6話 優しい夜の吉祥寺
吉祥寺に戻って来た。十九時を過ぎていて、帰宅ラッシュを作る一人の中に僕はいた。吉祥寺に住む人は帰宅途中でお土産を買う人が多い。みんな何を買おうかとニヤニヤして歩いてる。その笑みには四つの要素が絡んでいる。吉祥寺は愛妻家の男性が多い、手土産専用スウィーツを売っているお店が多い、食欲をつっつく甘い香りがどこにいてもする、この時間はみんなお腹が空いている。この四つの要素の結合がその笑みを生み、それが吉祥寺の優しい夜のはじまりの合図だ。
僕もニヤニヤしながら歩いていた。
「恩田くん」
呼ばれるのと同時に肩を叩かれた。振り向いた。
「退院したんだ」
彼女は言った。佐伯さんだった。彼女は僕が頻繁に利用する東急デパートのスターバックスのチーフだ。ベージュの手編みのニット帽と手袋をしているが、首元がぽっかり空いている。とっても寒そうだ。
「こんばんわ」
僕は言った。「さっき、退院したんです」
「メールしてくれれば、お祝いしてあげたのに」
「はぁ。僕、メールとか苦手なんです」
「えー、今の時代、オジサンでもそんなこと言わないよ」
「僕にはどうも合わなくて」
「これからお店に戻るの?」
「いえ、まだ二時間くらい余裕があるので、吉祥寺を歩こうと思っています」
「この街は一ヶ月で姿を変えるわ」
「商売人にとってはなんとも手厳しい街です」
「良かったら、私もご一緒してもいいかしら?」
「ええ、良いですよ。でも、予定なんて何もないので、上手にエスコートできませんけど」
「この街に予定なんて必要ないわよ。着の身着のまま歩ける街なんだから」
「確かに。佐伯さん、寒くないんですか?首元がスカスカですけど?」
「あー、まだマフラーは出来てないの。急に寒くなったから間に合わなかった」
「良かったら」
僕は言って、マフラーを渡した。
「いいよ」
「これから二時間も歩くんですよ。そんなんじゃ歩かせられません」
「相変わらず優しいのね」
「先輩がやかましいんで」
「マサキさん?」
「美藤さんです」
「相変わらずマザコンね」
「はい?」
「恩田くん、彼女といたら、一生恋人なんて出来ないよ」
「どういう意味ですか?」
「そのままよ」
佐伯さんは言って、僕のマフラーをぶんどった。そのまま手際よく首に巻くと臭いを嗅いでクッキー臭いと言って笑った。臭いフェチなんだろうか。
「そのまま?」
「そうよ。美藤綾に勝てる女なんていないってことよ。彼女、この前、井の頭通りを真っ白なポルシェでぶっ飛ばしてたわ。男たちがみんな見てた。ポカーンって」
「美藤さん元気そうでしたか?」
「会ってないの?」
「はい。一度お見舞いに来てくれて、かれこれ一ヶ月くらいは」
「もうすぐ会えるからいいじゃない」
「そうですね」
「もういいわ。まずどこに行くの?」
「中道通りに」
僕が言うと、佐伯さんはスタスタ歩いて行った。
使いこなした背にあるグッチのリュックがよく似合っていた。
佐伯さんは物を大切に扱う女性だ。
きっと素敵なお嫁さんになるに違いない。