13.#風呂が好きだ!(2)
森の少し開けた場所、勢いよく流れる川のほとりに、マリーはぼんやりと座り込んでいた。
膝を崩して横座りした、その足元には、黄色い果物が大量に転がっている。
木の実、と彼女は言っていたが、ごつごつした皮に包まれたそれは、俺の目には小ぶりの柚子かなにかのように見えた。
ざく、と一歩草むらを踏みしだいたとたん、川面を見つめていたマリーの耳がぴょこんと立ち上がる。 無言で振り向いた彼女に、俺はぎこちなく片手を挙げてみせた。
「……や、やあ」
やあ、じゃねえよ。
あまりに気の利かない声のかけ方に、自分で絶望してしまう。
なんかもっとこう、あるだろう、落ち込んでるわけあり美少女の心にするっと入り込むような、いや、入り込まなくてもせめて、警戒させないような話しかけ方がさ!
だが、俺の数倍コミュニケーションスキルに優れているマリーは、チョコレート色の瞳でじっと俺を見つめたかと思うと、次にはくすっと小さく笑い、細い指で果実を指し示した。
「ターロさん、これ、食べたことあります? タンジェ。甘酸っぱくて、とてもいい香りがするんです」
その声はいつも通り穏やかで、柔らかい。
にこにこと愛らしい佇まいでありながら、人にあまり弱みを見せようとしない彼女のことを、さすがだと思うのと同時に、なんだか自分が不甲斐なく思えて、俺は眉を下げた。
「……いや、ない。……いや、あるかな? 柚子っていう、よく似た果物なら日本でも食べたことあるけど。でもそれは、フルーツとして食べるんじゃなくて、どっちかっていうと、調味料とか、香りづけとして使うことが多かったかも……」
「そうなんですね。こちらでも、タンジェはよく香りづけに使いますよ。皮を刻んで料理に混ぜたり、果汁を垂らしたり、あとは大きな浴場だと、お風呂に浮かべたり」
そう言って、マリーはタンジェを鼻に近付ける。
目を閉じて、すうっと香りを吸い込んでから、ぽつりと付け足した。
「……もっとも、そんなお風呂、私は入れたためしがありませんけど」
え、と言葉を失う。
立ち尽くしている俺を見上げ、マリーは少しの間なにか考えるようなそぶりを見せた。
それから、静かに視線を伏せ、おもむろに口を開いた。
「……ターロさん、あのね。私たちの世界――レーヴラインでは、獣人というのは、本来すごく身分が低いんです」
「え……?」
「獣人っていうのは、神様が人を作ろうとしたときに、手違いで獣の頭と尻尾を残してしまってできた『できそこない』の種族なんですって。だから、寿命も人より短いし、たいていの獣人は難しいことを考えるのも大の苦手。頭が悪くて、常識がなくて、獣の振る舞いを残した粗野な生き物だから、人の世界の公共の場には、入れない。臭いの移る浴場なんて、もってのほかです」
思ってもみなかった発言に、俺はただ呆然とした。
同時に、慌てて先ほどの宿での記憶を探る。
そうして理解した。アメリアがなぜ憤怒の表情で宿を出ていったのかを。
マリーは苦笑いして続けた。
「最近はそれでも、獣人の地位も少しは向上して、私達でも入れる浴場や飲食店も増えてきたんですけれどね。南のほうに行くと、どうしても獣人の奴隷制度を徹底している国――ドーレスが近いせいか、そういう店も少ないみたいで。さっきの宿は、たまたまそうで、……アメリアさんが怒って出ていったのは、そのせいです。どうもあの町全体が、獣人に厳しいようだったから」
クエストを受けてさっさと自由区に戻ってきたのは、そういうわけだったのだ。
ついでに言えば、ここ最近、かなりの報酬を手にしているはずなのに、野営が多かったり、高級な宿屋に泊まらないのも――きっとそのせいだったのだ。
俺は掛ける言葉すら見つからなかった。
馬鹿のように固まっている俺をよそに、マリーは両手に掬ったタンジェに、再び鼻をうずめた。
「獣人――私は臭いんですって。以前、汚れに耐えかねて、こっそり入場禁止の浴場に湯をもらいに行ったら、タンジェの実を投げつけられたことがあるんです。それ以降、アメリアさんたち、すっかりこの手のことに敏感になっちゃって。……ターロさん、お風呂に入りたかったでしょうに、ごめんなさい」
「そんな……」
マリーが謝ることではない。
悪いのは差別意識に凝り固まったそいつらのほうだ。
いや、俺だって謝るべきだ。
知らなかったとはいえ、どうして彼女の前であほみたいに風呂風呂言ったりなんかしたのか。
自己嫌悪で土にめりこみそうだ。
情けなく顔を歪めている俺に向かって、マリーはちょっとおどけるように舌を出した。
「ターロさんはもしかしたら、私たちに拾われてよかった、感謝しなきゃ、とか思っているかもしれないですけど、だから、そんなこと思わなくてもいいんですよ。ギルドの鼻つまみ者のアメリアさん、ハーフエルフのエルヴィーラさん、獣人の私。私たちって、最弱、最低のパーティーなんです。巻き込まれちゃって、不運でしたね」
彼女らしくない自虐的な物言いに、とっさに「そんな……!」と返す。
俺は不器用に言葉を掻き集めながら、必死に反論した。
「そんなことないよ。俺は、三人に拾われて、本当に幸運だったと思ってる。それにマリーは、臭くなんかない! かわいくて、いい匂いがして、頭がよくて、俺なんかよりコミュニケーション能力もめちゃくちゃ高くて、……とにかく、すごい女の子だよ!」
言い募っているうちに、どんどん熱が籠ってきてしまった。
