25.#肥沃なる精神的土壌(4)
慌てて紙を引っ張り出す。
複雑な線で描かれた幾何学模様の内側に、美しい図形のような文字が整列した、それ。
俺への見本としてエルヴィーラが書いてくれた、魔術の書き取り用紙だった。
そう、先ほど、讃頌と補助聖句だけを書きつけたそれが、意味のわからない俺にもあまりに芸術的に見えたがために、折りたたんで懐に入れていたのだった。
――三つを組み合わせて書いた途端、魔術は発動してしまうからな。
エルヴィーラの説明が蘇る。
讃頌と請願と補助。または、讃頌と定義と補助。
三つを揃えた瞬間から、魔術は発動する。
真ん中だけをブランクにした魔術紙。
定義とはすなわち、求める力がすでに実現されていると、世界に「思い込ませる」こと。
ぐるぐると、エルヴィーラから聞いた魔術学の知識が脳裏を渦巻き出す。
それは俺の中のなにかとカチリと噛み合って、とある仮説を生み出した。
請願を「書き加える」ことは、文字を知らない俺にはできない。
かといってスペルを使っては、エルヴィーラではなく俺の魔力が使われてることになってしまう。
でも――定義なら。
この魔術紙に、こうあってほしい姿を「思い込ませる」ことなら、もしかしたら、魔力を使わずにできるかもしれない。
我ながら、自説の根拠のなさ具合に戸惑う。
だが、その戸惑う時間すらないことを思い、俺はぐっと口を引き結び、素早く手を動かしはじめた。
長方形の魔術紙を、まずは正方形に。
三角に折って、もう一度三角に折って、開いて――。
「ターロさん、なにを……?」
すぐ隣で、マリーが戸惑いの声を上げる。
だが俺はそれには答えず、ただ自分にできる最大限の速さで手指を動かしつづけた。
そうして、
「マリー! これ、なんに見える!?」
数十秒後、鬼気迫った声でマリーに右手を突き出した。
いや、厳密には、右の掌に乗った、「折り鶴」を。
「な、なにって……す、すごい器用ですね、どう見ても鳥ですけど、なんで今――」
「どう見ても! 鳥!! そうだよな!?」
「えっ、あ、は――」
完全に呑まれているマリーに、勢いよく捲し立てる。
誰がどう見ても鳥、というお墨付きをもらった俺は、両掌の上に折り鶴を乗せ、ぐうっとそれを睨みつけた。
――……おまえは、鳥だ。
万が一にも俺の声が魔力を帯びないよう、心の中で念じる。
エルヴィーラがすでに書き込んでいる請願と補助、その間を埋めるかのように、ただひたすら、目の前の魔術紙を「定義」した。
おまえは鳥だ。おまえは鳥だ。
エルヴィーラが呼び起こし、彼女のために象られた、鳥だ。
空高くまで舞い上がり、悪趣味な蔓を引きちぎって、彼女に解放と自由をもたらす鳥だ。
「できるだろ……!?」
うまくいくわけがないのかもしれない。
それでも、これが、今の俺に思い付く最善だった。
「だっておまえは、『誰がどう見ても』『鳥』なんだから……!」
半ば逆ギレ状態になりながら、闘技場のエルヴィーラに向かって、紙飛行機よろしく折り鶴を投げつけた、次の瞬間。
――ぱぁぁぁぁぁっ!
宙に放たれたそれは、強烈な光を放ったかと思うと、ぐんと輪郭を膨らませながらまっすぐに闘技場の空を翔けていった。
力強く羽ばたく純白の翼、尾のように流れるしなやかな脚。
鋭く、そして優美な弧を描く嘴。
あれはまさしく――
「鶴――」
「カラドリオス……!?」
鶴さ、と俺が自信たっぷりに宣言しようとした矢先、周囲が鳥を指さしながら「カラドリオスじゃないか!」と叫び出した。
どうやらこの世界では、あの鳥は鶴じゃなくてカラドリオスって言うんだって! ファンタジー!!
