#2:記憶喪失?
俺は、暫く布団の中でうずくまったまま泣き続けていた。
こうやって、現実逃避していても、何の問題解決にもならないのは分かってはいるが、
体が言うことを聞いてくれず、今はそうせずにはいられなかった。
しかし、いつまでも泣いているわけもいかず、これから、現実と向き合い、
今から待ち受けるであろう様々な困難と闘い、それをひとつづつ、克服していかなけばならない。
今、こうして生きている以上、今後の生活の事を具体的に考えねばならないのだ。
そう自分に言い聞かせ、腹をくくると、ぐるぐると考えを巡らせ始めた。
まずは、これから、俺はどうやって生きていけばいいのか?ってことだ。
俺の体が死んだということは、冷静に考えれば俺は第二の人生として、これからもこの体の女の子として振舞って生きていかなればならないってことだ。それに、昨日以前の俺自身の記憶すら思い出せない。
じゃあ、この体の娘の方はどうなんだ?
俺は、意識してこの娘の記憶を探ってみたが、この娘の脳にも過去の記憶が残っていないようなのだ。
この娘の性格、趣味趣向、家族構成や友達関係、この娘の身元に関する手掛かりは何一つ無い。
仕方が無い、ここは、“記憶喪失”っていう事で全て片づける以外に手立てはなさそうだな。
俺自身の記憶も無い以上、事実であるのは確かだ。
それと、これからは、言葉使いに気を付けないといけないな。
常に女性言葉を意識しないと、男言葉が直ぐに口から出るだろうし、もし、こんな可愛い娘が乱暴な男言葉なんかで突然喋り出したら、事故のショックで精神がどうにかなったのではないか?と周りから不審に思われるだろう。
ようやく気持ちの整理が出来て、これからのことを考えられるだけの余裕も生まれてきた。
気分が少し楽になり、落ち着いてきたところで俺は体を起こした。
ふと、壁に掛けられていた時計を見上げると、既に時刻は午前9時を回っていて、
今まで気にもならなかった尿意と空腹を急に感じ始めた。
「トイレって、当然女子用だよな? 当たり前か、でも嫌だなぁ。」
しかし、どんな時でも人間、生理現象には勝てない。
覚悟を決めた俺は、病室のドアをそっと開け、顔だけを出してキョロキョロと左右を見渡した。
廊下に誰も居ないことを確認し、廊下の突き当たりにトイレを見つけた瞬間、猛ダッシュした。
この行動を誰かに見られていたら、ちょっとした不審者のように見られたかも。
「はぁ、はぁ、ふうっー」
息を整え、安堵の溜息を吐くと、ちょっとした冷や汗をかいていた。
しっかし、女子トイレに入るのも命がけだな、こんな調子じゃこの先いくら命があっても足りないや。
まだ心臓がバクバクしているよ。
こんな所を誰かに見られていたら、めちゃくちゃ恥ずかしいだろうな。
幸い、女子トイレには利用者が居なかった様子で、そそくさと個室に入り、
用を足して素早く手を洗い、誰かが来る前にトイレを出た。
しかし、小で紙を使う事は、凄く妙な感覚だった。
それにしても、思っていたよりなんか手こずることも無く、すんなりと用を足すことが出来たが、
記憶は無くても体は覚えているってことだろうか?
病室に戻ろうとするとドアの手前で俺は一瞬立ち止まった。
部屋番号の下に“木下様”と書かれた手書きの名札が目に入ったからだ。
この娘の名字は、“木下”なのか。
今、初めてこの娘の微々たる情報を得た。
病室に戻ると特に何もすることもなく、暫くベッドに寝転んだまま、
窓からゆっくりと、雲が流れて行く様子をただボンヤリと見つめていた。
すると、病室のドアが突然開き、白衣を着た眼鏡の優しげな風貌の30歳半ばくらいの男性医師と、
少しポチャっとした体形の20歳半ば?と思われる若い女性看護師が入って来ようとしていた。
その医師は、ベッドで上半身を起し始めた俺を見て、俺が意識を取り戻した事にハッと驚き、
「家族に連絡を」と、女性看護師に伝えると、優しい笑みを浮かべながら俺のベッドの傍まで近付いてきた。
「私は、あなたの担当医で山崎といいます。まず、あなたの氏名と年齢を教えてくれないかな?」
「あのぉー実は先生、昨晩事故に遭った記憶はあるんだけど、わたしが誰なのか?事故以前の記憶が無いんです」
先ほど、ベッドの中で決めた作戦、“記憶喪失の女の子”を俺は演じきらなければならない。
「う~む。事故以前の記憶が全く思い出せないのか。それは困ったね」
先生は腕組みしながら答えた。
「はい」
「あなたは事故で頭を軽く打った様子だから、恐らく一時的なショックによる記憶喪失なのかも知れないね」
「先生、私の記憶は直ぐに戻るのでしょうか?」
ここまで、意識せずとも自然とセリフと女言葉が口から出ていることに自分でも驚く。
「まぁ、そんな急に焦ることは無いよ。これから精密検査をしてゆっくりと様子を見ようね。
