14.#風呂が好きだ!(3)
「嘘だろ……っ!」
俺はパニクった。
誰だよ、こいつにかつて制止系魔術を掛けたやつ! そのとき確実に仕留めろよばかやろー!
「仕方ありません、ターロさん逃げて!」
いまだ俺の前に立ってくれていたマリーが、そんなことを叫ぶ。
いやいやいや、なに言ってんだよ! これ、普通、どう考えても俺が踏ん張ってマリーが逃げるべき場面だよね!?
パニックにパニックを重ね、一周回って我に返った俺は、とっさにその場に立ち上がり、彼女と立ち位置を入れ替えた。
「マリーこそ、逃げて!」
「えっ、きゃ……!」
腕を引かれ、ぐんと後ろに追いやられたマリーが、バランスを崩し、たたらを踏む。
そんな彼女を後ろ手に庇いながら、俺は脳内で目まぐるしくスペルを思い浮かべた。
waitもstopもだめ。
制止系のスペルは効かない。
ならば俺にできるのは、Shit……は高温蒸気でも出されたら困るし、bus……は無意味だし、SAKE……は米も魔菌もないし――っていうかマンティコアを醸してどうすんだ――あとは、いまだに一回も成功していないfire ballくらい。
「ファ……ファイアーボール……!」
俺は冷や汗を垂らしながら、そのスペルを唱えてみた。
「ファイアボーゥ、フアイヤ、ボーッ、……ファイア……!」
もうball まで付かなくてもいい、ただのfireでいい、なにか、マンティコアを攻撃するに足るものを出現させられはしないのか。
しかし、どれだけ懸命に叫んでも、一向に魔力が発動する気配はなかった。
自分の無様さに泣きそうになる。
単語はわかっているのに、こんなに単純な言葉なのに、馬鹿みたいに何度も何度も叫んで。
なのになにも起こらないなんて。
「ターロさん、もういいですから、逃げて……!」
「マリーが逃げて!」
きゅっと腰のあたりを掴んでくるマリーに、叫び返す。
みっともないし、情けない、役立たずのスペル使いだけど、それでもか弱い女の子よりは、ちょっとは戦えるはずだ。これだけは譲れない。
向こう岸では、マンティコアが再び大きく口を開けはじめた。
「逃げて! 早く!」
「でも!」
川の水が勢いよく吸い込まれ、マンティコアがぐうっと伸びあがり――
「fire―……」
「――……りし水よ、凍れ!」
そのとき、背後から凛と張った声が響いた。
俺たちの脇をすり抜けて光の輪が宙を駆り、川面に溶けたかと思うと、さあっと水が凍りだす。
マンティコアが吸い込んでいた水も、川と接していた一部から、ビキビキビキッと音を立てて氷の塊へと変貌した。
マンティコアは驚いたようにその場で足を躍らせ、氷となってしまったものを吐き出す。
その間に、俺たちはぱっと振り返って、ほっと胸を撫でおろした。
「エルヴィーラ!」
エルヴィーラとアメリアが、全力でこちらに向かってきてくれていたのだ。
「ターロ、制止のスペルは!?」
赤銅色のポニーテールを振りかざし、アメリアは走りながら鋭く問う。
俺は素早く首を振った。
「ダメだった、免疫がある」
「わかったわ。エル、氷結魔法の持続時間は!?」
「見ての通りだ!」
エルヴィーラが叫んだ先では、マンティコアが上半身を大きく振り回し、獰猛な唸り声を上げているところだった。
地面を揺るがすような大音声が響くのと同時に、みるみる、吐息に触れた氷が溶けていく。
やつの口に残っていた氷の塊も水になり、ばしゃっとその場にこぼれ落ちた。
白く凍っていたはずの川も、あっという間に溶け緩んでいく。
「ちっ……!」
アメリアは鋭く舌打ちしたが、彼女にとって厄介だったのは、氷が溶けてしまったことそれ自体ではなかった。
「硬化を始めたわね……!」
そう。
一度エルヴィーラの魔法を受けて警戒したマンティコアが、体表を石で覆いはじめたのである。
いったいどうしたら毛が石に変わるのかはわからない。
だが、俺たちが見守る中、マンティコアの身体はビキビキと音を立てて、ゴーレムとでも呼んだほうがよさそうな外観になってしまった。
「マンティコアは、常態なら首を切り落とすか、頭に剣を突き刺せば倒せる。けど、硬化した状態では無理よ。……悪いわね、エルが足止めしてくれた瞬間に、あたしが刺し殺せればよかったのに」
「そんなこと……!」
エルヴィーラがアメリアと連携せずに魔術を展開する羽目になったのは、俺たちがうかうかとマンティコアに狙われてしまったせいだ。
悔しそうに告げるアメリアに、俺はとっさに言い返した。
「ごめん、俺こそ、スペルが効かなくて……! 発音がよければ……いや、ほかにも使えそうなスペルをあらかじめ探っておけばこんなことには――」
「今はいいわ。逃げるのが先よ」
が、すぐに遮られてしまう。
アメリアは顎でくいとエルヴィーラを指して、俺とマリーに先に避難するよう命じた。
「エルが氷結魔法で時間を稼ぐ。ふたりは行って。早く!」
すでにエルヴィーラは両手を宙にかざし、再度長い詠唱に取り掛かっている。
とそのとき、
――ごおおおおお!
