12.#風呂が好きだ!(1)
「うぅ……いい加減、屋根のある部屋で寝たい……」
今日も今日とて、地面にテントのピックを突き刺しながら、俺は遠い目で空を仰いだ。
相も変わらず、自由区の森の中。
今はだいぶ北のほうに向かっているので、穏やかな晴れの日であっても、空気はひんやりと冷たい。
昼でこれなら、夜は極寒である。
かれこれ三週間になろうとしている野営経験から、そのことを察した俺は、ついつい不平をこぼした。
「どうしてさっきの宿屋に泊まらなかったんだよ。せっかくクエストが一段落したっていうのに、またクエスト。また国移動。あの宿、広々とした風呂が売りだったんだろ? 俺、風呂に入りたかったよちくしょー……」
すると、一緒にテントを組み立てていたアメリアがふんと鼻を鳴らす。
「あの宿屋が気に入らなかったんだから、仕方ないでしょ。水浴びなら森でもできるじゃない。喜びなさい、この辺りにもきれいな川がいっぱいあるわよ」
「水浴びじゃなくて、風呂! 川じゃなくて、風呂! あったかくって清潔な、風呂に入りたいって言ってんの俺は!」
なので俺は反論した。
アメリアたちは、野外の水浴びで十分満足しているようだが、俺にはそれじゃ不十分だ。
日本人のDNAに刻み込まれた風呂好きを舐めないでもらいたい。
久々に宿に泊まれると思ったのに、受付を済ませようとしたとたんに「やっぱりこの宿はやめ。気に食わないわ。みんな、出るわよ」とアメリアが言い出したときの絶望。
その足で、なぜかクエストまで受けて、再び森に向かいだしたときの悲しさといったら!
「湯の桶をもらうだけでもいい。いや、百歩譲って水風呂でもいい。とにかく屋内がよかったんだ。あの宿のなにが気に食わなかったの? 野外の水浴びじゃあ、せっかく洗っても、洗った傍から土を踏んだり、虫が飛んできたりで、きれいになった気がしねえんだよ!」
川で水浴び、というと、アクティビティとしては好ましいが、風呂として考えるならば、いささか野性味に富みすぎている。
三人いる女子たちは順番に入ればよいが、ひとりしかいない男の俺は、必然ぼっちになりながら、あたりを警戒しつつの水浴びになる。
川底の石は平べったいとは限らないし、水を跳ね上げれば当然泥が混ざる。
上がった傍から吸血ヒルに狙われることもざらだし、とにかくまったく気が休まらないのだ。
イギリス留学中にも思っていたことだが、どうも外国人たちは――レーヴラインの住人含む――風呂を「単に汚れを洗い落とす場所」というか、トイレと同格くらいにしか考えていないように見える。
だから平然と、トイレと浴槽をワンセットで配置してしまえるのだ。
いやいやいや、違うよ、違いますからね?
風呂というのはさ、禊ぎをするように汚れを払って、温かな湯に疲労や物思いを溶かして、心身ともに新しい自分に生まれ変わるための場所だから。
死と生の凝縮された現場だから。
究極のリラックス空間だからね。
泥やら虫さんやらがいたら、その時点で、リラックス要素がぶち壊しだからね?
それを必死に訴えると、今度は話を聞いていたエルヴィーラが、ちょっとだけ首を傾げた。
「……というかおまえは、虫の類を気にしすぎではないか。ほら、おまえの足元、ムカデが上ろうとしているぞ」
「うわあああああ!」
「そんなに驚かなくても。おや、私の足に迫っているのも、なかなか大きいな。銀級くらいか?」
「足に多足類が這おうとしてるってのに、なんでそんな冷静なの!?」
絶叫しながら足をぶんぶん振り回していると、エルヴィーラだけでなく、アメリアまでもが呆れたような視線を寄越した。
「そんなに叫ぶようなこと?」
「叫ぶようなことです!」
どどど、毒。
毒は持っていないだろうか。
というか普通、足がうじゃうじゃ生えている虫って、それだけで気持ち悪いと思ったりしないのだろうか。
「マリー! こ、この虫って――」
冷や汗をかきながら、マリーに虫の鑑定をしてもらおうと呼びかけ、――そこで俺はふと目を見開いた。
テントを張る間、それ以外の荷物をまとめてくれていた彼女は、いつになく暗い顔つきで俯いていたからである。
「マリー……?」
「えっ」
名前を呼ぶと、はっとしたように顔を上げる。
彼女は愛らしい狐耳をぴょこっと立てると、慌ててこちらに向き直った。
「すっ、すみません、今日はムカデが食べたいって言いました?」
「いや言ってねえよ!?」
どんな大胆な聞き間違いだ。
俺が即座に否定すると、マリーはびっくりしたように目を見開き、それから少し気まずそうな笑みを浮かべた。
「あは……すみません、ちょっとぼんやりしていて。なんのお話でしたっけ」
「あ、いや、だから――」
パーティーの誰より常識人で、しっかり者のマリーがぼんやりしているなんて珍しい。
