らも貧しかった。よく私を置いてくれたものだと思う。それなのに、彼らに私の帰国の意志を伝えると、涙を流してくれた。

 日本に帰った私は、スペインより過酷な現状を知った。日本に本格的なステンドグラス職人は四十人ほどしかいなかった。つまりそれだけ需要がないということだった。日本には細緻で緻密な美術工芸が多すぎた。ステンドグラスは日本の美術工芸に比べ、色ガラスの飾り程度にしか認知されていなかった。私は日銭稼ぎのアルバイトをしながら、デパートや画商、工芸品店を訪ねた。そこで応接に出てきた人たちは一応に、

 「ステンドグラスですか。ダメですねぇ。売れません。たまに結婚式の引き出物として、コースターが出るぐらいですか。ガラス製品と言えば江戸切子、薩摩切子も出ませんから。」

と、気の毒そうに言われた。それでも私は画廊を通じて進物用品店に、ステンドグラスのランプシェードを使ったスタンドを置けるようになった。これは私がスペインの親方のところで手内職としてやってたことだ。親方は何も教えてくれなかった。鉛筆とスケッチブックをもって、私は彼らの作るステンドグラスを写生した。すると親方は隣村の教会にも行って、写生してこいと言う。私は言われるまま、忠実に写生した。それから、ひょいと渡されたオイルカッターで、アンティークガラスの切れ端に見様見真似で傷をいれ、ペンチで挟んで割って切り離した。また、彼らの足元に捨ててあるカットガラスを集め、これも捨ててあるH溝ハンダで組んで円形の中にロザリオを組み込んだ飾り物を作って巡礼客に売った。それが修行だった。そうやって徐々に私は親方と教会のステンドグラスの修復もやるようになり、教会の様式も覚えた。

 私が修行を始められるきっかけとなったスペインの農村の小さな教会は、その村の農民が精一杯のお金を出し合って、少しずつ進められていた。私が修行をしていた五年間は、ずうっとそれに関わっていた。資金が乏しいので、材料とその日の暮らしを賄うと資金は残らなかった。しかし、人々は教会の建設にも協力してくれたし、毎日のように食べるものも持ってきてくれた。私たちも、たとえ専門ではなくても土を練り、木を運んで働いた。日本の画家がフレスコ画を書いている間は何もできないので、村の農作業を手伝った。画家はこの村の林檎を壁画のテーマに選んだ。薄い緑や萌えるような緑の葉、枝一杯に実を付けた林檎の木を、この村の象徴として描いた。私は教会の完成を待たず、ステンドグラスが出来上がったあと、日本へ帰ることになった。画家は、完成まで未だ三年はかかると言っていた。

 日本での生活がやっとできるようになったころ、ふいにその画家から電話がかかった。長崎の教会の修理を手伝ってくれと言うのだ。彼は日本に帰って来ていた。聞くと、スペインの協会はあの後1年半で完成し、ローマ法王の使者を迎えて開闢のお祝いができたそうだ。親方も、あいつを呼んでやればよかったと言ったとか。私は連絡先に実家の住所を書いておいたのだが、母が弱って老人施設に入り、当時は無人になっていた。画家は日本に帰って、私の実家を捜し、近所で事情を聴いて施設の母を訪ね、私の連絡先を聞いた。

 事情はよく似ていた。スペインと違うところは、もうその島には誰も住んでいないという点だ。無人になった島の元住民たちが、心のよりどころを求めて誰とはなく言い出し、台風などで壊れてしまった教会を再建しようということになった。村の元住民が寄付を集め、一時帰国していた画家に頼んできた。彼らは画家のスペインでのニュースを見ていた。画家は断った。似たようなことを頼めばボランティアのように無条件でやってくれると思いこんでいるように見えたからだ。だがそれを彼の妻が諌めた。代表と一緒に来ていた老婆は手に十字架を握りしめていた。彼らの信仰は本物だった。あのスペインの村人の祈りも、長崎の小さな島の村民の祈りも。画家はスペインを引き払って帰国し、島に住んだ。まるでサバイバル生活さと笑った。私はいまやっと安定してきた生活を捨てることにした。あのスペインの五年間を耐えられたのだから、また今度も耐えられると思った。