「カラドリオス……予知と癒しを司る純白の鳥が――いったいどこから!?」
「まさかあのハーフエルフの娘……真珠級の魔術師が、カラドリオスを召喚したというのか!?」
「いや、召喚どころか、あれは魔術で『創造』したんじゃないか!?」
突如として現れた鶴――でなくてカラドリオスに、観客がざわめく。
そ、そんなレアな鳥になってくれなくてもよかったんだが。
予知とか癒しとかいらないから、あの蔓をどうにかしてくれればそれでいいんだが。
っていうか、あれ純白じゃないよね!?
首とか尾とかの羽は黒くて、頭頂部だけほんのり赤い、あれ、どこからどう見ても普通にタンチョウヅルだよね!?
人が乗れそうなサイズだからちょっと大きめだけど……でもあれ、タンチョウヅルだよね!?
だが、ファンタジー世界の住民たちは、ファンタジーな聖獣の登場にどよめき続けている。
ギードまでも、驚きに目を見開き、蔓を操る手を休めて上空を凝視している。
興奮と驚愕の渦巻く中、ツルモドキはファンタジー的期待に恥じない動きを見せた。
すなわち、勢いよく宙を旋回し、鋭い威嚇音を発するや、目にも留まらぬ速さで蔓の塊の中に突っ込んでいったのだ。
――ボギッ……! ボギボギボギッ…!!
一瞬遅れて、そんな、スプラッタ映画で人体が引きちぎられた系のサウンドが響く。
シャァァァァッ! と蔓から悲鳴のような摩擦音が放たれた。
ツルモドキが、その鋭い嘴で蔓を抉り、捩じ切ったのだ。
――ケーン……!
勝利の雄叫びにも聞こえるその鳴き声は、実に鶴らしいのだが、嘴の端から引きちぎった蔓が内臓よろしく垂れているあたり、なんかもう肉食獣による惨殺の現場っぽい。
ワイルドすぎるだろ、異世界の鶴……!
それで癒しを司ってるってマジかよ……!
が、兎にも角にも、ツルモドキが蔓を襲撃してくれたおかげで、エルヴィーラの手と口の拘束が緩む。
するっと手首が抜け、そのまま地上に叩きつけられそうになったところに、ツルモドキが如才なく滑り込み、広げた翼で彼女を受け止めた。
エルヴィーラは驚いたように目を見開いたものの、さっと体勢を立て直し、ツルモドキが着陸するのと同時に、ひらりと地上に舞い降りる。
すると、鳥は淡い光を発し、役目を終えたとばかりに溶け消えた。
「これは……」
「な、……なんだおまえ! 他人の魔力を使うのはルール違反だろうが!」
ツルモドキが溶け消えた後、代わりというようにひらりと地に落ちた紙を、エルヴィーラがまじまじと見つめていたら、そこにギードが怒鳴り散らす。
どうやら彼は、動揺を怒声に置き換えるタイプの人間のようだった。
が、エルヴィーラは動じない。
小さな苦笑すら浮かべて、傷ついた己の手首に指を滑らせると、ついとそこに付いた血を掬い取った。
「他人の魔力? ……いいや、あれはまぎれもなく、私の魔力だ」
「なんだと?」
「私が讃頌し、補助まで書き加えた。あの魔術紙には、私以外の魔力は使われていない。使い魔を召喚したようなものだ。ルール違反ではないだろう?」
エルヴィーラの中では、そういう受け止めをしてもらえたらしい。
余計な手出しと思われなかったことにほっとしていると、ギードが「なっ……」と顔を真っ赤にして牙を剥いた。
「ぬけぬけと痴れ事言ってんじゃねえよ! 詠唱ならともかく、記述の魔術で、カラドリオス召喚なんていう強大な魔力の展開ができるわけねえだろ! 誰か仲間の魔術師に、外から助けてもらったんだろうが! ズルしやがって……これだからハーフエルフは――」