俺はもう一度話しかけたが、中途半端に口を閉ざした。
――ぐらっ
突然、地面が大きく揺れたからである。
うわんと一瞬身体が浮遊するような感覚。
地震だ。
「わ……っ!」
「きゃああっ!」
アメリアたち三人が、ぎょっとして腰を浮かす。
そんな中で、俺だけひとり、のんびりと地面を見つめていた。
ファンタジー世界でも地震ってあるのか。
「まあまあ、みんな、そんな騒がなくても。でも結構揺れたな。震度4くらいかな」
「足元を支える大地が揺れているというのに、なぜおまえはそんなに冷静なんだ!?」
三人は仲よく地面にしゃがみこみ、ぎゅうっと抱き合いながら絶叫している。
「そんなに叫ぶようなことか?」
「叫ぶようなことに決まってるでしょ!」
「叫ぶようなことです!」
首を傾げたら、即座に噛みつかれてしまった。
なんでもレーヴラインの神話では、最後の審判が下されたそのときに、天が落ち、大地が崩れ、原初の海に呑まれてしまうということなので、地震はその前兆だとして大層恐れられているらしい。
それでなくても世界は平たく、海の端では地獄に向かって水が流れ落ちていると信じられているので、大地が割れ、外海にでも流されてしまっては大変、と考えられているのだそうだ。ファンタジー。
もちろん俺の世界では、地震っていうのは信仰に関わりなく、あくまでプレートとか地球エネルギーが原因で起こる科学的な現象だ。
が、それを主張して宗教裁判に掛けられたりしても困る。
ついでに言えば、レーヴラインでは本当に世界が平たいなんてこともあるかもしれないので、俺は曖昧に頷くにとどめた。
「そ……そっか。いや、俺の国だと地震が日常茶飯事だったもんで、つい……」
「なんだと? ニホンというのは、そんなに恐ろしい禍に蝕まれた国なのか?」
「禍っていうか……うん、まあ、毎日どこかで地震は起こってるかな」
ちなみに、だからたいていの日本人は、体感で震度を把握できます。
そう付け足すと、アメリアやエルヴィーラは、信じられないものを見るような顔になった。
「なんでそんな国から逃げ出さないのよ、あんたたちは。頭おかしいんじゃないの?」
「ニホン人というのは、神経質なのか、鈍感なのか、どちらなんだ」
ものすごくこき下ろされて、ムッとするというより困惑してしまった。
まあたしかに、言われてみればそうかもしれない。
俺自身、北極だとか、超豪雪地帯だとかに住んでいる人々をテレビで見ると、「なんでそんなところに住もうって思ったんだろう」という感想を抱いたものだったが、冷静に考えて、毎日地震が起こっていながら、日本に住み続けている俺たちも相当だよな。
「まあ、なんというか……その環境が当たり前だったというか、逃げ出すっていう発想がないっていうか……」
ねえ?
言葉に窮し、なんとなくマリーを見やる。
すると彼女は困り顔で、
「そう、ですね……」
曖昧に頷き、耳を伏せてしまった。
どうも、マリーの様子が、宿を出たあたりからおかしい。
疑問に思った俺が首を傾げるよりも早く、アメリアが目を細めて言った。
「それにしても……地震が起こるってことは、思ったよりも近くにマンティコアがいるのかもしれないわね」
「ああ。森の気配もいささか不穏に感じるしな」
森の民の血を引くエルヴィーラが、すかさず頷く。
ふたりは顔を引き締めると、互いを抱きしめていた腕を解き、周囲をぐるりと警戒しはじめた。
今回俺たちがこなす予定のクエストは、ヘルツォーク山の麓に潜むマンティコア退治という、鋼鉄級のものだ。先日のポーション製造が功績として認められて、俺たちは鋼鉄級のクエストまで受けられるようになったのである。
この世界のマンティコアというのは、ざっくり説明すると獅子のような姿をした魔物だ。
炎でできた尻尾を持っていて、交戦時には体毛が石の鎧のように変化する。
ひとたび口を開けば川の水を啜りつくし、それを焔として吐き出し、人を襲うのだという。
水がどうやったら焔になるんじゃいという突っ込みが頭をもたげるが、まあ、魔物というのはそういうものだ。論理的整合性なんて気にしない。
ちなみにこいつは、禍の使者とみなされていて、マンティコアが吠えると大地が揺れる、すなわち地震が起こるのだそう。
……どちらかというと、地震が起こる気配を察知してマンティコアが鳴くんじゃないのかな、なんて思わないでもないが、ファンタジー世界でそういう無粋な突っ込みはやめておきましょうね。
合言葉は、ファンタジー。
さて今回、制止系の魔術に免疫がないようなら、俺が「stop」や「wait」で足止めをかけて、エルヴィーラが魔術、アメリアが剣でとどめを刺すという計画である。
そう、俺も立派に攻撃役としてカウントされているのである、やったね!
