18.#アレを発明したやつ出てこい(1)
突然だが、みんなは今日一日で何回手を握りしめただろうか。
歯ブラシを握りしめて一回。箸を握って二回。
トイレででっかいほうをしたら、トイレットペーパーも握りしめるかな?
あとは電車のつり革を握りしめて三回とか――まあ俺はケッペキ気味だから、あんまりつり革って握らないけど。
そうしたら後は、小説を読むのも人差し指一本を滑らせるだけでいけるし、ノートを取るのだってキーボードで事足りるし、まあとにかく、なにかをぎゅっと握りしめるなんてこと、現代日本じゃそうそうないと思うんだ。
――なにが言いたいかというと。
「――……手が……っ、でが……っ、ぢぎれる……っ」
俺は今、ボートのオールを握りしめながら、地獄の苦しみを味わっていた。
オールと言っても、棒と板切れをくっつけ、持ち手に革を巻いただけの原始的なものだ。
でもって、この革というのが、手にソフトなようで全然固い。
こいつが先ほどから、繊細な俺の掌の皮膚をマメだらけにし、あげく、べろんとめくってくるのである。
誰か……誰か、シリコンカバーと絆創膏を……いや、いっそモーターをください!
「一時間船を漕いだくらいで音を上げないでよね、軟弱者」
ひいひい言っていると、向かいでおなじくオールを手にしたアメリアが呆れ声を上げる。
彼女もまた、先ほどからずっと船を漕いでいるのである。
そして今回、この場には俺と彼女しかいなかった。
「うぅ……マリーがいてくれたら、こんなクエスト絶対止めてくれたのに……。エルヴィーラがいてくれたら、魔術で船を進めてくれたのに……」
「ふん、言っとくけどこれは、マリーが『地味だけど儲けが大きくてオススメです!』って言い残してったクエストよ。剣しかできないあたしが一緒でおあいにく様だけど、そんなに言うなら、あんたもスペルを唱えればいいでしょ」
「ぐう」
ぶちぶちと泣き言を漏らしていると、すかさず一刀両断され、ぐうの音も出なくなる。
すでに俺は「Go」と唱えてボートを滝にダイブさせかけ、慌てて「Stop」で制止したあとだった。
俺のワンフレーズ魔術では、繊細な方向転換ができなかったのである。
残念ながら手持ちのスペルでは事態を打破できない、かといって、これ以上アメリアの前で不平を漏らせないと思った俺は、粛々とボートを漕ぎつづける。
ちらりと視線を向けた彼女は、淡々とした表情でオールを操っていた。
アメリアと二人きりのクエスト。
こんな事態に陥ったのは、ちょっとしたわけがある。
マンティコアを倒し、近くの町に再び落ち着いたときに、彼女がパーティーの「一時解散」を告げたのだ。
「か、解散!? え、パーティー、解散しちゃうの!?」
温泉にもつかり、まるで旅行帰りのように、道中きゃっきゃうふふと仲よく帰ってきた俺たちだったので、宿に着くなり放たれた宣言に、当然ぎょっとした。
が、マリーやエルヴィーラはさして驚く素振りも見せず、
「あ、そっか、もう一か月経ってましたね」
「そうだな。では、待ち合わせはこの宿ということでいいか?」
などと頷くのである。
なんでも、彼女たちがパーティーを組んだ時の取り決めで、月に一度、三日ほどの「自由時間」を設けることにしているのらしい。
どれだけ息の合う仲間でも、やはり一人だけの時間は持ちたいから、とのことだった。
女の子同士というのは、トイレに行くのもずっと一緒というイメージがあったのだが、この三人についてはそういうわけでもないらしい。
マリーは近隣の国まで一泊の観光に行き、エルヴィーラは少し離れた町の書店巡りをするということで落ち着き、
「それじゃあ、三日後に」
ふたりは大きな荷物だけを残して旅立ってしまう。
後には、アメリアと俺だけが残された。
「――で」
やがてアメリアが、豊かな赤銅色の髪をくるくるといじりながら肩をすくめる。
「あんたはどうするの? 自由に行動していいし――なんなら、別に今日ここで、パーティーを抜けてもいいわよ」
「へっ?」
突然の暴投に、間抜けな声が漏れた。
ぽかんとする俺の脇を通り抜け、アメリアはどさりと宿の寝台に腰かけた。
両手を尻の横に突き、長く細い足を組む。
手持ち無沙汰な子どもがするような仕草で、彼女はこちらを見上げた。
