第3話
さきほどの音から考えて、足元に落ちている木は、たった今、抗えないほどの力が加わったことによって折れたと想像できる。およそ、木の枝とは言えないほどの太さだ。
王妃が立ち上がり、進み出た。黒いオーラを背負ったジェラールが近づいてくるのを見て、ベルも思わず立ち上がり、王妃の背後に隠れた。
一瞬、王子の足が止まったようだ。しかし、ベルが王妃の陰から王子を覗いたときには、彼は王妃の目の前に立ち、敵を見るような目で王妃を見下ろしていた。
「過ぎた冗談は見過ごせないな」
爛々と輝く金の瞳は、獲物の喉笛を噛み千切る瞬間を狙っているかのように獰猛な光を宿している。
しかし母も負けてはいなかった。同じように、くわっと目を見開いて真正面から見つめ返した。
「冗談ではないもの」
ベルは再びぱっと身体を引っ込めて、ひたすら小さくなった。
「いつまでも皇都を離れようとしないから発破をかけるつもりで来たのに、なんなのこの体たらくは。あんた今まで何してたのよ」
この親子が争っている理由は分からない。きっと自分に関係のないことだろう。
次の王妃の言葉で、ベルは飛び上がって驚いた。
「居場所を与えられないような男のところに、わたくしの娘であるベルちゃんを預けておけないわ!」
そして、すかさず王子が言い返した言葉は、ベルの心をえぐった。
「ベルが行く場所など、ここ以外にありはしない」
(確かにその通りだけど……)
ベルは今すぐ消えてしまいたかった。何も役に立たないのに、衣食住の面倒を見てもらって、それだけでも迷惑をかけているという自覚はあるのに、その上さらに口論の種にもなっているようだ。
たった一言、ベルが「出ていきます」と言えば済む話なのかもしれない。
王子の言う通りだ。
ベルは、どこにも行くところがない。
本人の目の前でこんな言い合いを始めるということは、もしかしてわざとベルに聞こえるように話して、彼らに迷惑をかけていることに早く気づけという意味なのだろうか。
自分が安全に生きていくためには、何も言うことが出来ない。
良心がずきずきと痛んだが、後ろめたい気持ちを必死に見ないようにして、ベルは口を閉ざしていた。
そんなベルに選択肢が突きつけられる。
「決めるのはベルちゃんよ」
顔を上げると、二人の視線がベルに向かっていた。
思わず助けを求めるようにジェラールを見た。自分の意思を言葉にすることが苦手なベルは、さくさくとベルのことを決めていってくれるジェラールのそばにいるのは楽だった。
確かに説明が少なく、自分に関することが自分の知らないうちに終わっていることもある。彼のことも、もっと知りたい。しかし、だからといって現在の関係を壊してでも、要求を突き付けようとは思わない。
ジェラールが、すべて正しい。
話すか話さないかを彼の心に委ね、話そうと思えば話し、話そうと思わなければ話さない。それでいいのだ。
そう心に決めようとしているのに、どこかで引っかかるものがある。
ぐるぐると思いが巡り、結局ベルの口は閉じたままだった。
「ベル、こちらへ」
王子が手を差し伸べた。
操られるようにその手を取ろうとするのを「待ちなさい」と王妃が止めた。
「流されているだけでは、あなたは幸せにはなれないわよ。その手を取るなら、自分で居心地の良い場所を作る覚悟を持ちなさい」
空中でベルの手が止まった。
この手を取れば、幸せになれるのだろうか。
王子に必要とされない自分。
無為な毎日。
何をすべきか分からないまま、また同じ日々を繰り返すのか。
「言いたいことがあるなら、今、言うの。言わなければ、何も伝わらないわ」
(言いたいことなんて、何も……)
ベルはジェラールの大きな手から、視線を上に向け、彼の目を見つめた。
抑えてきたものが、一気にあふれ出した。
(いつまで、ここにいていいの)
(いつ、放り出されるの)
(必要としてほしい)
(追い出さないでほしい)
形にならないまま巡る不安と寂しさ。
必要とするかどうかなんて、心の問題で、そうしようと思って出来るものではない。
だから、せめて役に立ちたい。
「何か、仕事をください」
「何もする必要はない」
泣きそうになった。
いや、泣き出していた。
「ベル、泣くな」
王子にぎゅっと抱きしめられた。
「何でも与えてやるから、泣くな」
そんなに仕事がしたいなら、させてやる。
「ほんと?」
「あぁ。他にも、したいことは?」
(わがままついでに言っちゃおうかな)
泣いたことでベルはやけくそになっていた。大胆にも、ジェラールの身体に腕を回して、ぎゅっと抱きしめ返した。
「じゃあ、もっとアニーと遊びたい」
「わかった」
「シモーヌたちと街をお散歩したい」
「わかった」
「外で泊まるときは、ちゃんと教えて」
ジェラールの返事がなかったので、伝わらなかったのかと思い、ベルは言葉を続けた。
「この前、みんな知ってるのに、わたしだけ知らなかったんです。帰って来ないから、どうしたのかと思って、すごく不安だったのに」
ジェラールの腕が緩んだ。彼を見上げると、目を丸くしてベルを見ていた。
その表情が思いもよらず、あどけない少年のように見えて、ベルは思わず微笑んだ。
王子は、片手で口元を覆い、視線を泳がせた。
「喜んでるのよ」
こそっと王妃がベルの耳にささやいた。
後で使用人頭から聞いた話だが、王子もベルが彼のことに興味がないだろうと思い込んでいたようだ。何日も家を空けても、ベルはきっと気にしないだろう、と。
わがままを言ってはいけないと、自分に課していた我慢は、いったい何だったんだろうとベルは思った。
遠慮が良く働くことばかりではないのだ。そんなことでジェラールが喜んでくれるなら、もっと早くに言えばよかった。
「お手数をおかけしました」
王妃の出発前、使用人頭は彼女に頭を下げた。
「いいのよ。あの調子では、いつになったらあの子がベルちゃんを連れてリュビ族のところに帰って来られるやら」
リュビ族の王は、すぐにでも息子に位を譲りたいと考えている。実力から言えば、ジェラールが王となるのが相当なのだ。
しかし、息子本人が渋っている。まだ時期ではない、と。
理由など、王も王妃もお見通しだ。
今回、使用人頭に助けを求められなくても、王妃はあわよくばベルを連れて帰るつもりで皇都へ来ていた。
ベルを手に入れれば、王子は簡単に釣れる。
あれから、二人の関係は少し変化していた。
王子の行動が大胆になった。
何かにつけて引っ付き、額や鼻や髪や頬にキスをしてくる。
パニックになったベルは腕を突っぱねて、王子と距離をとろうとする。小さな手の平が王子の顎にかかり、指は唇に触れた。
「ひうっん」
ベルが小さな悲鳴を上げた。王子がベルの指を舌でちろちろとなめたのだ。
ベルが固まってしまったのをいいことに、舌は思うままに指をなぶり始めた。ねっとりと、まるで見せつけるように、中指の側面をなぞり、先端をとがらせて、爪と指の間に強く押しこむ。
その間、王子は目を細めて、とろけたような目でベルを見つめていた。
さらに、上下の唇でベルの中指と薬指をくわえ、歯を当ててみたり、吸ってみたり、とにかくベルの頭では追いつかない状況に追い込んでいく。
卑猥だ。
王子の謎の行動に、ベルは振り回されているのだった。