「記述は詠唱より劣る?」
口汚く罵るギードを、エルヴィーラの凛とした声が遮った。
「ズルという点では、反論も若干苦しいところがあるが、記述云々という点では、貴殿の認識の方を改めてもらわねばな」
「……なんだと?」
美貌のハーフエルフは、静かに唇の端を引き上げ、その笑みには凄みが漂い出す。
それに呑まれたらしいギードが、無意識にだろう、ごくりと喉を鳴らすのが見えた。
「おまえいったい、なにを――」
「たしかに記述は、詠唱に比べて随分と時間がかかる。だがな」
エルヴィーラはなぜか、血に染まった指をもう片方の掌に押し付けると、さっとそれを右に引き抜く。
そうして、
「一度書ききってしまえば、あとは口を動かさずとも自動的に魔術を展開してくれる優れものだ」
ギードに向かって、左手をぱっと開いてみせた。
血文字でなにかを書きつけた紙片を収めた、その掌を。
「なっ……!?」
ギードが驚愕の声を漏らしたその瞬間、ざぁっと空気がうねる。
それはかまいたちの形を成し、咄嗟に顔を庇ったギードのローブを断ち切っていった。
「――まずは、疾風の魔術。次は」
それから、優雅に佇むエルヴィーラの背後から大量の水が現れ、音を立ててギードに襲い掛かる。
防御の詠唱を紡ぎ、それでもなお防ぎきれず、全身を水に強打された彼を、エルヴィーラは冷ややかに見つめた。
「奔流の魔術。それと」
火焔、雷、再び疾風。
次々に展開されていく派手な魔術を、ひたすら淡々と解説していく。
ただ、どうしてその魔術、その順番なのかは、説明されずともわかった。
エルヴィーラは、自身が受けた攻撃を、そっくりそのままやり返しているのだ。
それも――倍ほどの威力で。
「な……っ、記述で、これほどの、……威力――わあっ!」
ギードは、術の威力に驚きつつも、それらの攻撃を凌ぐのにいっぱいいっぱいのようだ。
先ほどまでの余裕ぶった笑みが嘘かのように、目を見開き、情けなく悲鳴を漏らしながら、闘技場を右往左往し、時折無様に膝を突いていた。
対するエルヴィーラは、暇を持て余すかのように、悠然と小首を傾げて立っている。
ちょうどギードが、かまいたちを避けようとしてすっ転んだとき、彼女は真顔で彼に問うた。
「ところで貴殿は、下着の類は付けておいでで?」
「は……っ?」
ギードはもちろん胡乱げだ。
いや、そんな悠長な視線を寄越している場合でもない。
カラドリオスに引きちぎられ、地面に力なく広がっていた蔓が、突如むくりと力を取り戻し、彼のほうへと伸び上がっていくのを見て、ギードは口の端を引き攣らせた。
「ま……――っ」
待て、なのか、まさか、なのか。
言い切るよりも早く、ギードは先ほどのエルヴィーラと同じように蔓に拘束され、宙に吊り下げられていた。
「お、おまえ、こ、こんなことが許されるとで――もがっ!」
まさしく再現のように、口まで塞がれる。
じたばたともがくギードを見上げながら、エルヴィーラはただ静かにこう述べた。
「許すもなにも、私はただ、『我が身に加えられた魔術を、すべて倍にして展開せよ』と記述したまで。こんなやり口、もちろん私の趣味ではないとも」
それから彼女は両手を広げ、困ったように肩をすくめてみせた。
「だから頼むから、私に男を裸に剥く下卑た趣味があるだなんて、思わないでくれ」
「――……っ!」
これから待ち受ける展開に、ギードがさあっと血の気を引かせる。