「あんたのスペルは、あんたが思ってる以上に有用よ。薬草にポンシュにオンセン……これまでの功績をちらつかせれば、一気にサファイア級にだってなれるわ。そうすれば、ギルドの上役にだって会えるし、召喚主の手掛かりだってすぐに掴める。もう、このパーティーにいなくても大丈夫でしょ、ってこと」
「いや、でも、そんな……」
彼女は俺を追い出したいのだろうか。
戸惑って見返していると、アメリアはふいと顔を逸らし、視線を落とした。
「べつに、あんたを追い出したいわけじゃない。あたしはね、エルやマリーにも等しく、機会を与えてるだけよ」
「機会……?」
「そう、機会。自分で自分のことを決める」
どう捉えてよいのかがわからない。
俺がなにかを言い返す前に、アメリアは組んでいた足を解き、ぶらぶらと揺らした。
「自分の人生を自分で決める。それは、人間にとって一番大切なことだわ。だからあたしは、誰かに寄り掛かるのも、しがらみを作るのもまっぴら。いつだって他人との間に貸し借りはなく、身ぎれいでいたい。エルやマリー、……それからあんたのいるこのパーティーは嫌いじゃないけど、でも、それを枷にはしたくないの」
だから、と呟き、足を止める。
「だから、月に一度リセットする。べつにこの機会に、パーティーを抜けてもいい。エルも、マリーも、あんたも。それが、あたしの思う自由よ」
「それは……」
おそらく、彼女が時間を掛けて磨き上げてきた、とても重大な指針なのだろう。
とはいえ、だからといって俺はこのパーティーを抜けたいわけではない。
口ごもっていると、アメリアは口の端を引き上げた。
「エルはあの容姿だし、マリーだってあの気立てのよさ。しかも、ふたりともオンセン効果で能力も随分上がってる。本当は、ほかのパーティーからだって引く手あまたなのよ。ギルドでも、何人かに話しかけられてたでしょ? これを機会に、そいつらとまとまったっていいの」
この宿に来る前に寄ったギルドを思い出す。
たしかに、ギルドでおおよそのランクを測定してもらって、その値が明らかになるや、周囲がざわめていたようだった。
てっきりそれは、美少女である三人に色目を使っているのかと思っていたが……でも、そうか、がたいのいい男たちだけじゃなくて、ローブ姿の魔術師っぽい人とかも、熱視線を送ってたもんな。
あれは、勧誘の視線だったのか。
納得して頷いている俺に、アメリアはふんと鼻を鳴らした。
「……あんたもね。たぶん、勘のいいパーティーには目を付けられてる」
「えっ」
「だから、抜けたいと思ったら抜けていいし、待遇のいいパーティーに加わっていい。……それは、あんたの自由よ」
しょぼいスペルしか使えない俺でも、誰かに目を付けてもらえるという情報にも驚いたが――地味に嬉しい――、それよりアメリアの「抜けてもいい」という発言が気になった俺は、「あの」と切り出した。
「あの……さ」
「なによ」
「抜け出してもいいってことは、……抜けなくてもいい、ってことだよな?」
つり気味な緑の猫目が、ちょっとだけ見開かれる。
アメリアは、赤銅色の髪にくる、と指を絡ませてから、ちょっと唇を尖らせた。
「……まあ」
それから、もう一回足を組み、顔を逸らした。
「……べつに、あんたがそうしたいっていうなら、もちろん止めないけど」
「よかった」
だいぶこちらの世界に慣れてきたとはいえ、やはり見ず知らずのレーヴライン人と一から人間関係を構築するのは、難しく思えた。
このまま彼女たちと一緒にいたほうが安心だったし――それに、俺は、この三人が好きなんだ。
……残念ながら、男女の「好き」にまでは発展させてくれない感じだけどね! 相手が!
さて、パーティー残留を宣言してはみたものの、そうするとこれから三日ほどは、アメリアとふたりきりで過ごすことになる。
そういえば普段は自分だけ別室なのに、今はベッドのある部屋に、女の子とふたりでいるんだと思うと、急に顔が赤くなるのを感じた。
以前にガツンと牽制されてから、なるべく彼女たちのことを「そういう風に」見ないようにはしているけど――そしてやっぱ、仲間にそういう視線を向けたくはないとブレーキをかけてもいるわけだけど――、密室にふたりきりとなると、どうしても、目が彼女にくぎ付けになってしまう。
……だってほら、ほかに視線を向ける対象がないからね?
仕方なく、ね?