再びマンティコアが「水の焔」で攻撃を仕掛けてきて、俺は今度は、アメリアとマリーのふたりによって地面に突き倒された。
じゅわあああ! と派手な音を立てて、すぐ横の土が溶ける。
「…………っ!」
「ぼさっとしないで! 立って! 逃げなさい!」
「ターロさん! こっちです!」
マリーに手を引かれる。
ぐっと、細い指が手首にかかるのを感じながら、俺は対岸のマンティコアを振り仰いだ。
岩の鎧で覆われた、獰猛で凶悪な、獅子面の魔獣。
川を渡ってくる気配こそないが、それは、そうせずともこちらを仕留められると理解しているからだ。
やつが再び身をかがめ、川の水を吸い込みはじめるのを見て、俺は拳を握った。
不甲斐ない。
情けない。
これでいいのか、女の子に庇われて、逃げ出して。
せっかく異世界人という、ともすれば英雄にだってなれる身の上なのに、何度も何度も練習しても、火の玉ひとつ浮かべられない。
いや、そんなものにこだわっていたからいけないんだ。
もっと、知っている英単語をいろいろ試して、ちょっとでも手札を増やしておくべきだった。
なのに、ちょっとした失敗に縮こまって、勝手に自分の限界を決めて。
もうこちらに来て三週間以上経っているというのに、いまだに、片手に収まるくらいのスペルしか試していない。
「ターロ!」
「ターロさん、早く!」
アメリアたちが叫ぶ。マンティコアが水を飲みこむ。
俺は冷や汗を浮かべながら、目まぐるしく思考を巡らせた。
制止は効かない。
行動を止めるのではなく、相手を攻撃するべきだ。
ファイア……は、発音ができない。
でも、じゃあ、エルヴィーラみたいに凍らせるのは? 氷……アイスでいいのかな。
いや、でもそれだとすぐ溶かされてしまう。
じゃあ爆発は?
なんだっけ、エク……エクスプ、プロ、プリ……だめだ、わかんねえ。
殺す、……殺すだと、キル?
でも、キル! って叫んだら「俺を殺せ!」ってなっちゃう?
わかんねえ! わかんねえ!!
焦りのあまり、思考が空回る。
単純な単語のはずが、まるで出てこない。
今はとにかく、思いつくスペルをすべて試してみるべきなのに。
ぐう、とマンティコアが体をしならせる。
蒸気を吐き出す予備動作だ。
「ターロ!」
「早く!」
ふたりが叫んでいる。
エルヴィーラが必死に呪文を唱えている。
俺は馬鹿みたいに硬直したまま、対岸のマンティコアを倒すための方策をずっと考えていた。
なにか……なにかあんだろ、倒す方法!
そりゃ、水の焔を吐き出すわ、岩で覆われてるわ、ちょっと激しく無理ゲーな感じだけど、あのマーライオン野郎の弱点のひとつくらい――
「――…………」
ふと。
自分で思い浮かべたマーライオンの比喩に、頭のどこかがばちっと繋がった気がして、俺は目を見開いた。
そう。
このマンティコアって、質感と言い、形状と言い、湯を吐く感じと言い、すごくマーライオンというか、こう、水を吐き出す石像っぽいよな。
見開いた目に、いくつかの光景が飛び込んでくる。
どうどうと水を湛えた川。
湯に浮かべる柚子みたいな果物。
――こちらの素材で、地球にある物を再現してくれる俺の魔法。
「――……お……っ」
たぶん、俺はそのときパニックになっていた。
とても冷静な思考ではなかった。
でも、地震だとか、風呂騒動だとか、その日に体験した出来事が無意識のうちに積み重なり、俺にあるものを連想させていたのだ。
英語か、と言われたら、そうではないかもしれない。
でも、留学先で自己紹介をさせられたとき、趣味として語ったこの言葉は、イギリス人の級友に通じた――!
「温・泉――ッ!」
拳と目をぎゅっと閉じ、思い切り叫んだ、次の瞬間。
――ぱああああ……っ!
眩いばかりの光が辺り一面に広がり、同時に凄まじい地形の変動が起こった。
体の芯までも揺らすような轟音を立てて、目の前の川幅が膨らんでいく。
増幅した川の流れはどおどおと渦を巻き、徐々に流れから独立した湖のような形へと転じていった。
岸が削られ、草が吹き飛ぶ。大地が揺れる。
「うわ……っ!」
「きゃあ……っ」
ぐら、とひときわ大きく地震が起こり、俺たちはその場に膝立ちになった。
――じゅわああああ!