 島に着くと、あばら家が待っていた。家はどれでも好きなのを使ってくれていいそうだと画家は笑った。私は寝泊り出来て、作業スペースとしての広い床があればそれでよかった。ステンドグラスを作るのに、大きな道具が要るわけではないからだ。私はそこでひとり作業を始めた。そこへ画家夫婦が訪ねてきた。一人じゃ大変だから、手助けが要るだろ。一人、助手の候補がいるんだが、どうだと、その持って回った言い方が気になったが、頼めるもんなら、お願いしますと答えた。しかしこの過酷な環境はわかっているんでしょうかというと、画家は、解ってるよ、こいつの姪だからと、自分の妻を指差してしゃあしゃあと言う。女はだめです、女は。私は思いがけない申し出にあわてた。姪はあんたの作った電気スタンドに魅せられたらしい。それで弟子入り志願をしてるんだが、どうだろ。ちょっとだけ試してみてくれないか。なにせお嬢さん育ちだから、三日でねをあげるとは思うんだがという。押し問答はあったが、それじゃと言わざるをえなかった。かつて私自身も、彼の口利きでスペインの親方に弟子入りをさせてもらっていたからだ。

 三日して彼女は来た。訊ねてみると、美大の造形学科卒だが、ステンドグラスの制作については何も知らなかった。私は私の親方のように、じっと私の作業を彼女に見せて過ごさせた。一つには、放っておけば飽きて帰ると言い出すと思ったからだ。さらに、今のこの過酷な状況に耐えられないだろうとも思ったからだ。ところが、それでも彼女は、毎日画家のところから通ってきた。

 そのころ私は再建される教会の窓枠を作っていた。ステンドグラスをはめ込む窓枠は本来ステンドグラス職人が作るものではないのだが、そんなこと言っていられない。いくら島出身の大工が熱心だからと言って、ステンドグラスを強固に止めつけるにはそれなりの造作が必要だった。さらに、予算のこともあって人手を増やせなかった。その作業中、つい彼女の手を借りるようにもなった。梯子の上から道具を取ってもらい、木枠をもってもらう、そういった力仕事もいとわず努める彼女に一生懸命さを感じた。それに甘えてはいけないと思うのだが、私はつい仕事に夢中になって、こき使ってしまった。

 一日が終わると、現場を離れる前に明日の段取りを考える。彼女はその横で周りを見回している。その姿に、仕事に夢中で彼女を顧みないでいたことに気付く。彼女の手も顔も汚れっぱなしだ。それでも私が顔を洗うとタオルを差し出してくる。君も顔、洗って、と言いながら、申し訳なさが込み上げてきた。すまなかった、こんなことさせてと言うと、弟子ですからと答える。そうだったと思う。

 工事も進み、二年目からは力仕事は減ってきた。画家が私に目くばせする。続くもんだねと笑う。姪御さんには感心してます、とっくに逃げ帰ると思ってたんですが、と答える。でも、これから先は本業の方に入りますから、たくさん教えることができます。そういうと、よろしく頼むと頭を下げられた。

 当初から、彼女は私を先生と呼んだ。若い女性に先生と呼ばれるのは面映ゆかった。しかし年も相当離れていたし、そう呼ばれる方が枠に嵌って都合がよかった。説明会で、私は昔の師匠にならって、スペインでの写生画をもとにした様式的なデザインを村人に示した。画家の下絵は斬新だった。彼の題材は桜だ。私のデザインはそれに似合わなかった。もっと軽いほうがいいですと言われた。小さい教会ですから。以前の教会はもっと粗末でした。そういわれると、画家の選択は何かほっとさせるものがあった。私は教会の片側3面、両方で6面のガラスをできるだけ明るく、しかも島の空と海に合わせて、椿の花をモチーフにしたデザインに変えた。教会の周りに八重の椿が咲き誇っていた。その上の半円の窓は、白とブルーとピンクの幾何学模様で光を取り込めるように考えた。さらに祭壇の奥の一番重要な十字架のイエス像とその両脇の、向かって左側のマリア様は頭上を天使が舞い、右の大聖人もイエス様を祝福する天使を配した。しかし採光は十分配慮したデザインとした。祭壇中央の上方からは光の筋が降るように十字架像を照らし出す。確かに小さいけれど、光にあふれた教会にすることが出来た。絵画は反射光で自分を見せるけれど、ステンドグラスは透過光でグラス自身を見せ、礼拝堂内も十分に光を取り入れられるように配慮しなければならないと、かつて親方に教えられていた。

 窓一面に三か月。九面でおよそ二年半かかった。出来上がったステンドグラスを、男手も借り、一面ずつ取り付けてゆく。裏押さえの枠にぴったりと押しつけ、表押さえの枠を取り付ける。南の島の光は、思った以上に明るかった。両脇のステンドグラスの窓は、室内を光であふれさせた。祭壇は安置されたマリア様と大聖人、十字架像に一杯の光を降り注いだ。