自身はさんざん女性たちを嬲ってきたというのに、いざ逆の立場になると、その恥辱が受け入れられないようだった。
「――……ま……、…………っ! …………っ!」
ギードのローブの裾に向かって、蔓がゆっくりと伸びていく。
意外にしっかりすね毛の生えた、美しさの欠片もない足が見えてきたあたりで、観客たちから、動揺と拒否によるどよめきが起こった。
「やめろおおおお!」
「やめてくれええ、その汚えもんを引っ込めてくれえええ!」
誰かの叫びを皮切りに、闘技場内に悲鳴が満ち溢れる。
場内騒然、あと一歩で暴動すら起こるかもしれない、といったそのとき、
「――そこまで!」
それまで舞台の端で沈黙を守っていたトビアスが片手を挙げ、試合を強制終了させた。
エルヴィーラに術の行使を終えるよう指示し、彼女が魔術紙を引きちぎった瞬間、蔓の姿が掻き消える。
ギードはすんでのところで詠唱によって衝撃を緩和したものの、強かに顔面を床に打ち付け、鼻血を出しながら袖に引っ込んでいった。
一連のあっけない幕切れに、観客は残念がるやらほっとするやらだ。
観客席を乗り越え、ほとんどトビアスの胸倉を掴みかけていたアメリアは、当のエルヴィーラに宥められ、むっと口を引き結んだまま、彼女と連れ立って俺たちのもとへと戻ってきた。
「――納得できないわ」
アメリアは、席に戻ってもまだ腹を立てている。
「エルが蔓に口を封じられたときはなんの手出しもしなかったくせに、なんでギードが同じ目に遭ったら、すぐ試合を強制終了させるわけ? 客のブーイングがなによ。どこまでも儲けしか興味のないやつ!」
「まあ。だが、金にしか興味がないあまり、差別意識も少ないというのは救いではあるな。おかげで試験に臨めたし、どうやら昇級もできそうだ。それに私としては、あの時点で終了されてしまったら困るところだった」
対するエルヴィーラはどこまでも冷静だ。
その主張を聞き取ったマリーが、ちょっと眉を寄せて問うた。
「じゃあエルヴィーラさん、やっぱり最初から、まとめて反撃するつもりだったんですか? 攻撃を反転させる魔術だから、あえてあの状況を許していたと?」
その声には、心配の裏返しであろう非難が籠っている。
マリーにしては珍しい剣呑な声を聞いても、エルヴィーラは静かに肩を竦めるだけだった。
「まあ、少なくとも三つくらい攻撃が溜まってから『反転』させないと、効果的でないしな。……そうだターロ、あのときカラドリオスを仕掛けてくれて助かった。ありがとう。『自分の魔力を使って』助かる方法があるとは、驚いた」
「……力になれたんなら、よかったけど」
急にこちらに水を向けられて、俺はもごもごと呟く。
感謝もされたが、しかし俺には、そんな彼女の言動が、話を逸らすためのものにしか思えなかった。
「でもエルヴィーラ。俺たち、すごく心配したんだぞ。もし反撃の手段を持ってたんだったら、もっと早く仕掛けてほしかった」
「……あのカラドリオス、よく発現させたな。詠唱でも記述でもなく、魔術紙の形を整えることで『定義』するというのは、実に斬新な発想だ。ターロは、頭が柔らかいのだな」
「エルヴィーラ。褒めてくれるのは嬉しいけど、今はその話じゃなくて――」
「実は、請願の部分を空白にしておいて、後から書き加える戦法というのも、ターロからヒントを得たものだ。あのときは時間が掛かると思ったが、やってみるとなかなかいいな」
「エルヴィーラ」
「威力がネックと思っていたが、オンセンで魔力そのものが底上げされた今や――」
