ベルディナード
神聖エリンハイム王国の最北は永久氷結と呼ばれる山岳地帯だった。一年を通して雪が降り、固まって氷と化した山々に生物と呼べる物の姿は殆どなく、故に訪れる人間も殆どいない。そんな場所にその遺跡は存在した。
かつてベルディナードが一〇〇人の猛者を従え攻略に挑んだ迷宮で、生還した者は僅かに五名。その果てに得られた物が何だったのか、全ては明らかにされていない。ただ、その内の一つに古代文明の遺物として隷属の魔法具『支配の王杯』があったとされる。
その遺跡の最深部。灰色の通路は所々におかれた魔道ランプで薄暗く照らされ、石壁から染み出した地下水が凍りその明かりを反射すると、まるで脈動するようでもあった。
この辺りは濃度の高い魔力溜まりでもあり、本来であれば魔石の魔力を燃料とする魔道ランプだが、それが今は自然に発光するほど魔力が濃く、それを求めてやって来る魔物はAランクにあたる。そしてそんな場所を好むのは魔物ばかりではなかった。
薄暗い通路を一人で進むベルディナードは、何かの気配を感じて立ち止まる。
それは直ぐに現れた。前方の暗闇の中、漂うようにして現れた二つの赤い光は、暗闇に残像を残して揺れ動く。ついで重い足音と共に姿を現したのは魔物どころか上位魔人族のミノタウロスだった。
その姿は身の丈二,五メートルほどの人型で、筋肉の隆起が著しい肉体と雄牛の頭部を持つ。赤い光はミノタウロスの赤く輝く双眸だった。手に持つのは巨大な戦斧で、かつてベルディナードと共にこの遺跡に潜った者の武器であり超越級に属する希少な物だ。
「ツワモノどもの凶祭ナリ」
魔人族の中には、知能が高く長い年月の中で人語を理解する種族が存在した。ミノタウロスもまたそれであり、故に簡単な会話なら成り立った。
だがベルディナードは盾と剣を構え行動で示す。ミノタウロスもまた獣の顔を楽しげに歪め、戦斧を構え直す。
先に動いたのはミノタウロスだった。人間を超越する膂力をもって戦斧が横に払われる。
唸りを上げて迫る戦斧をベルディナードは盾で受け止め、床を滑って勢いを殺す。生半可な盾であれば粉砕されそうな勢いを持つ攻撃だったが、ベルディナードの持つ盾は刃の跡が残る程度で、その質の良さが窺えた。
「ワレは歓喜スル」
ミノタウロスの吐く息が零下の空気に晒されて白くなり、止まる。次いでミノタウロスの姿がベルディナードの視界から消えた。
ベルディナードは転がるようにして横に回避し、直後ミノタウロスの振り下ろした戦斧が床を砕く。
はじけ飛ぶ小石がベルディナードの視界を阻み、更に後方へと退避するのを追ってミノタウロスの戦斧が横合いから迫る。
それを同じく盾で受けたベルディナードだったが、今度は床を滑って力を逃すことが出来ず、その場に膝を突く形で戦斧による衝撃を体で受け止めていた。
真横では無く少し上段から振られた戦斧がベルディナードに横へと逃げることを許さなかった。
硬直するベルディナードに向けて、ミノタウロスは戦斧を振り上げる。
それを見たベルディナードの金色の瞳が闇色に染まり、顔や首筋に血管が浮かび上がる。それは黒く異様なもので、見る者に畏怖や戦慄をもたらすだろう。だがミノタウロスはその様な感情を持ち合わせていなかった。
まさにミノタウロスの渾身の一撃。それをベルディナードは正面から受けきる。金属の打ち合う音が耳を貫き通路に木霊し、鉄と肉の軋む音が後を追う。
今度先に動いたのはベルディナードだった。受けた戦斧を盾で横に払い、そこから伸びるように突き出される剣先がミノタウロスの心臓を貫く。
ベルディナードの闇色に染まった目が金色へと変わり、浮かび上がった闇色の血管が消えてくと同時に、ミノタウロスの心臓を中心として闇色の血管が広がっていく。それに合わせてミノタウロスは崩れ落ちるように膝を突き、片手を突いて体を支える。
「コノ……力……我ら……」
「何度も使えるものではない。耐えればお前の勝ちだろう」
ミノタウロスが吠え、今一度戦斧を振り上げようとする。だが、体はそれを許さず、ついには床に伏す。
ベルディナードは腰に巻き付けた鉄製のケースから魔力回復薬を取り出し、それを口に含むと、ミノタウロスを背に体を休めた。
◇
そこは広々とした二層吹き抜けの構造を持つ円状の空間だった。壁沿いには部屋の中心を向くように一〇柱の石像が建ち並び、部屋全体が氷で包まれている様はまさに冷厳な印象を受け、望まずとも誰もが口を閉ざす雰囲気を持っていた。
その一〇柱の石像からは鎖が伸び、中央に置かれた氷の静謐に眠る少女の四肢に繋がれていた。