 完成した教会は、花の教会と呼ばれた。

 花の教会にテレビ局が取材に来た。画家と元島民有志がインタビューに答えていた。画家が私を呼ぶ。この人が、この教会のステンドグラスを制作された方です。彼はスペインで教会のステンドグラスの制作と修理を勉強された方で、この教会の建設に最初から携わってもらいました。そう紹介されている私を、彼女は画家の妻の横で嬉しそうに見ていた。

 この島を引き払う時が来た。画家が私に握手を求めながら、どうする、あいつのことは、と言う。連れて行きます。彼女さえよければ、結婚します、と答えた。そうか、よかった、おーい、結婚するそうだと画家は彼の妻に大声で叫んだ。画家の妻は本当にうれしそうに手を振った。彼女はたくましい腕で船に荷物を運んでいた。私の弟子はそれを手伝いながら、俯いていた。

 ところが、私は帰るところがなかった。元いたスタジオはとっくに引き払っている。だが、かつてのつてを頼って、昔住んでたところへ向かうことにした。やっと掴んだ生活のすべを振り捨てて行ったのだから、虫のいい話だとは思っていた。しかし、それは危惧と言うものだった。以前の画廊を訪ねてみると、昔より扱いが変わった。先生と呼ばれた。ニュースを見ました。偉業を成し遂げられ、おめでとうございます。ついては、早速個展を開かれたほうがいいです。何点か作品をお持ちでしょ。すぐにでも用意して、そうですねぇ、地元のデパートを会場にして個展をやると、一躍工芸作家の地位を確立できます、という。ところが私は手元に作品はなかった。画廊店主は眉を曇らせたが、何か心当たりがあるようで、それじゃなにかこう、大きなものを一点、作ってください、それと、デスク型のランプの凝ったものを2点、あとは私がかき集めます。以前作った作品を集めてくるつもりとわかった。私は郊外に工房を借り、そこに住んで制作をすることになった。

 私はこの思わぬ展開に戸惑った。すまない、まず君を親御さんのところへ連れてゆくべきだったと詫びた。日にちがありません、先生は忙しいのですから、そちらを先にと言う。しかし彼女を親御さんの元へ連れて行った。距離はあったが、一日でたどり着けた。彼女の親御さんに挨拶をしようとすると、義理の兄から話は聞いておりますという。顔を上げて彼女のお父さんの顔を見た。姉の血がこいつにも流れているんでしょう、私はあきらめてますと寂しげだった。そして、全国ニュースで花の教会のニュースを見、その画面の端にいる娘を見て涙が流れたと笑った。母親は、いくら離島で携帯も繋がらないからと言って、どうして連絡もしてこなかったのよと娘を責めた。そして私に、娘をよろしくと頭を下げた。

 結婚式の打ち合わせなどは出来ぬまま、私は一人、仮住まいの工房に帰った。予め降ろしておいた器具を整理し、作業台と棚を調達してきた。頭の中はこれから作るフロア型の照明器具と、デスク型のスタンド2台のデザインで一杯になってた。海と島と雲と花がモチーフになって浮かんだ。透明なブルー、均質な白、まだらに濃いピンクと緑、真紅、私はカットデザインを描き、アンティークガラスを並べた。花びらを描き、島の蝶のデッサンを描いた。工房の戸が開いた。彼女はそれよりも美しく立っていた。待って、そのままと、私は戸惑っている彼女を立たせたまま、スケッチ帳にそれを描き写した。一気呵成だった。

 画廊の主人の指定した3カ月は、あっという間だった。オイルカッターを走らせ、ザグザグでかじる。ルーターで形を整え、ピースを合わせてゆく。そしてそれを鉛線ケイムにはめ込み、パテを詰める。フロア型の大きな作品は、少し無骨だが、島の教会で取った方法で仕上げた。フロア型の大きなスタンドに電源を入れると、柔らかな光が女性像を浮かび上がらせた。

 デスク型のスタンドはコパーテープをガラスピースに巻き、ハンダで補強してゆくティファニーの開発した方法をとった。この方が軽やかになる。一つは島の朝焼け、もう一つは夕焼けをイメージした。そのほかに彼女が作ったタペストリーと、フラワースタンドが出来た。技術は多少未熟ではあったが、色合いに見るものがあった。

