閑話 トラとリルート
セーブルに出会う前のトラとリルートです。
アストルニア領主トラファルド、彼は館の奥にあるバラ園を大切にしている。
執事として、乳兄弟であるトラファルドに仕えるようになって、もう七年だろうか。
彼が、なぜこんなにもバラ園を大事にするのかは知らないが、そこはトラの性格を表すように優しく暖かい雰囲気に包まれている。
いまやそこは、リルートにとっても大事な場所だ。
「さて、本日の執務を放り出して、あの人はどこへ行ったんですかね」
今日は比較的余裕のあるスケジュールではあるが、領主になってから休みなどないトラは、よくこうして勝手に居なくなってしまう。
最初は使用人達も、いつの間にかいなくなっているトラに慌てたりしていたものだが、最近ではリルートが見付けてくるのが分かっているからか『先程までいらっしゃったんですが・・・』という風にすっかりトラの不在を当たり前に感じてしまっている。
それでも彼に対して皆が不満を抱かないのは、彼が誰よりも遅くまで仕事をし、誰よりもこの土地をより良いものにしようと思っている事を知っているからだ。
それに、トラは隠れるのが非常に上手い。
リルート以外には見つからない事も、使用人達は心得ているのだ。
「トラ、やはりここだったんですね」
屋敷の一角にあるバラ園には、簡易的な作業用のつなぎを着たトラが、バラ達に水をやっている姿があった。
本来は庭師が行う作業なのだが、無理を言って代わって貰ったのだろう。
庭師の彼には、あとで謝罪と礼を言っておかなければとリルートは思う。
どうやら、先日届いた新種のバラの様子を見に来たようで、その表情は普段の表情に比べて柔らかい。いつもは常に眉間に皺を寄せているので、本来の柔和な表情が隠されてしまっている。
きっと、領主として若輩者である自分を強く見せる為に無理をしているのだろう。
「リルートか。もう少ししたら、執務に戻る」
「かしこまりました。それでは、短い時間ではありますが、アフタヌーンティーなどいかがでしょうか?」
「あぁ、貰う」
しばらく、漂う紅茶の香りを楽しみながら、美しく咲くバラを眺める。
リルートはふと、以前から疑問に思っていた事を口にした。
「このバラ園は、誰の為の物なのでしょうか?確か、このバラ園は貴方が異世界への訪問後に作り始めた物でしたよね」
「バレていたか・・・そうだな、お前には話しておかねばなるまい」
カップに残っていた紅茶を一飲みすると、トラは話し始めた。
「昨年、俺が向こうの世界に渡っていたのを覚えているか?」
リルートは、昨年の儀式を思い出す。
この国メルベイユでは、領主に就任する前に『異世界へ渡る』という儀式があるのだが、トラが言っているのはこの事だろう。
確か、異世界へ渡った領主は、その世界の物品・生き物を何でも一つ持ち帰る事が可能で、それを領地の特産品にしている所もある。
物品であれば、一度王に献上されその安全性が確認できれば許可が下りるが、生き物、即ち他種族を連れて来るとなると、その後の契約などが煩雑で難しいと言われている。
その為、余程の事が無ければ他種族の持ち帰りは無い。
「あぁ、確か領主になる為に行われた儀式の事ですね。覚えていますよ。しかし、貴方は何も持ち帰らなかったと思っていたのですが…もしかして貴方!」
「あぁ、そのまさかだ。俺が持ち帰ろうとした物、それは人間という種族の女だ」
「ですが、共にこちらに来ていないというのはどういう事ですか?共に世界を渡ったというのなら、一緒に帰って来ているはずですが…」
「それが、ちょっとした不幸があって、俺だけがこの世界に返された。返される間際に何とか契約は結んだが、それ以来俺も会っていない。契約の目印に、彼女が好きだと言っていたバラを刻んでおいたから、此処を造った。この領地にいつか現れる彼女が、迷わないようにな」
「そうでしたか…」
トラは、あまり向こうの世界であった事を話さない。それは、リルートであっても同じで、このように話してくれた事に少しホッとする。
この乳兄弟は、色々な事を自分で背負いすぎる部分があるので、こんな風に話が出来て良かったと思う。それに、彼が惚れ込む程の女性というのも気になる。
いつ現れるか分からない女性を待つというのは、他から見れば非生産的だろう。
しかし、リルートは心のどこかで確信があった。
いつかその女性が現れた時、トラも自分も領民達も、きっと喜び称賛する事になるだろうと。
「その女性に会えるのを楽しみにしています」
「あぁ」
二人は、まだ見ぬ彼の人を思い、バラを見つめるのだった。