第9話
ある有識者は語る。
「リュビ族は非常に好戦的です。特に求愛中のリュビ族を刺激してはいけないことは、子どもだって知っていますよ」
また、ジェラール王子を良く知る人物は。
「倍返しが基本だからなぁ。や、無理だろ。止めるなんて。素手で熊と戦う奴だぞ」
翌朝、シトロンの翁自らアニーを迎えに来た。
「孫娘がご迷惑をおかけしたのですから、直接おわび申し上げねばと思いまして」と笑っていたが、その目はギラギラと周囲に目を走らせていた。
「おや、お嬢さん。どこかでお会いましたかな。あぁ、パーティーで。アニーの女学院の友達でしたか。孫がいつも世話になっております」
部屋の隅にいたベルを見つけ、垂れ下がったまぶたの下の目を鋭くさせる。視線はベルの全身を這いまわり、その指で光る赤い宝石を発見してぴたりと止まった。アニーは顔をしかめていたが、見られた本人はそれに気付かずに、はにかんだ笑顔でぺこりと頭を下げた。
帰りの馬車の中で、あれはどこのどんな娘だと根ほり葉ほり聞かれ、知っている限りのことを答えると「取るに足らんわい。すぐに追い出してやる」と息まいた。
コンコンと、扉をノックする音。「入れ」と促す声に、王子の屋敷の管理人の青年が、書斎に入室した。
銀の盆の上に乗っているのは、届いたばかりの手紙。青年が王子にその手紙を手渡すと、王子はぎしりと椅子を鳴らして、ひじ掛けに頬杖をついた。
文面に走らせていた目を細め「ふん、そろそろいいか」と呟くなり、持っていた手紙を燃やした。
「潮時だ。決行しろ」
青年は「御意に」と頭を下げ、退出した。
シトロン王の都で大規模なデモンストレーションが起きた。きっかけは、ある労働者の過労死。労働災害として認められず、ただの自殺として扱われた。それ自体は、決して珍しいことではなかったが、それに対して会社役員が放ったコメントが大きく取り沙汰された。
「死ぬくらいなら辞めればいいのだ」
この言葉に労働者たちの不満が噴出した。会社のために働き、苦しんだ人間に対してどういう扱いだという非難が集中し、過去の時間外労働の不払いから役員たちの優雅な私生活までがマスメディアに大きく取り上げられ、これはこの社会全体に共通する問題だと、多くの人間がデモに参加した。
その会社は、シトロンの社会をけん引する大財閥の本体で、かつて代表を務めていたのは、現在中央でシトロン族の大使を務める老人だ。シトロン王は、最初「民間企業の、雇用主と被雇用者の問題」と静観を決めていたが、しばらく経つと事態の鎮静化に向けて動くどころか、徹底した調査の姿勢を示した。
次々と明らかになる経営資金の私的流用に、焦ったのは大使を務める老人だ。引退をしたとはいえ、その企業は彼の土台となっている。足元に火が付いた老人は、もはや孫娘の縁談どころではなかった。さらなる地位を得るどころか、今の立場でさえ危うい。
「なんか、あっけないわね」
アニーはジェラール王子の屋敷の庭でお茶を飲みながら、すっかり春らしくなった庭を眺めた。
「そうね。アニーも大変だったわね」
ベルは気遣わしげに、眉尻を下げた。アニーは現在、郊外の小さな家に移り住んで暮らしている。両親は、祖父とともに中央を離れ、領地へ戻った。
デモの後、アニーの祖父はシトロン王に呼び出され、中央を離れた。聞くところによると、会社のトップを老人の息のかかっていない人物にすげかえ、老人が大財閥に対して持っていた権利を手放したことで、シトロン王は調査を打ち切ったらしい。王も、経済に重要な位置を占める大財閥に壊滅的な打撃を与えたかったわけではない。王権にまで食い込んでいた老人を追い落としたかっただけだ。
老人は、もう中央へは帰ってこない。彼がシトロン族の王都へ帰るのと同時にやってきた代理の大使が、そのまま正式に就任するようだ。
アニーは以前、王子に言われたことを思い出していた。
いずれ王妃になるベルを、支えて欲しい……。
味方につけ、と言われた時にはどんな陰謀に巻き込まれるのかとどきどきしたが、そんなことなら頼まれなくてもさせてもらおう。微妙な立場の自分がベルの近くにいていいのだろうかと迷うことはあるが、ベルが笑っているからいいのかとも思う。もし本当に駄目なら、あの王子が黙ってはいない。とっくにアニーは中央にいられなくなっているだろう。
ベルが王妃になるがいつのことなのか、全く予想がつかない。少し前にも、彼女はそれと気付かずに王子のプロポーズを断っていた。
ソファに座るベルの前にひざまずいた王子は、小さな手をそっと取った。
「もし俺が……中央での仕事の引き継ぎが完了して、領地へ帰り王に即位すると言ったら……ついてきてくれるか」
真っすぐに見つめるジェラールに、ベルは少し首を傾げて、こう言った。
「わたしだけ中央に残っていてはダメですか?」
中央にいたらアニーにも会えるし、とベルが続ける前にジェラールは頷いた。
「もちろん、駄目ではない」
そして、すっと立ち上がり、身を翻して叫んだ。
「即位は取りやめだ!」
焦ったのは周囲だ。
王子は何年も前から、王へ即位することを望まれていた。これまでは妃を得ていないことを理由に延ばし延ばしにされていたが、やっと即位を決心して領地へ戻ってきてくれると期待していたのだ。どうにかしてベルの首を縦に振らせようと周囲がやきもきしているのに、当の本人は相変わらず、ぽやんとしている。
隣の部屋から密かに様子をうかがっていたアニーは思わずうなった。
「ふ、不憫すぎる……」
ジェラールがベルを迎えるためにどれほど奔走したか知っているからこその呟きだった。
これにて求婚編完結です。
ブログにシナリオをアップしていたのですが、パラレルになりました。
申し訳ありません。