 画商の決めた期限は守ることが出来た。フロアースタンドを見て、大作ですなあという。美しくとか洗練されたとかの次元はもうどっちでもよかった。技術的なことより、この作品を作ることに打ち込んだ。その結果がこうして形を成した。デスク型二つは、ほっとしますという評価だった。彼女の作ったものは、奥様のはやさしいですなあと評価した。

 デパートの会場の正面に、海をバックにした花の教会の写真が大きく張られ、教会の内側と外から写されたステンドグラスの写真が並んだ。他に、島の風景写真も私たちの作品の上に飾られた。さすがにプロの写真家が写したものだと感心した。今回の作品展は島の新興にもなりますから、ぜひ使わせてくださいと、画商が元島民代表を口説いたらしい。ステンドグラスの先生のためになるのでしたらと、代表は快諾してくれたと言っていた。会場では、少し高齢の人たちは私の作品の前で立ち止まった。若い女性は妻の作品をのぞき込んでいった。しかし、画商が集めてきた私の過去の作品は、やはり異質なところがあった。気負い、若さ、未熟さが目立った。

 10日間の美術工芸展で、芳名帳には数百人もの名前が書かれた。作品も、彼女のものを含めて多数売れた。あのフロア型のスタンドも、相当高価な値を付けていたにもかかわらず、買われていった。これって一点ものだよねと訊いて買われた。画商は私たちに今後の事を約束させて多額の報酬を渡してくれた。年に十個以上の作品と小さい物、建物のステンドグラスの制作修理を適宜と言うのが画商の要求だった。

 彼の仕事の依頼も、しばらくは順調だった。私たちは個展の後少しして結婚した。式場はあの花の教会でと彼女は望んだのだが、あまりの不便さから彼女の両親の反対にあい、彼女の地元の式場に決まった。私の年取った両親と親戚たち、彼女の両親に親戚友人、と言ってもごく少数で内輪の式になった。しかし私達二人の両親は涙を流して喜んでくれた。特に私の母は、勝手気ままばかりしてるから、もう結婚できないと思っていたと泣いた。式場の真ん中に、個展に出品したフロア型のスタンドを置いた。買い主に無理を言って貸し出してもらったのだ。光に包まれた聖女と作品名のプレートを置いた。暗転した式場の中でスタンドが灯され、柔らかい光で聖女が浮かび上がった。会場のあちこちからため息ともつかぬ声が上がった。

 二人には新婚旅行もなかった。仮の工房を整理し、さらに充実させねば、一年に大きい物十基、小さいもの数台はきついノルマだった。ステンドグラスの制作それ自体は、強度さえ間違えなければ早く進めることもできる。しかし新しいデザインと配色、ガラス選びが命だから、そちらに時間がかかった。とはいっても、同じものを複数台作るわけにも行かず、常に頭をなやませた。スペインの風景、島の教会の風景のスケッチをモチーフにした。私と妻は周りも見ずに走り続けた。しかし、気が付くと次第に暗い影が差してきていた。結局はステンドグラスなど、日本に未だ根付いていない工芸品で、ただきれいな窓飾りでしかないのだ。画商のところを久しぶりに訪れなければならなくなった。行ってみると、飾ってある絵は一年前と同じであり、テーブルにうっすら埃が載っていた。それからほんの数カ月で、私たちの放浪が始まった。

 とは言っても、当てのない旅ではなかった。いまでは義理の叔父である画家の紹介とか、倒産した画商がかつて依頼してきたステンドグラスの修理をしてまわった。古い洋館造りの建物に設えられているステンドグラスを、質感を変えないように修理する。新築住宅の階段窓に装飾用の簡単なものを設置する。教会もあった。古い喫茶店の内部装飾もした。私はスペインに居た時のステンドグラス職人に戻った。私はそれで充分だった。しかし年若い妻が疲れていた。旅の途中、私は朝日の美しい山の中腹に喫茶店を開くことにした。

