サキュバス・前
本日二話投稿予定の一話目。
一瞬だけ視界に魔法陣が輝き、次いで暗転すると、目の前にシルヴィアの背中が映った。
俺は左手を伸ばして背後からその首を掴み、殺意を持って締め上げる。
少女らしい短めの悲鳴に続き、羽のような何かが俺の体を打つが、手を緩めるほどの痛みじゃない。
「死ね!!」
このまま『魔弾』を撃ち込み、その背中に黒曜剣を突き立てる――そんな直ぐには終わらせない!
不意に襲ってくる浮遊感と強烈な風の抵抗に、落ちていると言うことだけは感じていた。
だが、それが何だと言うんだ。今掴んでいるこの首をへし折ることに比べれば些細なことだ。
「苦しさに顔を歪めて死ね!」
視界が緑で染まり、枝を折る音と衝撃が体を襲う。枝に手足が取られて回転しているのか、天地の感覚を失っていく。青い空と茶色い地面が交互に見えるなか、それでも左手は離さない。
太い枝は折れることなく俺の体を打ち、痛みに反応して『自己治癒』が働く。それは急速に体を癒やすが、再び体を打ち付ける衝撃で別の部位に痛みが伴う。
それでも放すことのなかった左手だが、地面にぶつかる寸前、シルヴィアが羽を煽り落下の勢いを殺したところで外れた。だがずっと放さなかったおかげで、俺も落下の勢いを殺して着地することが出来た。
俺は三転着地の体勢から飛び掛かる。その勢いで右手に持つ黒曜剣を振りかぶり、振り向こうとしているシルヴィアに向かって、右上段からの袈裟斬りを見舞う。
シルヴィアの金色の瞳が驚きに見開かれ、一瞬心が揺らいだ。
未だに心が揺らぐ自分に驚きつつ、それでも剣は止めない。黒曜剣を通じて肉と骨を断つ嫌な感覚が伝わり、返り血が顔に撥ねて右目の視界を赤く染める。左の肩口から心臓に達するその切り口は常人なら致命傷だろう。
上位魔人でさえ一度は崩れ落ちたその攻撃に、シルヴィアもまたヒザから崩れ落ちていく。顔には驚きが浮かんだまま、弱々しく挙げられた右手が俺の左手を掴み、それも力なく前のめりに俺の足下へと倒れ、その場に赤い血だまりを広げた。
「……なんだ……簡単じゃないか」
アドレナリンのせいなのか気分も高揚していたが悪くない、むしろ良いくらいだ。何故あんなに人を殺すことに抵抗があったのか、今となってはわからない。悪い奴は倒せば良い、それで救われる人が多いなら躊躇する理由はない。
「二人も来てくれたのか。でももう終わった、大丈夫だ」
ルイーゼとマリオンが森の奥から姿を現す。二人は駆け寄ると同時に抱きついてきた。心配を掛けただろうか?
ルイーゼの愁いを帯びた深緑の瞳が切なげに俺を求め、マリオンの燃えるような深紅の瞳が俺を捕らえて放さない。
何時もと違い随分と情熱的な二人だが悪くない。というかむしろ大歓迎だ。どうせなら硬い防具じゃなくて普段着なら良かったんだが――あ、あれ?
ルイーゼは白に青のアクセントが入ったワンピースで、マリオンは麻で出来たショートワンピースに青いデニム生地のパンツといった見慣れた格好だ。武装していると思ったのは気のせいだった。
さっきは硬いと思ったが、今はほどよい柔らかさに両腕が包み込まれていて大変満足である。
そう言えば俺はいつ武装を解除した……モモが気を利かせてくれたのか。
「わっ、モモやり過ぎだ!?」
今度は二人とも下着姿になっていた。この世界で一般的な体のラインを隠すようなふんわりとした下着ではなく、派手さこそないものの元の世界に近い物で、二人の少し上気した白い肢体がしっかりと目に入る。
なぜか二人の内包する魔力から感情を推察することが出来なくなっていたが、そんな事が出来なくても二人の表情と行動を見れば一目瞭然だ。
マリオンが魔剣ヴェスパを取り出し、その刃を舐めるようにして微笑む。蠱惑的な目に釘付けになる。ルイーゼは背後から俺の両腕を包み込むように、その小さな体で抱きしめてくる。背中に当たるふくよかな感触は刺激的すぎだ。
マリオンがそのままヴェスパの刃を俺の胸に突き立てていく。俺はその様子を興味深く見守っていた。
「ごはっ!!」
な、なんだ!? 何が起きた!?
急にむせ返るような苦しさと、魔力の流れを断つような強烈な痛みが胸を襲った。
「ル、ルイーゼ、マリオン!」
なんだ!? 俺に何が起きている!?