アメリアはいつも赤い癖っ毛を高い位置でポニーテールにしていて、服装もパンツ姿に鉄の胸当てにと、隙のない恰好をしている。
もれなく長剣付きだしね。
でも、艶やかな髪は、実は近くで見るとふわっとしていて、胸当ての下には、柔らかな小麦色の肌が隠れている。
それを、俺はこの一か月近くで、ふとした拍子に発見しては目をそらしてきた。
ただ、今はほかに目を逸らす対象もない。
普段はぴんと背筋を伸ばして、威圧感をにじませている彼女も、今この時ばかりは、ベッドに腰かけて俺の目線より下の位置。
つむじはポニーテールに隠れて見えないけど、意外にほっそりとしたうなじや、繊細な鎖骨、それから――
「――ターロ」
「うおはい!」
つい視線を、柔らかな膨らみのもとに向けそうになっていたところに話しかけられ、俺は腹の底から返事をした。
アメリアは怪訝そうな顔でこちらを見ている。
「なに声裏返してんの?」
「こエ!? 裏返っテねえよ!? なに?」
「……まあいいけど。いや、とくにあたし、この三日で予定もないしさ――」
彼女はそこで、小首を傾げた。
「一緒に、する?」
「す……っ! スル……っ!? スルってナニを……!?」
「決まってるじゃない。行く?」
「イク……!?」
すみませんごめんなさいすみません。
だって俺、青少年なんです。
草食系だけど、本当は肉だって食いたいんです。
こういう単語を聞くだけで、コンマ一秒で妄想の翼を広げられてしまうのは、もうなんというか遺伝子に刻まれた業みたいなものなんです。
が、その広げかけた翼は、次の一言によってあっさりと薙ぎ払われた。
「ギルドに。暇つぶしにクエストしよ」
「……………………ですよね」
こんなときに、「なんだ、誘われてるのかと思ったぜ」とニヒルに笑って、女子を赤面させるスキルを、平均的日本男児の俺は持ち合わせていない。
できるのはせいぜい、「え? 下心? 抱きもしませんでしたがなにか」みたいな顔で頷くことだけだ。
そんなこんなで、気付けば俺はワーカホリックのアメリアにギルドへと連れられ、彼女が引き受けたクエストに粛々と従い、今に至る、とそういうわけだ。
今回のクエストは、「自由海西域に生息する島苔の採取(30種)」。
自由海というのは、自由区の先、ドーナツの穴部分にあたる海のことだ。
魔力を帯びた生態系が広がっていることから、研究者がよく採取の依頼をしてくるらしい。
ボートを使い、岩場や小島を移動してはせこせこと苔を採取する仕事なので、危険でないと言えば危険ではないし、時間もたっぷりつぶせるのだが――
「地味に……つらい……っ」
いかんせん、長時間の単純労働が苦痛に過ぎた。
手が痛い。腕がつる。腰も痛い。
オールを握りなおしながら、俺は思わずこぼした。
「これ、一応シルバー級のクエストなんだよな……? なんでこんなに徹頭徹尾地味なの? 上級クエストらしい、華やかな展開はないわけ……?」
この、じわじわと真綿で締めにかかってくるような、緩やかに襲い掛かる疲労と痛みが、たまらなく嫌に思えての発言だった。
思えば、これまで俺たちが遭遇してきたのは、フェンリルや魔菌やマンティコア。
あまりの凶暴性に、その当時は激しく恐怖したものの、一方では「俺、今バトルしてるぜ!」みたいな興奮があったし、倒したときの爽快感もあったりしたものだ。
マリーからの励ましを得た今、もう無様に尻もちをつく俺のままではない――気がする。
それを証明するためにも、そういうバトル感ある展開のほうがいい。こんな、一握の砂的な、働けど働けど楽にならないクエスト、つらすぎる。
だが、俺のそんな言葉を、向かいでオールを操るアメリアはせせら笑った。
「よく言うわよ。魔物退治どころか、牛の解体を見ただけで青褪めてたくせに」
「うっ……」
「あんたが食事の質にこだわりたいっていうから、わざわざ屠殺場まで見に行ったのに。鉈をふるうたびにひいひい言って、一緒にいるあたしたちは恥ずかしいやら呆れるやら」
「うぅ……っ」
そう、こちらの飲食店で食べた牛肉があまりに固かったため、いったいどうしたらこんな粗悪な肉になるのか、現場でも見てみたいものだと愚痴をこぼし、するとそれを聞きつけた三人が、たまたまギルドの近くに牧場があるということで、観光がてら連れて行ってくれたのだ。
結果、ものすごく後悔した。
現代っ子には、いのちの教室は強烈すぎたのだ。
「ま、ニホン人のグルメへのこだわりとやらも大したことないわね」
「……牛の解体への耐性と、グルメへのこだわりは、関係ないんじゃ……」
ぼそぼそと反論してみたものの、俺はこの三人の前では、二度と食材への文句を言うまいと誓っていた。
同時に、これ以上不平を漏らすのはよくないと判断し、戦略的撤退を試みる。
「はいはい、分不相応なこと言ってすんませんでしたー。無力な俺は、こわい魔物に遭わないことを祈りながら、ちみちみ苔を採取しますよーっと」
――……ああ……。
とそのとき、たおやかな女性の声が聞こえる。
一瞬、目の前のアメリアが相槌でそんな声を出したのかと思って、俺はオールを握りしめたまま目を見開いた。
「……アメリア?」
「ん?」
「……なに、声裏返してんの?」
「声? 裏返ってないわよ? なに?」
対する彼女は怪訝な表情だ。
だがその瞬間、
――……ああ……あああ……。
近くの岩場から、奇妙に反響する女性の声が再び聞こえ、アメリアはさっと顔を強張らせた。
「――……! ターロ! 耳を塞いで!」
「はっ!?」
「セイレーンよ!」
「はあっ!?」