2話 バタークッキー
一ヶ月という入院期間は、僕にたくさんの思い出を作ってくれた。
僕はいつも思う。時間は料理人。時間は思い出という料理を作る究極の職人なんだって。僕はそれを盛り付けて整えて自分の経験という名の甘いスウィーツに変えるんだ。
病院でたくさんの人たちと出会った。みんな体のどこかが不自由だった。両足がない人から右耳がない人、目が見えない人、色々な人たちがいた。けど、みんな優しかった。担当の先生も看護士さんたちも。みんな。
僕はお世話になった全ての人たちに感謝の気持ちを込めてバタークッキーを焼いて配った。一人一人に。ブッターゲベック。ドイツ語でそう呼ばれるこのクッキーはドイツ菓子の基本中の基本だ。僕はもう一ヶ月も現場を離れていた。しかし七歳の時にはじめて作ったこのクッキーを作ることで、それをお世話になった人に食べてもらうことで、それで思い出せた。僕はお菓子が大好きだ。どんなことよりも。本当にありがとう。僕は言って病院を出た。
マサキさんが送信してきた地図は寒気がするほど細かい指示で溢れていた。
三鷹駅で降りてパン屋に寄り、高田みゆきという女の子の接客を見つめること。声のトーン、瞬きのリズム、特にその部分をようく見ること。彼女の胸に見とれても許すということ。小金井公園行きのバスに乗り、着いたら降りて二回深呼吸をし、自動販売機でコーヒーを買い、近くのガソリンスタンドの店長とスタッフに差し入れてしっかりあいさつをすること。その店長が今回の依頼主の新郎であること。そして必ず、どのくらい新婦のことを愛しているのかを訊ねること。
「そういうわけで、どのくらい愛していますか?」
僕は言った。
「そういうわけって」
新郎さんは言った。
「君が俺たちのウエディングケーキを作ってくれるんだね」
「そうです。恩田翔太といいます。頑張りますんでよろしくお願いします」
「福沢です。こちらこそよろしくね。コーヒーをありがとう」
福沢さんは言って握手をしてきた。
「恩田くん。君のことはようく知っているよ。彼女が大ファンなんだ」
「僕のですか?」
「そうだよ。君のスウィーツは誰も真似出来ない。とにかく愛でいっぱいだと」
「はぁ。正直そこまでないと思いますけど」
「仕事は結果が全てだよ。結果は受け止めなければならない。嫌でもね。俺はそう思うよ」
「仕事中のこと、僕、あんまり記憶が残らないんです。気がついたら終わってて、自分が何を作ったのか覚えていないんです。いつもそうなんです」
「まるで俺が彼女といる時みたいだね。彼女といると、すぐに時間が過ぎてしまう。何を話していたのかもあんまり覚えていないんだ。それと似たようなものかもね」
「好きなんですね。奥さんのことが」
「まだ恋人だよ。君のウエディングケーキをカットするまではね」
「そうでしたね」
「そろそろ行った方がいいんじゃないか?彼女が待っていることだし」
「はい。ありがとうございました。なんか、福沢さんが、優しくて安心しました。では、失礼します」
「ああ。この道を真っ直ぐ、五分くらい行ったところが俺たちのマンションだ。ブルーの屋根だからすぐにわかると思うよ。彼女に今夜は早く帰るよって伝えてもらえるかな」
「わかりました。では」
僕は言って、頭を下げ、真っ直ぐ歩きはじめた。
福沢さんはしばらくの間、車みたいに僕を見送ってくれた。
強い声で。でも優しい声。僕は少しホッとした。