29.#お人よし(3)
宿へ戻ると、ちょうど受付のあたりにエルヴィーラが佇んでいた。
「あ、エルヴィー――」
マリーは一緒ではないかと尋ねようとして、思わず口をつぐむ。
それほどに、彼女が険しい顔をしていたからだった。
「エルヴィーラ……?」
再度名を呼ぶと、彼女ははっと視線を上げ、俺の顔を認めて目を瞬かせた。
「――……ああ、ターロ」
「どうしたんだ?」
「いや……」
エルヴィーラは一瞬説明するように口を開く素振りを見せたが、すぐに唇を引き結ぶ。
代わりに踵を返すと、「なんでもない」と小さく答えて、素早く部屋に向かって歩き出した。
なにやら俺と同じか、それ以上に慌てた様子である。
いつになく冷静さを欠いた態度に、不安が掻き立てられる。
横を早足で歩きながら「どうしたんだよ」と重ねて問うと、彼女は小走りくらいのスピードで歩きながら、言葉少なに答えた。
「……魔術師に呼び出された」
「魔術師に? ギルドの知り合いのってことか?」
「初対面だ。それで……昔話を聞かされた」
短く告げられたその内容では、彼女が言わんとしていることが理解できない。
昔話って、と尋ねたかったが、それよりも早く、三人が寝泊まりしている部屋の前にたどり着いてしまった。
「入るぞ」
エルヴィーラは、珍しくノックもなく部屋に踏み入る。
背後からそれに続こうとして、――しかし俺はエルヴィーラの細い背中にぶつかってしまった。
彼女が扉の付近でいきなり足を止めてしまったからだ。
「おい――」
いったいどうした、と聞こうとして、声を失う。
代わりに、ぎょっと目を見開いた。
エルヴィーラの視線の先、部屋の中央には、見知らぬ男が立っていたからだった。
「お? お仲間がやってきたか」
屈強な体つきに、凶悪そうな顔、剣を帯びた装い。
一目でわかる、彼は強盗と同じ――こちらに敵意を持った人間だ。なぜか細長い葉のようなものを噛み締めていて、それをくちゃくちゃ言わせながら、にやりと笑っている。
とっさに両手を突き出し、魔術の詠唱を始めたエルヴィーラを、男は「おっと」と呟き、素早く張り飛ばした。
頬を打たれたエルヴィーラは、まるで吹き飛ぶようにして床を転がる。
その、あまりにためらいなく暴力が振るわれる様子に、俺はさっと血の気を引かせた。
「エルヴィーラ!」
慌てて駆け寄りかけ、しかし情けないことに、俺はそこで全身を強張らせてしまう。
男に恐怖したからではなく――彼の体に隠れていた奥の空間に、信じられないものを見たからだった。
仲良く三つ並んだ寝台。
その、先ほどまで腰かけていたのだろう真ん中の布団の上に、アメリアがぐったりと横たわっている。
そのすぐ傍らには、マリーが腰を下ろし、覆いかぶさるようにしてアメリアの頬に触れていた。
一見すると、まるで倒れたアメリアを介抱しようとしているかにも思われる図。
しかし。
「マリー……?」
彼女は、これまでに見たことがないような、ひどく冷え冷えとした視線をアメリアに投げかけていた。
その、いつも愛らしい笑みを浮かべていた口元には――男と同じ、細長い葉が咥えられている。
「いったい、なに、を……」
おかしい。変だ。
部屋に見知らぬ男がいて、そいつはエルヴィーラにためらいなく暴力を振るうような、つまり間違いなく悪漢で、アメリアもまた意識を失っているようなのに。
なぜ、マリーは、平然と、男を恐れるでもなくアメリアを見下ろしている。
脳が理解を拒む。
なにを言いたいのかわからぬままに口を開いたが、言葉が喉から這い出るよりも先に、マリーがさっと俺たちに向かって手を伸ばした。
まるで、助けを求めるかのような細い手。
けれど、実際にはそこから、くすんだ色の粉末が放たれた。
「――……っ!?」
とっさに顔をかばうが、息を呑んだ結果、かえって粉を吸い込んでしまう。
鼻の裏や喉に奇妙な甘みを感じた次の瞬間には、ふっと意識が遠のくのを感じた。
横で体制を立て直そうとしていたエルヴィーラが、同じく粉を吸い込んだらしく、小さく呻いて再び床に蹲るのが見える。
どさ、というのが、自分の体が倒れた音だと理解するのに、数秒かかった。
「おーお、容赦なく撒くなあ。毒消しを噛んでてもくらっと来たぜ。死んだか?」
「……いいえ。アウラレネの毒は、根の汁に最も強く籠るもの。葉の粉末は携帯には便利ですが、これでは体の自由を数刻奪うのがせいぜいでしょう」
「気鋭の鑑定士殿の言うことだ、信じるぜ。……だが、お優しいことだよなあ?」
「…………」
ふたりの会話が、どこか遠く聞こえる。
