5話 清潔な料理(基本編)
不倫について、約一時間ほど木村さんは語った。僕は真剣に聞いていたが、どうしても理解できないことが一つだけあったので訊ねてみた。
「奥さんがいる男性と、どうしてセックスするんですか?」
僕が言うと、木村さんは咳き込み、一度呼吸器官を整えた。しばらくすると整った。
「恩田くん、私の話、ちゃんと聞いてたの?」
「もちろん」
「彼のことを好きになった後に知ったのよ。彼が結婚しているって」
「ええ。それで終わりじゃないんですか?」
「私の場合、ドラマはそこからはじまったの」
「ドラマ?さっき、地獄って言ってたストーリーのことですか?」
「そうよ」
「彼は、奥さんとはもうすぐ別れる、君と真っ直ぐ向き合うためにって木村さんに言った」
「私はそれを信じた」
「そして今も信じている」
「そうね」
「馬鹿らしい」
「どこが?」
「彼の言葉には根拠がありません」
「恋愛に根拠なんてないわ」
「木村さんのは恋愛じゃありません。不倫です。恋愛と不倫は違います」
「二十歳の若造がよく言うわね」
「僕は天才なんです。二十歳の若造である前にね」
僕は言って続けた。
「根拠のないことを言う人間は信用できない。幼稚園の頃に習いませんでした?知らない人に着いて行ったらいけませんって。その応用だと僕は思うんですけど」
「私は冷静さを失っていたの」
「つまり、自分を見失っていた?」
「そうよ。だんだんイライラして来たわ」
「整理整頓しているんです。もう少し辛抱して下さい」
「恩田くん、私は、あなたを信じていいの?」
「信用出来なくなったら迷わず、即刻クビにして下さい。キャンセル料は頂きませんから安心して」
「いいわ、続けて」
「僕ら料理人は常に片付けながら料理を作ります。乱れた作業台の上では良い料理は作れないし、なによりもまず不潔だからです。清潔さを失うとその料理は死ぬ。木村さんは、汚い作業台の上で料理を作り、不潔な料理を作り続けている。そして今、この瞬間も。僕から見たら見習い以下です。人としても、女としても」
「私の恋愛は不潔だと言うのね」
「深刻なほど」
「あなたが言うと説得力があるわね。それで、改善方法は?」
「あらゆることを清潔にするよう心がけ、実践して下さい。このリビングルームは合格点です。木村さんはやれば出来る。そして、やれる人だ」
「あらゆることって、例えば?」
「僕を見つめるその視線です」
「恩田くん、私をここまでコケにしたのは君が初めてよ」
「羨ましい。僕は毎日コケにされてますよ」
「美藤綾に?」
「そうです」
「彼女はどんな女なの?」
「夢の女です」
「君は彼女に全て叩き込まれたの?」
「そうです。本当に。何から何まで全て」
「美藤シェフは優秀な上司ね」
「女としても優秀です、美藤さんは」
「私にも部下がいるけど、私はどう思われているのかな。そんなこと気にしたことなんてなかったけど」
「尊敬されていると思いますよ。木村さんの仕事は美しい。何より、いい臭いがする」
「プライベートは不潔だけどね」
「そうですね」
「恩田くん、君は大物になるわ。きっと」
「それは当たり前のことです」
僕は言った。