苦しさと痛みに胸を押さえると、手に温かい液体の流れ出る感触が伝わってきた。これはあの子と同じ……ぐっ!!
いてぇ!
「良い夢は見られた?」
シルヴィア!? 何故生きている!!
「君のことは気に入っていたし、荒々しいのも無理矢理も嫌いじゃないんだけど、今は遊んでいる暇が無いのよね」
『自己治癒』の反応が鈍い!
心臓をやられたせいか――いや、違う! これは闇の血か!?
俺はかつてルイーゼに致命傷を与えた上位魔人の攻撃を思い出しゾッとする。もしあれが今使われたとして、俺に対処方法があるのか!?
「あぁ。わたし恐怖は余り好きじゃないのよね。どちらかというと絶望か怒りの方が魅力的だな。どうしたらそういう顔してくれる?」
シルヴィアから上位魔人族ほどの魔力は感じられなかった。その翼を見たときも獣人族を見た後だからマリオンと同じハーフなのかと思った程度だ。だが魔力を蝕むこの闇の力はなんだ!?
「あ、そうそう。カイルと一緒にいたよね。これから殺しに行くのはカイルの妹のセシリアって子なのよ。何か面倒なことになったみたいで、お仕事が来たの」
セシリア!?
ようやく意識を取り戻した彼女を殺すというのか!?
ふざけるな……ふざけるな……。
「ふざけるな!! がはっ!」
「あははっ、良い! そうよ、その顔よ! とても魅力的。だからこれはご褒美ね」
シルヴィアはそう言うと自分の唇を俺の口に押しつけ、唾液を流し込んでくる。そうとは思えない甘ったるい味と香りが口の中に広がる。
「本当は続きもしたかったんだけど、ここで時間を取られたからね。
後は私の代わりにこれで気持ちよく死になさい」
その蝙蝠のような羽を煽り飛び立とうとするシルヴィアの足を掴むが、手には力が入らなかった。森に溶け込むように消えてくシルヴィアの先にセシリアがいる。
また俺のせいかよ……。
でも仕方がない、力が足りなかったんだ。自分の詰めの甘さにげんなりする。
だが先程までの苦しさは消えていた。暗闇に落ちていくような感覚は残っているが、妙な気分の高揚感が気持ちよかった。これが続くならそう悪くもない。
頬に心地よい衝撃が続く。
いつの間にか閉じていた目を開けると、そこにはモモがいて、泣きながら俺の頬を叩く姿が目に入る。
俺は今、なんで死を受け入れていた?
くそっ、あれもこれも精神干渉魔法かよ!
いつ干渉を受けた……シルヴィアを斬ろうと思ったときに違和感があった。あの時に精神干渉を受けていたのか? それと……唾液か、くそっ!
「よ、良くやった、モモ……」
俺の心臓は後どれくらい持つ?
普通なら即死に近いはずだ。だから『自己治癒』が効いていないわけじゃない。闇の血が魔力を散らしているから効果が悪いんだ。
ルイーゼは不死竜エヴァ・ルータの竜の卵を使って闇の血を払った。だが既に器はない……ないのか?
「モモ……ゴホッ、り、竜の卵は……あるか?」
モモは頷くと同時に直ぐにそれを取り出す。黄金の液体で満たされたそれは、間違いなく竜の卵だった。初めて見たときに比べれば大分魔力が薄くなっているが、十分賭けるに値する。
俺は一緒に現れた足場を這って昇る。卵と言っても巨大だ。高さで一メートル五〇センチはあるだろう。
「装備を全て外して……く、ガハッ!」
モモの桃色の肌が青ざめていて可哀想だな。
下着も含めて全ての装備が解除されると、胸を中心にどす黒い血管のような物が手足に向かって伸びていた。ティファナと呼ばれる少女には見受けられなかった症状だ。
俺は血が十分に巡らず意識が混濁するなかで、何とか竜の卵の中に身を投じる。
反応は直ぐにあった。体が燃えるように熱くなり、闇の血が払われていくのを感じる。ルイーゼはこの中で長いこと眠っていた。なんとなくルイーゼに包まれているようなそんな感覚に安堵する。
竜の魂を宿しているおかげか、無尽蔵とも言える魔力を手に入れたせいか、それとも上位魔人の闇の血とは違ったのか、俺を浸食していた闇の血はどんどんと小さくなっていく。
それに合わせて魔力が解放され『自己治癒』が働き出すとその効果は更に加速する。
急げ……急げ……。
シルヴィアは空を飛んでいた。どれくらいの速度かは去って行く姿から想像する程度だが、極端に速いというわけでもなかった。それでも猶予は三時間と言ったところだろう。