自殺?
「久しぶりね」
笑顔で現れた君は、いつも通り少し大きめのバックパックを背負っている。
「行くよ」と言いながら、ぼくは君から駅ビルの入口へ向き直り、歩き始めた。君が不承不承着いてきているのを背中で感じて、少し速度を速めた。デニム地のジャケットを着て、ジャージを履いた高校生くらいの女の子を目で追いながら、背後で機嫌の悪い気配を感じている。
「どこに?」
ぼくは女の子を説明しようとしたが、デニムのジャケットは自動ドアの向こうに消えていた。横切る人の前に割り込んで、ぼくらも自動ドアへ向かった。
「あのエスカレータに乗った、女の子」
ぼくは歩きながら君を振り返り、先ほどの質問に答えた。君はぼくから視線を外してエスカレータの方を見たが、どの子かわからないようだ。ぼくらも同じエスカレータに乗った。
「あのデニムジャケットの子?」
エスカレータに乗って、君はぼくの後から囁いた。他にも女の子はいたが、一人でエスカレータに乗っているのはデニムジャケットの子だけで、他の子は日常を楽しむように隣の人と話すか、スマートフォンの画面を見ている。ぼくがゆっくりうなずくと
「あの子がどうかしたの?」
あの子は3階に到着する手前だった。このビルのエスカレータは1階から最上階まで一列に並んでいて、上を見さえすれば女の子を視界に入れることが出来る。ぼくらも次のエスカレータに乗った。
「後で説明するよ」
ぼくはちょっとだけ女の子から視線を外し答えた。3階に着くと、ぼくらはエスカレータの右側にある本屋から出てきた人たちの間をすり抜けながら、4階へ行くエスカレータに乗った。4階には大きな雑貨店があるが、女の子はそこへも立ち寄らず最後のエスカレータに乗った。ぼくらと女の子の間には数人しかいないが、距離を詰めず、ただ見失わないように目で女の子を追う。後ろに立つ君の息づかいが聞こえて気そうだ。
最上階に着いた女の子は、エスカレータを降りて右へ歩き始めた。ジャージの側面にあしらわれた白い線が見え、ぼくらはそれを確認し、エスカレータを歩いて昇る。
最上階はレストラン街であり、人々は店頭に貼られたメニューやガラスケースの中の食品サンプルを見ながらゆっくりと歩いているが、女の子は前だけを見て、時々、人とぶつかりながら進んでいる。女の子が駐車場と案内された方へ曲がり、姿が見えなくなった。
店頭に立つ店員がぼくらに何か話しかけたが、ぼくらは無視して、少し早歩きで女の子が曲がった角へ向かう。曲がった先には彼女の姿はなく、少し歩いたところに短い階段があり、その先は駐車場へ出るガラス張りのドアがあった。先ほどの喧騒と比べて、人がいない階段は静かで、階段を下る君の足音と息づかいが聞こえる。ぼくがドアの前で躊躇していると、君が少し力を入れてそのドアを開け、冷たい風に首をすくめた。首をすぐに伸ばし、頭だけをドアの外に出し、君は駐車場の様子をうかがう。屋上の駐車場はドア付近に数台が停めてあるだけで、コンクリートに規則正しく描かれた白線が確認できる。少しだけ開けたドアから体を斜めにして駐車場へ出て、君は静かにドアを閉めた。
「もしもし?」
声がした方を見ると、女の子がスマートフォンを耳に当て、駐車場の駅側の端の方へ歩いているのが見える。ざっと見ただけで数十台が停められる屋上駐車場の一方が駅に面している。
「元気?」「なんでもない」「風?」「外なの」
女の子の声が断続的に聞こえるが、誰と何をしゃべっているのかわからない。短い会話の後、とても短い挨拶をして彼女はスマートフォンをジャケットの右ポケットに入れた。ぼくらは駐車場へ通じるドアのすぐ脇に停めてあったミニバンのスモークガラス越しにその様子をうかがっている。
「で?」
息を吐くと同時に彼女に気付かれないように気を使いながら、ここに来た理由を君は尋ねたようだ。
「少し様子を(見よう)」
ぼくも彼女に気付かれないように囁いた。短い電話を終えた女の子は駐車場の端にある手摺に両手を掛けて、駅の方を見ている。肩まである手入れをされていない髪は、風に吹かれて、ますますうねりを増してているが、女の子は気にする様子がない。手摺の高さは彼女の胸より下に位置し、その気があれば乗り越えられないこともない。ぼくら以外に人がいない駐車場は、女の子の髪が風になびく他はすべてが止まっているようだ。
「行こう」
はっきりと聞き取れる声でそう言った君は、ぼくの同意を待たずに車の陰から出て、女の子と同じ、駅に面した駐車場の端の手摺の方へ向かった。君を追いかけるためぼくも車の陰から出た。君は女の子から車1台分を空けて、彼女と同じように両手を手摺にかける。ぼくは君の大きめなリュックを目印に君を追い、女の子からは隠れるように君の左側へ立った。
手摺から下を見ると三角形のスペースが数台分の駐車場になっているが、車は停まっていない。アスファルトに描かれた白線と記号が身障者用駐車場であることを示している。少し目線を上げると、駅舎が見え、途切れた線路が終着駅であることを静かに物語っていた。