 その喫茶店の開業祝に、画家の妻である叔母からパンを作る大理石の天板の調理台が送られてきた。その大理石の調理台の奥に、中古の電気オーブンを据えた。コーヒーとパン、ピザの美味しい店が出来た。それにしては、叔母から送られた大理石の調理台は不似合いなほど立派だった。私はそのわけを知っていた。妻の本当の母親は画家の妻だと義理の父母から聞いていた。義理の父母は妻を特別養子縁組で、戸籍上も実子のように入籍した。そして画家も再婚で、彼にも長男がいた。画家は先妻と離婚した後世界中を放浪し、今の妻となった人に出会った。画家は即座に結婚し、一緒に放浪して回った。彼らは自分の子供の事を忘れたわけではなかったが、彼らの言う、内なるデイモンの衝動が彼らを引きずり回した。そして私が定住先を決めた時、画家の妻も胸の疼きを癒すため、あんな高価なものを送ってくれたうえに、多額の借金も許してくれた。私はけじめとして借用書を入れ、毎月彼らの口座に幾ばくかの返済を振り込んだ。画家はふっと、自身の長男が彼を憎しみを持って見ていると言ったことがあった。あいつは私を憎んでいるんですよとさみしげだった。若い時はそんなこと振り返りもしなかったのですが、気が付くと、憎まれてました。親って、子になにを残せるんでしょうね、名前を残す、財を残す、自分を愛してくれた思い出を残す、そんなとこですか。私はあいつに何も残していなかった。

 コーヒーとパンとピザ、それに地元野菜の蒸し焼き料理と、都会風の料理がおしゃれな店と評判になった。相当遠方からもドライブがてらやってきた。彼女が料理を作り、コーヒーを私が淹れる。お運びさんも私がする。それでも間に合いかねる時もあった。しかしそれも一時だった。それでいいんだと妻にもいい、私はステンドグラスの製品を作り、一人で修理にも行った。

 三年経って、長い修理があった。帰ってみると、店は閉まっており、人気がなかった。胸にざわつくものがあった。何か凶悪なことが妻の身に起こったのかと思った。裏から入り、妻を捜して店に入った。明かりのないカウンターの上に、先生ごめんなさい、との書置きがあった。

 

今、目の前で妻が、先生、ごめんなさい。あんなに愛してくれたのに、私は先生を裏切ってしまいました、と泣いた。山の集落の老人に、あんた、あんな若い嫁さんを一人で置いておくと碌なことないよ、と言われたことがあった。あのどうしようもないドチンピラを最近よく店で見かけるから。そういわれても、私は生活と借金のために、店も家も空けて一人で仕事に行かなければならなかった。妻は、このごろ流行ってないから、店は私一人で大丈夫、先生こそ無理しないでと気遣ってくれた。私は目の前の事で精いっぱいだった。だが、この書置きを見て、何が起こったのか理解もできないまま意識も体も空白になり、凶凶しいことが妻に起こったと、外へ飛び出した。手が車のキーを回している。私の手なのに私がそれを見ている。エンジンが掛かった。店の前の道路に飛び出す。追っているのかどうかさえ解らない。あの時妻は泣いていた。大理石の調理台の向こうで、身をよじって泣いていた。

  あいつは私をナイフで脅して犯しました。私は身を汚されるぐらいなら、ころして。殺すぞと言うなら、いっそ殺してと願いました。ああ殺してやる、お前を俺のものにするんだ、殺してでも俺のものにすると、気をいっそ高ぶらせ、ナイフをひらひら蝶のように振り回します。私は殺されると覚悟しました。すると、急にあいつが、いいや、殺さない、死んでも俺の物にならないというなら、殺さず言うことを聞かせてやる。お前の方から身を開かせてやる。お前は殺さないで、お前の一番大切な人間を殺す。こいつを腹にぶち込んで、お前の亭主を必ず殺してやる。そういわれて、私は先生がお腹から血を噴き出しながら倒れる白昼夢を見ました。そのあとの事は覚えていません。私はただ泣くことしかできなくなりました。夏が始まり、夜、蝉が鳴き、秋が来ても、私は犯され続けました。もう俺のものだ、俺のものだと、あいつは叫びます。私は涙を流し、死ぬしかないとあの男のバタフライナイフを奪い、胸に突き立てようとしました。死んでみろ、お前が死んでも、その後俺はあいつを殺す、必ず殺してやるから死んでみろ!そう言われて、私は死ぬこともできなくなりました。