筋肉の緩んだ首を巡らせ、鉛のように重い瞼をむりやりこじ開けると、男に顎を取られたマリーの姿が見えた。
「まさか、こいつらに情が移ったなんてことはないよなあ?」
「……まさか」
「本当か? 闘技場で見かけたときは、ずいぶん楽しそうにやってたじゃないか。城で見かける、人形みたいなおまえとは大違いだ」
男はその凶悪な顔を近づけ、凄みのある顔で笑った。
「我らがドーレス王は疑り深いお方。急に大量の源晶石を稼いできたおまえが、さらに石を隠し持っているのではないか、裏切りを企んでいるのではないかと、俺たち傭兵に尾行を命じるほどだ。おまえが『友人』を作ったとでも聞いたら、さぞ気を揉まれることだろうよ」
「……手を下せとおっしゃるのですね?」
「べつに、俺は命じなんかしないさ。王直属の奴隷に命令できるのは王だけ」
ただし、と言いながら、彼はマリーの髪を掴み、ぐいと引っ張る。
「ただし、下さなかったら、俺は王に進言するかもしれない。そうしたら、あの王はおまえのことを殺すか、さもなくば中断していた『狩り』を再開するかもしれないな」
「…………」
「獣人の奴隷が嬲り殺されるのを見るのはいいものだ。最近おまえが出しゃばって、ショーを減らしたりするものだから、俺たちは娯楽が減って寂しい思いをしている。だから……俺としては、どちらでもいいぞ?」
男がぱっと手を離すと、マリーは無言で自身の髪と身体を引き寄せた。
ふさふさとした尻尾が、一度だけ揺れ、ぴんと宙を叩くように伸びるが、それがどんな感情を表すものだかはわからない。
ただ彼女は、静かに溜息をついたようだった。
「……ならば、彼女を」
ぐったりとしたアメリアの前髪を掴んで顔を持ち上げ、「う……」と弱々しく呻いた彼女になにかを飲み込ませる。とたんにアメリアはびくりと身を震わせ――やがて、再び動かなくなった。
マリーはその体をぽいと手放し、寝台に戻した。
それから、再びアメリアの腕を取って、静かに手をかざす。
アメリア 戦闘能力 0 白 魔 力 0 ……
途端に、光を帯びた文字が、ふわりとほどけながら空中に漂いはじめる。
最後に立ち上った字を見て、俺は心臓を冷たい手でつかまれたような感触を覚えた。
生体反応 な し
「ふん。これが噂の鑑定証明か。便利なもんだな」
「……あとのふたりも殺しましょうか」
マリーの言葉が耳を滑る。
殺す。
殺したのか、アメリアを……?
目の前のすべてが、信じられなかった。
「あァ? いいよんなもん。好きにすれば? ちっ、かけらも動揺しねえ人形相手じゃ、つまんねえ」
どうやらマリーを追い詰めることだけが目的だったようで、男は鼻白んだように息を吐く。
マリーは静かに笑むと、「では、お言葉の通りに」と呟いた。
そうして、おもむろに俺たちのもとに歩み寄ってくる。
蹲る俺やエルヴィーラの傍にそっと膝を突くと、優しい手つきで俺の前髪を払った。
「ためらいなく人を殺せるのは、この中ではアメリアさんだけ。このふたり――いえ、特にターロさんのほうは、呆れるくらいのお人よしでしたから。……それに見合った対応ということで」
お人よし、とか、優しい、といった言葉は、何度かマリーから言われたことがあった気がする。
そういえば、先ほどトビアスさんにも、主張が少ないみたいなことを言われたばかりだった。
だが、今この場でマリーの言うその意味は、けっしてポジティブなものではない。
単に、――「脅威ではない」、ということだ。
マリーは、エルヴィーラのことも同様にひと撫でしてから、さっと膝を払い、立ち上がった。
「――楽しかったです。……さようなら」
彼女の顔が遠ざかっていく。
愛らしい笑みや、あどけない大きな瞳が印象的だったはずのその顔は、俺の目が霞んでいるせいなのか、ひどく大人びて――そして、冷たく見えた。
そうだ、いつもふんわり下ろしていた髪を、先ほど男に引っ張られて片側にまとめているから、だから、雰囲気が違うんだ。
剥き出しになった白いうなじが、ぼんやりとした視界に飛び込んでくる。
ほとんど焦点が合わなくなっている俺の目にも、そこに施された紋様のような刺青が、やけにくっきりと映った。
あの紋様はどこかで見たことがある。
そうだ。
一度、どこでだったか、浴場に向かおうとしたとき、首輪を嵌められていた獣人に刻まれていた――
奴隷の、紋だ。
「……――」
マリー、と呼び止めようとして。
一音も発することなく、意識は闇に沈んだ。
2月から、ちょっとずつ投稿ペースを戻していけそうです!
ひとまず次話は、2月5日(月)の投稿を予定しております。よろしくお願いいたします!