3話 フルチンの下痢男
歩いていると、チャルメラの音が聞こえた。携帯が鳴っている。
美藤さん。すぐに出た。喜んで。
「はい」
僕は言った。
「もう病院は出たの?」
美藤さんが言った。声が可愛い。
仕込みが終わっている証拠だ。
「出ましたよ」
「マサキさんが心配してるわ。トイレで。彼女と会えたのか?って」
「トイレ?また下痢ですか?」
「そうよ。ドアを開けたままね。もはや彼の特技と言えるわ」
「病院のみんなにバタークッキーを焼いて配ってたんです」
「それでこの時間?もうすぐ十六時よ」
「一人一人に配ったんで」
「ちょっと待ってて、マサキさんにそう伝えるわ」
「マサキさんにかわってもらえますか?」
「それが出来るんだったら、私が電話をしてないわ。彼は両手が使えないの。殺すなら今ね」
「なるほど」
僕は言った。電話の向こうで美藤さんの大きな声とマサキさんのか細い声が聞こえる。
「逃げ出したのかと思った、と必死に下痢男は言っているわ。フルチンで」
「逃げてませよ。新郎さんと会って、もうマンションの前にいますって、もうすぐちゃんと会うってフルチン下痢男に伝えて下さい」
「手ぶらじゃないだろうな?って下痢男は悲痛に心配しているわ」
「クッキーを持ってます」
「恩田くん、いったいクッキー何枚焼いたの?」
「四百枚ほど。昨日からずっと仕込んでたし、病院の厨房は大きかったから特に不便はありませんでした。栄養士のおばさんたちも手伝ってくれたし、仕事の勘も取り戻しましたよ。全てね」
「クッキー、私の分はあるの?」
「もちろん。下痢男の分もちゃんと」
「今夜はあなたの退院祝いよ。なんか食べたいのある?」
「いいですよ。そんな」
「私はあなたに助けられたわ。あなたは死ぬかもしれなかった。私が何を考えているかわかるかしら?」
「美藤さんの笑顔だけで僕は十分です」
「ふうん。そんなこと言うようになったのかー、恩田くんも。わかったわ。勝手に作っとく。そうだ。彼女は美人らしいじゃない。永作博美級の。あなたがちゃんと目を見て話せるか心配よ、私も」
「僕はいつも美藤さんと話しています。今もこうして。美人には慣れています。それに美藤さん以上なんていませんよ」
「その台詞を言わせたかったの。気が付いた?」
「ええ」
「早く帰ってくるのよ」
「Bタイムがはじまるまでには」
「私はまた腕を上げたわ」
「僕は知識が増えています。たっぷりと」
「いい喧嘩が出来そうね」
「僕はあなたに勝ってしまうかもしれない」
「私は手加減が出来ない」
「僕も同様に」
「ゾクゾクするわ。じゃぁね」
「では後ほど」
僕は言った。
目の前にブルー屋根のマンションがある。
見るからにお金持ちが住むマンションだ。
心配なんてご無用だ。