それより、お腹が空いてないかい?」
「あっ、少し」
実はかなりお腹が減っているのだが、そう答えるのが女の子としては自然だと思った。
「じゃあ、直ぐに朝食を用意させましょう。その前に言い忘れた事があったね。
あなたの名前は木下真結花、年齢は15歳。あなたの持っていた学生手帳から身元がわかったんだよ。
覚えておいて」
「きのした まゆか?」
15歳か。俺は何歳だった? 恐らく20歳半ばぐらいだったと思うのだが…
今、正に逆浦島太郎状態なのか。性別は違うけど。
「そう、何か思い出した?木下さん」
「いえ」
自分ことさえ思い出せないのに、他人の体のことなんて思い出すはずもない。
「今は無理して思い出さなくてもいいよ」
「先生、私の持っていた荷物はどこ?」
とりあえず、この娘の手がかりでも探さないと。
先生は、棚らしきものを指さし、
「えっと、木下さんが持っていた荷物は、たぶん、そこに入れてあるはずだから後で確かめてみて」
「はい」
「それじゃあ、木下さん。ちょっとだけ、検診させてくれないかな?」
「上着を脱ぐんですか?」
「ほんのちょっとの間だけだから、少しだけ我慢してくれないかな?」
男なんだから、他人に上半身を見られるくらい恥ずかしくはないはずだが、
何故だか今の体を他人に見られることが、非常に恥ずかしい行為であるという意識が強く働き、
服を脱ぐことに対してちょっとした抵抗があった。
俺は、しぶしぶ上着を脱ぐと、白いブラジャーと胸元の膨らみが、眩しいくらいに俺の目に突き刺さった。
ちょっと恥ずかしくて、今、顔が赤くなっているかも?
そんな事を思っていると、先生が「背中を向けて」と言い、
「息を吸って、吐いて」と言いながら、背中に少しひんやりとした聴診器を当てられた。
そのひんやりとした感触に、俺は一瞬ゾクっと来た。
その後、脈と血圧を測られ、体温計を渡されて、「後で朝食を持って来る黒田君に渡してね」
と言われ、先生は病室を出て行った。
程なくして、先ほど一旦病室を出ていった少しポチャっとした体形の女性看護師がパンと牛乳、
ゆで卵といった本当に軽い朝食を持って来た。
俺は、胸に付けた“黒田”という名札を見ながら体温計を渡すと、
「木下さん。熱は無いようね。ご家族には先ほど連絡したから、もう暫くしたら面会に来ると思うわ。
それと、午後から検査があるから。そのつもりで」
「検査?」
「検査といっても、CTスキャンに入ってもらったり、血液検査する程度の簡単なものだけだから」
「はい。わたし、暫くは入院なんでしょうか?」
「それは、検査が終わった後、先生と家族と相談してからね」
「わかりました。ところで、あの~」
「んっ? 他に何か心配事や気になる事でもある?」
「実はその~、私を助けてくれた人って、知っていますか?」
「どうゆうことかしら?」
「へっ?」
「私は、ここ数日、昼勤だったから、木下さんが昨晩急患で運ばれて来た患者さんだって事以外は、詳しく知らされていないの」
「じゃあ、私と同じように昨晩、急患で運ばれて来た若い男性の患者さんっていますか?」
「確か、昨晩急患で運ばれて来た若い男性がいたっていう話は聞いたわ。でも、意識不明の重体のまま、今朝亡くなられたってことなの」
やはり、ニュースでの報道は本当だったのか。今、改めてその事実を目の前で突き付けられた。
「そうなんですか」
「木下さんは昨晩、事故に遭って、その男性の患者さんに助けてもらったということかしら?」
「はい、ひと目でも会ってみたかったんです」
そう言った瞬間、無意識のうちに俺の頬にはすっーと涙が伝っていた。今の俺って、なんでこんなに涙もろいんだろ。
「そんなに、自分を責めないで。いくら気を付けていても、世の中には避けようが無い事故は沢山あるの。
職業柄、そうゆう人達を私も幾度となく見てきたわ。
あなたがその事故に責任を感じて、負い目を持ってしまうのは仕方の無い事かもしれないわ。
でも、人間なんて所詮、弱い生き物なのよ。
今は辛いでしょうけど、残された人はそれを乗り越えていかなきゃいけないの。
間違っても自殺なんか考えちゃダメよ。
人に助けてもらった大切な命なんだから、早く元気になって、その人の分も頑張って生きなきゃ。ねっ」
そう言って、彼女はニッコリと笑顔を見せた。
「うっ、うん」
俺は、涙を手で拭いながら答えた。
「じゃあ、気が落ち着いたらゆっくりと食事してね。後でまたトレイを取りに来るから。
もし、不安な事や困った事があったり、体調が悪くなったりしたら、遠慮なく枕元のコールボタンを押してね。
それと、午後まで時間を持て余すようなら、気晴らしにテレビでも見てていいから」
そう言って彼女は病室を出て行った。