「ここから落ちたら、痛いじゃすまない感じ」
君の声は女の子にも届いたらしく、彼女の肩が一瞬上がり、こちらに顔は向けていないが、君越しに見ているぼくからも彼女が突然の訪問者の様子をうかがっているのがわかる。
「死んじゃうね」
君がさっきよりもさらに大きな声で言ったので、女の子は顔をこちらへ向けたが、手摺を強く握りしめた両手は離していない。遠くのビルをすました顔で見ている君は自分が大きな声で「死んじゃうね」と言ったのを忘れているようだった。
「死んじゃうのは勝手だけど、みんなに迷惑けちゃうね」
すました顔のまま、まるで女の子とぼくの存在を忘れたように、遠くのビルに向かって話しかけている。女の子は左手を手摺から離し、半身になってこちらを見ている。
「迷惑掛けるんだから、せめて理由くらい教えなきゃ」
相変わらず遠くのビルに話しかけている。君が大きく息を吸った後、両手を手摺から離して、女の子の方へ向いた。
「さっきの電話は友達?お母さん?」
君ははっきりと女の子に話しかけているが、女の子はまだ自分に言われているのか、判断しかねているようで、答えようとはせず、右手に力を入れ直して手摺を握った。
「死ぬのは勝手だけど、最後に(あなたと電話で)話した人はどうなるの?全部が勝手にできる訳じゃないのよ」
風に吹かれた君の髪の間から見えた女の子の頬に涙が流れているのがわかった。
「(親しい誰かに)理由くらい説明しなさいよ」
君の叫び声で、女の子は右手も手摺から離し、君を正面から見ている。女の子は何か言おうとしたが、何も言わずに走り出し、さっきぼくらが隠れていたミニバンの陰に消え、ドアが閉まる音が風に流されていった。
「あの子、ほんとに困ってたね」
君はまた遠くのビルを眺めながら、ひとり言のように言った。
「困ってることがわかるんだったら、あなた、マッサージ師にでもなれば」
君は遠くのビルから目線をぼくに移し、ぼくの答えを求めるように言ったが、ぼくは君が言っていることが理解できずにいる。
「肩を揉みながら、『お客さん、困ってますね』なんて」
君は「困ってます」を「凝ってます」に掛けて冗談を言ったようだが、顔は笑っていなかった。ぼくはどう答えていいのかわからない。君はまっすぐにぼくを見つめている。また遠くのビルを見ている君の横顔からで、唇が細かく震えていることしかわからない。そっと目を閉じた君は、一度うなずいて目を開け、ぼくの方をみた。
「あなたは一体誰なの?」
突然の君の質問にぼくは答えられない。
「大学でもあなたを見かけた人はいないし」
漠然とした疑問のため君は自分の中で整理できないまま質問しているようだが、ぼくにも答えられない。
「あなたと話していると、みんな不思議そうに私を見るわ。あの子にだってあなたは見えてないみたい」
「何も気にしなくていいんだ」
「気になるわよ」
ぼくがやっと発した言葉も君には通じていないようだ。確かに「気にしなくていい」なんて君の疑問の答えにはなっていない。君は諦めたように遠くのビルへ視線を移した。
二人の間にいくつの風が通り過ぎただろうか。
「気にしなくていいんだ。もう自分を傷つけなくていいんだよ」
「え?」
君は向き直り、またぼくを正面から見ている。左手に握ったショルダストラップが変形している。
「なんのこと?」
「その左腕」
ぼくは右手の人差指でショルダストラップを握り締める左手を指差した。
「どうして?」
君の左手にさらに力が込められるのがわかった。
「夏でも長袖なのに、どうして(知ってるの)?」
君が眠れない夜に左手首を傷つけているのをぼくは知っている。それは高校の終わり頃にはしなくなったが、大学生になり、一人暮らしを始めてからまた時々するようになった。
「どうして」
バックパックのショルダストラップを握り締めた君の左手がかすかに震えている。
「中絶したことも気にしなくていいんだよ」
潤んだ君の瞳が一瞬大きく見開かれた。
「誰も知らない、そのこと、誰も知らない土地に、来たのに」
途切れ途切れの君の言葉は、遠くから聞こえる列車の音のように小さい。
君は高校1年生の時に妊娠し、中絶した。その後、自傷行為を繰り返すようになった。高校入学時は成績優秀だったが、結果的には地方の国立大学へなんとか進学できる程度で卒業した。
「どうして?どうしてなの?」
ぼくは君の質問に答えることが出来ない。
「気にしなくていいんだよ。ただそれだけ」
そう、これだけがぼくの君への答えなのだ。二人の間を強い風が通り抜ける。風に吹かれた君の髪が顔を覆い、君が右手でその髪を掻きあげ、顔を上げた。
「ちょっと・・・」
君はぼくがさっきまで立っていた位置に歩み寄るのをぼくは上から見ていた。
「あなたは誰なの?」
君の声が風に巻き上げられる。