4話 白い恋人と不倫
僕は七階のボタンを押し、エレベーターで上昇していった。
三階でドアが開いておばあさんが乗って来て、あら上へ行くのねと言って降りていった。どこかで見たことのあるおばあさんだと思ったけど思い出せなかった。
七階には三つのインターホンがあった。僕が七〇三号室の前まで行ってボタンを押すと、ドアがすぐに開いた。
「待っていたわよ」
彼女が言った。美人だ。永作博美というより、宮崎あおいだと思った。しばらく動けなかった。
「そんなに見つめないでよ。第一印象は私の勝ちのようね。どうぞ、あがってちょうだい。恩田くん」
「は、はい」
僕は言って、玄関に入った。ミルクの香りがした。彼女の臭いなのか、玄関の臭いなのかわからなかった。僕は靴を脱いで、揃えた。玄関には僕の靴しかない。靴箱がない。隠し扉の靴棚があるのかもしれない。
「さ、どうぞ。座って。今、飲み物を用意するわ。ホットミルクが好きなのよね、恩田くんは?」
彼女は言って、リビングルームの白く広いソファを撫でた。凄いソファだ。照明、テレビ、オーディオ、テーブル、カーペット、カーテン、本棚、電話、全てが白で統一されていてモデルハウスみたいだ。中でも白いテレビが気になった。リンゴのマークがある。アップルの製品なのだろうか?
「僕がホットミルクって、マサキさんからですか?」
「そうよ。あなたのことはだいだい聞いているわ。あなたが前田敦子ちゃんを本気で狙っていることも含めてね。私、そういう男の子、大好きよ。あっちゃんも大好き」
顔が赤くなったのが自分でもわかった。マサキさんは喋り過ぎだ。しかし本来マサキさんは喋らない人だ。特にお店に関することは絶対に。きっと何か訳があるんだろうと思った。この女の人に。
彼女はキッチンで、ミルクを温めているようだった。電子レンジが動いている音がする。彼女の姿は影も見えない。僕はソファに座り、テーブルにあった三種類のお菓子を眺めた。白い恋人、チロリアン、サイコロチョコレート。壁を見ると、ヘンゼルとグレーテルがお菓子の家の前で手を繋いでいる絵が飾られていた。
「私、大好きなの。その童話が。一度でいいから迷い込んでみたいわ。その世界に」
彼女は言って、白いマグカップを置いた。湯気が立ち、甘い香りがする。ミルクに少々砂糖を入れている。僕の好みは彼女に全て知り尽くされていると思っていいだろう。
「私は、木村理名。職業は、ジュエリーデザイナーだけど、グラフィックと映像の仕事も少々やるわ。文章を書くときもあるの」
彼女は言った。僕も一応、名を告げてあいさつをした。
「久々に緊張しているの。わかるでしょ?君の目に私はどう映ったかしら?いつもいつでも食材と真剣に向き合っている職人、しかもあの美藤綾の弟分、そしてスウィーツの天才と呼ばれる君の前で嘘をつく気はさらさらないわ。なんでも本音で喋ってちょうだい。私は嘘が嫌いよ、恩田くん」
「すいません。木村さんがとっても魅力的なので、心がバタバタしてるんです。少し落ち着かせて下さい。それからお話します。ちゃんと」
僕は言って、ホットミルクを飲んだ。ミルクの膜が唇についた。舌で巻き取って口に入れた。美味しい。
「いいわよ。しかしドキドキさせる男の子ね、君は。想像以上よ」
彼女は言って、ソファに座った。僕の真正面で、僕を強く見つめている。凄い目だ。しかしまったく怖くない。木村さんはまだまだ本気じゃない。
さて、と。
「あのぅ。クッキー焼いて持って来たんです。よかったら食べて下さい」
僕は言って、リュックからクッキーを出した。
「ありがとう。頂くわ。恩田くん、そろそろ落ち着いたかしら?」
「せっかちですね、木村さんは。よっぽど深い事情があるみたいですね」
「そうよ。そうじゃなきゃあなたに依頼しないわ」
「木村さんはストレートがお好きなようなので、単刀直入にお聞きします。木村さんが忘れたい過去とは、いったいどんな過去なんでしょうか?」
「目の色が変わったわよ、恩田くん。さすがね。さっきから私が色気たっぷりに誘惑してるのに少しも乗って来ない。自信を失うわ。女として」
「どうでもいいんです。そんなことは。僕は仕事をしに来たんです。セブンスターの職人として。さあ、聞かせて下さい。僕に消してもらいたい過去はなんですか?」
「マサキさんは知ってるの?あなたのそういう強引な性格を?」
「知っていると思いますよ。あの人に隠し事はできませんから」
「いいわ。私は不倫相手のことを忘れたいの。彼とは去年別れたはずだけど、ずるずるまだ引きずっているわ。お互いに。このままだと結婚は無理よ。彼とは会ったわよね?」
「はい。今夜は早く帰ると言っていました。優しい男の人だった」
「そうね。私はね、彼の十五倍年収があるの。でも、私は彼と結婚する。私は彼の優しさを選んだの。誠実にね。私は彼を愛してるわ。結婚に必要なのは誠実さよ。あなたに私を誠実な女にしてもらいたいの。完璧に」
「はじめに言っておきますけど、最後は木村さん次第です。僕が出来るのはあなたを最後の入り口まで連れて行くことまでです。最終的には、あなたです」
「そんなのわかっているわ。引き受けてくれるのね?」
「断る理由はありません。あなたと、あなたが選んだ男の人のために、ウエディングケーキ、しっかりお引き受けしますよ」
「ありがとう」
木村さんは言って、白い恋人を食べはじめた。