少女はそこに一糸纏わぬ姿で体を横たえ、その胸は呼吸に動くことがなく、生きている様子はない。だが、死んでいるとも言いきれない。その肌は水に濡れ、この場において唯一凍り付くことなく確かな体温を以て霜を解かし続けていることがわかる。
少女の髪は漆黒の闇のようで、その長さは一三〇センチほどの身長と同じくらいに達していた。髪の色と相反するのは純白で染み一つない肌で、少女らしい肉付きの体をしていた。
ベルディナードはその少女の横に片膝を突き、臣下の礼を尽くす。
『あれを倒したか』
「頂いた力が役に立ちました」
この場に話せる者はベルディナード以外にいない。だが、その声ははっきりとベルディナードの意識に届いていた。そしてベルディナードの声もまた姿なき相手に届く。
『他の力を与えし者は討たれたようだな』
「恥ずかしながら、力を使いこなせなかったようです」
『人の身にして耐えることが出来るだけ重畳』
ベルディナードはそれに応えず、顔を伏したままだった。だが、その脳裏には三人を討ったカイル・シュレイツの顔が思い浮かぶ。今の自分が戦って勝てないとすれば奴くらいだろう、そう考えていた。
『この地と神共の系譜を断つにはまだ早いと思うが、何用か?』
「血を分けた妹が見付かりました。その者はアルテアの天恵を持ちます」
『ほぅ。その手では殺せぬか』
「手が鈍るかと思い、部下の者を向かわせています」
会ったこともない妹を相手にその可能性は低いと思いつつも、ベルディナードは自分で行くという選択を行わなかった。
『直ぐに殺さずとも、あれを使えばよいではないか』
「残念ながら既に血縁の多くは失われ、その手は途絶えました」
『まさに人の狂気。これではどちらが悪かわからぬな』
「それともう一つ、こちらを伝えに来ました。妹の身近に『支配の王杯』による隷属効果を打ち消す者が現れました」
『あれを消すとなれば竜の血を用いたか』
「恐らく」
『そろそろ退屈と思っていたところで、三〇〇年ぶりの機会だ。この状態でそう多くは出来ぬが、望みがあれば聞こう』
「力を」
『破滅するぞ。何故そこまで力を望む』
「あなた様の解放が私の望みです。それを妨げる者に打ち勝つ力を」
『我を望むか。歪んでおる、実に良い歪みだ。自らが歪んでいると知っている者でなければ得られぬものだ。お前に賭けよう。我が血を飲むが良い』
ベルディナードにとって、全ての自由を奪われた人間が足掻く様を見るのは快楽そのものだった。
何度か人手を渡り、最後は奴隷商の元で育ったベルディナードの精神は純粋に歪んでいた。自由と尊厳が奪われ家畜と変わらない扱いを受ける奴隷に対し、幼少の頃より生殺与奪の権利を与えられたベルディナードは、それを行使する中で、人の狂気と欲望を幾度となくその身に受ける。
ある日、それが人として最も美しい瞬間であり、それを見続けることが使命であると考えるようになる。そんな時に『支配の王杯』に関する伝記を聞き、ここへと繋がった。
ベルディナードはまるで口付けをするように取った少女の手を放し、来たるべき激痛に備える。
そしてそれは始まった。
心臓を直接鷲掴みするかのような激痛と血の流れすら止まる苦しみに、肉体と精神が隔離していく。それは苦痛により魂魄が破壊されるのを防ぐ自己防衛用だったが、ベルディナードは明確な意思を持って精神を繋ぎ止める。
それは続く苦痛を受け入れることになるが、力を手にする為には必要であり、意識を持って魂魄に力を刻む。ベルディナードの内面では、心臓がまるで闇のように黒く徐々に染まっていくところだった。
しばらく過ぎて、苦痛からの解放と共にベルディナードはその場に崩れ落ちる。
『よくぞ耐えた。その力は既にお前のものだ』
ベルディナードは震える体を支え、何とか片膝を突き、臣下の礼をとる。
『早速だが、もう一人が苦戦しているようだ』
「恐らくカイルと出くわしたのでしょう」
冷や汗で濡れた体の不快感に顔を歪ませながらも、立ち上がったベルディナードは、シルヴィアを押さえられそうな人物に心当たりを付ける。
「戻ります」
『転移門までは我が送ってやろう』
ベルディナードが礼を告げるよりも早く、その体は姿を消していた。
◇
遺跡の別の場所へと姿を現したベルディナードは、可笑しさに笑いを零していた。
「あの化け物の解放? そんなことになんの価値がある。
力は手に入れた。後は俺に任せてそこで大人しく寝ていろ」
ベルディナードは左腕に腕輪を付け、転移門へと足を運ぶ。
腕輪の魔力に反応し、転移門に魔力が満たされると、再びベルディナードの姿は消えていた。
思ったよりも長くなってしまい、先に進めませんでした。
書くのが難しいということは、私のスタイルに合っていないということか!?