とはいえ、俺のスペルが発動しない、もしくは利かない可能性がしっかり織り込まれているあたり、まるで期待されていないというか、形ばかり参加させてもらっている感がバリバリなのだが。
それでも俺は、日々みんなが寝静まった後に、「stop」や「wait」を虫や石に向かって練習しまくったり、努力はしているのだ。
最近では、やはりファンタジーの基本はこれではないかという思いから、「Fire Ball」もこっそり練習メニューに加えている。
残念ながら一度としてうまく発音できたためしがなく、一度なんて「四球」と認識されて、突如現れたボールに体を四か所殴られたりもしたのだが。
でも諦めない。
俺にしか実害がない限りは、何度失敗したっていいんだ。
そうしていつか俺は、ファイアーボールに成功する! ……いつか!
ちなみにマリーは、今回は主に後方支援。
フェンリルのときもそうだったが、対大型獣だと、どうしても獣人の本能として怯えが勝ってしまうので、こういうときは、彼女はひたすら支援に回ると決めているのだそうだ。
獣系魔物との対戦に緊張しているからなのか、それにしたってマリーの表情が暗い。
気になった俺は、アメリアたちが警戒態勢を取っているのをよそに、マリーへと話しかけた。
「なんか……マリー、元気ない?」
「えっ、いえ? そんなことは――」
「あるよ。もしかして疲れた? アメリアのやつ、せっかく宿で羽を伸ばそうっていうのに、すぐにクエストを入れるようなことするから」
この発言に、ちょっとばかり俺自身の不満が混じっていたことは否定できないが、基本的には、マリーが心配で出てきた言葉だ。
彼女はパーティーの良心のような存在で、いつも如才なく俺たちを導いてくれるんだけど、あまり自分を主張しない。
疲れていても口にしなそうだから、ちょっと強引に聞き出すくらいがちょうどいいと踏んでの問いだったのだ。
しかし、マリーはその言葉にさっと顔を強張らせ、視線を逸らした。
「――アメリアさん」
そして、ぎこちない笑みを浮かべて、小さく告げる。
「私、ちょっと、気になる木の実があったので、採ってきます」
「へっ?」
ぽかんとしたのはもちろん俺だ。
唐突に、しかもマンティコアが近くにいるかもしれないとか警戒していたこの流れで、なぜ木の実。
しかしアメリアは軽く口元を歪めると、
「そ。たっぷり採ってきて。全員分頼んだわ」
なぜだかマリーを送り出してしまうではないか。
「え? なんで木の実? 今? マンティコアは? え?」
遠ざかっていく尻尾と背中を、目を白黒させて見守っていると、アメリアはがしがしと豊かな赤毛をかき乱した。
「――ったく、あんたの察しのよさは、なんでこんなときに限って発揮されないのよ」
「え……?」
「あたしたちがさっきから、宿や風呂の話題になるたびに、必死に話を逸らしてきたっていうのに、どうしてあんたはど真ん中に突っ込んでくのか、って聞いてんの!」
話を逸らしていた、と言われて、そういえばたしかにそんな気もしてくる。
とはいえ、なにがいけなかったのかがわからず、俺は戸惑いの声を上げた。
「え、なんで……」
「マリーはね――」
「待て、アメリア」
だが、苛立ち紛れに答えようとしたアメリアの言葉を、エルヴィーラが遮る。
彼女は澄んだ碧い瞳でアメリアを見つめると、静かに告げた。
「それを話すべきかはマリーが判断することだ。……少なくとも、前回私は、私自身で判断して、ターロに魔菌とハーフエルフの話を打ち明けた」
「…………」
アメリアが不満そうに腕を組む。
しかし彼女は、ややあってから、はあっと息を吐くと、ひらりと両腕を広げた。
「わかったわよ。……ターロ、あっち。西の方向」
「はい?」
「マリーの行った方向よ。あたしたちのかわいいマリーが、道中マンティコアに遭遇でもしたらどうすんの。あんただって、代わりに襲われるくらいのことはできるでしょ。追っかけなさい、五秒以内!」
最後、喝を入れるように言い渡され、思わず俺はぴんと背筋を伸ばした。
「はい!」
そして、マリーが辿った道を追いかけはじめたのだった。