「エルヴィーラ!」
滔々と語られ、ついに俺は業を煮やした。
断ち切られたり、水に濡れたりしてぼろぼろになったローブごと、細い腕を掴む。
「だから、今はその話じゃねえって言ってんだろ!?」
声を荒げると、彼女は蒼い瞳を大きく見開いた。
「心配した。ものすごく心配したんだよ、俺たちは! そんな、淡々と余裕をかませるくらいなんだったら、もっと早く反撃してほしかった! エルヴィーラにとっては計画通りなのかもしれないけど、俺たちがあの姿を見て、どれだけやきもきしたと思う!? あんな捨て身の戦い方、してんじゃねえよ!」
蔓に拘束され、嫌らしい視線を浴びながら肌を露わにしていったエルヴィーラを目にしたあのとき。
俺たちはひどく焦った。
ギードや観客たちに心底腹が立ったし、嫌悪したし、なにもできない自分たちが歯がゆくて仕方なかった。
なのに、それを本人が怒るでも反発するでもなく、あっさりと計画として織り込んでいたことが、苛立たしく思えたのだ。
だが――
「――……離してくれ!」
そんな激した声とともに、勢いよく腕を振り払われ、俺は続く言葉を飲み込んだ。
エルヴィーラは、自身を両腕で抱きかかえながら、顔を怒りの色に染めていた。
「淡々と? 余裕をかます? ……そんなわけがないだろうが」
「エルヴィ――」
「剥き出しの敵意を向けられ、手や口を拘束され、吊るされ、男どもの前で足を割り開かれ……平然としていられるわけが、ないだろうが!」
怒声というには悲痛な叫びに、思わず息が詰まる。
自身の二の腕を掴んだ彼女の手の甲は、関節が白く浮き出るほどに力がこもり、震えていた。
「ああ、怖かったさ。嫌だったとも。だが、それを表してなんになる? そんなことをしては、相手は喜ぶだけだ。ハーフエルフは性の対象にされるのが嫌なようだと、一層その手の攻撃を強めるだけだ。……平気なふりをするしかないんだ。動じずに、顔を上げて、粛々と……捨て身だろうがなんだろうが、できる反撃をするしかないんだ!」
エルヴィーラが吠える。
戦闘時を除いて、彼女が感情のままに声を荒げる姿を見たのは、これが初めてだった。
「私だってあんな状況、ごめんだったさ。だが、腕を拘束されながら血文字を書き付けるのでは、あれが精いっぱいだった。ああそうとも、しょせん私は、詠唱が苦手で、記述しか能のないハーフエルフだ。時間ばかりかかって悪かったな。わかっているから……それ以上現実を突きつけないでくれ!」
言い切ると、エルヴィーラは情けなさそうにぐっと口を引き結ぶ。
切れ長の瞳が、うっすらと潤んでいることに気付いて、とうとう俺は真っ青になった。
「た……――っ」
過去最速の動きで、ざっと地面に膝を突く。
それから俺は、石造りの床に、額と両掌をごりごりと音がせんばかりに押し付けた。
「大変申し訳ございませんでした――!」
「……お、おい……?」
「俺が悪かった! 全面的に悪かったです! さっきの言葉は全部撤回するんで、――その涙は引っ込めてください……!」
「ちょっと待て、なんだその奇怪なポーズは?」
エルヴィーラは怒りから一転、戸惑いの声を上げている。
が、それもろくに耳に入らないほど、俺は必死だった。
だって考えてみてほしい。
自分の不用意な発言で、女の子が泣き出しそうになってるんだ。
それも、普段滅多に感情を露わにしない子がだぞ?
宝石みたいな蒼い瞳を、傷ついたように潤ませてるんだぞ?
