34.#サブカルの深淵より現れたる属性(4)
「なに……!? これは、スペル……!? いったいなにが――」
トビアスさんは驚いて周囲を見回しているが、
――ぐぎゅるるるるる……っ
……皆さんには、もう、なにが起こりつつあるか、おわかりですよね?
「なんだ!? この不気味な音……なにが起こっているんだ……!?」
「見ないほうがいいわ!」
「見ないでやってくれ!」
手すりから身を乗り出そうとしたトビアスさんを、アメリアとエルヴィーラが即座に引き戻す。
同時に、魔獣たちが蹲ったことによって浮力を得たマリーは、ふわりとバルコニーの上へと舞い上がりつつあった。
……彼女が、極力臭いを嗅がないようにといった感じで、階下の魔獣から顔を逸らしていることについては、この際気付かなかったふりをするとして。
「マリー!」
関心を戻したアメリアは、トビアスさんにレイピアを借り、それを投げて綱を断ち切った。
丸太から切り離されたマリーは、とうとう魔術に導かれるがまま、こちらにやってくる。
やがて、すとん、と、彼女はバルコニーに降り立った。
「マリー……」
「…………」
ぼろ切れと化した布一枚をまとったマリーは、近くで見てみれば、手首は擦りむけ、髪はほつれと、ひどい有様である。
それでも、彼女は背筋も耳もぴんと伸ばして、口を引き結んだままだった。
……礼の言葉も、謝罪も、口にしようとはしなかった。
それでも。
「――…………」
あどけないだけだと思っていたチョコレート色の瞳には、苦悩や葛藤が見える。
それは間違いなく、俺たちへの想いがあるからこそ、生じるもののはずだった。
「その……ロクサネロ草、だっけ。原液を飲まされて、よく、……自我を保ってたね」
こんなとき、場の空気を解したり、女心を和ませたりする必殺フレーズを、俺は知らない。
いざ本人を目の前にしてみると、「よかった」と再会を喜ぶのも、「これがマリーの本心ってことでいいんだよな」と確認するのも躊躇われて、結局、あたりさわりのないことを、無意識に探ってしまった。
「……ポンシュを、毎日飲んでましたから。多少の毒には、耐性がついているんです」
「えっ、あれって、予防効果もあるの!?」
ぼそぼそとした返答に、つい全力でリアクションしてしまう。
マリーは無言でうなずいてから、皮肉っぽく唇の端を持ち上げた。
「……きっと、心のどこかでは、備えてたんです。アメリアさんや、エルヴィーラさんのことも、ポンシュ漬けにして、耐性を付けて……いつか、私が毒を盛ることがあっても、……私では殺せないように、って」
裏切りながら、守ろうだなんて、馬鹿みたい。
小さく付け足された言葉が――マリーの真意の、すべてだった。
マリー、と声を掛けようとする。だがそれよりも早く、彼女はぱっと顔を上げ、トビアスさんに向き直った。
「――ギルドマスター。このパーティーが集めた源晶石は、私の命に懸けてすべてお渡しします。だからどうか……あなたの力を貸してくださいませんか」
彼女は、ぼろ布一枚をまとっただけとは思えない堂々とした様子で、交渉に臨んでいた。
「僕の力だって?」
「あなたには、各国の王と交渉する権力すらあるとお聞きしています。だからどうか、信頼のおける国の王に、……獣人の保護を」
マリーが、まっすぐにトビアスさんを見つめる。
物怖じしない姿。
しかし、無意識にだろう握り合わせた両手だけが、ごくわずかに震えていた。
「ロクサネロ草で自我を失った、あそこにいる仲間たちを、殺すことなく、脅かすことなく――私の代わりに、看取ってほしいんです」
彼女が言うのは、広場にいる仲間たちのことだった。
魔獣をけしかけられ、逃げ惑っていた彼ら。
脅威がいなくなった今となっても、失われた自我は戻らず、焦点を失った目でふらふらと――
「――……ん?」
ふらふらと彷徨っているのだろうと思われた獣人たちの姿が、てんで見えないことに、俺は首を傾げた。
手すりから身を乗り出して目を凝らし、彼らのいる場所をようやく発見して、ちょっと息を呑む。
彼らは総じて、周囲からは見えにくい物陰や、茂みの奥で、しゃがみこんでいた。
「…………も、もしや」
ややあってから、ひとり、ふたりと、茂みからおずおず姿を現す。
彼らの顔にあるのは、恥じらいの表情と、どことなくすっきりしたような気配。
羞恥心と自我を持ち合わせた――そして、腹の中をすっきりさせてきた人特有の、晴れ晴れとした雰囲気が、そこにはあった。
……以前、アメリアブレンドを食したときの自分の姿、そして、「shit down」を食らったフェンリルの姿が重なる。
さっき俺、シットダウンってどこに向けて叫んだっけ。
……広場の魔獣たちに向けてだよな。
…………広場には、獣人の皆さまもいらっしゃったわけ、だよ、……な。
「……たぶんだけどさ、マリー」
俺は、ちょっと視線を逸らしながら、小さく挙手した。
「あそこの獣人の皆さんたち……ロクサネロ草を『排出』して、……戻ってるんじゃないかな、自我」
「――……は?」
マリーがぽかんと振り向く。
それから彼女は勢いよくバルコニーの手すりにかじりつき、その視力のいい目でくまなく広場を見回して、
「……あっ、姉さーん!?」
マリーより一つ二つ年下と見える少年が、無邪気に手と尻尾を振ってくるのを認めると、ぺたんと床に座り込んだ。
「――……なに、それ……」
呆然として、それだけを呟く。
「だからマリー。大丈夫なんじゃないかな、責任をしょい込まなくても」
「…………いえ」
ぼんやりとした動きで階下の弟に手を振り返してから、彼女は緩く首を振った。
「そんなわけには。だって、私は一国の王を弑した罪人なわけですから――」
「あ、それなんだけどさあ」
今度は彼女の主張を、のんびりとしたトビアスさんの声が遮った。
振り向けば彼は、誰もが存在を忘れていたドーレス王のそばに跪き、ちょんちょんとその胸のあたりを突っついている。
「君たちからせしめた薬草、効果はどんなもんなのかなって、ヘンドリック氏の口に今どばっと突っ込んでみたんだけど――なんか、ぴくぴく動きだしたよ?」
「はっ!?」
一同でぎょっと声を上げると、トビアスさんは「ほれ」と、横たわるドーレス王のご尊顔をくいっとこちらに向かせた。
「――……ぅ……うう……わ、わらひは……?」
閉じていたはずの目が、ぶるぶる震えながら開いていく。
文字通り口から草を生やした王様は、ちょっと喋りにくそうだった。
「いやー。さすがはエメラルド級。っていうかこれ、もうダイヤモンド級に差し掛かってない? うちのギルドで鑑定してもらったほうがいいかもよ」
あ、この薬草も魔獣の糞に放り込んでおいたら増えるかなー。
トビアスさんは目を輝かせ、いそいそと立ち上がる。
きっと、階下に下りて、「堆肥」に薬草を突っ込んでくる気なのだろう。
まったく、金のためなら日の中水の中クソの中な御仁だ。
「――……もう……」
トビアスさんが陽気な声を上げ、王様が目覚め、倒れていた兵たちも徐々に起き上がりと、にわかに活気を帯びてきた空間で、マリーの小さな声が漏れる。
彼女は、バルコニーの手すりの前で座り込んだまま、へにゃりと耳を下げ、俺のことを見上げた。
「……ターロさんたら、……めちゃくちゃですよ……」
なんだか、泣き笑いのような顔だった。