それに圧倒されたのか、マリーはちょっとだけ目を見開いている。
「マリーがいなきゃ、俺、あの湖あたりで死んでたよ。っていうか、あの生活能力からして、アメリアやエルヴィーラだって生き延びてたか怪しい。それに、ギルドとの受付とか、前に俺が扉を壊しちゃった宿とかでも、マリーが調整役をしてくれたじゃないか。少なくともそこでは、マリーは社会的にも認められてるってことじゃないか」
拳を握りしめて力説すると、彼女は力なく苦笑した。
「もともと獣人のうち、犬や猫の種は愛玩用としては人気ですし、狐の種も、使用人や奴隷としては優秀だという認識ですから。あくまで人間の主人に代わって交渉している、ということで、受け入れられてるにすぎませんよ」
犬は従順、猫は高貴、狐は狡猾。
知能が低いとされる獣人の中でも、狐のものは例外的に有用であると見なされているとのことだった。
なにを言っても穏やかに躱されそうな気配に、途方に暮れる。
いや、これは彼女が頑固なのではない。
それだけ、この世界の構造が凝り固まっているということだ。
途方に暮れた俺に、マリーは小さく笑った。
「そんな顔、しないでください。私、これでも結構したたかですし、ふてぶてしいんですから」
ね、と言って、力こぶまで握ってみせる。
励ますようにぱたんと尻尾で地面まで叩かれて、俺は退かざるを得なくなった。
「うん……」
と、そのときである。
――ごおおおおおお……っ
低く空気を震わすような音とともに、再びうわんと地面が揺れた。
「――……っ! ターロさん、これ……!」
「うん! 震度4強!」
「そうじゃないでしょ!」
ばっと立ち上がりながら、珍しくマリーが突っ込みを入れる。
「そ、そっか、震度4強って単位はないんだった! 5弱だよなごめんごめん!」
「そうじゃなくて……見てください! マンティコアです!」
耳と尻尾をぴんと立てた彼女が、勢いよく川の向こう岸に向かって指さしたその先には――尻尾の先に火を灯した、巨大な獅子がいた。
「……え……っ、ええええええ!? なんで今、それも俺たちの側に出没しちゃうの!?」
「知りませんよ! マンティコアに聞いてください!」
マリーの言葉を解しでもしたのか、マンティコアが返事をするように唸る。
ごおおおお、という音が響くと、それにつられるようにして、俺たちの間に流れる川の水面が躍り乱れ、再び地面が揺れた。ファンタジー!
マンティコアと俺たちの距離は、川と岸を挟んでざっと二百メートルほど。
川は幅が十メートル程しかないので、やつが本気を出して跳躍すれば、十分に超えられてしまう距離だ。
ついでに言えば、大変残念ながらアメリアたちがいるのは、俺たちよりも背後の森。
つまり、アメリアたちが危機を察知して駆けつけてくれたとしても、まず俺たちがやられる。
もう一度聞くぞ。
なんで、ちょっとだけ二手に分かれた今、戦力的に最弱な俺たちの側に現れるよマンティコア!
愕然としていると、マンティコアは俺たちをぎらりと見据えて、ぐるりと舌なめずりをした。
あ、餌認定されましたね?
そして川べりで前かがみになり、少々のためを作ってから、思い切り口を開く。
遠目からでも、ずらりと並ぶ凶悪な牙が見える口。そこにまるで吸い寄せられるようにして、川の水がどんどん飲みこまれていった。
「え!? え……っ!?」
「危ない……っ! ターロさん、よけて――っ!」
マリーが腰に抱き着き、そのまま俺のことを押し倒した次の瞬間には、
――しゃあああああああ!
凄まじい音とともに、すぐ横の地面が抉れていた。
飛び散った土と草、そこからしゅうしゅうと湯気が立つのを見て、ぞっとする。
蒸気。
こいつ、水を超高温の水蒸気に変換して攻撃してるんだ!
「意外にも論理的に水から焔になってるーっ!」
水は百度までしか上がらないけど、水蒸気なら上げようと思えば二千度くらいまでいけるもんね。
火より熱くなるもんね。合理的だね。
って違えよ! 怖えよ!
俺は尻もちをついたまま、ずりずりと後ろに下がった。
「ど、どどど、どうしたら……っ」
「スペルを唱えて! 無理なら、全力で逃げてください!」
マリーは即座に叫び返すと、ばっとその場に立ち上がった。
腰を抜かしている俺の前に立ちはだかり、両手を広げてマンティコアを睨みつける。
蒸気を含んだ熱風に煽られた彼女のスカートが、ふわ、と頬を撫でた。
「早く!」
ぴんと立った耳と尻尾、凛と張った声。
柔らかく揺れる亜麻色の髪も、小柄な身体も、いつも通りのマリーなのに、今この瞬間、その後ろ姿ははっとするほど頼もしい。
――いや。
呆然と見上げてしまってから、俺はぷるぷると首を振った。
頼もしい、じゃないだろ。
自分より年下の女の子に、庇ってもらってどうするんだ!
「ウェ……ウェイト! ウェイ……ウェイ……ッ!」
そうだ、スペル。それを唱えるのが役目じゃないか。
俺は尻もちから膝立ちに体勢を変えながら、慌てて口を開いた。
「――Wait!」
ここ最近の猛特訓が多少は効いたのか、無事にスペルが発動する。
きゅいん! と硬質な音とともに光の輪が飛び出し、今まさに川を超えんとしていたマンティコアの脚に絡みついた。
――ごおおおお!
「やった!」
思わず拳を握る。
が、マンティコアが激しく暴れ、大きくひと吠えすると、
――ぱきんっ
そんな音を響かせて、光の輪は粉々に砕かれてしまった。
この魔獣、制止系の魔術に免疫があるんだ……!