――死にたい。
俺には四つ上の姉がいて、彼女からは女子へのときめきを奪い去られ、代わりに女性への絶対服従の精神を植え付けられているのだが、それだけに、女の子を泣かせてしまったという状況が俺にもたらす精神負荷は半端なかった。
そうとも、俺が馬鹿だった。悪かった。
あんな状況に晒されて、女の子が傷つかないはずがなかった。
エルヴィーラが、この手の場面で強がったり、あえて感情を押し殺すような性質の持ち主だということを、これまでの付き合いで理解していたはずなのに。
「お、おい……よくわからんが、よくわかった。顔を上げてくれ。その全身運動をやめろ」
「本当に! 本当にすみませんでした! 泣かない? もう泣いてない!?」
「最初から泣いてなどおらぬわ!」
エルヴィーラとしても、自らの泣き顔を認めたくはないようだった。
泣いていない、という言葉を信じ、おずおずと顔を上げる。
彼女は毒気を抜かれたような……というか、大いに呆れたような表情でこちらを見下ろしていた。
「なんなんだ、いったい……」
「日本の伝統的な謝罪のポーズなんだけど……」
ぼそぼそと説明すると、彼女は「なんと奇妙な」と半眼になる。
その目にはもう涙は残っておらず、抑揚の少ない声で話す姿は、いかにもいつものエルヴィーラではあったが――。
「……あのさ」
たぶん、この問題は、俺が思っていたよりもずっと根が深いんだ。
卑劣な術を仕掛けた相手に、同じ目に遭わせてざまあ、って、そんな簡単にすっきりできるものではないんだ。
だってギードのやつは、退場するときに、憎々しげにエルヴィーラのことを睨んでいた。
きっと今回のことで恨みを募らせて、より陰湿で、より甚大な嫌がらせを仕掛けてくるに違いない。
そして嘆かわしいことに、それを面白がって便乗するような輩のほうが、今この場には多いのだろう。
そんな中で、エルヴィーラは、感情を削いだ顔で、それを粛々と受け止めようとするのだろう。
こんなのなんでもない、と、自分に言い聞かせながら。
怒らなきゃいけない。
やり返してやらなきゃいけない。
固く身を強張らせて、ようやく心を守っているエルヴィーラの代わりに、誰かが。
「……この手段を選ぶのは、俺としても精神的にダメージが大きいから、避けたかったんだけど」
たぶん、ギードのような輩を見つけ出して、ひとりずつ殴っていくような方法は、得策ではない。
あまりに数が多くてこちらが疲弊するし、相手と同じ土俵に立ってしまうのは、エルヴィーラとしても面白くないだろうから。
するとしたら、――意趣返し。
アメリアほどの武力も持ち合わせないし、マリーほどの交渉力もない俺だが、例の姉のおかげで、たったひとつだけ、ギードのような男を懲らしめる方法を、知っているのだ。
「エルヴィーラ。俺はやっぱり、受け流すだけじゃ我慢できないよ。このままじゃ、相手が逆恨みしてくる可能性だってある。本当は傷ついてたって言うなら……あいつを、懲らしめてやらないか?」
「たまには言うじゃないの、ターロ。あたしも協力するわよ。闇討ちでもする?」
「詐欺でも仕掛けて、全財産を巻き上げますか?」
俺が切り出すと、アメリアやマリーが目に好戦的な光を浮かべ、即座に頷く。
エルヴィーラは「み、みんな、落ち着け」と動揺する気配を見せた。
被害が自分だけとなると、とたんに反撃に消極的になる彼女は、仲間が過激な行動に出ないかと心配になったらしい。
俺は彼女の代わりにゆっくりと首を振って、ふたりを制した。
「いいや、そんなことはしない。エルヴィーラや俺たちが直接手を下すのでは、相手と同じ土俵に立つことになっちまうから」
それに、非戦闘民族な日本人としては、あくまで平和裏に解決を目指したいしね。
俺は、怪訝な顔をしているエルヴィーラに向き合い、その右手を取った。
「この手を、暴力にも犯罪にも染めることなく、相手をやり込める方法があるんだ」
「……なんだと?」
眉を寄せた彼女に、俺は静かに息を吐いて覚悟を決めた。
姉から仕込まれた禁断の術。
男としてこれを切り出すのには、どうしても躊躇いを禁じ得ないのだが――。
「……俺の国には、BLという、女の子に恐ろしい勢いで伝播し、男を震え上がらせるコンテンツがあってな――?」
ギードよ。
詠唱魔術よりも記述魔術が強いのだということを、証明してやる。