それと時を同じくして、湖と化した川から、マンティコアの水の焔のような、激しい音と蒸気が立ち上る。
恐怖に青褪めてとっさに顔をかばったが――
「――……ん……っ?」
ふわんと身体を包んだそれは、大地をも溶かす蒸気というよりは、ほんわかと柔らかい「湯気」といった感じで、俺は恐る恐る腕を下ろした。
「――…………!」
そして、絶句する。
薄く曇った空間には、――まさしく、温泉ができあがっていた。
川にごく一部だけを接し、自然な円の形を描いた湖には、柔らかな色合いの湯がなみなみと湛えられている。
漂う湯けむりはほんのりと白く、それがふわりと広がるたびに、周囲の草が優しく揺れる。
ご丁寧にも、湖の真ん中には、これまた野趣に溢れた流木が壁状に並び、ちょうど、男湯と女湯を分けているような格好になっていた。
さらには、さきほどマリーがもいでいたタンジェが、まるでユズ湯のごとくぷかぷかと浮いている。
時折風が吹くと、柑橘の爽やかな香りが辺りに広がった。
――って、いや。注目すべきはそこではなくて。
「マ……マンティコアが……」
流木の衝立の端、湖と川が接する地点。
男湯と女湯の両方ににらみを利かせるような位置で――マンティコアは、湯を吐き出す獅子の石像と化していた!
「な…………」
「こ、これは……?」
巨大な石像と化したマンティコアから湯が注がれるシュールな光景に、マリーたち三人が息を呑む。
明らかに言葉に窮しているようである彼女たちに、俺は目を逸らしながら詫びた。
「……ご、ごめん。なんか、露天風呂とスパをごちゃまぜにして、方向性を見失った成金旅館の浴場みたいな仕上がりになっちまった……!」
「いや、聞きたいのはそこじゃなくて!」
即座にアメリアが叫び返す。
「これ、なに!?」
なにと聞かれれば、温泉だとしか答えようがない。
「いや、温泉のつもりだけど……」
「オンセンとはなんだ?」
「えーと、自然の風呂っていうか、地面から湧き出てくるお湯を使った浴場施設……かな?」
「……なぜマンティコアからお湯が出てるんですか?」
「えーと、温泉っていうのはそういうもんだから……かな? いや、ここまでローマのテルマエっぽくなるのは予想外だったんだけど……この世界のセンスで『再現』されたからなのかな……」
エルヴィーラやマリーまでもが口々に問うのに、俺はもごもごと説明した。
だって、なんかさ、石っぽい獅子が水を吐いている図っていうのが、すごく温泉っぽかったんだよ。
いっそ「温泉!」って唱えれば、マンティコアが本当に石像になってくれて、無力化できるんじゃないかな、なんて考えたわけだけど――いやもう、そんなとち狂った思い付きが通用する世界で本当によかった。ありがとう魔術。
「つまり、このマンティコアはもはや、ただの浴場の装飾物に過ぎないってわけ……? まじで……?」
「……完全な石像と化したことで表情から凶悪さが消えて、心なしか神聖さすら感じるな……こう、浴場の守護神、的ななにかに……」
「あはは……エルったら、冗談……」
アメリアとエルヴィーラが、恐る恐ると言った表情で、粛々と湯を放つマンティコア像を検分する。
マリーもまた、おっかなびっくり湯に指先を浸し、それから強張った顔で振り向いた。
「……守護神というのも、あながち間違いではないかもしれませんよ……?」
「え?」
きょとんとする俺たちに、マリーは神妙に告げた。
「このマンティコア像からは、もはや邪悪な黒魔力がかけらも感じられません。それに、このお湯。像を通して川から湖に注がれているみたいなんですが……像を通過する前後で比較して、癒しの効能が百倍くらいになっています。しかもすっごく気持ちのいい温度」
たっぷり三呼吸分、アメリアたちは黙り込んだ。
「――……ええええっ!?」
やがて仲良く絶叫した彼女たちをよそに、俺は内心で納得していたりもした。
まあ、温泉だしな。
究極のリラックス空間であるわけだから、滋養強壮、美肌に血流改善、そんな効果があってもなんらおかしくない。
ただやはり、石化マンティコアという素材を使って再現された以上仕方ないのだろうとはいえ、野趣あふれる露天風呂に、人工物感バリバリの、西洋のライオンの置物風な石像が据えられているっていうところが、なんとも頂けなかった。
ポーズこそ、四つん這いになって片足を珠に乗せているあたり、神社の狛犬を彷彿とさせるが――
「――……ん?」
製造者の観点から、マンティコア像に厳しくダメ出しをしていた俺は、ふと像の足元を見て目を眇めた。
口から放たれる乳白色の湯の、向こう側。
マンティコア像の片足の下に、なにか赤っぽく透明な珠が見える。
うっすらと淡い光を発している、それはもしや……、
「あの……」
俺は、興味津々で湯に指を浸しはじめた三人に、恐る恐る話しかけた。
「この、マンティコア像の足元の珠……、源晶石、じゃないかな……?」
「は?」
「なんだと?」
「え?」
三人は湯の傍に屈みこんだまま、ぽかんとした表情で振り返る。
それからじいっとマンティコア像の足元を見つめて、
「――……ええええええええっ!?」
数秒後、声を揃えて絶叫した。
次話、温泉回。