 冬の始まりに、私は妊娠したことを知りました。先生、私、以前先生の子供が欲しいと先生にお願いしました。私は先生の子供が欲しかった。そうしたら、先生がいなくなっても私、生きて行ける。だから先生の子供が欲しかった。でも、私の体はあの男の子供を身ごもった。私は自分が女であることが呪わしかった。この体に宿った命は、たとえあの男の子でも貴く、清く、聖なるものです。でも生まれて来るとそれだけで罪の子、穢れて、生まれてきてはいけなかった命。なんてかわいそうな命なのと、私はお腹に手を当て、涙を流すしかありませんでした。そして、先生が仕事から帰ってくる日、私はあの男に言ったんです。連れて逃げて。男は狂ったようによろこびました。夜、漆黒の闇の中、私と男は車でこの村を逃げました。男は道を左に向かおうとしました。駄目、そっちは気取られてしまう、右へ。そういうと、男は何の躊躇いもなく右へ向かいました。あの六地蔵峠へ。ライトが、生え茂り、折り重なって星も見えなくしている木々を照らし、車はその間を危うく走り抜けます。男はまるで子供のようにはしゃいでハンドルを操っていました。峠を登り詰め、狭隘な坂を駆け下って行きます。大きく膨らみ、下に深い谷底が見えるカーブで、私はハンドルを掴んで、思い切り回しました。体を打ち付ける強い衝撃と浮遊する瞬間に、私はお腹の赤ちゃんに、お母様も一緒に死にますから許してと告げました。あとはもう闇の中。

 そうだった。私は後を追い、絶望の中で同じように虚しく宙を飛んだ。

 女は黙り、レコードがポツリポツリと終わりの溝を回る音を立てていた。声ともつかぬ恐ろしい悲鳴を上げて女が指差し、あいつを殺して、あいつを殺してと叫んだ。振り向くと、蛇が床を這い、体を折り重ねて身構えいた。体中から血を吹くような、言葉にもならないほどの怒りがこみ上げた。火掻き棒を掴み、蛇の前に立ち、振り降ろそうとした。振り降ろせば蛇の首は断ち切られ、死んでしまう。この動きの鈍い蛇の首は確実に断ち切れた。

「待って!」

女性客が、いや、妻が、叫んだ。

「あなた、やめさせて。殺さないで。殺せば、その蛇はまたこの家に戻ってくる。」

押し込められていた私が引き戻された。蛇はあのクローゼットに居た、眠らない蛇だった。蛇は鎌首を引き、跳んで毒を含んで攻撃してこようと身構えた。

 「この蛇は、ここでずうっとあなたを待ってたの。この蛇の身勝手な固執はあなたとあなたたち夫婦を死に追い詰め、殺してしまった。でもずうっとここであなたを待ってた。この蛇はここであなたを求め続けてた。理解なんかしてやることはない、憎んだままでいい。許してなんかやることもない。ただ、求め続けて待っていたと知ってやれば、この蛇はそれだけでいいの。」

妻が闇に向かって話した。そして私に向かって、

 「あなた、その蛇を逃がしてやって。」

と言った。私は私の中の強い意思を跳ね除け、火掻き棒を火ばさみに持ち替えて、蛇の前に立った。蛇はもう首を降ろし、力なく横たわっていた。だが、その首を火ばさみが掴んだ一瞬は身をくねらせ、火ばさみに絡んだ。が、それだけだった。蛇は火ばさみからダラリと垂れ、なすがままになった。私は棟梁がしたように窓を開け、火ばさみを強く振って、蛇を谷底へ放り投げた。蛇はまるで宙を駆け上がりたいかのように身をくねらせた。と、体が一瞬にして輝き、燐光を発して金色から白色に変わり、無数の蛍になって空一面に飛び散り、舞い飛び、燃え尽きて、消えていった。暗い静寂が襲った。大きな影と小さな影が、手に小さな影を抱いた。私の思念が止まった。


 私はクラリネットだけを持って、いまだに売れ残っている家に帰ることにした。帰っても何も残っちゃいない。帰りつけばこの車も売ろうとも思った。ところが、これを買った中古車屋は元からなかったように影も形も無くなっていた。

長い不在だった。不動産屋に立ち寄ると、売り止めになってると申し訳なさそうに言われた。もう売るのはやめると告げて鍵を受け取った。

 家のリビングの床に座ると、ここには生活がなかった。そりゃそうだ、誰もいなくなってたのだから。そして不意に、人生は、シェイクスピアの一幕に若かないと思った。あは!これは芥川のデフォルメだと自嘲した。私はボードレールは知らない。惡の華も読んでない、堀口大学は嫌いだ。だからシェイクスピアだ。そのうえ、あは!は死霊だ。あは、は自同律より自同律、虚体より虚体だと、今とは無関係なのに連想してしまう。あなたがこの世を去るときは、私があなたを抱きしめていてあげると妻は言った。私はもう現実にはもどれないかもしれない。



退職した中年男の思念に浮かんだうつつのゆめを、どうお読みになったでしょうか。

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